バタフライ・エフェクト
百人を超える不良との乱闘の末、気づいた時には病院の天井を眺めていた。
……そんな暴力性と勇敢さが俺にもあったらまだこの景色も誇りに思えたかもしれないが、残念ながらここは病院ではなく学校の保健室だし、俺は単純に殴られただけだ。良かれと思って口を出したら痛い目を見た。
「…………お前が俺を運んできたのか?」
「ええ」
椅子を寄せて隣に座るのは透子一人。保健室の先生は何処かに出払っているのだろうか。普段の制服姿ではなく、隣のクラスも体育だったのだろうか。左胸の辺りに『祀火』の苗字が書かれている。
「日傘を体育館に持って行ったら怒られてね。戻しに行ったら騒がしい声が聞こえたから、様子を観に行ったら君が倒れていたの」
「…………他に人は、居たか?」
「居たような気もするけど、どうだったかしら。とにかく君が無事で良かった。頭から血を流していたらどうしようかと思っていたの。軽く触診はしたけどお医者さんじゃないから、漏れがあるかも。大丈夫?」
「……平手打ちもそうだけど、もう暴力は御免だな。痛いのは好きになれない。女の子みたいって言われてもさあ、ぬいぐるみみたいなさ、柔らかいものを触ってる時の方がいいよ」
「…………そうなの。参考にするわね」
「……? まあとにかく、俺は大丈夫だよ。それより大変な事が分かった。華弥子は尻軽だ」
「……?」
こんな事をするからにはきっと重大な理由がある筈だと信じたかったが、他の男性と軽々しく付き合えるような女性なら大した理由なんてないのかもしれない。例えばストーカーという一点で俺は先輩と思わしき男に嫌われていた。男女の目線で多少価値観は違うが、男の俺から見ても先輩は格好よく、身長も高かった。やっぱり一八〇センチはあった方がいいのだろうか……
「……透子は、好きなタイプとか居る?」
「君」
「……ごめん、俺が悪かった」
恋人という設定を続けるならそうなるよな。
話は多少逸れたが早い話がわらしべ長者だ。価値のない物を価値のある物に代えていく。もしかしたら知らないだけで俺も誰かをダシにした上で付き合ったのかもしれない。そしてあの人もまた……。
「えっと、被害者は続々増えるかもしれないって事だよ。純朴そうな子に見えたんだけどな。やっぱ兄ちゃんみたいに経験豊富じゃないと分かんないんだな」
「……純朴…………」
「イジるのやめてくれよ。大事なのは、この復讐は俺だけの物じゃないかもしれないって事だから。はぁ、仮にも好きでさ、本気で入れ込んだ人がこんなのだと……」
いっそ俺が本当にストーカーだったら良かったのに。そうしたらいつまでも綺麗な彼女の事を好きでいられた。復讐を果たしてきっちりケジメをつけるつもりが、まだその過程であるのに熱が冷めていく。
なぜか携帯がポケットに入っていたので消した画像を一部復元して改めてまじまじ眺める。昔はこれを見ながら惚気るだけで真司をうんざりさせる事もあったのに今は……空しいだけだ。
「―――そういえばお前、授業は良いのか? 体育なんだろ?」
「私は君が心配だから欠席させてもらったの。恋人の心配をするのは当たり前って押し通してね。大丈夫、校長先生の許可は得てるから」
「校長が出てくるのは良く分かんないけど……」
キーンコーンカーンコーン。
チャイムが鳴った。五時限目の終了、そして最後の休み時間である。透子はおもむろに席を立つと、体操服に手をかけて上に脱ごうと引っ張り始めた。
「ちょ!? な、何やってんの! まさか着替える!?」
「だって、制服に着替えないと」
「そうじゃなくて。俺が居るんだけど……?」
「恋人同士はお互いの裸を知っているべきじゃないの?」
「―――! せ、せめて隣のベッドのカーテンを使ってくれ!」
悪意はないだろうが、そんな事を言い出したら華弥子の裸なんて見た事ない。交際した時点でその展開を期待しなかったと言えば嘘になるが、こう考えると恋人関係と呼ぶにはかなり淡白だった気もする。
隣のベッドが校庭側にある関係で日差しが入ってくる。お陰で普段は中の透けないカーテンも、今は強い人影になって見えている。透子が体操服を脱いだ瞬間、ついさっきまで平面だった部分が突然突き上げるように飛び出した。
「えっ…………」
衣擦れの音に耳が反応してしまう。制服は足元の体育袋から取り出し、慣れた様子で着替えていく。着替えの終わる頃には一瞬だけ見えた大きな膨らみは幻だったように消えて、彼女はカーテンの奥から姿を現した。
「どうかした?」
「……………………い、いや」
「君も早く着替えないと。重傷じゃないんだから、授業に復帰しないと怒られちゃうわよ」
「いや、今は……あ、あはは。いや、着替える。着替えるよ。もう大丈夫だから、透子は先に行っててくれ。ここは保健室だから安全な筈だ。これ以上迷惑はかけられない」
「そう? じゃあ―――」
枕元に立てかけられていた日傘を手に取ると、透子は何度かこちらに視線を送りながら部屋を去っていった。
こんな気持ち、良くないのに。
彼女は善意で俺の恋人を演じ、復讐を手伝ってくれている。そんな純粋な人間にこのような邪な感情を抱くこと自体が間違っているのだ。綺麗な人間で居たかった。でも、駄目かもしれない。華弥子に嫌われたくなくて性欲のない男を演じていた反動が来てしまったのか。
脳みそまで真ッピンク。生物の本能が劣情を掻き立てて止まらない。
「……」
どうしよう。もっと直視出来なくなった。
六時限目までにクラスに戻るのは容易かったが、結論から言うと教室に入る事は出来なかった。信じられないかもしれないが―――いや、何を言っているか分からないと思うが、人間の生皮がティッシュでもちぎるみたいに散乱していた。
それに伴い周辺も血塗れで、体育以外の授業を受けていた他のクラスに聞いて回っても騒ぎや事件は起きていなかったと言われる。情報のない事件や地震速報にない地震に見舞われるなどの悪運からか先生は連日大騒ぎ。冬休みを削る形で今日の授業は流れた。
部活こそ通常通り始まるが、帰宅部が下校準備に入る頃には多くの警察が到着し、先生達と話し合っている所だった。
―――俺が昏倒してる間に何があったんだ?
事件は公に晒されて話題になったが、俺が殴られた方については現状誰も知る由がない。華弥子もわざわざ話しまわったりしていないみたいだ。
「夏目君」
「と、透子」
着痩せなんて温いレベルではない真実に気が付いてから、直視出来ない範囲が顔から上半身に拡大してしまった。あちこち目線を逸らす俺の様子がきっと不思議で仕方ないだろう。
「警察の前で日傘なんて度胸あるな」
「? 日傘は別に兵器や凶器に該当しないわ。傘を取り締まる人間が居るなら雨の日はみんなずぶ濡れね。ふふ」
「そ、そういう意味じゃないんだけど……今日もかばね町の方行くのか? 事件も多いしバイトがあるなら仕方ないけど……」
「いえ、今日は復讐を優先しましょう。ついてきて、華弥子さんが人目のつかない場所に行くわよ」
透子の手に引かれて到着したのは剣道場の裏側だ。どんな場所にあっても日傘は目立つと思ったが、既に華弥子は何処かに電話をかけており―――口論の真っ最中だった。
「なんで!? 話と違うじゃない、ストーカーを懲らしめてってお願いしたでしょ!?」
泣きじゃくるような声と共に華弥子が怒鳴っている。電話の相手は……あの先輩?
「お父さんが警察なら家に行って脅すとか出来ないの!? 私は、夏目十朗を徹底的に追い詰めて懲らしめて苦しめろって言ったの! 手出しできない? 怖い? 痛い? 何言ってんの!?」
痛い?
まさかあの先輩も俺を殴ってスッキリしたと思ったら別の男に絡まれて殴られたのだろうか。だとしたら可哀想だ、自分が本命じゃないと思い知ったのだから。そもそも華弥子に本命がいるのかはさておき。
「…………いいから、お父さんに頼りなさいよ。さもないと私、警察にアンタに無理やりされたって言ってこの前撮影した貴方との動画を証拠にするから。分かったらさっさと電話して!」
―――――――――――――――――――――――――
「クソぉ、クソぉ………………な、何なんだよあの女は!」
泣きたいのはこっちの方だ。
『…………何故こんな時間に電話をかけてきた。警察を暇だと思っているのか?』
「お、お父さん! えっと、逮捕してほしい奴が居るんだ! ひ、一人は俺の彼女にストーカーしてる夏目十朗って奴なんだけど」
『ストーカーか。かばね町の出身なら手は出せないが、違うな?』
「だとしたらあんなナヨナヨしてないだろうからそこは大丈夫だっ。そ、それとそいつの彼女っていう祀火透子って女! あ、あのやろ、お、お、俺の―――」
腹部に大量に巻かれた包帯は、鎖骨から臍くらいまでの皮を力任せに引きちぎられた証。あまりの痛みに大声を上げたかったがそれすら喉を抑えつけられて声を出せず、ただただ一方的な蹂躙を味わった。
男が、女に負ける。
屈辱的な敗北を、忘れる訳にはいかない。
電話越しに父親の呆れたような溜息が聞こえる。引き下がらない、絶対に。
「俺の腹部をぶちぶち毟りやがったんだ! まだ痛えよ……! こ、これは暴行罪だ! だよな、逮捕出来るよな!」
『…………一つ聞く。お前は何故その女に絡まれた』
「え……? だ、だから夏目十朗っていうストーカーが俺の彼女に付き纏ってて。ちょっと驚かしてやったらそいつの彼女だ。二度と彼氏に手を出すなって―――」
また、深いため息。
「……お、お父さん?」
『……近光町。通称、かばね町は犯罪の温床だ。当然、そこに隣接する市町村も被害を被ってる。お前は火遊びが過ぎる、私の力で度々助けてやったが今度ばかりは無理だ。この大バカ者』
「な、何でだよ。犯罪でっち上げて逮捕しろなんて言ってないぞ! 正当な犯罪者だって! しかも、彼女の為なんだ!」
『何が彼女の為だ、この自殺志願者め。ボクシングのチャンプも特殊部隊の工作員も、地震や台風相手に喧嘩を売ろうなどとは思わん。何故か分かるか? 勝ち目がないからだ。 勝負自体が馬鹿らしいからだ』
『地震、台風? 何言ってんだよお父さん。相手はただの人間だってば』
「ともかく私はこの件に一切関わらん。警察に頼りたいと思うなら好きに駆け込め、どうせ誰も手は貸さんぞ。ついでにそんな彼女とも手を切れ、お前には良くない娘だ」
『いや、だからそれは無理で―――!」
電話が、一方的に切られた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます