第十七話
紫は、真っ白な空間にいた。キョロキョロと周りを見渡してみるものの、何もない。ただ白いだけ。
「紫。」
自分と同じ、懐かしい声が聞こえて、紫は振り返った。自分と同じ顔で同じ体型の、しかし自分より柔らかい笑みを浮かべる、少女がいた。
「癒綺さま!」
思わず声を上げる。柔和な笑みを浮かべている癒綺は、そっと紫を抱きしめ、撫でた。紫も癒綺を抱きしめ返す。
「お疲れ様。よく頑張ったわね。」
暖かい声に、視界が滲む。紫の普段の無表情はあっという間に溶け、今にも泣きそうな顔になった。
「…はい。」
気の利くことを言えない自分に苛立ちながらも、そっと癒綺から離れる。彼女も、泣きそうな微笑みを浮かべていた。
「でも、もう疲れました。左腕も無くなったし、強い毒も回ってます。海炎には私が死んだ後のことを託しました。」
だから、と続ける。
「だから、癒綺さまの隣にいてもいいですか?」
癒綺は傷ついたような表情で紫を見つめた。それを見て、紫も動揺する。堪えていた涙が溢れそうになるのを、ぐっと堪える。
「だめよ。」
キッパリと断り、癒綺は厳しい表情を見せた。空気が一気に緊張し、紫は動けなくなる。ただでさえ癒綺に弱い紫は、昔からこの雰囲気に耐えられなかった。
「あなたは生きるべきなのよ。ほら、ご覧なさい。」
言われて振り返ると、真っ白な世界に画面が出てきてどこかを映し出している。やがて気絶している騎士たちが映し出され、紫が戦ったあの野原だとわかった。海炎が紫を探している。声は聞こえないものの、何度も何度も紫を呼んでいるのがわかった。そしてその隣には、追放したはずの狂衣血がいた。
「ほら、あなたを探してこんなに必死になっているわ。」
やがて狂衣血が血痕を見つけ、それを必死に辿っていく。あまり長い距離を歩いたわけではないので、紫はすぐに見つかった。周囲に散っていた仲間たちもわらわらと集まってくる。紫の状態は、一瞥しただけでもひどいものだった。近くに倒れている薬屋は海炎が背負い、紫は狂衣血が横抱きにして馬に乗り、大急ぎで拠点に帰っている。
「紫、死ぬな!お願いだから、死ぬな!」
急に、狂衣血の声がはっきりと聞こえた。いや、画面から聞こえているのではない。部屋全体に響き渡っている。
「もう戦いは終わった!紫は自由に生きられるんだ!お前のために!」
戦いが終わったと言うことを聞いて、ほっと一息つく。癒綺がまた笑みを浮かべて海炎を見つめていることにも気づかず、紫は画面に見入っていた。
「生きろ!お前は生き残るんだ!」
何かが、胸に刺さったような気がした。見下ろしてみても、何もない。ただ、いつも通りの服を着ているだけ。
「あなたはまだ生きられる。いきなさい。」
とん、と背中を押される。驚いて振り返った癒綺は、涙を流して嬉しげに笑い、手を振っていた。
「癒綺さま!」
そう叫んだのを皮切りに、白い世界が崩れていく。破片が降ってくるような気がして、紫はぎゅっと身を抱え込んだ。世界が深淵に飲み込まれる。
「紫!」
海炎の声に、ハッと目を覚ます。画面で見た時よりも時間は進んでいるらしく、もう拠点の医務室の中だった。近くでは薬屋が椅子に座り、紫の顔を覗き込んでいる。柔和な笑みを浮かべており、あの戦闘中の昏い瞳は見えない。
「名前…」
思わず呟くと、薬屋と海炎は示し合わせたかのように笑った。ふと見渡すと、医務室の中には入らないほどの大勢の仲間たちがぎゅうぎゅうに詰めており、入り口からもなんとか首を出している人が十人ほどいる。そしてその全員が、紫と呼ばれていることに違和感を抱いていないようだった。
「もう、説明してしまった。」
海炎が少し申し訳なさそうに言う。紫は頷き、にっこりと笑った。珍しい表情に、ざわめきが広がっていった。
「わかった。それで、僕が戦いに出てから何日経った?」
ふと気になって聞くと、薬屋が気まずげに海炎を見た。海炎もあまり教えることに乗り気でないように見える。
「何日?」
教えてもらえないのに苛ついてもう一度問うと、海炎は三本の指を立てた。
「三日?」
海炎は首を振った。嫌な予感がして、海炎の返答を待つ。海炎はたっぷり五秒開けて、ぼそりとつぶやいた。
「三年です。」
「三年!?」
思わず身を起こそうとして、がくりと崩れ落ちそうになる。海炎が慌てて支え、ゆっくりと上半身を起こした。よく見ると、確かに少し老けたような気もする。
「なっ…」
絶句して自分の右手を見る。確かに筋肉は衰え、骨と皮だけのような状態になっていた。そういえば、点滴もされている。
「…今の国際情勢は?」
海炎はさらに気まずげな表情を浮かべて目を逸らした。また嫌な予感がして、今度は薬屋を見る。しかし薬屋も目を逸らした。鍛錬場で叩きのめした六人のうちの、和樹がそっと手を上げる。そちらを見やると、和樹は覚悟を決めたようにスッと息を吸った。
「海炎さまがリーダーとなり、民主主義の国家となっています。そして紫さまは…」
言葉に詰まった和樹の続きを引き取り、海炎はぼそりとつぶやいた。
「救国の女神様として崇められています。」
「は?」
驚きすぎて言葉遣いも気にしていられず、紫は唖然とした。救国の女神、と言うことはつまり、紫が国を救ったことになっているらしい。
「誰がそんなことを…」
額に手を当てていると、海炎が爆弾を落とした。
「雷牙です。」
そう、あの時薬屋に騎士としての人生を奪われた、あの男である。信じられない、紫はそう呟き、布団の上にうつ伏せになった。
「大丈夫です、国民が知っている紫さまの姿は、黒い狐面をつけているものですから。」
海炎の言葉にほっとして顔を上げた時、今度は薬屋が爆弾を落とした。
「黒髪に金の瞳ですけど。」
紫はまた布団に突っ伏した。この国では金色の瞳はとても珍しい。さらに黒髪となると、紫以外にいるかどうか怪しいほどである。
「あの日からずっと、黒い狐面と黒髪が流行ってますね。カラーコンタクトで目を金色に近い色にしているのもよく見かけます。」
紫は恥ずかしさで死にそうになった。笑い声が溢れる中彼女自身もだんだんと面白く思えてきて、ついに笑みを浮かべた。そして。
「ふっ…ふふっ…あはははっ!」
大きな笑い声を上げた。その声を聞いた全員が歓喜に沸く。
「いやっほー!」
「やっと聞けた!」
そう、紫が声をあげて笑うのは、数年ぶり。今までも笑い声のような息を漏らすことがほんのたまにあり、それは幸運の象徴だとされてきたが、声をあげて笑うなど空前絶後のことだと思われてきた。歓喜の声に溢れる中、紫は革命軍に来て初めて心からの笑みを浮かべた。
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