第三話
癒綺は戦略書を広げた。もう朝日は登り始めている。癒綺の部屋は東、西、南の三方位に窓があるので、いつでも日が差している。つまり、日中は常に本が読めるのだ。今日は誰かと会う予定はない。一人で戦略を考える日となっているから、誰も訪ねてこないはずだ。
「こうなったら、この部隊をこうして…」
ぶつぶつと呟きながら、地図の上の駒を動かす。カタリ、カタリ、と一つずつ動かしていけば、勝ちへの道筋が見えてくる。
「…紫をこう動かし…いないんだった…」
そう、紫はもういない。昨日、暗殺者によって殺されてしまったから。癒綺はぐっと唇を噛んだ。皮が破ける、その直前でパッと力を緩める。紫が殺されたてから、仲間たちは結構過敏になっている。かすり傷ですら慌てるであろう彼らに見られでもしたら、絶対に大騒ぎになるだろう。
「海炎。」
おそらく、ドアの外にいるであろう副リーダーを呼ばわる。即座にドアが開いて、海炎はいつも通りの顔で入ってきた。
「はい。」
海炎は癒綺を見つめた。顔色が悪い。ちゃんと眠れなかったのだろう。当然だ。自分の近しい者が残酷に殺されたのだから。癒綺は目を伏せてそっと微笑む。
「海炎?どうしたの、そんな痛そうな顔をして。大丈夫よ、紫はもう苦しくないのだから。」
海炎は俯いて、黙り込んだ。癒綺は苦笑してすっと立ち上がり、海炎をベッドに座らせた。そして上の方にある海炎の頭を撫でる。
「大丈夫、きっといい未来があると信じましょう?大丈夫だから。」
そっと抱きしめれば、海炎は小さく頷いて癒綺を抱きしめ返した。背中に回された手はとても冷たい。人は不安になると手が冷たくなるという。癒綺は目を閉じて、自分の温もりを分け与えるようにしっかりと腕に力を込めた。
九時を知らせる鐘が鳴り響き、癒綺は海炎からそっと離れた。海炎もそれと同時にベッドから立ち上がる。そしていつもの定位置のドアの脇に立った。曰く、その位置が一番敵に気が付きやすいらしい。癒綺は羽ペンを滑らせて、このような場合はこうする、と書いた作戦書を増やした。これで、いざという時に慌てずに済む。もちろんこの拠点が襲われたら戦略がばれるのでまずいのだが、書いたものは頭の中に叩き込んでいざという時は燃やせば良いだけの話。ふと、海炎が身じろぎをした。癒綺もそれに反応して顔を上げる。数秒後、コンコンとドアがノックされた。
「響一です。作戦について、話し合いたいことがあります。」
癒綺は海炎と目を合わせた。今日は誰とも会わない日のはずだった。それを響一も知っているはずだ。しかしそれでも何か話し合いたいのだろうか。
「…いいわ、入りなさい。」
癒綺が答えると、響一はすぐに入ってきた。積み上がっている作戦書をチラリと見て、膝をつき頭を下げる。
「どうしたの、響一。今日は誰とも会わない日のはずだけれど。」
作戦書から顔をあげて、癒綺は首を傾げた。響一は持っていた袋から作戦書をすっと取り出した。
「紫が消えたことで生じるこれまでと違う点について、ここに記しておきました。どうぞ、お納めください。」
海炎がそれを受け取り、癒綺の手に渡る。癒綺は冊子になっているそれにパラパラと目を通し、一つ頷いた。
「目を通しておくわ。ありがとう、響一。」
海炎に目配せをしてドアを開かせると、響一は再び頭を下げてするりと出ていった。すっと目を細めて、インクをじっと見つめる。
「これ、いつ書かれたのかしら。」
紫が死んでしまったと伝えたのが、夕暮れのこと。それから立ち直るまでに短くても十分ほど、そしてさらにインクがそれぞれ乾くまでに数分。一ページにつき六分程度はかかる。いつ書かれたかわかるように、革命軍特製の乾きにくいインクを配布して使わせていたのだが、それが功を奏した。インクは、完璧に乾いていた。しかも色が違う。革命軍の人は皆同じインクを使うように言っているのでそれはおかしい。インクが切れて違うインクを使うなんてことも、あり得ない。インクが切れたなら補充しに倉庫に行くはずだからだ。
「…まさか、ね。きっと全ての可能性を考慮してたのよ、彼は。きっとそうだわ。そう、信じましょう。」
言葉をそっと口に乗せる。一度心が信頼から離れてしまっても、こうすれば元に戻る。仲間を信頼できる。
「癒綺様…」
海炎に呼ばれてそっと視線を向けると、彼は作戦書を見て厳しい表情をしていた。彼も違和感を覚えたのだろう、このインクに。
「今は動かない方がいいわ。彼がいないときに部屋を調べれば良い話です。」
しかし、作戦書の内容は間違っていない。意味がわからなかった。これは、本当にどういうことなのだろうか。
「明日は確か、近くの視察に行く予定だったわね。海炎、ここに残りなさい。一人になる時間が欲しいと言って、狙われるかどうかを確認するわ。他の人たちにも明日残ることになってしまったと言いふらして。不自然にならないように。」
海炎は即座に頷いた。癒綺がここに来る前は革命軍の中でも負けなしだった海炎すら、彼女はいとも簡単に負かしてしまうのだ。襲撃されても大丈夫に違いない。
「くれぐれも、お気をつけて。」
それでも頭を下げる。いくら彼女が強いとはいえ、もし何十人もの兵で囲まれたら流石に危険だ。癒綺も海炎の気持ちが少なからずわかっているので、静かに頷いた。
「えぇ。」
再び響一の作った作戦書に目を落とす。角張った字で、細々と書いてあった。
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