3.
『海って、どこまで続いているんだろうね』
まだ幼かった私は、彼の手を握りながら、ふとそんなことを呟いたことがあった。潮風と海は波音を奏で、私たちが踏みしめた砂は人知れず絞り出すような悲鳴を上げていた。彼は、その音と融合するように微笑み、スゥーッと大きく息を吸い込み、果てしなく続く海を指差して
『ずっと遠くまで続いているよ。ずっと、遠くまで続いていて、辿り続けていくと、またこの場所に戻ってくる』
なんて、そう答えた。潮風が強く吹きつける。ザアザアと波が音を立てている。彼の頬は夕日に照らされている。オレンジ色のハイライトが入った彼の目は、いつも以上に輝いて見えた。
『じゃあ、悲しいことは何もないね』
私は安堵の声を漏らした。彼は、不思議そうに首を傾げて私を見つめた。私は彼の手をぎゅっと強く握り、タタッと軽快にステップを踏み、彼の正面に回り込んだ。
『だって、“永遠にさよなら”はない、ってことでしょう?』
嬉しくて思わず笑みが溢れた。海はキラキラと光っていた。夕日は眩しいほどに私たちを照らしていた。その輝きは、海にも染みて広がっていた。
『進み続けたら、いつか、また会えるんだ』
海を眺めながら、私は噛み締めるように小さく言った。穏やかな風が吹いていた。あたたかなそれは、まるで頭を撫でるように優しく吹いていた。彼もまた、果てしなく続いているこの海を見つめた。ゆっくりと目を伏せ、どこか感傷に浸るようにして彼は「そうだね」と呟いた。
『私たち、中学でクラスが分かれても、ずっと一緒だよね』
私は彼の顔を見ることなく言った。確認の意を込めて。彼は肩をビクッと跳ねた。見なくてもわかったのは、彼の呼吸と動きがわかりやすく変化していたから。動揺したのか、彼は即答はしなかった。ただし、しっかりと息を整えて、
『……あぁ。きっと、ずっと一緒だ』
はっきりと、そう答えた。「友達だもんね」と私が言えば、彼は少しだけ寂しそうな声で「……あぁ、そうだな」と返した。
この会話を始めたのは私だったのに、会話が終わる頃には、彼の方がしおらしくなっていたものだから、「どうしたどうした? ちょっと不安になっちゃった?」なんて揶揄った。彼はこれを、「そんなわけないじゃん!」と慌てて訂正した。赤く染まったその頬は、この夕日のせいか、或いは、恥じらいによるものか。この二人のやり取りに呆れたように、また、ため息をつくように、カラスは「カァー、カァー」と長く鳴いていた。
***
走って、走って、走って……。私はいつかの海にやってきた。家からこの海まで、徒歩だと約二十分。その距離を全力で走ったのだから、さすがに息が切れる。吸い込む空気が冷たくて痛い。決して得意ではない長距離走を、なんの準備もなくしたせいで、肺が苦しい。しかし、その苦しみよりも先に、安堵が来た。砂浜に、彼の姿を見つけたから。
「
彼の名前を呼べば、彼はハッと私の方を見て、「
「……どうしたの?」
暫しの沈黙の後、彼は聞いてきた。「散々心配かけさせておいて、『……どうしたの?』じゃないよ!」なんて文句が喉から出かかった。が、その言葉は放たれることなく、唾液と共に飲み込まれた。彼の表情を見たら、文句の一つ言えなくなった。夕日に照らされ、頬の赤く色づいた彼は、まるで散り際の花のようだった。触れたら、全てがさらりと散ってしまうような気がした。彼に返すべき言葉が、或いは、彼にかけるべき言葉が見つからず、狼狽える私に、彼はふわりと笑ってみせると
「なんか、こうしていると昔を思い出すなぁ」
なんて、しみじみと言った。私が首を傾げると、彼はあからさまにサッと目線を逸らす。そうして、海を見つめながら、微かに目を伏せ
「“永遠にさよなら”はない。だから、きっと、ずっと一緒……」
いつかの言葉を、呆然と呟いた。思わず「あ」と声が漏れた。彼の横顔は切なかった。忘れていたわけじゃない。忘れるはずがない。私は、あの日、この場所で、彼と離れ離れになることを嘆いたのだった。
田舎特有の一クラスしかない小学校を卒業し、二クラスある中学校へ入学すると決まった時、私は、確かに、彼と離れ離れになることを恐れ、この世の終わりかの如く落胆していた。ちょうど多感な時期であったから、悲観的で、恥ずかしいことを言ったような覚えはある。
私の頬が熱を帯びた。きっと真っ赤になっていたことだろう。決して夕日のせいじゃない。穴があったら入りたい思いだった。
しかし、彼はそんな私に目をくれることなく
「本当は、“永遠にさよなら”はない、なんて、嘘だったんだよな。“ずっと”なんて、むしろ、そっちの方がなかったんだ」
その顔に影を落としながら、ため息混じりに、そう話した。冷たい風が吹きつけている。肌を刺すような風が吹いている。バタバタッと音を立てる制服。もう、暗くなって、影を落として見えない表情。行き場のない手。沈黙。
「……私たちは、ずっと、一緒だよね」
私は絞り出すように言葉を紡いだ。呼吸の仕方がわからなかった。とても彼の顔を見ることはできなかった。でも、離れたくないと言うのは本心だった。そこに嘘や偽りはなかった。
「……わかっているくせに」
彼は小さくぼやいた。その声は震えていた。「晴輝?」と彼の方を見れば、彼の肩も、否、全身が震えていた。両手で、まるで自分を抱きしめるようにして、何かを抑え込もうと、抱え込もうとしていた。私は無意識に彼に手を伸ばしていた。が、パシッとその手は弾かれた。
声にならない声が口から溢れる。と、彼は、ようやく私を見た。やっと、目があった。目があった彼は、ひどく驚いた様子だった。一体、彼は何に驚いたのか、私にはわからなかった。彼の唇が微かに震えている。じんじんと、彼に払われた右手が痛む。再び、二人の間に沈黙が訪れる。どうしてこんなに胸が痛むのだろう。どうしてこんなに苦しいのだろう。私は今にも泣き出しそうだった。が、私よりも先に、彼が涙を流した。
一筋の涙が頬を伝えば、それは、ぽろぽろと無限に溢れ出した。ギョッとして私は彼の名を呼ぼうと口を開けた。
「もう、いいよ」
私が彼の名を声に出す前に、彼は、グスッと鼻をすすりながら、か細い声でそう言った。その一言に、また、ズキンッ、と胸が痛んだ。
「お前の優しさは、あったかいけど……今は、その優しさがつらい。……痛いんだ」
「やめてくれ」と。こうも弱々しく訴えられてしまったら、もう何もできなかった。本当は、昔のように抱きしめてあげたかった。本当は、思い切り泣かせてあげたかった。昔、私が彼にそうしてもらった時のように。でも、今の彼にとっては、私の思いやりの全てが刃物なのだ。何をしても、彼を傷つけてしまう。こんなにも近くにいるのに、遠い。手はあるというのに、伸ばせない、届かない。私は無力だ。彼にしてあげることがない。何も思い浮かばない。この場所から、微塵も動けない。
「……これ以上、勘違いさせないで」
彼はそう言うと、その場にへたりと座り込んでしまった。顔が隠されて見えない。でもきっとまだ泣いているのだろう。
触れて良いものか、わからなかった。彼の前に
私たちは、私たちが思っている以上に子どもだった。あれから、少しは大きくなったつもりだったが、どうやらそうでもなかったらしい。むしろ、言いたいことも言えなくなった。やりたいこともできなくなった。不器用になった私たちは、声を殺しながら、伝えたい想いも言葉にできず、ただ、泣くことしかできなかった。
昔の私だったら、こんな時、どうしていたんだろう。きっと、否が応でも、彼を抱きしめていたんだろうな。彼を抱きしめて、泣き喚いていたに違いない。「だって好きなんだもん! ハルくんと恋人にはなれないけど、でも、ハルくんと離れたくはないんだもん!! しょうがないじゃん! ねぇえぇ、わかってよー!! うえぇぇぇんっ!!」なんて、みっともなく、しかし自分の気持ちを正直に伝えられていたに違いない。いつからだろう、そんな簡単なことすらできなくなったのは。これが本当に大人になるということなのか。こんなの、むしろ退化ではないか。これが、本当に大人になるということだとするのならば、大人になんてなりたくなかった。あまりにも、情け無い。
夕日は既に海に沈み、空には藍色が広がっていた。黒い雲が、月や星の輝きを隠していた。寒さは厳しくなるばかりだった。逆風は頻りに吹いていた。言葉のない私たちの代わりに、海はただ、「ざぶーん、ざぶーん……」と、煩いほどに泣いていた。
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