2.
家に入ると、どっと疲れが押し寄せてきた。鞄を落とし、ソファに身を投げ、クッションに顔を埋めた。夕飯を作っている母から、「どうしたのよ」「手を洗いなさい」「宿題は?」と小言を注がれ、これに「んー」と適当な返事をしながら、私は先刻のことを考えていた。
考えれば考えるほど、「私は悪くない」と、保身に走っていった。そもそも、彼が帰り道に告白なんてしなければ、私はこんな思いをせずに済んだのだ。全て彼が悪い、彼のせいだ……なんて思いはするが、やはり胸の奥底に沈む「彼を傷つけてしまった」という事実と罪悪感は拭えない。意味もなく、ゴロゴロ体勢を変えながら、また手足をもにょもにょ動かしながら私は悶えていた。
一通り悩み踠き、疲れて、死体のように動かなくなっていると
「そういえば、ハルくん進路どうするって?」
ふと、母は私に声をかけてきた。偶然だろうがあまりにもタイムリーすぎる。今、彼の名前を聞きたくはなかった。ぼんやりとそんなことを考えながら、私は
「就職だってさ。大学には行かないって」
本人から聞いたことを、ありのままに話した。
「そう。じゃあ、アンタたち、来年からついに離れ離れになっちゃうのね」
母は片手間に言った。トントントンッ、と何かを包丁で切る音が聞こえる。軽快なそのリズムに、私はゆっくりと目を瞑り、「うん」と返す。心地良いその音に、このまま眠ってしまおうかと脱力したその時
「……もったいないわね。ハルくん、すごく頭よかったのに。本当は、もっと勉強したかったでしょう。やっぱり、お父さんのことがあったからかしらねぇ」
母の言葉に、私の眠気は彼方に飛んでいった。
母の言う通り、彼は頭が良かった。頭が良いというのは、勉強をしなくてもある程度できるタイプのものではなく、努力の積み重ねによるものだった。勉強に対する意欲があった、とも言う。
教師を目指していた彼は、特に、文系科目が得意で、本をよく読んでいた。普通、今の時代といえば、隙あらばスマホだ。アプリゲームを楽しんだり、SNSを眺めたり、私たちはスマホばかり見ている。しかし彼は違った。隙あらば読書だ。芥川だの、太宰だの、志賀だの、島崎だのといった難しい本から、最新の本屋大賞の受賞作、SNSで話題の本、エッセイなど、幅広く読んでいた。
そんな彼のことだから、私は「彼は、将来、立派な教師になるに違いない」と思っていた。多くの生徒に囲まれて、楽しそうに彼が授業を作り上げている風景は容易に想像できた。そう信じて疑わなかった。が、現実とは実に厳しいもので、彼はとある出来事を境に夢を諦めた。
彼の父親が死んだ。癌だった。見つかった時にはもう遅かった。進行が早かったのだ。彼は成人する前に、父親を失った。決して裕福ではなかった彼の家庭は、父親の死をきっかけに、地に落ちることはなくとも苦しいものとなったと言う。自由に好きな本を買うこともままならない。無論、大学に行くことも叶わない。今を生きるのに必死だった。残された母親と共に、この先も、不景気で苦しいばかりのこの世の中を生き抜くためには、「教師になる」という夢を手放す他になかったとのこと。
ぐつぐつと、何かが煮えるような音がする。私は彼の「あったかもしれない将来」について妄想していた。妄想しては、それが叶わないという現実に対して腹を立てていた。時折、ため息をつきながら。
「寂しくなるわね。高校卒業したら、会う機会なんて殆どなくなるからね」
それを聞いて、思わず「えっ」と声が漏れた。すると、これを拾って母は「当たり前でしょ」と呆れたように話す。
「高校を卒業したら、高校以前の友だちと遊ぶ時間なんてないわよ。共通の話題も少なくなるから、連絡を取り合う機会も減って、だんだん疎遠になっていくの。お母さんはもう、高校の友達の誰とも連絡取っていないわよ。あーあ、みんな元気かなぁ」
母はぶつぶつと独り言を始めた。楽しそうにも悲しそうにも聞こえた。が、その内容は全く耳に入ってこなかった。
信じられなかった。あんなに一緒だった彼と完全に離れ離れになるという事実が。まるで、双子の姉弟のような関係だった二人が、疎遠になるという事実が。しかし、確かに、言われてみればそうだ。今までは、「あの先生がー」「〇〇さんがー」「次のテストがー」といった他愛のない学校での生活の話をしていた。が、それが大学進学と共に封じられるのだ。いや、それだけではない。今までは同じ時間割で生活していたが、これからは、互いに違う時間割で生活することになる。私は、大学の履修すべき授業の時間割で、彼は、仕事の時間割で。この二つが交わることはそうないだろう。きっと、この「話題がない」「時間が合わない」という致命的な問題は、二人を引き裂き、溝を作っていくに違いなかった。そのことは、さすがに私でも理解できた。
ふと、チクリと、胸に何かが刺さったような気がした。胸に手を当て、首を傾げる。がばっと起き上がり、制服のリボンを取り、シャツの一番上のボタンを外し、首元を開ける。息が、苦しい。
『……ずっと、お前のことが好きだった』
彼の言葉が頭を過った。
『困らせてごめんな』
彼の仕草が心を締め付けた。
『忘れてくれ』
ズキン、と。その一言を思い出した瞬間、また胸に痛みが走った。強く鋭いその痛みは、私の鼓動を早まらせた。ドッドッドッドッ……心臓が煩く鳴いている。あの告白に、彼はどれだけ勇気を込めただろう。どれだけ想いを、意味を込めただろう。私は、それを、どれだけ簡単な言葉で薙ぎ払っただろう。
__プルルルル、プルルルル
固定電話が鳴り、ハッと正気に戻る。「もしもし」と、母はそれを取ると、しばらくして「えっ」と驚いたような声を漏らした。何事かと母の方を見れば、母は困ったような顔をして
「……ハルくん、帰ってきてないって。ねぇ、アンタ、何か知らない?」
そんなことを言ってきたものだから、ヒュッと喉が鳴った。だって、彼は、確かに帰ったはずだった。一緒に帰ってきたのだから、間違いはない。この私の家から彼の家までは、僅か数十メートル。迷うはずもない。ど田舎のここで、まさか事件が起きたとも考えられない。もし、考えられるとしたら……
「……私、探してくる!」
「えっ、ひなちゃん!?」
「心当たりがあるから! すぐ帰る! いってきます!」
「はぁっ!? ねぇ、ちょっと! ……あっ、いえ、すみません。今、ひなが…………」
母の言葉を無視して、制服姿のまま、私は駆け出した。もし、私のこの最悪の予想が当たってしまっているのなら。取り返しのつかない事態になる前に、私は、彼を連れ戻さなければならなかった。
夕日はもう既に沈みかけている。ずんずん、ずんずん、沈んでいっている。冷風が肌を刺すように吹いている。手足が悴んでいく。痛い。でも胸はもっと痛い。気を抜くと、涙が溢れてしまいそうだ。
走る。ただ、ただ、走る。走らなければならなかった。
彼が、どこか遠くへ消えてしまう前に。
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