逃げた先に。

夜凪いと

第0話 逃場






「これは、これは」


 その猫は何が楽しいのか、瞳を細め、長く、ふんわりとした尻尾をゆっくりと左右に振ってみせた。  

 ステンドグラスから差し込む光の中でにゃあ、と可愛く鳴き声を上げ、優雅な足取りで私の目の前に降り立つ。


「なんて面白く、可哀想な人間だこと」


 ドクン、ドクン。


 その猫の瞳が、宝石のように、いくつもの色を煌めかせながら私を貫き、息ができなくて苦しい。  

 耳元で鳴る心臓の鼓動と一緒に、自分の首に絡まり締めつける、何本もの気持ち悪い【】が動くのを感じた。  

 息が詰まりそうになり、無意識に喉へ手を伸ばすけど、触れることはできない。  

 そんな私の姿を滑稽だとも言いたげな意地悪な猫は、人間の言葉ではっきりと私にこう言い放ったのだ。


「我はアン。人の縁を司る偉大なる神でこの『le lienル・リアン 』の店主でもあるぞ」


 全ての人間関係から逃げ出した私の目の前に現れたのは、皮肉にも『縁』を司る神様だった。










 ◇








 静かな部屋の中で、私が動くたびに服がこすれる音と、学習机の上に置いた置き時計の規則正しい音だけが響いている。どうにもそれが耳障りで、私は膨らんだボストンバッグの一番奥に時計を押し込んだ。


「これでもう終わりかな」


 忘れ物がないか、鞄の中身を一つずつ確かめてから部屋を見回す。

 幼い頃からずっと一緒だった部屋は、壁に貼っていた写真もはがし終えていて、本棚もほとんど空っぽ。クローゼットにぎゅうぎゅうに詰めていた服もなく、横にかけてあった、毎日のように着ていた制服ももうない。

 殺風景になってしまったのが少しだけむなしい。けれど、心のどこかでは解放感が広がっていた。


「そろそろ行かなくちゃ」


 スマホで時間を確認すると、電車の時間が近づいている。

 急がなきゃ、と鞄のチャックを閉めて持ち上げるけど、予想以上の重さに「うっ」と声が漏れた。やっぱりスーツケースにすればよかった、と後悔のため息を吐きながら肩にかけ、ドアノブに手を伸ばしたとき、スマホが震えた。


『おばあちゃんに迷惑かけないこと』


 いつも通りの、素っ気ないお母さんからのLINE。その文面だけでも自然と眉間に皺が寄るのが分かる。

『わかっ』まで打って、指を一瞬止める。少し考えてから『うん』の一文字だけ送って、着ていたパーカーのポケットにしまった。

 もう一度、部屋を振り向く。

 姿見に映る自分が、私を睨んでいた。


(ごめんね……)


 一人で逃げて、ごめん。そう心の中でだけ謝って、これ以上は遅れられないと扉を閉める。

 外に出ると、もう十月も中旬で空気は十分冷たく、家の中との温度差に思わず身震いした。ついこの間まで半袖で歩いていたのが嘘みたいだ。

 見上げた空は秋らしく高く、澄んだ青がどこまでも広がっている。眩しすぎてふらっとして、慌てて視線を下げた。灰色の、冷たくて硬いコンクリートが目に入って、ようやく息がしやすくなる。

 視線を落としたまま、何年も通った道を歩くのは簡単で、肩に食い込む鞄の重さに何度も息を吐きながら、どうにか電車にも間に合った。これを逃したら新幹線がギリギリになるところだったから、胸をなでおろす。

 土曜の早朝のせいか、車内は平日より人が少ない。運よく一番端の席に座れた私は、足の間にボストンバッグを置き、やっと周りを見る余裕ができた。

 とくん、と胸が大きく鳴る。急いでパーカーのフードを深く被った。

 前の列には、見慣れた制服の女子たち。大きな楽器ケースを抱えているから、きっと部活なのだろう。彼女たちは楽しそうにおしゃべりに夢中だった。


(別の車両に移ろうかな……でも今動いたら逆に見られそう)


 どうしようか迷っていると、突然黄色い声が上がり、思わず耳がそちらに傾く。


「ねえねえ、これ見て!」

「あっ、柊じゃん!」


 スマホの画面を囲んでいる。少し前に、海外の有名なピアノコンクールで優勝したって話題になっていた、あのピアニスト。日本のバラエティ番組にも出て、あの整った顔と、自由で自信家なところで一気に人気になった人。私の世代では『イケおじ』とか呼ばれてて、ファンも多い。


「でもさ、浮気して離婚されたって噂だよ。しかも子持ち!」

「うわ、サイテー。でも柊ならなんか納得できない?」

「できるできる。同じ場所にとどまらないタイプだよね」

「それがまたいいじゃん」


 楽しそうに笑う声に、胸の奥がきゅっとなる。


(いやだな。もう聞きたくない)


 ポケットからイヤフォンを取り出して耳に差し込む。履歴の中から一番うるさい曲を選んで、周りの音が聞こえないくらい音量を上げた。

 次の駅で一回降りて、別の車両に乗り換えよう。そう決めて、私は目を閉じた。








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