うんこをしない女の子 ―排泄と存在の物語―
うなな
【第一部 記録】 第一章 音のない教室
春の風が、窓際のカーテンをほんの少し揺らした。
そのたびに教室の空気が入れ替わっていくのを、僕は感じていた。けれど、それは音を立てない風だった。まるで、誰かに遠慮しているような風だった。
彼女が座っているのは、窓側の一番後ろの席だ。
名前は白凪ユイ。クラスでいちばん無口で、いちばん目立っていた。
彼女が何かを発することはほとんどない。
笑わない。怒らない。トイレにも行かない。
そう、「トイレにも行かない」というのは、誰かがふざけ半分で言った噂だった。
最初に聞いたとき、僕は思わず笑った。だってそれは、そんな馬鹿な、という話だ。でも一度そう思ってしまうと、僕の頭はもう、その観察から逃れられなかった。
実際、彼女がトイレに立つのを見た者は誰もいないという。昼休みも、掃除の時間も、ずっと教室にいる。
しかも給食を食べる量も、異様に少ない。パンを一口だけかじって、それを鞄の中にしまう。
それはまるで、身体が「何かを出すこと」を拒否しているかのようだった。
最初は「小食なんだな」くらいにしか思っていなかった。
でもある日、僕は決定的なことに気づいた。
――彼女の周囲では、誰も音を出さないのだ。
咳払い、貧乏ゆすり、椅子のきしみ。教室の雑音は日常の背景音のはずなのに、彼女の机のまわりだけは、いつも無音だった。
まるで空間ごと、彼女が浄化しているみたいだった。
それは奇麗すぎた。危ういほどに。
放課後、僕はわざと帰りを遅らせ、教室に残った。
ユイはまだ席にいた。机にノートを出したまま、ただぼんやりと外を見ている。
「なあ、白凪さん」
そう声をかけると、彼女はゆっくりと顔をこちらに向けた。まるで時間の流れが一拍、遅れているようだった。
「何?」
その声は、小さく乾いていた。音が空気に吸い込まれるような声だった。
「あのさ、変なこと聞くけど……トイレ、行ってないって本当?」
彼女は目を瞬きもしなかった。
沈黙が数秒続き、それから彼女は答えた。
「本当だよ」
僕は苦笑いを返した。「そっか。冗談でしょ?」
「ううん。わたし、一度も行ったことがない」
その瞬間、教室の中のすべての音が止まった気がした。
風も、机も、電気のノイズすら。出すべき音が、すべて引っ込んだ。
「でも、それって……」
僕は言葉を探す。
「なんで? いや、どうやって……?」
「どうしてみんな、出すことを当たり前だと思ってるの?」
ユイの声は冷たいというより、ただ真っ直ぐだった。嘘や意図が感じられない、透明な音だった。
「食べたら、出る。それって、そういうものじゃない?」
「食べなければ、出ないよ」
ユイは笑わなかった。ただ言葉を置いただけだった。
「でも、栄養とか……健康とか……」
「わたし、健康診断いつもAだよ?」
それが反論にならないことは、彼女自身が一番よく知っているようだった。
でも僕はもうそれ以上、何も言えなかった。
彼女の「出さない」ということは、もはや彼女の身体の問題ではなかった。
それは、存在そのものの在り方だった。
その夜、僕は夢を見た。
誰もいない校舎。響く足音。開かないトイレ。空っぽの便器。
そこにユイがいた。
白いワンピースを着て、こちらを見つめている。
彼女の目は言っていた。
「あなたは、まだ出す人でしょ?」
僕はその問いかけに、何も答えられなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます