2025.06.29(日)/体、モノ、到達地点

 自分でもよく分からないけれど、唐突に言葉にならない幸福を感じる時がある。誤解がないように断っておくが、法に触れるような薬はやっていない。私はヒッピーではないし、ラスタファリアンでもない。


 私が好む薬物はニコチンとカフェイン、つまり煙草とコーヒーだ。余談だが、ニコチンやカフェインは合法ではあるけれど、立派な『薬物』として扱われている物質である。


 冒頭に出したヒッピー、ラスタファリアンともども、気になった人はおググりください。冒頭から盛大に脱線事故をかましているが、気にしたら負けだ。


 さて本題。言葉にならない幸福感の話。まず、どんな状況でそれを感じたのかを説明したい。


 今年の冬の出来事だ。といっても、何か事件があったわけではない。完全に、私の心の中だけで起きたことだ。


 寒いけれど天気は良くて、ぼんやりした日差しが暖かさを感じさせる日だった。風もあまりなく、厚着していればへっちゃらな日だった。


 散歩をしていて、自動販売機で缶コーヒーを買った。BOSSのブラックコーヒーだ。指先が冷えていたせいか、取り出した直後は缶がとても熱くて、ずっと持っていられなかった。両手で缶を転がしながら、缶の熱に慣れるのを待っていた。


 視線を上げて、色の褪せた冬の空を眺めていた。吐いた自分の息が真っ白で、それが空気の中に溶けていく。


 ふと、それを見た時に「あぁ、生かしてもらってるな」と思った。たぶん、その頃に読んだ本か、YouTubeの動画か、そういったものがキッカケだったかも知れない。私は影響されやすい性質たちなので、そうして見聞きしたものを、すぐに自分と重ねてしまうのだ。単純とも言える。


 当然だけど、冬場に息が白くなるのは、自分の体が体温を持っているからだ。空気の中の水分が、温かい体から冷たい空気の中に流れていく時、その温度差で水蒸気になる。


 この体温は自分のもの。では、自分はこの体温を、自分の意思で保っているんだろうか。当然そんなことはなくて、これは自律神経の働きによる肉体の自動調整機能だ。私の体には、体温を調整するためのボタンも、ツマミも、フェーダーも付いていない。


 体温だけではない。


 血管が脈を打つこと、暑いと汗が出ること、皮膚についた傷が治ること。呼吸や瞬きはある程度コントロールできるけれど、ほとんどは無意識に行っている。


 私の体は、私の意思で生きようとしているのではない。あえて悲観的に、あるいは虚無的に考えるならば「ヒトという生物として生まれてしまったが故に、身体機能が停止するその時まで生きているだけ」とも言える。


 「人生は死ぬまでの暇潰し」という言葉は、楽観主義的なスローガンとして掲げられることもある。しかし、穿った見方をすれば「生まれてしまったものは仕方がないから楽しく生きようぜ」という、これまた虚無主義的な思想が根本にある気がしないでもない。


 この体は、私のものであって、私のものではない。情緒的な思考を排除して生物学的に解釈するならば、遺伝子の乗り物たる私の体は、性行動や繁殖行動によって、次の世代に遺伝子を受け渡すための器でしかないからだ。


 私の血縁や先祖と呼ばれる誰かは、数えきれないほどの「世代交代」という連続体のひとつとして、それぞれの時代を生きてきた。


 そして、私が立っていたあの冬の日。あの日が、その連続体の最新の到達地点。


 自分の意思とは無関係に生まれて、生きて、繋がってきた連続体の、その先頭に私がいる。


 そんなことを考えて、胸に迫ってきたのは「有難いなぁ」という思いだった。


 意識はどんどん拡大していって、私の体から、この体の外側にあるモノにまで及んでいった。


 私が着ている服は、私が作ったものではない。


 私が履いている靴も、私が作ったものではない。


 左手首に着けている腕時計も、もちろん私は作れない。


 作ってくれた誰か、あるいは服や靴を作るために作られた機械を設計してくれた誰かのことを、私は知らない。


 更に言えば、作ったモノを私の元まで運んでくれた人たちのことも、私は知らない。


 意識は更に拡大して、体に密着しているモノから、周囲のモノにまで及んでいった。


 このアスファルトの舗装は、車が走りやすいようにと誰かが敷いてくれたモノ。


 寒い冬に、温かいコーヒーが飲めるようにと、誰かが自動販売機を設計してくれた。手の中の缶も、飲み物を保存し、更に飲みやすいようにと、誰かが作ってくれたモノ。


 電気が家庭に行き渡るように、誰かが送電システムを作ってくれた。誰かが電柱を設置してくれた。


 この道路の下には、水道管やガス管、下水管が走っている。


 家や建物は、そこに住む人、中で過ごす人のために作られている。


 顔も知らない誰かが、顔を知らない誰かのために作ったモノ。出会うことのない誰かが、私のために作ってくれたモノ。


 ここは、そんな贈り物で溢れ返っている。


 そんな思いが流れ込んできて、有難くて有難くて、気付けば涙が出ていた。もらった贈り物の大きさを思うと、私のこの体はあまりにも小さすぎた。


 もちろん、現実は分からない。


 それらを作り、設置した人たちは、仕事だから仕方なくやっていたのかも知れない。


 そもそもの発明は、兵器としての研究の結果だったかも知れないし、経済競争の結果だったかも知れない(電子レンジが兵器開発の結果生まれた、という話はあまりにも有名だろう)。


 シェアを獲得し、富を得た企業の陰で、競争に敗れて消えていった企業があったかも知れないし、路頭に迷うことになった経営者や社員がいたかも知れない。


 人が作り上げたこの社会は、手放しで賛美できるほど美しいものではない。美辞麗句と見目麗しい器で彩ったモノの内情は、時に吐き気すら催す劣悪さで満ちていることもある。


 でも、私がそれらに生かされていることも、また事実だ。自分の意思ではない体と、ただそこにある贈り物が、間違いなく私を生かしてきた。


 この体に、脳、五感のすべて。食べ物、服、道、建物、ライフライン、通信機器に電波。数え上げれば、それこそキリが無い。


 有難い。その言葉の持つ重量を、心底から感じた瞬間だったと思う。


―――


 今回は、何度か投稿してきたこのエッセイの中でも、特に取り留めのない話だったと思う。理屈もキチンと立っていないし、有難い、と思ったことの根源的な理由も書いていない。


 正直なところ、理屈じゃない。人がなぜ思考してしまうのか、ということに本質的な理由が無いように、私が感じたことにも本質的な理由は無い。


「ただ、そう思ったから」。この一言に尽きる。


 もちろん、24時間365日、こんなことを考えているわけではない。そこまで行ってしまうと、それはもうなんと言うか、仏様の域に達していると思う。


 ただ、あの冬の日に感じた幸福は、なんだかこれからも忘れてはいけない類のものだと、漠然とそんな風に思っている。

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