第5話:妹物の真実と揺れる心

 真壁碧純はベッドに寝転がり、スマートフォンで購入した電子書籍『妹のためならなんでもしたいお兄ちゃん』を読み始めた。


 画面に映る文字を追いながら、彼女の心は複雑に揺れていた。


 物語の主人公は、妹を守るためなら命すら投げ出す兄だった。


 過保護で、時にコミカルで、でもどこか切ないその姿は、碧純にとって懐かしい記憶を呼び起こした。


「お兄ちゃんみたい……でも、ちょっと違う」


 基氏が昔、田んぼの水路で一緒にザリガニを捕まえたり、夏の山でカブトムシを探してくれた姿が重なる。


 だが、物語が進むにつれ、兄の妹への愛がただの家族愛を超え、禁断の領域に踏み込んでいく描写に、碧純は眉をひそめた。


「え、ちょっと待って……キス!? いやいや、これはないでしょ!」


 物語の終盤、兄と妹がキスで別れを告げるシーンに、碧純は思わず声を上げた。


「気持ち悪い……でも、なんか泣ける」


 読み終えた後、彼女はしばらく天井を見つめた。


 基氏の作品が人気な理由が少し分かった気がした。


 妹への愛を求める読者にとって、この切なさと過激さが心を掴むのだろう。


 でも、それが自分の兄の手によるものと思うと、背筋がゾクッとした。


 翌朝、朝食の準備をしながら碧純は基氏に声をかけた。


「お兄ちゃん、起きてよ。朝ご飯できたから」


「うぃ~、今行く」


 寝ぼけ眼でリビングに現れた基氏は、テーブルに置かれた味噌汁と焼き魚を見て目を丸くした。


「おお、実家の味だ。美味そう」


「そりゃね、実家から送られてきた魚だもん。いただきます」


「いただきます」


 二人は黙々と食べ始めたが、碧純は昨夜の読書が頭から離れなかった。


「お兄ちゃんさ、『妹のためならなんでもしたいお兄ちゃん』って、実体験入ってるの?」


 基氏の手がピタリと止まり、味噌汁がこぼれそうになった。


「……何だよ、急に」


「読んだよ、昨日。電子書籍で買っちゃった」


「お、お前……読んだのか」


「うん。面白かったけど、ちょっとキモかった」


「キモいって言うなよ。作家として悲しくなる」


「だってさ、妹とキスって何!? お兄ちゃん、私とそんなこと考えたことあるの?」


「ない! ないって! フィクションだよ、あれは!」


 慌てて否定する基氏に、碧純はジト目で追及した。


「ほんとかなぁ~。お兄ちゃん、昔から私にベタベタだったじゃん」


「それは兄として当然だろ。守ってただけだよ」


「ふーん。でも、あの本読んでると、私のことモデルにしてるんじゃないかって思うよね」


「……そんなわけないだろ」


 基氏の声が少し震えたが、碧純は気づかないふりをした。


 実際、彼女を直接モデルにしたわけではないが、妹への愛と欲望を投影した作品であることは否定できなかった。


 その日、学校から帰った碧純は、疲れた顔でソファに倒れ込んだ。


「お兄ちゃん、今日の夕飯は何か買ってきてよ。私疲れた」


「分かった。ピザでいいか?」


「うん、またピザでもいいよ。都会の味だし」


 基氏がデリバリーを注文している間、碧純はふと兄の部屋を覗いた。


 萌え美少女グッズに囲まれた空間は相変わらずだが、机の上に積まれた原稿が目に入った。


「ねえ、お兄ちゃん、今何書いてるの?」


「新作だよ。締め切り近いから忙しい」


「また妹物?」


「……まあな」


「もう、妹物ばっかりじゃん! 私、クラスで『お兄ちゃんの本読んでる』って言えないよ!」


「別に言わなくていいだろ。俺だってペンネーム使ってるんだから」


「でもさ、友達が『茨城基氏大好き』って言ってるの聞くと、変な感じするんだから」


「そりゃ……悪いな」


 基氏は苦笑いしたが、内心では複雑だった。


 碧純が自分の作品に触れることで、封印した感情が揺らぐのを恐れていた。


 夕飯のピザを食べながら、二人はまた軽い言い合いを始めた。


「お兄ちゃん、キッチン使わないなら私が占領するね。料理するの楽しいし」


「いいよ。俺、外食飽きてたから助かる」


「でもさ、お兄ちゃんの部屋、あの美少女グッズなんとかならない? 見るたび気持ち悪いよ」


「気持ち悪いって言うな! あれは俺の心の支えなんだよ!」


「心の支えって何!? 私じゃダメなの?」


 その言葉に、基氏は一瞬言葉を失った。


「……お前は別だよ。妹として大事だから」


「ふーん。ならいいけど」


 碧純は頬を膨らませてピザを頬張ったが、内心ではモヤモヤしていた。


 兄の作品に投影された「妹」は、自分と似ているようで別人のようだった。


 その夜、風呂に入った碧純は湯船で考え込んだ。


「お兄ちゃん、私のことどう思ってるんだろう」


 基氏が自分を異性として見ている可能性は考えたくなかった。


 でも、作品の過激さや、時折見せる妙な視線に、不安が芽生え始めていた。


 風呂から上がると、基氏はリビングで原稿をチェックしていた。


「お兄ちゃん、私の足臭いかな?」


「は? 何だよ急に」


「昨日、マッサージした時、なんか匂い嗅いでたでしょ。気持ち悪いよ」


「あれは良い匂いだったんだよ! 誤解すんな!」


「良い匂いって何!? お兄ちゃん、ほんと変態っぽいよ!」


「変態じゃねえ! ただ、懐かしい感じがしただけだよ!」


 言い争いながらも、二人は笑い合った。


 だが、基氏の胸には疼きが残った。


 碧純の無防備な姿や言葉が、封印したはずの欲望を刺激していた。


 一方、碧純も兄の反応に何かを感じ取っていた。


「お兄ちゃん、私のことモデルにしてるよね?」


 電子書籍を読み返しながら、彼女は確信に近づいていた。


 物語の中の妹は、碧純の幼い頃の仕草や癖に似すぎていた。


「もしそうなら、どうしよう……」


 その夜、二人の心はそれぞれ別の方向で揺れていた。


 基氏は欲望を抑え込むため、碧純は兄の真意を探るため。


 共同生活はまだ始まったばかりだが、封印された思いが解ける日は近いのかもしれなかった。




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