第2話:再会とオタク部屋の衝撃

 桜の花が満開を迎えた3月下旬、真壁碧純は中学を卒業し、兄・基氏の待つつくば市のアパートへ引っ越してきた。




 実家のある大子町から脱出し、都会への憧れと大好きな兄を追いかける気持ちを胸に、彼女は志望校である私立筑波女子学園への入学を果たした。




 大学付属の女子校であることが両親を説得する決め手となり、母・佳奈子と父・忠信と共に水戸で家具を買い揃え、引っ越しの準備を着々と進めていた。




「ママ、お兄ちゃんの部屋って広いの?」と尋ねると、佳奈子は笑いながら答えた。




「行ったことなかったんだっけ? 無駄に広いわよ。お父さんが新婚さん向けの2DKを借りちゃったから、10畳の部屋が二つもあるの」




「防犯がしっかりしてるんだよ。大家は農業高校の同級生で、見守りも頼めるしな」と、忠信が茨城弁丸出しで補足した。




 無口で無骨な忠信は言葉数は少ないが、基氏を実の息子のように大切にしていた。




 春は山菜採りを教え、夏はカブトムシを捕りに山へ入り、秋はキノコ狩りを楽しみ、冬は囲炉裏の柵を頑丈に作る――そんな思い出が碧純の脳裏に浮かんだ。




 引っ越し当日、佳奈子から鍵を預かった碧純は、ちょっとしたいたずら心を起こした。




 到着予定時間を「午後」と偽り、午前中にアパートに到着し、兄を驚かせてやろうと企んだのだ。




「お兄ちゃん、びっくりするかな?」とワクワクしながら、こっそりドアを開けた瞬間、彼女は目を疑った。


 部屋の中は、想像を絶する光景が広がっていた。




 壁には萌え美少女のポスターとタペストリーが隙間なく貼られ、棚にはフィギュアがズラリと並んでいる。


 ベッドには美少女キャラの抱き枕が置かれ、リビングとの仕切りすらない空間は、まさに「オタク部屋」そのものだった。




 受験勉強に集中するため、アニメやライトノベルから距離を取っていた碧純にとって、この光景は衝撃的すぎた。




「何!? お兄ちゃんの部屋だけこんなことに!?」と、心の中で叫んだ。




 嫌悪感が湧き上がり、「捨てたい、処分したい」と一瞬思ったが、勝手に手を出すわけにもいかず、立ち尽くしてしまった。




 しかし、意外にも部屋は清潔だった。




 飲食のゴミはなく、全自動お掃除ロボットと床拭きロボがペットのように動き回り、未来的な雰囲気さえ漂っていた。




「お兄ちゃんじゃない、違う違う……」と呟きながら、碧純は混乱した。




 すぐに佳奈子にLINEを送った。




『ママ、お兄ちゃんが変』




 返信はすぐ来た。




『何も変わってないわよ。もともと美少女好きよ』




 春の農作業で忙しい両親は引っ越しに立ち会えず、業者に任せていた。




 大家である忠信の同級生――農作業を卒業した老夫婦――には先に挨拶を済ませ、アパートに入った。


 基氏は普段から挨拶を欠かさない好青年として好印象だったらしく、老夫婦も「息子の友人の子たちだから」と温かく見守るつもりでいた。




 引っ越し業者が家具の配置を済ませてくれるため、碧純は荷物の置き場を指示するだけだった。




 兄の部屋からはキーボードを叩くリズミカルな音が響き、執筆に没頭している様子が伝わってきた。




 引っ越しが終わりを迎える頃、萌え美少女Tシャツに作務衣を羽織った基氏が現れた。




 冷蔵庫からスポーツドリンク2本と缶コーヒー2本をビニール袋に入れ、確認書類に署名する碧純の脇から業者に渡した。


「お疲れ様でした。少々ですが、車の中ででも飲んでください」と、常識的な挨拶をする姿に、碧純は一瞬安心した。




 業者は慣れた様子で礼を言って帰っていった。




「碧純、俺、締め切り近いから荷物片付け一人でできるな? 重い物があったら言ってくれ。職業病で腰痛だけど、手は貸すから」




 そう言い残し、基氏は萌え美少女で溢れる部屋に戻ってしまった。




「ちょっと、お兄ちゃん! 細かいのも手伝ってよ!」と抗議し、軽く尻を蹴ったが、兄はいそいそと逃げるように去った。




 呆然とする碧純は、仕方なく一人で荷物を片付け始めた。




「お兄ちゃんが変わった、お兄ちゃんが変、職業病って何? パパみたい」と呟きながら作業を進めていると、窓の外には筑波山に沈む夕日が広がり、部屋が薄暗くなってきた。




 お腹が空いた碧純は、そろそろ我慢の限界だった。




「お兄ちゃん、夕飯どうしてるの?」とノックし、あの不快な部屋を覗くと、基氏は画面に向かったまま答えた。




「今日は忙しいからピザ頼んだ。支払い済ませてあるから、届いたら呼んで」




「え? ピザ頼んでくれたの?」




 実家ではピザの宅配が届かない環境だった碧純にとって、それは憧れの存在だった。




 誕生日やクリスマスにCMを見ては羨ましく思っていた。




 30分もしないうちに熱々のピザが届いた。




 スマートフォンで決済済みらしく、配達員はピザを渡すだけで去った。




 その手軽さに碧純は感動した。




「お兄ちゃん、ピザ届いたからね」




「ほい、わかった。今行く」




 ダイニングテーブルには、ピザとサラダ、ドクターペッパーが2本並んだ。




 基氏はコップに氷を入れ、妹にも渡して席についた。




「やっぱりお兄ちゃんと言えばドクターペッパーだよね」




「ん? 茨城県民と言えば、の間違いじゃないか? いただきます。ほら、温かいうちに」




「いただきます」




 カニとエビとイカが乗ったピザを頬張り、碧純「くぁ~これぞ都会の味」と感動した。




「碧純、田舎隠しておいた方がいいぞ」と基氏が笑うと、彼女は反論した。




「え~茨城なんてどこも田舎だよ。ただピザが届くか届かないかの違いでさぁ」




「だな。でもつくばだと届く。ファミレスも配達圏内だぞ」




「東京まで電車一本で行ける」




「通勤通学圏内」




「シネコンもある」




 二人はつくばの都会ぶりを自慢し合い、東京人から見れば「やっぱり田舎だろ」と突っ込まれそうな話題で盛り上がった。




「あるな、ありすぎて店同士が客を取り合ってるくらい。県北なんて全然ないのに」




「ないね、県北にシネコン。日立の駅前にプラネタリウムはあるけど」




「つくばにもプラネタリウムあるぞ」




「え? プラネタリウムあるの?」




「あるよ。最新式」




 つくばにはJAXAがあり、かつて万博も開催された記念公園の一角に最新式のプラネタリウムがあるのだ。


「行きたいな~」




「学校の遠足で行くんじゃないか? 校外学習とか」




 兄と一緒に行きたい気持ちをほのめかしたつもりだったが、基氏に軽く流され、碧純は少しモヤモヤした。


 ピザを次々と口に運び、ドクターペッパーで流し込んで3分の2を平らげてしまう。




 基氏は「よほど嬉しいのか」と黙って見守った。




 食後、二人は家事分担を軽く話し合った。




「お兄ちゃん、全然料理してないんだね。キッチン何もないもん」




「あぁ、ほとんど外食か宅配かコンビニだな」




「なら、私が食事で、お兄ちゃんが洗濯掃除でいいよね?」




「かまわないけど、碧純、料理できるのか?」




「パパと同じ目してる。私だって料理くらいできるんだからね」




「なら、頼むよ。そろそろ外食も飽きてきたから。食材は学校行ってる間に買うからメモしといてくれ」




「朝ご飯はどうしてるの?」




「ほとんど栄養補助食品かな。朝は大体寝てるし」




「大学は?」




「休学中……多分やめる」




「執筆が忙しいから?」




「そうだな。今デビューして一番勝負の時だし」




「よくわかんないけど、ニートでなければ許す」




「ちゃんと働いてるつうの。大家さんも心配してたけど、家賃だって自分で払えるくらい稼いでるのに、父さん達、支払い引き落とし替えてくれないし」




「いいんじゃない? そのまま甘えて。私だって住むんだしさ」




「そう言うことにしておくか。いつか恩返ししないとな」




「お兄ちゃん、ママとパパそんなこと絶対気にしてないからね」




 基氏は養子縁組こそしていないが、実の子同然に育てられた恩をいつか返したいと思っていた。




「風呂、先に入っていいぞ。脇のボタンはジェットバスだから好きに押して大丈夫だぞ」




「え? ジェットバス?」




「なぜか七色に光る。それは大家さんの趣味だから何も言うな……」




 最新式のアパートは都会からの移住者を意識した豪華さで、セキュリティもしっかりしていた。




「うわ~ほんとだ、すごーい!」




 実家の薪風呂とは違い、碧純は感動しながら新しい生活の第一歩を踏み出した。




 だが、この再会は、兄妹にとって予想外の波乱の幕開けだった。


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