となりの海野
ヱノキ
第1話
茜色に染まった教室。なんの変哲もない放課後に見えるけれど、そこは世界の終わりだ。
宇宙の見える窓際に、仲良くこしかけている制服の女の子が二人、ロマンチックにお互いを見つめあっている。
彼女たちは、やがて……。
私はそこまで読んでから、そっと、スマホの画面を閉じた。指紋で薄汚れたガラスフィルムに、教室の蛍光灯と私の顔が映りこむ。
「その漫画、面白い?」
「途中まではね」
「ふーん、そう」
その先に続く「まあ、興味ないけどね」ってニュアンス。口にはしなくとも、日に焼けた顔にくっきりと書いてある。
隣の席のクラスメイト、海野。
下の名前を知らないのは、彼女が名前で呼ばれている場面を見たことがないからだ。失礼かもしれないけれど、誰かと親しそうに喋っている海野を、私は想像できない。
いつも教室の片隅で机に突っ伏していて、きっと卒業したら一生関わることはなく、そしてたぶんどの学校のどの学年にも一人はいる。
そんなタイプのクラスメイト。
それが、海野。
「海野は、オススメの漫画とかある?」
「ごめん。私、漫画とかあまり読まないから」
謝ったわりには、全然申し訳なさそうにしない。むしろ、ある種の誇りすら漂う。ドラッグストアの効きすぎている冷房のような涼しさに鳥肌が立った。
「じゃあ、本は?」
「本も読まないかな」
「……ドラマ、映画」
「べつに、そんなに」
「もしかして、海野ってがり勉?」
「全然。この前の模試の結果でも見る?」
海野が自嘲気味に笑う。
返事に困った私は授業に意識を戻すフリをする。あくまでフリだけ。海野に愛想笑いを向ける気はさらさら起きなかった。
教室に、単調な板書の音が鳴り響く。
どこかで囁かれるひそひそ声と、体育のあとの制汗剤の匂いと、吹き抜ける乾いた熱風と、気だるい夏の陽射しが教室を満たしている。
プラスチックの安いシャーペン片手にキャンパスのルーズリーフを出して、ひりついた頬に手のひらをあてがう。包み込まれるような眠気を遠慮がちに断りながら、板書写しに勤いそしんだ。
やがて、待ってましたとばかりにセミが鳴きだし、わずかな集中力を根こそぎ削っていった。
一人黙々と板書を続ける中年男の禿げた頭頂部に、寂しさが漂っていた。水色の縦縞のワイシャツには脇汗が染みている。
田舎の公立高校で、大学受験を控えた高校生を相手に、毎年似たような授業をする、そんな寂しさだった。
ベージュのスラックスをカラフルに彩るチョークの粉すら、ぼんやりと彩度を欠いている。
それから教室の壁掛け時計を見やる。くすんだ時計盤の針は、ようやく授業の半分を終えたことを示していた。
いや、あれは五分早い。実際はまだ、半分以上残っている。
こうして、しびれを切らした高校生をより一層焦らすのが、古びた時計の唯一の楽しみらしかった。
結局、私の視線は巡り巡って、海野へ戻る。海野は頬杖をついて眠たげに俯いていた。
ビターチョコを溶かしたような髪の毛がぐっしょりと肩までかかっている。小麦色に焼けた腕ににじんだ汗が煌めいた。
「授業なんて、聞いてないくせに」
海野はそれだけ呟いて、気だるそうに欠伸をする。
半袖のブラウスの襟元から、マジックの先でつつかれたような首筋のほくろがチラリと見える。
「海野こそ、まじめくさって教科書見てたじゃん」
何でも分かっている風な口ぶりに、なんでか無性に腹が立った。
「見てない」
憂いの混じった熱いため息が、夏の湿った空気に溶ける。
先生の板書はまだ続いていた。
「自分から吹っかけてきたんでしょ?」
言わなくてもいい言葉ばかり、口から漏れ出る。
「うっさい」
それだけ、吐き捨てるように言って海野は、枕にするには心許ないような細い腕を枕代わりにして、机に突っ伏した。
その背中に、入道雲が影を落としては、横切っていくのを繰り返した。
「――よしじゃあ、教科書出せ。みんなに読んでもらうからな」
ばらばらと動き出す生徒の影と、紙の擦れる音でふと我に返った。くしゃくしゃのページを懸命に広げている人や、隣の人にこっそり見せてほしいと打診する人たちの姿がちらほら見受けられる。
たいていの人には見せてもらえる友人が一人くらいはいる。私はきちんと持ってきているけれど、もし忘れていたとしても、話しかければ普通は見せてもらえる。
「海野、おい起きろ。気が緩み過ぎだ。教科書はどうした?」
うだるような暑い夏の日差しが、海野の濡れた髪を怒鳴りつける。
「すいません。忘れました」
案の定、海野は持っていなかった。
「じゃあ、隣の席の人に見せてもらえ」
やっぱり、どう見ても申し訳なさそうには見えない表情だった。
結局、私は教科書を海野と共有してあげた。それなのに、海野は全くと言っていいほど見ないまま、再び腕の中へ顔を埋めた。
最初は寝たふりだったのだと思う。
でも、そのうちに本当に眠ってしまったようで、先生がプリントの答えを前から順番に生徒当て始めているのに、海野は一向に起きない。
「ねえ、海野ってば」
音読の順番は、すぐそこまで来ている。
やむを得ず、シャーペンのノックする方で海野の脇腹をツンツンとつついてみる。
それでも反応がない。
それで、今度は少し強めに押しこむと、海野が背中がビクッと波打って、足が机の脚を蹴った。
大きな音がした。
「なあ、海野。せめて、静かにしてくれよ」
「……すいません」
「いいから、早く読め」
どこから読めばいいのかわからなくて、狼狽えている海野に、私は教科書の全然違うページを指差して騙した。
「どこ読んでるんだよ。詩人にでもなりたいのか、海野は」
教室のどこかでクスクスと笑い声が湧く。
笑われながら着席した海野の頬が、熟れたリンゴみたいに真っ赤に火照っていて、にやけそうになるのを必死でこらえた。
赤らめた顔でこちらを睨む海野の表情に、思わず写真に撮って永久に保存してしまいたい衝動を駆り立てられた。
「あとで殺すから」
やがて、にわか雨がしたたかに窓ガラスを打ちはじめた頃、昼休みを告げるチャイムが鳴った。
私も含めて、ほとんどのクラスメイトは仲のいい子たちと机をくっつけて、どうでもいい雑談をしながらお弁当をそれぞれつまむ。
そんな中でも海野はひとり、教室の窓際で離れ小島のように、イヤホンで自分の世界に閉じこもって、菓子パンをかじる。
それが、このクラスの変わり映えのないいつもの風景だ。
そのことに私は安心を覚える。
世界を見下していて、クラスに一人も友達がいなくて、ちょっと痛々しいところがあって、親くらいにしか愛されない普通の女の子。
それが海野。
そのことは、私だけが知っていればいい。
となりの海野 ヱノキ @EnokiikonE
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