【老作家短編小説】永遠の詠み人 ――名声と無名の狭間で――(約41,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第一章: 『雨の出会い ―― 文豪と野心家』


 東京の小さな図書館。閉館間近の静けさの中、書架と書架の間を細い指が行き来していた。指の主は藤宮千尋、名門女子高校に通う高校二年生だ。華奢な体つきに不釣り合いな重そうな書籍を何冊も抱え、文学コーナーから哲学コーナーへと足早に移動していた。


「あった……!」


 千尋は小さく息を吐いた。その息は冬の冷気に白く霞み、背伸びをして手を伸ばす。指先が届かない書架の最上段に置かれた一冊――中澤文枝著『死の彼方へ――宗教を超えた魂の旅路』。


 彼女が狙っていたのはこの本だ。先日、文芸部の顧問から「真に偉大な作家を知りたければこれを読みなさい」と薦められた本だった。千尋は何度か背伸びを試みたが、155センチの背丈では届かない。


 ため息をついて周囲を見回すと、図書館員の姿はなく、踏み台も見当たらない。千尋は書架の下段に足をかけ、よじ登ろうとした瞬間――


「危ないわよ」


 澄んだ声が背後から聞こえた。振り返ると、銀灰色の髪を上品に束ねた老婦人が立っていた。小柄で華奢だが、背筋はピンと伸び、深い皺の刻まれた顔には聡明な光が宿っていた。


「あの、すみません……」


 千尋はとっさに書架から足を下ろした。老婦人の視線に気圧され、頬が熱くなる。


「どの本が欲しいの?」


 老婦人が訊ねた。千尋が指差すと、老婦人は袖を通した白い絹のブラウスの袖口を少し上げ、すっと腕を伸ばして本を取り出した。背が低い割に、腕が長いようだった。


「はい、どうぞ」


 差し出された本を受け取り、千尋は恭しく頭を下げた。


「ありがとうございます……って、あれ?」


 千尋は本の著者名と目の前の老婦人の顔を見比べた。そして、目を丸くした。


「中澤文枝先生……ですよね?」


 老婦人は小さく微笑むだけで、肯定も否定もしなかった。その表情には小さな狐のような愉しげな影が見え隠れした。


「やっぱり! 先生の講演会、先月聴きに行ったんです! あの、その、サインをいただけないでしょうか?」


 千尋は鞄から手帳を取り出し、老婦人――中澤文枝に差し出した。


「私、藤宮千尋といいます。作家志望なんです!」


 文枝は首を傾げるように見つめた後、千尋の手帳を受け取った。インクペンを取り出すと、達筆な字で何かを記した。


 千尋が手帳を見ると、そこには署名ではなく、簡潔な言葉が記されていた。


「『言葉のみが残ればよい――清風院』……これ、サインじゃない……?」


 千尋の声には明らかな失望が滲んでいた。


「あなた、講演会で質問してくれた子ね」


 文枝はふとした表情で言った。


「名前を残したくない発言に反論した人」


「覚えていてくださったんですか?」


 千尋は驚きに目を見開いた。


「ええ、とても印象的だったわ」


 文枝の微笑みは深まった。千尋は嬉しさと恥ずかしさが入り混じった表情を浮かべた。


「閉館時間です。お客様はお帰りください」


 館内放送が流れた。二人は足早に図書館を出た。冬の冷たい空気が頬を撫で、空には既に星が瞬いていた。


「じゃあ、お気をつけて」


 文枝が歩き出そうとすると、千尋は慌てて声をかけた。


「あの、もう少しお話させてください! 私、先生の本を全部読みたいと思ってて……特に『無常を生きる』が――」


 言葉の途中、轟音が二人を包んだ。空から降ってきたのは、大粒の雨だった。突然の豪雨に、二人は図書館の軒下に逃げ込んだ。


「まあ、困ったわね」


 文枝は窓の外を見た。雨は激しさを増すばかりだった。


「千尋さん、傘は持ってる?」


「いえ……」


 千尋は俯いた。


「私も今日は持ってこなかったわ。タクシーを呼びましょうか」


 文枝がスマートフォンを取り出そうとした時、千尋は思わず口を挟んだ。


「あの、先生はスマホをお使いなんですね」


「ええ、便利なものは使うわ。年寄りだからといって、新しいものを拒む理由はないでしょう」


 文枝の言葉に、千尋は少し意外そうな表情を見せた。


「でも、タクシーって……」


 千尋はポケットに手を入れ、財布の中身を確認するように指を動かした。金欠の高校生にタクシー代は痛い出費だった。


「大丈夫、私がご馳走するわ」


 文枝の言葉に、千尋は申し訳なさそうな表情を浮かべた。


「いえ、それは……」


「お礼にもう少し私の話を聞いてくれるなら」


 文枝の目が笑っていた。千尋は生まれて初めて、目だけで笑うという表現を目の当たりにした。


「もちろんです!」


 千尋は即座に答えた。


 タクシーが到着し、二人は後部座席に乗り込んだ。車内は温かく、窓の外は雨に煙っていた。


「お客様、どちらまで?」


 運転手が訊ねた。


「まずは……」


 文枝が千尋に視線を向けた。


「あ、私は文京区本郷です」


「それじゃあ、本郷からお願いします」


 タクシーが動き出すと、車内は心地よい沈黙に包まれた。千尋は文枝の横顔を盗み見た。九十歳という年齢を感じさせない凛とした佇まいに、尊敬の念が湧き上がる。同時に、先日の講演会での彼女の言葉が思い出された。


「あの……先生」


「なぁに?」


「先生は本当に『詠み人知らず』になりたいんですか? 作品は残したいけど、名前は残したくないって」


 文枝はしばらく黙っていた。窓の外を流れる街の灯りが、彼女の横顔を照らしては消えていく。


「そうね。言葉を残すことはいいことだと思うの。でも、その言葉に『誰々の言葉』というラベルが付くことで、言葉そのものの価値が曇ることがある」


 文枝の声は静かだったが、確かな芯があった。


「でも、それじゃあ先生の功績が……」


「功績?」


 文枝は小さく笑った。


「私が死んだ後、誰かが『中澤文枝はこんなに素晴らしい人だった』と言ってくれても、私にはもう何も届かないわ。それより、誰かが私の書いた言葉を読んで、何かを感じてくれる方がずっと嬉しい。名前なんて関係なく」


 千尋は眉をひそめた。彼女の価値観では理解しがたい考え方だった。


「でも……それじゃあ、生きた証が残らないじゃないですか」


「生きた証?」


 文枝は微笑んだ。


「私たちの生きた証は、私たちが触れた人の心の中に残るのよ。名前や評判じゃなくて」


 千尋は反論しようとしたが、タクシーが停車した。


「本郷三丁目です」


 運転手の声に、千尋は我に返った。


「あ、ありがとうございます」


 千尋がドアに手をかけた時、豪雨は一層激しさを増していた。文枝はタクシーの窓から空を見上げ、眉をひそめた。


「こんな雨の中、帰れるの?」


「大丈夫です、すぐそこなので」


 千尋は強がったが、実際は傘なしで帰るのは躊躇われた。


「そうね……」


 文枝は少し考え、運転手に向かって言った。


「お嬢さん、よかったら私の家でお茶でもどうかしら。雨が止むまで」


 千尋は驚いて文枝を見た。国民的作家の自宅に招かれるなんて、夢のような話だった。


「え、いいんですか?」


「もちろん。それに、あなたの言ってることにはきちんと答えたいと思ってるの」


 文枝の声は優しかったが、どこか挑戦的な響きもあった。


「ぜひお願いします!」


 千尋の声には興奮が滲んでいた。


「では運転手さん、向島までお願いします」


 文枝の指示で、タクシーは方向を変えた。千尋は窓の外を流れる東京の夜景に見とれながら、これから訪れる文豪の自宅に思いを馳せた。その胸は大きな期待で膨らんでいた。


 しかし、その期待は文枝のアパートに到着した途端に打ち砕かれた。


「ここ……ですか?」


 千尋は思わず呟いた。目の前にあるのは、古びた五階建ての団地だった。壁の塗装は剥げかけ、エントランスの蛍光灯は微かに点滅している。千尋の想像していた「文豪の邸宅」からはかけ離れていた。


「ええ。四階よ」


 文枝は平然と言い、エレベーターのボタンを押した。


 四階の一室に着くと、文枝は鍵を取り出した。ドアが開き、二人は中に入った。


 室内は驚くほど質素だった。六畳ほどの和室に、低い座卓と座布団が二つ。壁際には古い木製の本棚が天井まで届き、所狭しと本が並んでいる。キッチンはワンルームの隅に小さくまとまり、バスルームとトイレは別室のようだった。


「お茶にするわね」


 文枝はスリッパに履き替え、キッチンに向かった。千尋は遠慮がちに座布団に座り、部屋を見回した。


 壁には掛け軸が一つ。「無常」と書かれている。他に装飾らしいものはなく、家具も必要最低限だった。しかし、本だけは豊富にあり、それも様々な言語のものが混在していた。


「先生、こんなところに住んでるんですか? もっと……」


「立派な家を期待してた?」


 文枝は微笑みながら緑茶を入れた。


「私はね、物に執着しないの。それに、この部屋の家賃は安いから、浮いたお金で本が買える。執着するなら物よりも言葉の方がいいでしょう?」


 文枝は茶碗を二つ持って戻ってきた。茶碗は素朴な焼き物だったが、独特の風合いがあった。


「これ、京都の窯元の方からいただいたの。名前は忘れたけど、とても温かみのある方だったわ」


 千尋は言葉に詰まった。目の前の老婦人は、国民的文豪であり、数々の賞を受賞し、世界中で尊敬される存在だ。それなのに、こんな質素な生活を送っている。千尋の理解を超えていた。


「先生は……本当に有名なのに」


「有名?」


 文枝は首を傾げた。


「そうね、確かに私の本は多くの人に読まれてきたわ。でもね、千尋さん。有名というのは、とても儚いものよ」


 文枝は窓の外を見た。雨はまだ降り続いていた。


「龍安寺の石庭を知ってる?」


「はい、京都の……」


「あの石庭を作ったのは誰か知ってる?」


 千尋は首を横に振った。


「それなのに、何百年もの間、人々はあの石庭に心を動かされてきた。作者の名前は忘れられても、作品は魂に触れ続ける。これこそが本当の永遠じゃないかしら」


 千尋は黙って茶碗を見つめた。熱い茶が湯気を立てている。


「先生のおっしゃることは分かります。でも、私は……私は自分の名前を残したいんです。それが私の生きた証になると思うから」


 千尋の声は小さかったが、決意に満ちていた。文枝はその表情をじっと見つめた。


「生きた証、ね……」


 文枝はもう一度窓の外を見た。雨は一層激しく降っていた。


「今夜は帰れそうにないわね。ここに泊まっていく?」


 千尋は驚いて顔を上げた。


「え、でも……」


「布団はあるし、お風呂も使える。それとも、この雨の中帰りたい?」


 文枝の提案に、千尋は窓の外を見た。豪雨は一向に弱まる気配がなかった。千尋はスマートフォンを取り出し、時刻を確認した。22時を過ぎている。


「ご両親に連絡は?」


「父は海外出張中で、母は……いないので」


 千尋の言葉に、文枝は何も言わず、ただ静かに頷いた。


「ありがとうございます、お世話になります」


 千尋は丁寧に頭を下げた。この偶然の出会いが、彼女の人生を大きく変えることになるとは、この時はまだ知る由もなかった。

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