第3話 エイルの過去 前編/第4話 エイルの過去 後編

ボクはもう泣くことはできない。

感情が欠落してしまったのかもしれません。

今のボクは、涙一つ出てこなくなってしまいました。

けど、こんなボクでも元々泣き虫だったんです。

それはもう毎日枯れるくらい。

涙で湖ができるんじゃないかと思うほど、ずっと泣いていました。

なぜなら、あの頃のボクは”愛される”ことを知らなかったから。

そして、”愛される”ことを知りました。






ドゴ、バコッ!


「どけよ!邪魔だ!!」

「なんでこんな使えない子を産んじゃったのかしら」

「……ごめん、なさい…」

「誰が話していいなんて言った!!」

「ひっ!ご、ごめんなさい…」


自分のことで怒っている時は謝ること。お腹が空いて動けない時も、喉が渇いた時も、何もしていないのに、息をしているだけで突然殴られる時だってある。そんな時でも理不尽を受け入れて、両親の暴力が止むまでひたすら謝罪をすること。それが生まれながらにエイルに課せられた生きる理由だった。その度に身体を縮ませ泣きながら命乞いをしていた。


「その顔がっ!ムカつくんだよ!」

「いっ、痛い…ゃ、いやだ!」

「口答えすんな!お前は殴る為に生かしてやってるんだ。しっかり全うしろ」

「ちょっと、血が床に飛んでるじゃない。後でちゃんと綺麗にしてよ。汚いわ」


父に殴られる息子を見ながら、母は平然とそう告げる。

これが自分の家族。当たり前の光景、そして日常だ。


ここスラム=ガレーネは、下級クローフィの住まう場所であり、暴力による解決を考えている人たちが多い。両親はここ一帯を取り巻くグループの下っ端についていた。幹部になるためには、力や能力、労働力などを差し出す必要があるそうだ。一番分かりやすいのは労働力、つまり奴隷だ。その為だけに両親はエイルをこの世に産み落とした。

父はクローフィ、母はノレッジ。種族は違うが、違うからこそ新たな力を手にするのではないかと二人は企んでいたようだ。

しかし結局のところ、エイルは母親の血を強く引継ぎ、クローフィの力は何一つ手にしなかった。クローフィは血を欲し、ノレッジ以上の力を発揮する筈なのに、血を目の前にしても反応を示さない。それが分かってから、両親はエイルを使えない人間だと認識した。

そして…彼の名前を呼ぶことはなくなった。



「はぁ、そろそろ集まる時間か」

「そうね、こんなの放っておいて行きましょ。あの人達も暇じゃないしね」

「そうだな、下っ端の傷を治さないと暴走に参加できねぇからな。毎度のことながらスティールさん達には感謝してるぜ」

「…、……」


今度はいつ帰ってくるんだろう。聞きたくても、声を出したら怒られてしまうから、無言で涙を拭いながら二人を見つめた。けれど、やはりあの二人がエイルを見ることはなく、ましてや声をかけることもないまま、部屋を出て行ってしまった。

ひとりぼっちになった部屋で、ふとつけっぱなしのテレビに視線を向ける。エイルと同い年の少年が画面に向けて、天使のような笑顔で歌をうたっていた。


『アイラは今日もみんなに笑顔を届けるよ~!』

『僕はみんなの天使だからね!』

『愛しているよ~!』


愛している…ボクもこの目の前の子みたいに笑顔でいたら、両親に愛されるのかな?

そんな空想じみた事をエイルは密かに思ってしまった。小さな欲は段々大きくなっていく。そしてこの日は、いつもよりも早く両親が帰ってきた。

大人しく部屋の端っこに座っていたが、エイルは意を決してあの少年に習ってやってみることにした。


「お、おかえりなさい…!」


ぎこちないながらに、テレビで見た少年の様に口角を上げて笑顔で両親を出迎えた。二人はしばらく驚いて立ち竦んでいたが、数秒後にはいつもの表情に戻った。


「何だいきなり!!」

「気味が悪い!やめて頂戴!!」


勢いよく頬を引っ張りそのまま床に投げつけられた。顔面を強打し、エイルは痛みのあまりその場で悶絶する。その後も虫の居所が悪いのか、父親は馬乗りになって殴りや蹴りを繰り返した。


今日は機嫌が悪かったのかもしれない。だとしたらタイミングが悪かった。

いや、機嫌のいい日でも自分のせいで不機嫌になってしまうのだろうか。

結局ボクは…誰にも愛されないの…?

気を失いかける直前、父親はなにか面白いことを思い浮かんだようだった。


「おい、お前」

「…は、い…」

「いきなり笑いかけてくるから、俺たちを馬鹿にしてんのかと思ったけどさ、今殴ってて思ったわ。俺たちを楽しませようとしたんだよなぁ?」

「……。」

「悪りぃな。じゃ、気分転換に”遊ぼうぜ”」


違う。ボクはただ…あなた達に愛されたかっただけなんだ。

父親は腕を掴み、壁に向かってエイルを突き飛ばした。脳震盪で頭がくらくらしているところを、無理に引っ張り、煙草の灰皿以外なにも置かれていない机の上に、エイルの手を置いた。


何をされるんだろう…痛いのは、もう嫌だ。

エイルの手を抑える父親に対し、母親はキッチンから包丁を取り出し、父親に手渡した。母親はそれを父親に渡す。父親はそれを強く握り締める。エイルはこれから起きることを予想し、怯え、逃げ出そうと試みた。父が握っている腕を離そうと抵抗し痛む身体を動かした。


「ぃ、いや、だ…っ、!ごめんなさいっ...!ごめんなさい!…許して、ください…!」

「はは、何だよ。帰ってきた時みたいに…”笑えよ”」


恐怖に怯える中、両親はエイルに向けてはじめて笑顔を向けた。その表情に彼は思わず固まってしまった。

ああ、可笑しいのは…ボクだったのか。ボクは愛されているんだ。


ずっと願っていた事が叶ったことが嬉しく、エイルもまた同じように笑った。この一瞬だけ、エイルは自身の描く理想的な家族の空間を得られた気がした。エイルは近づいてくる殺意に目を向けず、この狂った現状を受け入れた。






適当に巻かれた両手の包帯を見つめ、ない指を優しく擦った。もともと血の気の少ないエイルだが、さらに血液がなくなったせいで頭がぼーっとする。涙が乾いてヒリヒリ痛んだ。

両親との”遊び”の末、エイルは両手の小指を根本から失った。あの指は両親のリーダーのお土産になるらしい。次は足の指、なんて言っていたな。あんなものを欲しがる人がいるんだ…。ベッドで眠りこけている両親の横の床に転がりながら、小さな声で呟いた。


「ボクは、いつまでここで暮らすんだろう」


これから先、ずっと永遠にあの二人の暴力を受け続け、両親の奴隷のように従順に生きていかないといけないのだろうか。けれど、それは変わらない事実だ。変えることはできない。変わってはいけない…。それでも今日に限って考えてはいけない悪い予感が頭を過ぎる。


「ころされる…?」


家の近くの路上で、横になりながら生活をしている大人たちが無数にいた。中には虫の息をしている人もいる。きっと捨てられた人たちだ。彼らがあの先長く生きることはないだろう。もしかしたら自分もいつか、あの人達と同じようになるのかもしれない。


…それは、嫌だ。


その答えに辿り着いた時。

エイルは音を立てないようにこっそり家を抜け出し、暗いスラム街へ飛び出した。

二度とあの人達と会わないと、そして絶対に戻らないと覚悟を決めてー.






「お腹、空いた…」


家を出る前に、どうせなら食料をうんと持ってくれば良かった。昨日から何も食べてないし、喉もカラカラだ。

家を出てから休みなく進み続け、暗かった空は次第に白みがかっていた。ずっと地面しか見ずに歩き続けてきたが、ふと前方を見ると明かりの灯った家がひとつあった。その家の煙突からふわっと美味しそうな香りが漂う。エイルは、足をズルズル引きずりながらその家に向かって進んだ。あの家で残り物を貰えないか相談しよう。そう思い目の前のドアを三回ノックした


「はーい!ごめんなさい。まだできあがってな…え?」

「あの…その…」


開いた扉の先には、エイルよりも年上の女性が顔を覗かせていた。

黄色いエプロンと三角頭巾を被っていて、なによりも特徴的なのは、とても綺麗な赤髪を三つ編みにし、リボンで纏めていた。瞳の色も髪よりも少し色素の薄い赤色をしており、よく見ると少し雀斑がある。不思議そうに見つめる彼女にエイルは、


「なにか…たべもの…」


とだけ言うと、目の前が暗転しそのまま倒れてしまった。

意識を失いかける直前、その女性は驚きながらエイルを支えていた。その手はお日様のようにとても温かかった。その心地よさに、安心感を抱きながら意識を失った。






「ん…」

「あ、起きた!ぼく大丈夫?」

「えっと…はい…」


ベッドに横になった状態で周りを見渡すと先程の女性に声を掛けられ、エイルは目を擦りながらそう応えた。それとともに、腹の虫がぐぅ…と音を鳴らした。恥ずかしさに顔を赤らめて俯く。

それに対して女性はふふ、と微笑し、彼をゆっくり起こすとサイドテーブルに準備していた食事を彼に手渡した。


「これはね、今日私が作った力作のパンなの!見た目は普通のパンに見えると思うけど、一口食べてみて?」


元気に告げる彼女にいわれるがまま、食欲を抑えられずパクリと一口含むと中からカスタードクリームが溢れ出した。適度に硬さを持ったクリームでとても食べやすく、そして甘く蕩けた。

久しぶりに食べた食事だからだろうか、理由は分からないが思わず涙が溢れ出した。


「あれっ、美味しくなかった…?少しオリジナル要素を入れたクリームパンだったんだけど…」

「いえ…、とても…っ美味しいです…っ」


そのまま勢いよく残りを平らげると、女性はまだまだあるよと他のパンを差し出してくれた。喉を詰まらせないよう、タイミングを見て差し出された水を与え、満腹になるまで彼女は特に何も話しかけずに静かに見守った。食事を終えると、女性は笑顔で告げる。


「こんなに美味しく食べてくれるなんて嬉しいな。ねえ、あなたの名前は?」

「ボクは…エイル、です」

「エイルくん…良い名前だね。私はエミリア。あなた、お家はどこなの?」


自分の名前を初めて褒められ、はにかみながらも、家の事を聞かれるとエイルは思わず肩を震わせた。あの家に戻りたくない…その考えで頭が一杯になってしまった。段々と青ざめながら身体をうずくまらせ、ぱたぱたと涙を落とすエイルの様子に、エミリアはそっと自身の胸の中に収め、心音を聞かせた。

とくん、とくんと一定間隔の音にエイルは段々とそれに意識を向ける。


「ごめんね、思い出したくない記憶もあるよね。大丈夫だよ。お家に戻したりしない」

「ほんとう…ですか…?」

「うん、約束する。君が良ければずっとここにいていいよ」

「でも…ボク、なにもお返しができないです…」

「そうねぇ、それじゃあ私のパン屋さんのお手伝いをして欲しいな!」


彼女の提案に、段々落ち着きを取り戻したエイルは顔を上げ、エミリアを見つめた。にこっと返された笑顔にエイルはどう応えるべきか悩んだ。言葉にできなかったがせめてもの返事として、こくりと頷くと彼女は心底嬉しそうに微笑んだ。


エイルはエミリアのあとをついて行き、家の中を案内してもらった。まず初めに案内されたのは、エミリアが自営しているパン工房だった。その工房の裏に家があり、エイルはそこの二階で休ませてもらっていたのだ。一階に降りてみると、可愛らしいアンティーク調の部屋に、たくさんの種類のパンが綺麗に陳列されていた。目を奪われている中、エミリアは自信を持って手を広げながら告げる。


「ここが私のパン屋さんだよ!」

「とても…かわいいです」

「本当?嬉しいな~」


笑顔を見せるエミリアにエイルは顔を赤くさせ、誤魔化す様に彼女の説明に耳を傾けた。

今は彼女のみでパンの仕込みから焼き上げ、そして販売もしているらしい。

最初の頃はこじんまりと経営をしていたが、近所では人気のお店で、このままではお店が回らないと悩んでいたそうだ。人を雇いたいと思っていた中、丁度彼が現れたということだ。

パンの作り方も分からないため、自信のないエイルだったが、少しずつ覚えていこう?とエミリアは優しく告げた。こうして、エイルは新たな居場所を手に入れることができたのだった。






それから暫く経ち…。


エイルはパンのことについて人一倍努力して学び、真面目に仕事へ取り組んだ成果もあってか一通りの事をこなせるようになった。今では彼女のパン屋さんにエイルがいる事が当たり前になっていた。


「エミリアちゃん、新しいパンができましたよ~」

「ありがとうエイルくん!お待たせしました!新作のパンですよ~!」


和気藹々と仕事をこなす日々。

殴られることも叱られることもない。もちろんエミリアは働いた分しっかり給料を渡してくれる。最初は住まわせて貰っているのにお金を貰うわけにはいかないと拒否していたエイルだったが、彼女は”これはあなたが稼いだお金なのよ”となかば無理矢理渡されてしまった。そのお金は今後のために貯金をし、いつか彼女に何か大きなプレゼントをしたいと思っていた。

エミリアの言動は、時にエイルに正すべき事を告げ、できたことには本人よりも嬉しそうに喜び、そしてエイルを褒めていた。時間が経つにつれ、元々文字を読むこともできなかったエイルは読み書きや計算もできるようになっていた。


…ただし、時折問題が起きる時もある。


「なんでお兄ちゃんの指ないの~?」

「こら!なんてこと言うの!」


無邪気な少年は、エイルの指を見て不思議そうに聞いた。

最初は戸惑いを隠せなかったが、今では作り笑いをすることができるようになった。


けれど、エミリアはそれを見透かして、その度に儚く微笑みながらエイルの頭を撫でてくれる。”大丈夫だよ”と、最初に抱きしめてくれた時の様に優しく。彼女には隠せないのだ。いくら作り笑いができるようになっても、中身は出会った頃と同じ泣き虫なままだと。

そんなありのままの自分を受け入れてくれる彼女を好きになるのに時間が掛からなかった。


彼女はどんな人にも笑顔で接してくれる。

飢えたノレッジやクローフィにも、毎日生きるのに精一杯な野良猫にも平等だった。

お昼の繁忙期を過ぎた頃、現れた子猫に今日焼き上げに失敗したパンをちぎってあげている。その隣でエイルはエミリアに話しかけた。


「エミリアちゃんはどんな人にも優しく接しますよね。まるで天使みたいです」

「ふふ、私が天使?そんなことないよ~。それよりも妖精さんの方がいいな!なーんてね。エイルくん、命はね。みんな平等なのよ。いくら身分の高いクローフィでも、普通のノレッジでも、救うべき命に変わりはないの。それは動物だって同じ。皆苦しい思いをしてる。それでも前を向いて生きていかないといけない…命の大小なんて存在しないのよ」


猫の頭を撫でながら告げる彼女の言葉に、この時のエイルはあまり意味が分からなかった。

しかし、小さな命にすら慈悲深い笑顔を浮かべる姿は、まるで本当に空から降ってきた天使のようだった。これからも彼女と共に生きていけるならば、それだけでエイルはとても幸せだ。それに応えるようにエイルはエミリアに微笑んだ。


”あの人たち”は、自分が笑う度に気味が悪いと忌み嫌っていた。だが、その度に彼女は何度も言う。


「エイルくんの笑顔は、本当にいつもみんなを笑顔にしてくれる。ねぇ、これからもずっと笑顔でいてね」


大好きな彼女からの無償の愛情を貰えるだけで何でもできると思えるくらい、エイルはその言葉が嬉しかった。


そんな幸せな日々は、突然終わりを告げた。


純血派のクローフィ進軍に伴い、エミリア達の街は忽ち火の海に晒された。

激しい銃声の音。

泣き叫ぶ子どもの声。

痛み苦しむ大人たち。

パンの材料を買いに行っていた二人は、突然の空爆に急いで家に戻った。

二人は手を握り、少し離れた家に向かった。途中、グラグラと揺れ、今にも崩れそうな建物が目に映った。


「エミリアちゃん!」

「きゃっ!」


エイルは持っていた荷物を捨て、我が身でエミリアを庇い、倒壊した建物から守った。

膝を擦りむき、痛みに泣きそうになるが涙を振り払って立ち上がり、エミリアを見遣る。


「っ…大丈夫ですか?」

「うん。大丈夫!ありがとうエイルくん。…けどそれはこっちの台詞だよ、無茶しちゃだめ!」

「あなただってよく無茶するじゃないですか~…」


あはは、と苦笑いし、埃を振り払って二人は再度家に向かって駆け出した。

大通りを抜け、もう少しで我が家に着くと安堵し、エイルは彼女の方を振り向いたその時、背後から現れたクローフィ軍の兵士がエミリアに向けて剣を振り上げていた。


ザシュッ!!


背中から真面に受けた傷は、当時小指を落とされた時と同様にズキズキと酷く傷む。思わず口から溢れた血はエミリアの服を赤く染めるのには十分だった。彼女は驚きながら、倒れそうになるエイルを抱え、どうにか裏路地に隠れた。


「いたか!」

「いやまだだ。きっとこの近くにいる筈だ。探せ!」






あたりは未だ火の海と化していた。

空からそれを沈めるように冷たい雨が降り注ぐ。身体の体温が少しずつ奪われていく。息を殺しながらエイルを抱きしめ、エミリアは兵士の声に耳を澄ませた。


エイルの傷は運良く急所を外したようだが、傷口を強く抑えなければ溢れる血は止まらない。

止血する方法はないか…頭を働かせているエミリアに、エイルは腕を伸ばし彼女を虚ろな目で見つめる。


「エミ…リア…ちゃん、痛く、…ない、ですか…?」

「っ…うん。エイルくんが、私を守ってくれたお陰だよ」

「良かった…、ようやく、あなたに…おかえ、し、…できた、気がしました」


こんな時でも、エイルははにかんで応えた。エミリアの視界がぼやけ、そして溢れ零れた涙がエイルの頬を濡らす。それに気づいたエイルは心配そうにエミリアの名前を小さな声で何度も呼んだ。時折響く喘鳴が心を痛ませる。

目の前の小さな少年を、絶対に死なせたくない…。

彼女は覚悟を決めて、エイルの頬を優しく撫でた。


「ごめんねエイル。私は…あなたを救いたい。だから、あなたに酷い事をする。恨まれても構わない。それでも生きて欲しいの」


何を言っているのだろう、あなたを嫌いになることなんて絶対にないのに…と首を傾げたその瞬間、彼女は彼の唇に自身を合わせた。突然の口付けに驚く中、口内が鉄錆の味で満たされていく。

飲み込んだ瞬間、心臓がどくりと鳴り響いた。虚ろな視界だったが、彼女の瞳が赤く光っていた事に気がついた。そしてそれは確信に変わる。


「エミリアちゃんは…クローフィ、だったんですね…」

「うん、ずっと隠していてごめんなさい。…私のこと、嫌いになった?」

「いえ…ボクは変わらず、エミリアちゃんが大好きですよ」


彼の答えに、エミリアは嬉しそうに微笑んだ。彼女のその太陽のような暖かい表情が一番好きだ。

自分の気持ちを伝えようと口を開こうとした時、身体の疼きが増し、目を見開いた。

何だろう、身体の作りが変わっていくような感覚は…。動揺を隠せずにエイルは、怖い、嫌だっ、と恐怖に涙を零した。エミリアは彼をぎゅっと抱きしめる。

頭を撫でられ、あの時の様に彼女の心音を感じて、力んだ身体が緩んでいく。


「大丈夫、大丈夫だよ…」

「エミ、リア…ちゃん」

「エイル…これからも強く生きてね」


最後に見たエミリアの顔は今まで見た中で、一番綺麗だった。






「ん…」


目を覚ますと、そこは変わらず路地裏だった。時間が経ったのか、地面には水たまりがいくつか広がっていて、雨は止んでいた。意識を失う前は煩かった外の音も、今は静寂に包まれていた。


少し身体を動かすと、何かにぶつかった気がして視線を変えてみる。

そこには、既に冷え切ったエミリアの身体がエイルを守るように覆いかぶさっていた。


「エミリア…ちゃん?」


ゆっくり起き上がり、彼女の肩を揺する。


「…嫌だ、」


起きてください。


「…っ、いや、です」


ボクはまだ、あなたに伝えられていないんです。


「ボクを…ひとりに…っしないで…っ」


彼女の身体を仰向けにすると、エミリアはエイルの大好きな笑顔でいた。しかし、彼女が目を開くことは二度となかった。

改めて見た大好きな彼女の表情に、エイルは込み上げる感情を抑えきれなくなった。


「ー--------っ!!」


彼女を抱きかかえ、空を眺めながら涙をぼたぼたと流す。溢れ出す涙は濡れた地面の雨と交じり、エイルは喉が涸れるほど泣いた。エイルの頭の中はエミリアとの日常が溢れていく。


『エイル!』

『もー泣かないの、大丈夫よ。私がいるから!』

『あなただけは、必ず守ってみせるわ』

『ねえ、エイル。笑って?』


記憶の中にある彼女の言葉を思い返し、エイルは改めてエミリアを見つめた。彼女が何度も言ってくれた大好きな笑顔を涙を浮かべながら作る。

震える口角を無理やり上げ、エイルは彼女に告げる。


「エミリアちゃん…ボク、あなたが好きです」


こんなに悲しいのに、目の前の彼女の血が欲しいと思った。首に噛みつき、泣きながら初めて好きな人の血の味を味わっていく。

これが彼女から与えられた生きる為の後遺症か…。または試練というべきだろうか。

外傷が癒えていくのを感じ取り、エイルはエミリアをぎゅっと抱きしめた。

このまま彼女を置いていきたくない…叶うならずっと一緒にいたい。しかし、このままではだめだ。ここにいたら兵士に見つかっていつか殺される。何より、彼女は言っていた。


強く生きてね、と。


エイルは辺りを見回し、屍となった兵士の横に落ちていたナイフを手に取り、意を決して彼女の綺麗な赤髪を切り、いつも巻いていた赤いリボンで括った。

エミリアはいつも髪の手入れを欠かさずしていた。三つ編みをした後は、毎回エイルに似合う?と聞いた。エイルは、綺麗です!と伝える度に嬉しそうに微笑んでいた。

雨で濡れていても、その艶は変わらずまるで熟れた林檎のようだった。

エイルは括った髪の毛をポケットにしまい、立ち上がった。


「大好きでしたエミリアちゃん。…ボクに、沢山の愛をくれて、ありがとうございます」





エイルは最愛の彼女と最期の別れをした後、エミリアと住んでいた家に向かった。工房は倒壊してしまったが、幸いにも一部の荷物は確保できた。

エミリアの為に貯めていた資金や食料を適当にリュックに詰め込み、エイルはこの街を後にした。無我夢中で山を登り、どこか休める洞窟はないか探していると、目の前にポツンとログハウスが現れた。


「…どう見ても怪しいですね」


しかし、そろそろ身体を休めたいのは事実だ。

エイルは意を決してログハウスのドアをノックし、引き戸を引いた。

中は暖炉が焚かれていたのか、身体がじんわりと暖まる。確実に誰か住んでいる。警戒しながらあたりを観察していると突然肩をポン、と叩かれた。


「うわあああ!」

「そんなに驚からなくても良かろうに」


いつの間にか背後には自分と同じ背丈の老婆が、からからと笑いながら佇んでいた。口調からして、そこまでボケているようには見えない。エイルは恐る恐る事情を話してみた。

老婆は始終しっかり彼の話を聞き、終わった頃にはしばらくここで休みなさいと迎い入れ、暖炉の鍋から温かいスープを取り出しエイルに手渡した。腹の虫が鳴り、食欲を抑えられず口に含む。

身体が暖まっていく感覚と共に、喉に感じる違和感に戸惑う。


「喉が…渇く」

「それはそうだろう。だってお前さんクローフィになったんだから」

「…そう、なんですかね」


エミリアから与えられた血により、きっと半分自身に流れているクローフィの血が覚醒したのだろう。

しかし、手を目の前に出し力を加えてみても魔法を発することはない。


「まあ、お前さんは後天性のクローフィだからね。魔術に関してはノレッジと同じさ」

「…そうなんですか?」


結局ただ血を求めるだけのノレッジになったのか…と残念そうにしていると、老婆はエイルの顔をじっと見つめてきた。真顔で近づくその表情に、エイルは戸惑った。

何か…?と言いそうになった途端、老婆は冷静に告げてくる。


「お前さん、二、三日に一回少しでいいから血を吸うことを忘れたらいけないよ」

「え…?」

「まだ安定していないんだ。 幸いにも、この貯蔵庫には輸血パックがあるからね、もし無くなったら動物の血でもいい。そうだ、近くの洞窟に蝙蝠がいた筈。あいつらを使うといい」

「ちょ、ちょっと待ってください、どうして分かるんですか」

「ん?お前さんがクローフィになった事かい?それとも…必要な血の量のことかい」

「…どっちもです」


ただの老婆には思えない。エイルはそう感じた。しかし、相手は再びカラカラと笑いながら告げた。


「なあに、ただの知識が多いだけじゃよ。…ああ、そうだ。この家の食材は好きに使ってくれて構わない。それに、お前さんがここから出ていく時に役立ちそうなものも持っていくといいさ」

「…あなたはどちらに行くんですか」

「ん?わしは少し探し物をしに行ってくるよ。なーに、心配しなくていい。こう見えて戦にはなれているからね」


ははは、と高笑いを見せ老婆はログハウスを後にした。その後、あの人がここに来ることは二度となかった。


お言葉に甘えて、しばらくここで生活させてもらうことにした。別に急ぐことのない旅だ。これからの事をじっくり考えていると、エイルの中で一つの目的が芽生えた。

…どうせいつか死ぬのなら、彼女の様に誰かのために生きたい。


数日経ち、貯蔵庫の輸血パックが無くなってしまった。生きる為にも、洞窟の中にいる蝙蝠を捕まえ、その血を吸って生き永らえた。できれば、人の血を吸うことはしたくなかった。彼女を思い出してしまうから。


ある日の吹雪が激しい中、家の近くで何か物音がした。

その気配は老婆に似た何かを感じ、エイルは厚めのコートを羽織り、外に出た。


「おばあさーん!大丈夫ですか~?」


大声で声を掛けてみても、反応はない。気のせいだったのだろうか…なんて思っていると、

足元で何かを蹴ってしまった。困惑しながら足元を見てみると、自分と同い年頃の少年がこの吹雪の中倒れていた。


「え、え?!しっかりしてくださ~い!」


エイルは急いで少年を抱え、ログハウスの中へ連れて行った。冷え切った身体を温めるようにベッドに寝かせ、濡れた服を脱がし毛布で包んだ。

よく見るとあまり見ない髪色だった。白髪の少年がこんな何もない山奥に遭難するとは…。


「…あなたも、ボクと同じなのかもしれませんね」


目が覚めたら、話を聞いてみるか。そして何かできることがあれば手伝うことにしよう。

もういない彼女の様にボクも、誰かに救いを差し伸べたいから。

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