バイトガバイト

鍵崎佐吉

🐺

 バイトの神原くんはなんにでも噛みつく悪癖があった。画面の向こうの政治家や芸能人に悪態をついているうちはまだいいのだが、機嫌が悪くなると身近な人間にもしょっちゅう突っかかってトラブルを起こす。そのせいで職場でも孤立しがちで、色々とたらい回しにされたあげくここにやってきたらしい。

「自分でもよくないとは思ってるんです。でも、ストレスを感じるとどうにも抑えがきかなくて」

 申し訳なさそうにそう語る神原くんは、まるで飼い主に叱られた大型犬のようで、私はどうにも彼のことを憎み切れない。

「まあうちはそういう人多いから。気長にやってこうよ」

「……ありがとうございます、先輩」

 彼の目には憧憬とはまた少し異なる何かが含まれている気もしたが、私はあえてそれを無視することにした。彼自身がどうこうというより、そもそも年下は趣味じゃないのだ。


 郊外にあるこのコンビニは知名度の低いローカルブランドだということもあって利用客はあまり多くはない。店長を任せられてから三年が経つが、ずっと赤字を出さないだけマシというぎりぎりの状態が続いている。しかしこの店はそれでいいのだ。収益をあげることよりも、とにかく仕事と社会に慣れることが一番の目的なのである。むしろ変にバズったりして注目を浴びないように、慎ましく密やかに営業している。訪れる客は全員行きずりの人間で、コンビニでさえあればどこでもいいのだろう。大抵の客は水とかタバコとかバッテリーとか、そういうものだけ買ってさっさと去っていく。だけどどんな場所にだっておかしな奴というのはいるものだ。

「あのさぁ、これにお湯入れてほしいんだけど」

 空のペットボトルを差し出してそう言い放ったガラの悪い男に、さすがの神原くんもしばらくは面食らって何も言えなかった。

「あの、そういうサービスはやっておりませんので」

「あん? いいからやれよボケが。給湯器くらいあんだろ」

「……いえ、ですからそういうことは――」

 不穏な緊張感が店内に満ちていくが、私はあえてそれを黙って見守ることにする。この程度のトラブルに自力で対応できないようでは、現代社会で生きていくことはできない。私が手を貸せばこの場は収まるだろうが、それではなんの意味もないのだ。すると押し問答を続けていた男がペットボトルを床に叩きつけ声を荒げる。

「ぐちゃぐちゃうるせえんだよ底辺が! あーもうまじで使えないわ」

 そう吐き捨てて男は店を去っていく。ああいう異常者には言いたいことを言わせておけばいいのだ。わざわざこちらが同じ土俵で戦ってやる必要なんてない。とにかくこれで何事もなくすんだわけだ。そう安堵した私の視界に思いがけない光景が映る。神原くんの頭から大きな耳が二つ生えている。その口が大きく裂けて、鋭い牙が露わになる。あ、まずいと思ったときにはもう手遅れだった。

 神原くんは唸り声をあげて男に飛びかかり、その顔面に思い切り噛みついた。悲鳴に近い叫び声をあげながら抵抗する男を神原くんは殴り引き裂き叩きのめして、わずか数分でバラバラに解体してしまった。鼻を衝く血の匂いに私は思わずため息を漏らす。とはいえ彼に対応を任せた自分にも責任がないわけではない。無数の肉片が浮かぶ血溜まりの中で息を荒げる神原くんに私は呼び掛ける。

「それで気がすんだ?」

「あ……すみません」

「はぁ……とにかく掃除するから、今日はもう営業終了」

「はい……」

 どうやら彼が人間社会に溶け込めるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだ。


 店内を掃除して証拠隠滅を終える頃にはすっかり日も暮れていた。今後の状況によってはあの店舗は畳まざるを得なくなるかもしれない。しかしそうなってしまった時はその時だ。人の目を欺く技術は幼少の頃から叩き込まれている。それが私たち人狼が人間社会で生きていくということだった。

 スマホを見れば健斗から連絡が来ている。どうやら先に帰って夕飯を作っておいてくれるらしい。同棲して一年、自分で言うのもなんだが彼とはうまくやれていると思う。そう、私は人狼として模範的な生活を送っているのだ。人間社会に溶け込んで、人間と結ばれて、そして私たちの種を途絶えさせることなく後の世代に繋いでいく。それが仲間にも評価されているから、神原くんのような問題児を任されているわけだ。大丈夫、私ならきっとうまくやれる。そう自分を励まして帰路についた。


 家に帰ると健斗は料理中だった。鍋の中身を見なくても匂いだけで何を作っているかわかる。牛肉、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも、醤油。そう、きっと肉じゃがだろう。慣れない作業で疲れた体が、貪欲に栄養を求めているのを感じる。

「おかえり。もうちょっとでできるから、座って待っててよ」

 健斗は私を労うように優しい声色でそう告げる。ありがとう、と返そうとして私は彼の体から漂う匂いに気づく。タバコ、アルコール、化粧水、私の知らない香水と生臭い女の体液の匂い。いくらか薄まってはいるが、私たちの鼻をごまかすことはできない。全身の血が沸き立ち、私の本能を呼び覚ます。

 異変に気付いた彼が振り向いた瞬間、その喉元に食らいついた。口の中が液体で満たされ鉄の味が広がっていく。恐怖と衝撃で眼を見開いたままの健斗を床に押し倒し、渾身の力でその顔面を殴りつける。殴って、殴って、殴りながら、私は胸の内に広がるどす黒い何かを吐き出す。

「なんっで、私じゃ、駄目なんだよっ! 弱っちい、人間の、くせに! 劣等種の、分際でぇっ!」

 出会いこそマッチングアプリがきっかけだったけど、今日に至るまで一回も喧嘩したことはなかった。人間のオスなんて見た目さえ良ければそれでいいと思っていたけど、彼と過ごす時間はいつしか心安らぐひと時になっていた。彼にならいつか私の全てを打ち明けられるかもしれない、そんな風に考えたことだってあった。傍から見れば欺瞞に満ちた滑稽な関係だったかもしれない。それでも私は、確かにこの人を愛していたんだ。

 綺麗だった健斗の顔はぐちゃぐちゃに潰れてとっくに動かなくなっていたけど、それでも私は骨が砕けて陥没するまでその顔を殴り続けた。


 どれだけ時間が経っただろうか。肉じゃがはすっかり汁が蒸発して焦げ付いてしまっている。ふと殺す前に相手の女が誰なのか聞き出しておけばよかったと思ったが、今となってはもう過ぎた話だ。ただの肉塊と化した健斗を見てももはや何も感じない。何はともあれとにかくこの死体をどうにかしてしまわないといけない。私は血まみれになった手を洗い流して、神原くんに電話をかける。

「……あ、急にごめんね。唐突な話で申し訳ないんだけど、今からうち来れる?」

「え……あ、はい! すぐに行きます!」

 神原くんは何を勘違いしたのか、どこか浮かれた様子でそう答える。いちいち訂正する気力もなくて、事情は彼がここに来てから話すことにした。

 いい加減血の匂いも嗅ぎ飽きてきたので、私は窓を開けて換気する。ベランダから空を見上げれば、我らの崇拝してやまない美しい満月が燦然と輝いている。

「まったく、こっちの気も知らないで呑気なもんだよ」

 多分こういう時、私たちは無性に何かに噛みつきたくなるのだろう。

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バイトガバイト 鍵崎佐吉 @gizagiza

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