ブルートパーズ
上田 由紀
ブルートパーズ
潮騒の音を頼りに、闇に沈む海原に向かって立つ。
彼の願いを叶えるために。
悲恋の過去と決別するために。
美和は目を閉じ、決心を固める。
数日前、不意に浩司が言った。
「その指輪、毎日してるね」
美和の左手の薬指には、いつもブルートパーズの指輪がはめてある。四つ葉のクローバーの形をしたデザインで、元カレからプレゼントされた指輪だ。
「うん、気に入ってるの」
「自分で買ったの?」
浩司の問いに何と答えるべきか、美和は一瞬言い淀む。嘘をつくには、もう遅いと感じた。
「前の彼からもらったの」
少しの沈黙の後、
「そうか、やっぱり……」
浩司は暗い目で言った。
「もしかして、まだ未練があるの?」
どう答えたらいいのか、美和は逡巡する。
未練はないと言えば、嘘になる。でも、正直には言えない。
元彼は出張が多かった。すれ違いが続いて、月に一度も会えないこともあった。その後、彼は遠方に転勤し、それっきりだ。
彼を心底愛してたから、想いは宙ぶらりんの状態だ。
浩司に余計な心配をさせないために、美和は嘘をついた。
「未練は、もうないわ」
浩司は美和に疑わしそうな目を向ける。
「本当か?」
正面から見つめられて、美和は目を伏せる。
「信じられないよ。まだ好きなんだろう? だから、指輪をしてるんじゃないのか?」
美和は首を横に振った。
「違うわ。ただ、このデザインが気に入ってるだけなの。前の彼のことは、もう何とも思ってない。好きなのは、浩司だけよ」
「じゃあ、証拠を見せてくれないか?」
「えっ、証拠? そんなこと言われても……。どうしたらいいの?」
「捨ててくれよ」
「えっ、捨てるって、指輪を?」
「そうだ」
浩司は不満を露わにしている。
「僕の目の前で捨ててほしい」
そして、少し考えるような顔をした後、
「そうだ、捨てる場所は海がいい」
勝手に話しを進める浩司を見て、美和は暗澹とした。
「いつ、実行してくれる?」
浩司が問う。
美和は後悔していた。
浩司と会う時は、指輪を外すべきだったと。
水平線の彼方から吹き寄せてくる風が、美和の髪を掻き乱す。
灯台の明かりだけが頼りの闇の中で、波の音だけが辺りに響き渡る。
どうして、こんな事態になってしまったのか。
できることなら、指輪は捨てたくなかった。
元彼の想いが込められた指輪を捨てるのは、元彼の存在を抹消してしまうかのようで、実に耐えられないことであった。
「さあ、未練がないと言うなら、早く証明してほしい」
背後から浩司が言い放つ。
(ごめんね、許してね……)
美和は、胸の中で元彼に語りかけた。
元彼への申し訳ない気持ちでいっぱいだが、現在愛している浩司の願いを聞き入れるほうが重要だ。
美和は灯台の明かりを頼りに、波打ち際まで歩み出る。
指輪を外すと手の平に握り締めた。握っている右腕を大きく振り上げ、力を込めて海へと放り投げた。
目には見えないが、指輪が沈んでいくイメージが目蓋に映し出された。
闇に沈む海原を、美和はじっと見つめた。
指輪はそう遠くに落ちてはいないと思うが、どこに落ちたのか見当がつくはずもない。最早、探すのは不可能だ。
すると、急に居たたまれなくなった。
(私、なんて酷いことしたんだろう。こんなこと、元彼が知ったら、酷く悲しむと思うわ)
無意識のうちに、美和は海に足を踏み入れた。
季節は、もう初冬に差しかかっているため、海水は酷く冷たい。
それでも気にせず、歩を進めた。
涙が、ほろほろと溢れ出てくる。
「指輪、どこ? どこに落ちたの?」
「美和!」
浩司が叫びながら、追いかけてきた。
美和に追いつくと、羽交い締めにした。
「やめろよ、それ以上行くと溺れてしまうだろう」
「だって、指輪がかわいそう」
浩司に羽交い締めにされながらも、それでもまだ海中へと歩み出そうともがいた。
「風邪引いてしまうよ。さあ、もう帰ろう」
浩司は美和の肩に腕を回し、陸へと押し進めるように歩き出した。
陸地に上がると美和は砂の上に座り込み、声を上げて泣いた。
「悲しい思いさせてしまって、ごめんよ」
言いながら、浩司は美和の肩に手を置いた。
駐車場に停めていた車に戻ると、
「本当は、まだ未練があるんだろう?」
浩司が柔らかな口調で問いかける。
美和は首を振る。
「ううん、未練はないわ。浩司が好きだから。元彼より大好きだよ。でも、指輪には罪はない。それなのに、冷たい海に捨ててしまって、悲しくなって」
再び涙が零れた。
「ごめん、美和がそんなに悲しむとは思ってなかった。しつこく聞いてごめん……」
浩司に抱き寄せられ、美和は彼の胸に顔を埋めた。
指輪には酷いことをしてしまったが、やっと元彼に対してふんぎりがついたような気がするのだった。
「例え、美和がまだ前の彼に未練が残っていたとしても、前の彼以上に美和を大切にする、幸せにするから」
浩司が更に、美和を抱きすくめる両腕にギュッと力を込めてくる。
その気持ちに応えるかのように、美和も浩司の背に両腕を回しきつく抱きしめた。
ブルートパーズ 上田 由紀 @1976blue
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