マスターキー
ハヤシダノリカズ
桜色の夜
「だからさぁ、モテる男ってのはマスターキーなんだって」
隣の隣のそのまた隣に座っている男の大きな声が耳に入ってきた。私は目の前に置かれたテイスティンググラスを鼻に近づけてクラフトジンの香りを楽しみながら、同じバーカウンターに座っている大きな声の男の話に意識を向けた。まじまじと見る訳にはいかないけれど、どうやらその声の主は男友達と二人でこのバーに来ているらしい。間に一組のカップルを挟んだ位置関係で、一人でバータイムを楽しんでいた私の耳は高性能の指向性集音器となっている。
「女は錠前で、男は鍵。どんな鍵でも開いてしまう錠前に価値なんてないけど、どんな錠前でも開けてしまう鍵、マスターキーの価値は高いだろ? ヤリマンって言葉は罵倒だが、ヤリチンって言葉がある種のリスペクトを含んでいるのはそこに理由がある」
男がご高説を言い終えてすぐに、 落ち着いた雰囲気を売りにしているこの店のバーテンダーが、その男に近づいていき「もう少し声を抑えて頂けると助かります」と言った。
そうよ。ヤリマンとかヤリチンなんて言葉はこの店には似つかわしくないわね。それをあんなに大きな声で語るのはどうかしているわ。きっとあの男はモテないわね。どれだけ酔っても、モテる男っていうのはTPOを弁えているものよ。
――
「あぁ。なんか、それ、分かるような気がします」
いつの間にか隣に座っていたその男は、私の話にそんな相槌を打った。
「例えば、オシャレって、自分の気分を盛り上げる為のものという側面もありますけど、仲間や同じ時間と空間を共有している人間の目を楽しませる為のものって側面もありますよね。それと同じ事かも知れません」
大声ご高説男が退店した後も入れ代わり立ち代わりで満席状態が続くこのバーカウンターの、私が座っている席の隣に通されたその男はジャケットの下の黒のシャツと黄色のネクタイが似合っている。
スズメバチとか虎の配色だな、なんて思いつつも、私はその上にある人懐こい目じりの皺に惹かれている。TPOを弁えない大声男への愚痴を話す私に対する相槌も、身に纏っている衣服も空気感も、静かだけど落ち着いた声も、選ぶ言葉も表情も、そして、整った顔立ちも全てスマートだ。わずかに香る塩気を帯びた体臭さえセクシーだと思ってしまう。
――
「少し酔っちゃったかも知れません」
私は上目遣いで彼に向かって言う。おかしいな。男に媚びを売るようなこんな姿勢や言葉は私が最も嫌うタイプの女のそれなのに、身体が、目が、声が自然にそうなってしまう。酒豪を自認する私がこの程度で酔う訳ないのに。
「あぁ、それは名残惜しいですね。もう少し一緒にお話したかったですが、若く綺麗な女性にこれ以上お酒を勧める訳にはいきませんね」
彼は私の目をまっすぐに見つめて言う。私の仕草やアプローチが慣れないもの過ぎてまるで通じていないのか、女に困っていない男の余裕なのか、彼は私の隙に食いつくそぶりを見せない。
「あの、もし良かったら、さっき仰っていた早咲きの桜の場所を今から教えてもらえませんか? 私ももっとお話したいので、酔い覚ましのお散歩に付き合って欲しいな、なんて……」
これでダメだったらもう、私に残されたカードはない。
「ええ。もちろん。喜んで」
くしゃっと破顔して見せた彼の目じりには今日イチの深い皺が刻まれた。
その笑顔、ずるい。
――
大急ぎでメイクを整えて、正しく言うならちゃんと酔っているようにチークで頬に赤みを盛って、私が明るいお手洗いから薄暗い店内に戻ると彼はすでに会計を済ませていた。彼より随分前から飲んでいた私の分も一緒に。
坂道の段差が危ないからと、さりげなく私の手をとって、そのまま手を繋いで歩いてくれた彼はまるで私の心を読んでいたみたい。手を繋ぎたいなってずっと思っていた私の心は見透かされたのかしら。
月明かりに照らされた桜を見上げる私に「花冷えだね。この時期の夜はまだまだちゃんと寒いね」と言って、後ろからかけてくれた彼のコートには彼のにおいが染みついていた。
『女にはプロセスが大事なの。性急に求めたりしちゃ、ダメ』なんてダメ出しを、付き合っていた頃の彼氏に私は偉そうにしていたのに。不器用だった当時の彼氏は今は良き夫となって、真面目に出張に出ているというのに。
――プロセスなんてすっ飛ばしてめちゃくちゃにしてほしい――
私がそんな事を思ってしまうだなんて信じられないけれど、化粧のついでに指輪は外してきたわ。桜を見て私が呟く「きれい……」って言葉は桜に対する感嘆じゃないわ。彼に私を見てもらう為のトリガーでしかないの。だって、この後私たちが行う行為のコトでいっぱいの私の頭は、桜が綺麗だとかいうそんな風雅からかけ離れているんだもの。
罪悪感がないわけじゃないわ。
でも、仕方がないの。
私は今日、マスターキーに出会ってしまったんだもの。
―― 終 ――
マスターキー ハヤシダノリカズ @norikyo
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます