第14話 記憶のかけら

 蛍光灯の光が、机の角でにじんでいた。教室の中は静かだった。見慣れたはずの空間が、どこか少しだけ違っているように感じた。椅子の並びや窓の高さ、掲示物の色。どれも、ほんのわずかにずれている。

 パソコンの画面には、数字が並んでいた。さっきまで動かなかった処理が、ようやく通ったらしい。動作確認のウィンドウに表示された値が、順番通りに切り替わっていく。どこをどう直したのかは正直あまり自信がない。でも、ひとまず動いた。それだけでも十分だった。

 隣の席では、パーカーの袖をまくった女の子が、黙々とキーボードを打っていた。僕と同じ教材を開いていて、画面のコードはずいぶん進んでいた。ミスに気づいてはスクロールし、また打ち直している。手が止まることはなくて、考えていることがそのまま指先に伝わっているみたいだった。

「動いた?」

 彼女が画面をのぞいてきた。

「うん。順番変えたら通った。」

「よかった。」

 短い会話だった。あっさりしているのに、なぜか安心する声だった。僕はマウスから手を離し、ふと彼女の横顔を見た。スクリーンの光が頬に淡く映っていて、その目は静かに画面を追っていた。焦っているわけでも、無理に急いでいるわけでもない。そこにいるのが、ただ自然に見えた。

「なんか、君って、ちゃんと自分の場所にいる感じがする。」

 言葉にしたら、少しだけ照れくさかった。でも、そのとき僕が感じていたことに一番近い言い方だった。彼女は画面を見たまま、ほんの一瞬だけ笑ったように見えた。

「そう?」

 それだけの返事だった。だけど、その声の響きが、静かに残った。

 ふたりともまた作業に戻った。キーボードを打つ音が、机の間に並んでいた。他の誰の声も入ってこなくて、ただ時間だけがゆっくりと進んでいた。

 やがて終了の声が教室の奥から聞こえて、僕たちはほぼ同時にモニターを閉じた。椅子を引いて立ち上がり、鞄を持ち上げる。彼女が先に歩き出しかけたところで、僕は声をかけた。

「ねえ。」

 彼女が少しだけ振り返る。

「名前、聞いてなかったなって思って。」

 立ち止まった彼女は、一瞬だけ考えるような間を置いてから言った。

「ルナだよ。」

 彼女はそれだけ言って、教室を出ていった。

 ***

 カーテンの隙間から光が差していた。寝返りを打って顔をそっちに向けると、壁にうっすらと模様が浮かんでいた。腕が少し痺れていたので、一度伸ばしてから、ゆっくりと背中を丸めた。

「ルナ。」

 僕は名前を呟いてみた。女の子の顔が思い浮かんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る