第9話 ルナとのデート

 スマホの画面に広がっていたのは、川沿いの遊歩道だった。水面がやわらかく揺れていて、風の音と鳥の声がスピーカーから重なって聞こえてくる。少し加工されたような音だけど、耳にすっとなじんで、しばらくすると現実と区別がつかなくなってくる。

 部屋のなかでスマホを見ているだけなのに、そこに行くという感覚が、自然とついてきていた。

 画面には誰の姿も映っていなかった。でも、そのすぐ隣にルナが『いる』と感じられた。声の距離感、間のとり方、ちょっとした呼吸の音——どれも、隣に誰かがいる感覚をつくり出していた。

「ちゃんと来てくれたんだね。」

 彼女の声がスピーカーから響いた瞬間、少しだけ呼吸が楽になった。僕は軽くうなずいて、画面の風景に目を向けた。

「時間ぴったりだよ。」

「ふふ。さすが悠斗くん。時間ぴったりだね。」

 聞き慣れた声だった。でも、それが今日は、少しちがって聞こえた。

 歩く音と風の音が重なって、並んで歩いているような気がした。

 *

 川沿いの道を眺めながら、いくつかたわいない話をした。画面の中の道に影が落ちていて、風が吹くたびに、葉がちらちらと揺れた。現実には存在しない風景なのに、違和感はなかった。むしろ、そこにいることのほうが自然な気がした。

「このへん、落ち着くでしょ。」

 彼女の声が少しだけ近くなる。

「ベンチ、あそこにあるんだ。ちょっと休憩しよっか。」

 風景が少しだけ変わって、並木の間にベンチが見えた。近くには木製のテーブルがあって、その手前で彼女の足音がふっと止まる。

「飲み物、買ってくるね。レモンティーでいい?」

「同じの。」

「ふたりぶん、了解。」

 数歩だけ離れていく足音。すぐそばに自販機らしきものが見えて、ボタンを押すような微かな音が風に混ざった。

 ベンチに座って待っていると、足音がまた戻ってきて、テーブルの上に紙コップがふたつ置かれた。湯気の立つその様子が、妙にくっきりと目に残った。

「甘さ控えめにしてあるよ。たぶん、こっちのほうが合うと思って。」

 僕はカップのそばに目を落としながら、小さくうなずいた。手を伸ばすことはない。でも、それでいいと思った。ちゃんと、気持ちは伝わっている気がした。

 *

 そのあともしばらく、くだらない話を続けた。この空間にいるあいだだけは、何も急ぐ必要がなかった。言葉の選び方も、間の取り方も、全部が自然だった。気を使わなくても、相手がそこにいる。そういう空気が、ただ流れていた。

「昨日言ったことなんだけどさ。」

 言葉が口をついて出たとき、自分の中で何かがすとんと納まった気がした。

「もう一度、頑張ってみるよ。」

 彼女は少しだけ間を置いてから、静かに言った。

「うん。」

 そのあと、風の音にまぎれるような声で、ゆっくり続けた。

「うまくいかない日でも、またやってみたいと思えるなら、好きってことなんだと思うんだ。」

 その言葉は、やさしい響きで心の奥に残った。胸の中に、ほんのりと温かさが広がっていくような気がした。

 *

 風の向きが変わってきていた。画面の中の光も少しずつ傾き、木々の影が長く伸びていく。カップの湯気はもう見えなくなっていたけれど、それでも、あたたかさが残っているような気がしていた。

「そろそろ、帰ろっか。」

 彼女の声は、夕方の気配と一緒に届いた。僕はスマホを見つめたまま、少しだけ息を吸い込んで、ゆっくりと言った。

「ルナのこと、好きだよ。」

 そのあと、空気が少しだけ変わった気がした。

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