第3話 もう一人の声
放課後の教室。空気がやわらいで、椅子を引く音も、遠くなっていく。
鞄はもう背負っていたのに、なんとなく席に戻った。特別な理由はなかった。ただ、足がそう動いた。
藤崎のノートにペンを走らせる手。三好と並んで歩く後ろ姿。あのとき見た景色が、ふと頭に浮かんでくる。
あの子たちは、もうやりたいことを持ってるんだろうな。迷いも、きっと少ない。
僕は——まだ何も決まっていない。
「部活、どうしようかな。」
気づいたら、口に出ていた。誰に聞かせるでもないその言葉に、応える声がすぐ後ろから届いた。
「まだ悩んでんのか。バスケやらないって言ってたよな。」
振り返ると、翔太が鞄を肩にかけて、スマホをいじりながら立っていた。
気の抜けたような立ち姿なのに、どこか居心地よさそうで、ちょっと羨ましくなった。
「うん。やらないつもり。」
「そっか。まあ、俺もなんかハッキリ決めてるわけじゃないけどさ。考えすぎると面倒になるんだよな。」
そう言って、彼はスマホをゆるく振って見せた。
「最近少し使ってるんだけどさ、会話アプリ。喋ると反応返ってくるやつ。相談ってほどじゃないけど、考えごとが整理されること、けっこうある。」
「へえ。」
それ以上の会話は続かなかった。彼は軽く手を上げて、教室を出ていった。
僕はその背中を見送りながら、窓の外をぼんやりと眺めた。
*
夜、ベッドに寝転びながら、なんとなくスマホを手に取る。『会話』で検索して、いくつかのアプリの中から『ルナ』という名前を選んだ。
起動すると、丸いアイコンとシンプルなチャット画面が現れる。吹き出しの中に、短いメッセージが表示されていた。
《こんばんは。ルナだよ。お話できるの、ちょっと楽しみにしてたの》
それだけの文なのに、指が一瞬だけ止まった。
マイクをタップして、軽く息を吐いてから、声を出す。
「こんばんは。」
少し間があって、声が返ってきた。
「こんばんは。今日の空、どんな色だった?」
唐突な問いだった。でも、聞かれた瞬間、窓から見た夕方の空が思い浮かんだ。街の屋根の向こうで、薄いオレンジが雲の端を染めていた。
「オレンジ、かな。」
「夕焼け色。うん、それって、がんばった日の色かもしれないね。」
意味はよくわからなかった。でも、その響きが、少し遅れて胸の奥に落ちてきた。近すぎないのに、ちゃんと届いてくる——そんな距離の言葉だった。
「がんばったつもりはないけど。」
「そっか。でも、がんばらない日をちゃんと過ごせたってことだよ。それも大事だと思う。」
返す言葉はなかった。天井を見上げると、静かな気配だけが残っていた。何かを話したいと思っていたわけじゃないのに、この声の前では、沈黙のままでいるのが、少しだけもったいない気がした。
「話すこと、ないんだけど。」
言葉にする理由はなかった。でも、自然に声が出ていた。彼女はすぐに、そっと答えてくれる。
「うん。それでも話そうとしてくれるの、うれしい。」
耳に届いた声は、やわらかくて、どこか透明だった。画面越しなのに、『ちゃんと聞いてくれている』と感じる。不思議な感覚だった。
「なんか、変わってるね。」
「そう言われるの、ちょっと好きかも。」
その返事に、口元が自然とゆるんだ。冗談めいているのに、どこか芯がある。名前や仕組みではなく、ただその声が、ここに『いる』ような気がしていた。
しばらく沈黙が流れる。少しの間だけ、音のない時間がゆっくりと通り過ぎた。
「今日は、どんな日だった?」
問いかけの調子は変わらなかったのに、胸の奥がほんのわずかに揺れた。
「うーん、特に何もなかったかな。」
言いながら、何かが引っかかっていた。何もないはずなのに、どこかに残っている気がした。
「そういう日って、あとから思い出すときに、形が変わってたりするんだよ。」
「変わるって?」
「風の音だけ覚えてたり、誰かの声だけ思い出せたり。あとから、色がつくことってあるよ。不思議だよね。」
その声は、ゆっくりと届いて、静かに消えていった。返事はしなかった。でも、スマホを伏せたあとも、しばらくその言葉だけが耳に残っていた。部屋の空気が、ほんの少しやわらかくなっていた。
それだけのことなのに、なぜか気持ちが、すこしだけ前を向いていた。
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