16-3 二年生・三月
「……愛沙に聞いたの」
あたしたちは近くのバス停のベンチに並んで座っていた。マイナー路線で向こう二時間はバスが来ない。自転車は邪魔にならなそうな場所に置いてある。
「うん。オーストラリア引っ越すって」
あたしが言うと、麻路は深く俯いた。その横顔が黒髪の帳に隠れてしまう。
「……黙ってて、ごめんなさい。でも……どうしても、あなたには言えなくって」
「本音がバレるからでしょ……本当は行きたくもないのにさ。で、気持ちを隠すなよって、あたしに怒られるのが怖かった」
「──わかってしまうのね」
「わかるし、マジでしっかり怒ってるから。あたしを置いて、勝手にひとりでどっか行っちゃうなんて……酷いよ」
どうしようもなく声が上ずって、目頭が熱くなる。子供っぽい怒り方だ。でも、この怒りは正当だと思ってる。麻路は酷い。裏切られた。許せない。麻路が好きだからこそ、その裏側にこびりついた汚い色の感情が出てきてしまう。
あたしの掠れた声に、麻路は顔をあげた。疲れたような無表情だった。
「そう。私は酷い。性格が悪くて、醜くて、ひねくれてて、卑屈で、どこを切り取っても救いようがない。私がいるだけで、何もかも悪くなる。だから……だから、あなたたちの輪の中に、これ以上いる資格なんてない。きちんと、罰を受けなくちゃいけないの……」
「罰って……」
麻路はやりきれないように目を伏せると、お腹の中の何かが猛烈に痛むような表情をして、暗い海へ飛び降りるように言った。
「愛沙と比良宮くんのことをラルヴァに漏らしたのは、私、なの」
──言おうか迷ってたけどいいます。
あの告発文が、麻路の書いたものだった──その告白を聞いた瞬間、嫌な痺れが全身に走っていった。食べられないものを口に入れた時、細胞レベルで拒絶して吐き出すように、聞きたくないことが耳に入って、全身が拒否反応を起こしている。
そんなあたしを見て、麻路は苦しそうな笑みを浮かべた。
「あなたも言ってたでしょう、ラルヴァをむちゃくちゃにしてやりたいって。それと同じで、私にも愛沙のことをめちゃくちゃにしたくなる時がある。あの甘ったれなところとか、媚びるような態度とか、全部が……突然、ものすごく憎く思えてきて、とことん不幸になってしまえ、って思ってしまうの。中学の新聞部でもそうだった。いつもふたりきりで廃部寸前だったのは、あたしが愛沙の悪い噂を流していたから。活気が戻ったのは、あたしが海外留学でいなくなったから……ね、わかるでしょう。今回の件だってそうだった。あたしがいなければ全部うまくいってたはずだった。あたしはひとりになった方が良いの。だから──」
今回も、自分ひとりだけ、遠い場所へ立ち去ることを決めた。
「……麻路」
彼女の話を聞きながら、あたしは深い悲しみに襲われていた。
全て完璧だって言われる朝烏麻路という人は──なんて、普通の女の子なんだろう、と。
ずっと好きな人が全然振り向いてくれない。自分抜きでも幸せそうにしている。そんな状態が続いて、平気でいられるヤツがいるわけない。なのに、自分に完璧を求め、良い関係を徹底を貫こうとしてしまうがために、その程度の感情の揺れにつまずいてしまう。そうして勝手に深く思い詰めて、誰も望まない方向に向かってしまう──。
あたしはそれを、歪んでるとか闇だとか全く思わない。それは至って普通のことなんだ。
むしろ、そのことに打ちのめされて、暴走して、落ち込んでしまう、その乱れる姿をこそ、あたしは愛おしく思った。好きだと思った。ずっと、離さないでいたいと思った。
だから、あたしは言う。
「知ってたよ」
「……え?」
麻路の顔から血の気が引く。あたしは重ねて、続ける。
「あんたが愛沙先輩のことチクったこと、その日のうちにわかってた」
「ど、どうして……なんで……」
「あの日……あたし、あのリーク文をずーっと読んでた。ラルヴァへの投稿に慣れてなさそうで、でもなんとなく文法は知ってて、めちゃくちゃ夜遅い時間に投稿してて──変だな、って思ってた時、あんたの顔見てわかったよ」
あたしは目元に滲んだ涙を拭いながら言った。
「すんごい濃いクマついてた。あの日、あんたは自分がやったことが怖くって、全然眠れなかったんだって察しちゃったんだ」
「わ、わかってたなら……どうして、何も言わなかったの!」
麻路が責めるような口調で言う。まるで、その時すぐに糾弾して欲しかった、というように。
それに対して、あたしは苦笑いをしてみせる。
「言わないよ。だって、あんな罪悪感丸出しの人を責めてもしょうがないし、もう起きてしまった以上、これからをどうするかを考えた方が良いと思ったから。それに──あんた、あんなにピリピリしてたのに、あたしに会って落ち着いた途端、すやすや眠り始めちゃってさ。あの無防備な寝顔見てたら、あたしってそんなに信頼されてるんだって感じて……守りたくなった。その罪ごと一緒に、全部、何もかも、どうにかしなくちゃって思ったんだ」
「碧子……どうして、そんなに、あたしのことを……」
得体の知れないものを見るような眼差しで、麻路はあたしを見る。うん、わかるよ。殺しかけた相手が自分を守りたいだなんて、気持ち悪いと思う。でも、そうなんだから仕方がない。
「どうしてって……それは」
あたしは心を震わせながら、告白した。
「あたしが、麻路のことを好きだから」
言った。口にしてしまった。いつか、引っ込めた言葉。言いたかったのに、伝えたかったのに、自分に嘘を吐いて、仕方ないとか嘯いて、押し殺して、潰して、隠して、秘めたままにしていた、その言葉を──麻路に、言ってしまった。
吐きそうになるくらい、全身が脈打っていた。息が詰まる。グラグラする。落ちていきそうになる。必死に耐えて、あたしは麻路を見据える。
「嘘……」
あたしの気持ちを聞いた麻路は──悲惨な顔をしていた。
「嘘、嘘、嘘! そんなはずない! じゃあ、なんで今まで黙っていたの!」
肩をぐっと掴まれる。その強い言葉に、う、とあたしは呻きそうになった。意を決して告げた気持ちを否定されるのはキツい。えずきそうになる。
「それは、麻路がずっと愛沙先輩のことを想ってたのを知ってたから……なんか、そこに付け入るみたいなことをしたくなくって」
「どうしてよ、何で肝心なとこでそんな奥手なの! それなら、私だって、私だって……」
麻路の長い睫毛に飾られたつり目が歪んで、みるみる涙が溜まっていく。その見たこともない表情に、あたしは息が止まりそうになった。
え──私だって……?
麻路は困惑するあたしの肩に顔を押しつけると、咽ぶように言う。
「私だって、同じだったのに! あなたを愛沙の代わりに思うようなこと、したくなかった!」
「麻路……」
「私も、あなたのことが好き」
強烈な光が、あたしの心に差した。頭が真っ白になって、何もわからなくなる。
そんな……そうだったの? だから、いつもあんなに体温が高いの? だから、自転車二人乗りしようって提案したの? だから、放課後にあたしのことを待っててくれたの? だから、あたしの写真を撮ったスマホを大事に握り締めていたの……そんな、嬉しいこと、嬉しすぎて、もう、なんか、わかんないよ、麻路──。
「最初は変な人だと思ったけど、ひたむきで、本当にあたしたちのことを考えてくれてて、そのうちに惹かれてて……気づいたら、好きで好きで仕方なくなってた。付き合っているフリをしている間だって、すごく幸せだった。一月が終わっても、ずっと付き合っていたかった。一緒にいたかった」
次々と飛び出す素敵な台詞。言葉を失うあたしに、麻路は恨みがましそうな声で続ける。
「なのにその直前であなたが、これで付き合うフリから解放されるね、なんて言うから……ものすごく心が乱れてしまって、私は……愛沙が留年すれば、もっとあなたとの関係が続けられると思ってしまったの……」
「え、ちょ、ちょっと待って」
あたしはドライブして破裂寸前の脳みそで記憶を辿る。確かにそんなことを言った気はする。だって、麻路はあたしと仕方なく付き合ってるものだと思っていたから。
「じゃあ、麻路が愛沙先輩を留年させようとしたのは、あたしのせい……」
「わからない……そう、って言いたい気持ちも、違う、って言いたい気持ちもある。でも──やってしまったことは変わらない。責任は全部、私にある。全部、煮え切らない、優柔不断で人の気持ちがわからなくって、自分の感情すら整理できない、私の、せ、い……むぐ」
あたしはそれ以上、何も言って欲しくなくて、口もきけなくなるくらい、麻路の顔を自分の胸にぎゅっと抱き寄せた。
「あたしの好きな人にそれ以上悪口言わないで。ラルヴァを壊して、愛沙先輩も無事に卒業できて、全部全部良くなったんだから、もういいじゃん。今は誰もあんたのことなんか恨んでない。覚えてすらいないよ。ここにいるのは朝烏麻路、眉目秀麗完璧超人みんなの憧れ、でも実は好きな人がいて、今、相思相愛になった……もう、それで、いいじゃん。だからさ、行かないでよ。あたしを、置いていかないでよ、麻路……」
「あ、碧子……、でも……ダメ。私は、あの学校に戻れない」
麻路は身を起こすと、声を詰まらせながらふるふると首を振る。
「どうして……?」
「今でも見られてる気がしてしょうがないの。あいつが愛沙を売った、あいつは愛沙を陥れようとした、って、いつか、暴露されてしまうんじゃないかって──もう存在しないラルヴァの視線を感じて落ち着かなくって……だから、あたしはどのみち、あの学校にはいられない」
ああ、やっぱり……この人は、なんていうか、本当に朝烏麻路だな、とあたしは思った。真面目で不器用で、そうと決めたら徹底的に物事を詰めて、喜んだり泣いたり、あたしといて幸せを覚えたり、愛沙先輩が突然憎くなったり、と思えばこんな激しい罪悪感に苦しんで……。
本当に可愛くて、愛しい人だ。あたしはそんな彼女の頭を撫でながら言った。
「大丈夫、そんなこと、誰も思ってないよ」
「誰も思ってないって、言い聞かせてもダメ。多分、私自身が私を許せてないから……」
「そうかな。多分、麻路が他の人たちのことを信じられてないだけだよ。そんなに不安なら、実際に見てみたら? ──ラルヴァでさ」
かつての仇敵の名前に、麻路は困惑した表情を見せる。
「え? ラルヴァはもう、私たちがなくしたでしょ……」
「いいからいいから」
あたしに促されて、おずおずと二枚のスマホを取り出す麻路。ここは当然、学校のWi-Fi圏外だから、ズルテザリングをしないとラルヴァに辿り着けない。その手続きを終えて、ラルヴァのトップを開いた麻路は小さな口を目一杯に開いた。
「あっ……」
あたしも横からその画面を覗き込み、あはは、と笑いが出てしまった。
──「朝烏さん行かないで!」「寂しくなっちゃうよ」「うちの学校には朝烏が必要だって!」「朝烏と兎褄が平和に過ごしてない昼休みなんて嫌だ」「うわああああ、朝烏さん!」「麻路ちゃん、もし行きたくないなら、考え直してもいいと思うよ」「オーストラリアは遠すぎだって」「朝烏の意思は尊重したいけど、行って欲しくないって俺の意思も尊重して欲しい」「あの素敵な銀髪もう一回見てみたいな」「突然転校なんてびっくり、いきなり離ればなれは寂しいな」「朝烏さんのデッケー声、もう一回聞きたいです」「朝烏先輩と兎褄先輩の行く末、ずっと応援させてください!」……。
その他、ものすごい勢いで投稿が増え続けている。そのどれもが麻路に世曜高校にいて欲しいと願っている。
「麻路を連れ戻す切り札にしたくて、健翔に一時的にラルヴァを復活させてもらって、愛沙先輩に『草葉隊』を通じて世曜高生全員に呼びかけてもらうようにお願いしたんだ。麻路が望まない転校でどこかに行っちゃいそうだから、引き留めるメッセージを送ってって」
「せ、せっかく封印したのに……私なんかのために──」
「麻路のためならそれくらいするに決まってるでしょ、あたしをナメんな。っていうか、知ってた? あたしたちさ、世曜の名物カップルなんだよ。今ではもう名実ともに。それなのに、ありもしない視線に怯えるなんておかしいって」
あたしはそう言って麻路のスマホを持つ手に自分の手を添える。麻路は迷子の子供みたいな目を向けてきた。
「本当に……私、まだ、あなたの傍にいてもいいのかな……」
「うん。大丈夫。怖い眼差しなんて見ての通りどこにもないし、それでも不安なら、あたしが一緒に塗り変えていってあげる。お父さんが怖いなら、あたしも一緒に頭下げに行くからさ。だから、お願い……あたしと一緒にいてよ」
「碧子……」
麻路はあたしの名前を呼ぶと、あたしの左手を優しく触れ返してきた。ふわっと銀色の香りがあたしを包むこみ、彼女の高い体温が全身へじんわりと染み渡っていく。
その熱の揺らめきから、あたしは麻路が心を決めたことを悟った。
「麻路」
あたしも彼女の名前を呼び返した瞬間、急に心臓がドキドキと高鳴りだした。さっきまで平気だったのに、目の前にいる女の子があたしのことを好きだと言ってくれたのだと、急激に意識してしまう。ええ、ヤバい……なんか、いつものン十倍も可愛く見える。流されてはいけない欲求があたしの中で吹き荒れてくる──あ、でも、もう良いんだ。
あたしたち、もう、付き合ってるから。
「ね……チュー、する?」
あたしが訊くと、麻路は胡乱に目を細めてうなずいた。
「うん」
あたしは麻路とキスをした。麻路の唇は柔らかくて、濃い銀色の匂いがして、ぽわぽわして気持ちがよかった。もっと欲しくてくっと押しつけると、その向こうに麻路の歯の形を感じる。なんだか触れちゃいけないものに触れた気がした。呼吸のために離れると、ちゅ、と音が立った。目の前には上気してあたしを見つめる麻路の顔がある。うわ──あたしはもう、何も考えられなくなっていく。
「ね、もっと」
「ん……」
もう一度、唇を合わせる。今度はもっと、もっと、強く──。
「好き、麻路……」
「私も、好き、碧子……」
そうして、あたしたちは銀と碧の混じり合った匂いの中へと、深く、甘く溺れていった。
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