16-2 二年生・三月
バルルルル、とエンジン音が聞こえた。藍子のバイクだ。本当に超特急で来てくれた。
「それじゃ、打ち合わせ通りにお願いします!」
「わかった!」
愛沙先輩のサムズアップを受けて、あたしは走り出す。校門を出ると、目立つところにバイクにまたがった藍子がいた──けど、まさかのロングコートとフルフェイスヘルメットという出で立ちだった。
「バ、バキバキにキメてきてる……」
「スウェットとすっぴん誤魔化すためだから! っていうか、あんた本当に乗れるの!」
藍子はあたしの頭にすぽっと普通のヘルメットを被せながら言ってくる。
「ここで乗れなかったら……あたしは終わりなんだよ」
あたしはそう返して、後部座席に手を置いた。ぐら、と二輪特有の不安定さが、指先から伝わってくる。怖い。やっぱり身体が動かない……ダメダメダメ、あたしは目を瞑って深呼吸。深く息を吸って、探す。あの色を──あの時、あたしの中の虹を打ち消した、あの銀色を。
「麻路……」
あたしは目を開く。前に伸びた道に麻路の残り香が見えた。大丈夫、あたしの鼻はばっちり利いてる。この銀色の匂いを辿っていけば麻路がいる。麻路なら、この虹色からあたしを守ってくれる!
そう思った途端、呪いが解けたみたいに身体が動いた。車体を跨いでお尻をサドルに乗せ、ぎゅっと藍子の背中にしがみつく。藍子の身体が背筋が伸びた。
「やった、乗れたじゃん、アオ! そんで、どこに行くの!」
「……えっと、指示するからその通りに! まずはこの道をあっち!」
「オッケー。しっかり掴まってなよ!」
バルルル、とエンジンがうなりバイクが走り出す。すごいスピード感! 子供の頃、チャリのニケツでブイブイ言わていた頃の比じゃなかった。あたしは夢中で藍子の背中にひっつく。
「次は!」
「え、えっと、まだまっすぐ!」
うわ、結構いっぱいいっぱいだ。スマホを見てる余裕なんかない。ルートを完璧に頭に入れていて良かった。トラウマ克服一発目がバイクって、荒療治にもほどがあるよ。あたしは必死の思いで藍子に掴まる。
最初こそ、これちょっとヤバイかも……なんて思いかけたけど、藍子は気を遣って優しい運転をしてくれているみたいで、しばらく走っていくうちに少しずつ気分が落ち着いていった。
「アオ、大丈夫? 気持ち悪くない?」
藍子は声をかけてくれる。あたしはうなずき代わりに、ヘルメットをコツ、とぶつけた。
「うん、大丈夫。その……あんなに渋ってたのに、ちゃんと来てくれてありがと」
「……弱いんだよね。あんたの『お姉ちゃん』って。本気で弱ってる時にしか呼ばないから」
「え……何それ、全然意識したことない」
呆然とするあたしの目の前、しがみついた背中が肩をすくめるように揺れる。
「あんた、いつからかあたしのこと藍子って呼ぶようになってさ、それがクソ生意気な感じで嫌いだったんだけど……あんたがチャリでコケて腕折った時さ、駆けつけたあたしに『お姉ちゃん』って泣きついてきて、それがあんまりに可哀想だったから、あれ以来抗えなくなって」
そうだったっけ。そうだった気がする。あたしはあの時すごく、怯えてた。痛みとか怖さとか初めての入院とか、深刻な顔してやってくる人たちとか……全部の近しかったものが、あたしの傍から次々溢れてなくなっていくんじゃないか、っていう心細さに震えてた──。
「そのことを就職してから無性に思い出すようになって。人生とか思ったより短いし、明日のこともわからないし……そう思ったら、意地悪くしてた自分が小さく思えてさ。妹が本気で助けを求めてきたら、絶対に助けてやろ、って決めた。それだけ」
照れ隠しのようにぷい、と言葉を切る。あたしはもっと強く、藍子に身を寄せた。
「……それでいきなり優しくなったんだ」
「まあね。で──あんた、大事な誰かのとこ、行こうとしてんでしょ」
突然、ぶち当てられて心臓が飛び出そうになった。
「え、うん……なんでわかったの」
「いや、あの人がいっちゃう、って自分で言ってたし……入院してた時と同じ匂いがしてるよ。行かないでって縋るような、ね」
ああ、わかっちゃうんだ。あたしは胸が苦しくなる。そう、今のあたしは、腕がひん曲がって、爪の剥がれ落ちたあの時と同じだ。心細くて、寂しくて、嫌で、怖くて、死にそうだ。
でも──これは今に始まったことじゃない。あたしはあの時、心に刻まれた心細さにずっと怯えていたんだ。このまま、いなくなってしまうかも知れない、失ってしまうかも知れない。そんな怯懦がこの気持ちを伝えたいという心に、ずっとストッパーをかけていた。
偽物の関係だから、好きなように振る舞えるなんて──自分の感情に嘘をついて。
「お姉ちゃん……あたし、怖いよ……」
弱音が漏れる。こんなの藍子にしか聞かせられない。だからこそ藍子は応えてくれる。
「大丈夫。あんたなら大丈夫だから、行ってきな」
その言葉と共に視界に銀色が差す。反射的に顔を上げると「あっ……」と声が出た。
麻路がいた。姿勢の良い、いつもの立ち姿で自転車を漕いでいる。まるで、向かい風に抗うかのように、ゆっくり、ゆっくり……と。
ほら見ろ、行きたくないんじゃん! あたしは身を乗り出し、指さして叫んだ。
「藍子、あの子の横に並んで!」
「あんた……何する気?」
「あいつがあたしとやりたいって言ってたこと!」
藍子はあたしのしようとしてることを察したみたいだったけど、何も言わないでうなずいてくれた。スピードを上げて、麻路の自転車に接近する。ありがとう……お姉ちゃん。
「麻路!」
あたしは力の限りその名を呼んだ。麻路は一瞬だけちら、と視線を寄越し、それから最大限の驚愕の表情ではっきりこちらを見る。芸術品みたいに綺麗な二度見だ。
ただ、漕ぐ足を止めることはなかった。むしろ、加速した。あたしから逃げるように。
「逃がすかっ!」
バイクはそんな麻路を追い越すと、少し先で一気に減速する。いけそうな速度になったのを見計らって、あたしはバイクを飛び降りた。慣性と摩擦のせいで、少しふらつく──けど、根性で踏ん張ると、ちょうど横を通り過ぎた麻路の自転車に併走するようにダッシュした。
「うおおおおおおおおおおおおっ!」
腕を伸ばし、自転車後部の荷台に手をかける。指先から二輪特有のグラッとした不安定感が伝わってきた。昔、爪の取れた指がピリピリと痛む。あの日の虹がフラッシュバックして、身が竦む。
でも、絶対に離さない。ここで手を離したら、あたしは──一生後悔する!
「やあああああああああああ!」
声を張り上げ、一息に跳んだ。端から見れば些細な一動作も、あたしにとってはぱっくり開いた地割れを飛び越すような気分だった。
あたしは──麻路の走る自転車の荷台に座ると、その愛しい背中に思い切り抱きついた。
「麻路、捕まえた!」
「碧子……あなた、自転車は……」
「乗れる。もう怖くない。麻路が、守ってくれるって、信じてるから」
耳元でそう告げると、麻路の身体からすーっと力が抜けていった。自転車の速度もみるみる落ちていき、やがて止まる。
遠くでバイクに乗った藍子が手を振りながら、走り去っていくのが見えた。
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