4-1 二年生・九月
時は戻って九月。夏休みは儚い速度で去って行った。始業式の前日、課題を徹夜でやっつけて、這々の体で学校にやってきたあたしは、教室で友達と話している比良宮健翔の姿を見つけてヒエっとなった。
なんと、あたしは都合よく、あの日あのお祭りで見たこと、起こったこと、殺されかけたことを忘れて夏休みを過ごしていた。ほとんど学校の夏期補習に足繁く通い、それがなければ近所の塾の夏季限定の講習に顔を出し、家に帰れば疲れ困憊、藍子に寄生して有料登録してる動画サイトかコミックアプリで、頭を使わないコンテンツをぼーっと見てるだけの日々──せっかく十七歳になったのに、なんだこの青春? でも、こうでもしないと前人未踏の赤点コレクターになってしまう。せっかくハチャメチャな運に恵まれ、親戚とか友達に凄い凄いとチヤホヤされながら入った高校なんだ、留年なんてしてママやパパに余計な心配や負担をかけたくなかった。その一心が、健翔と朝烏麻路のことを忘却の彼方へ連れ去ってくれていた。
ただ、この日、あたしは思い出す。「私はずっとあなたを見ているから」と凄みのある声を。
あたしは思わず、あの女がいるんじゃないかと、そんなわけもないのにキョロキョロと辺りを見渡してしまう。
いた。
朝烏麻路が廊下の窓際、うちのクラスが見える位置にさりげなく立って、あたしを見ていた。
「ひっ!」
あたしは今度こそ悲鳴を上げた。「ん? どしたの碧子」と周りの子たちが反応してくる。え、どうしよ。朝烏麻路がガン付けてくる、と正直に言ったらマズい気がする。
「あ、いや、読書感想文、書いたのに家に忘れた……」
咄嗟にそう嘘を吐いた。あぁ~、と納得した雰囲気が流れる。
ああ、びっくりした、とあたしは自分の席に着いた。まさか本当にいるとは思わなかった。怖い物見たさでもう一度振り返ってみると、今度はばっちり目があった。アイムウォッチングユーと瞳に刻まれているような気がした。さしずめビッグシスター。心配しなくても何もしないのに、ご苦労なこと。まあ、しばらく監視して危険じゃないと判断されれば、自然と離れていくんじゃないかとあたしは楽観していた。
しかし、朝烏麻路はずっとあたしを見ていた。怨霊みたいに。
登校中、視線を感じてそれとなく振り返ると、麻路が斜め後ろについている。昼休み、購買の戦利品を持って歩いていると、向かいの校舎の窓から見られている。授業が隣のクラスの合同だったりするとここぞとばかりにガン見。帰り道もバスに乗るまでつけてくる。
それが毎日、毎日、毎日、毎日だった。残暑で汗ばむ日も、秋らしい晴れの日も、台風の日も、文化祭の日も、体育祭の日も──。
もちろん、文字通りのずーっとってわけじゃない。いない時もある。だけど、いる時が多すぎるし、あの暗殺者みたいな視線が頭から離れない。そのうち、あたしは休日でも朝烏の目がないかキョロつくようになっていて、思わず乾いた笑いを浮かべてしまった。
何かと有名な「パノプティコン」という刑務所のデザイン案がある。中庭の監視塔をグルっと囲むように円形の牢獄があしらえてあり、それぞれの独房は監視塔から見えるように窓張りになっていて、最少人数で多数の囚人の様子を監視することができる。逆に、なんかうまいことやって独房からは監視塔の中が見えないようになっているから、囚人からは監視人がいるかどうかわからない。なので、最悪、監視人は必要ない。仮に監視塔が無人でも「見られているかも知れない」という意識さえあれば囚人は規律に従うのである……みたいなやつ。
それと同じ原理で、あたしはまんまと朝烏麻路の視線に囚われていたわけだ。
ただ──やりすぎじゃね? と思わないでもなかった。
そもそもコスパが悪すぎる。あの優等生がこんな劣等生に構う時間的な余裕があるの? いや、まあ、なきゃやらないか。もしかして、人生n周目か転生者でステータスカンストしてるから、暇でしょうがないのか。なんだよそれ。あたしは貴重な青春捨て去って、ハイレベルな授業に四苦八苦してついてってるとこなのに、不平等すぎる。つまんない。
いつしか、あたしは怒りを覚えていた。完璧すぎる朝烏麻路への怒り、もとい、嫉妬。そして、まんまと訓育されたあたしの情けなさ。
なんとか一矢報いたい。なんもするつもりもないのに、ずっと見られるなんて不公平だ。
ぐっすり眠りながら一晩考えた結果、朝烏麻路がいるかいないか、視線に頼らず把握できればいいのにな、という願望が朝チュンにまどろむ意識に残っていた。そうすれば、あの目に怯えずに済む。だけど、そんなエスパーみたいなことできたら苦労はしてない──。
と、その時、あたしは炊きたてご飯の純白の匂いを感じた。我が家の朝食はご飯だから、あたしは毎朝、この匂いを目にしている。ぐーっ、とお腹が鳴った。そして、閃いた。
あ、そうか。あたしにはこの嗅覚があるじゃん。
その日、登校したあたしはさっそく、キングを狙ってるビショップみたいな位置から見つめてくる朝烏麻路を発見すると、方向転換、敢えてその視線に向かって歩いてみた。ずんずんぐんぐん近づいてくるあたしを、あいつは無表情で見据え続ける。
思えば、麻路は強いて感情を表に出さないようにするタイプだ。あの時の、あたしの突然突飛な行動に、内心ではオドオドして身を固くしていたのかも知れない。
でも、あたしはオラオラとドヤすわけでもなく、つきまといやめて~と懇願するわけでもなく、ただその脇を通り抜けるだけだった。その瞬間、深く息を吸ってあいつの匂いを探る。
見えた。あたしは犬のうんちを踏まないほどに鼻が利く。この色さえ知っていれば、視覚に頼らずあいつがいるかいないかわかるはず……。
ようやくこいつを出し抜けるかも、という高揚感が来た直後、あたしは思わず息を呑んだ。
「えっ……」
朝烏麻路の匂いが、それはもう、綺麗な銀色だったから。
いやいやいやいや。おかしくない? 銀色というのは特殊な色で光の中に存在しない。ピカピカ輝いて見えるのは、物体の金属光沢がそう人間の目に映っているだけであって、カラーコードではくすんだ灰色になっている。匂いに質感があるはずもないから、銀金銅みたいなメタリックカラーが見えることはないはずだった。
だけど……あの女は確かに銀色だった。煌めいて見えた。良い匂いだと思った。
すれ違った後、思わず振り返る。揺れる綺麗な黒い髪──だけど、あたしはそこに銀色の髪の毛を幻視する。きっと似合う。見たいと思った。例え死ぬ間際の一瞬であっても、許されるなら。あたしはドキドキしている自分に気がつく。正気じゃない。でも……もしかしたら。
皮肉なことにその色を知って以来、朝烏麻路の存在感はドカンと増した。匂いは景色や音以上にどうしようもなく、意識に上ってくるものだ。ふ、っと艶やかな銀色が香ったかと思って見ると、そこに朝烏麻路がいる。あたしを見ている。そのたびに今までとは違う緊張の糸がピンと張るようになった。
そのうちにあろうことか、あたしの方が先にあいつを見つけてしまうことも増えた。やっとこさ補習から解放されたある放課後、部活仲間の輪に交じっている朝烏を見かけた。髪を一つにまとめ、弓道部の稽古着を着て、穏やかな顔をしている。えーっ、あんなちゃんと女の子みたいな顔すんの? 普通に美人でズルだろ。常にゴルゴ13みたいな顔をしてろよ。
それがあんまりにも衝撃的すぎて、あたしにはあんな顔してくれないのかな──とか、気づいたら思っちゃっていて、そんな自分にあたしはドン引きした。朝烏麻路に見られたわけでもないのに、ダッシュでその場を逃げ出してしまう。一体、あたしは何を考えてるんだ。あいつは健翔の彼女なんだぞ。それなのに、まさか、見とれちゃうなんて……。
……健翔の彼女?
逃げ込んだ帰りのバスの中であたしの頭に特大の疑問符が浮かぶ。朝烏麻路は平宮健翔の恋人で、その関係をラルヴァでネタにされたくないから、唯一事実を知ってるあたしを見張っている。それはそうのはずなのにしっくり来なかった。あたしの監視に時間を割きすぎて、健翔よりもあたしを見ている時間の方が長いんじゃないって感じだし、そもそもあの女が誰か男の隣にいるイメージが湧かない。
でも、あたしの見立てと違ったら、朝烏麻路がここまでやる理由がよくわからない。
謎だ。謎すぎる。急に背筋がジタジタしてきた。ジタジタ? そう、ジタジタ。あたしは車内を見渡して、いるわけもない朝烏麻路がいないことを確認して、決断した。
訊いちゃおう、本人に。
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