3-3 二年生・一月(2)
補習が終わった頃にはまさに太陽が沈もうとしていた。あたしの意識もぼんやりと暮れかかっている。「人は堕落する生き物であります……」と譫言のように呟きながら、ガス欠の車を押すようなげっそりとした足取りで校門に向かって歩いていた。
丹堂センは異常な忍耐力があって、あたしが理解をするまであれこれ手管を変えて説明をしてくれる。今時塾講師でもそんな親身な人はいないと思うし、いい人じゃんと思いきや、逆に言えばあたしが理解するまで教えるのをやめない。あたしが間違えるたびに、あのひっくり返した三日月の目が「違うね」と語りかけてくる。「それじゃあこう考えてみようか」と何度も何度も何度も何度も反復する──そうやって、あたしは眠くなる暇もないくらいみっちり『堕落論』の精髄を叩き込まれた。
結果、補習の予定時刻を一時間も押してしまった。愛沙先輩は先に帰っちゃうし、外は暗くなりつつあるし、くそ疲れたし、最悪だ。これは丹堂センに対する評価を是正せにゃダメだ。あれは教育マシンだ。義務教育課程が全機械化された百年後の子供たちは、ああいう教師AIにみっちり教育を施されるに違いない。かわいそうに。あたしは憐れみの心を抱いた。
そんなパサパサのマドレーヌみたいなあたしの精神に、ふと、銀色が差した。
ぱっと顔をあげると、駐輪場の方からスーっと、自転車に乗った麻路が校門に向かっているのが見えた。部活帰り? 麻路は習い事の空手とは別に、学校では弓道部に入っていて今日はその活動日だった。だから帰りは別のつもりだったのに、すごい奇遇に思わず声が出る。
「麻路!」
あたしは、外灯の光にきらきらする銀色の髪を追っかける。麻路は驚いたようにぴくっと身を震わせると、自転車を止めてこちらを振り向く。
「……碧子。今、補習終わり?」
「うん、そ。ねー聞いてよ、丹堂センがさあ」
あたしは早速、この数時間、熟成していた愚痴を高速詠唱する。麻路は聞いているのか聞いていないのか相槌ひとつ打たずに、なんともいえない眼差しでじっとあたしを見つめていたけど、やがて、自分の乗ってる自転車の後輪を指さして言った。
「ねえ、それより、後ろ、乗らない?」
「は?」
あたしは思わず辺りを見渡してしまった。昼休みならいざ知らず、今の時間、生徒はちら……ほら……って感じでいるくらいで、そいつらもあたしたちに気づいているかよくわからない。
「い、今? 別に誰も見てないしよくない?」
「でも、こういう時は二人乗りをするものでしょ」
「確かに『安達としまむら』でもやってたしな……」
麻路と付き合うにあたっての参考図書だ。思ったよりもちゃんとやるんだな、と思った。
「うーん、そうか……そうだよなあ……」
あたしは後輪に据え付けられたよくある荷台を見つめた。多分、ヒモかなんかで荷物をくくりつけるためにあるアレ。小さい頃はこれに乗っかって藍子と一緒にブイブイ言わせていた。どうすればいいかくらいは知ってる。あたしはッスー、と息を吸った。
「……嫌?」
振り向いた麻路が訝しそうに訊いてくる。
「ううん、嫌じゃない、嫌じゃないよ、これくらい──よいしょっと」
あたしはそっと車体に手を置き、体重をかけ、足を上げて後輪をまたごうとして──そこで、どうしても無理になって、すっと元の位置へ身を引いてしまう。
「ふーっ」
「……何してんの?」
「いや、自転車の二人乗りは今の道交法だと軽犯罪になるからやっちゃダメって、頭の中でピーポくんが囁きかけてくる……」
「何言ってんの?」
「……麻路、あたしバス通なんだ。だから、バス停まで一緒に歩こうよ」
バス定期をチラつかせると、麻路は肩を落とし、ふわっと自転車を降りた。
「わかった」
「ごめん。でも……こうやって並んで行くのも映えていいんじゃない?」
「そうかもね」
怒った? あたしは麻路の横顔を窺った。髪を結わえるネイビーのリボンがひらひら揺れ、髪の間から覗く切れ長の目はつんと頑なに前を見つめている。思わず息を忘れる。この感じ、あたしは麻路と奇跡みたいな出会い方をしたその後、夏休みの明けた二学期の頭を思い出す。
暗殺者みたいな顔つきをした麻路に監視されていた日々のことを──。
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