3-2 二年生・一月(2)


 放課後、あたしは校内で一番高い校舎の最上階に来ていた。ここには常設されたクラスはなくて、選択教科だとか災害とかでイレギュラーな授業構成になった時に使われる空き教室群がある。放課後は吹奏楽部や合唱部の練習場として占拠されるほか、我らが成績不良者向けの補習が行われるフロアだった。

 世曜のシステムとして、毎週ざっくり国英数の小テストが行われていて、なんと、ここに毎週赤点判定が存在する。とんでもない話だけど、まあ、普通に予習復習をして授業を聞いていれば簡単らしいので、九十九%の生徒はパスできる。

 一方、そんな普通ができるはずもない一%のあたしはこうして補習へほとんど毎日のように招集されていた。もう今更、なんとも思わない。あたしは二年生の補習室の扉に手をかける。

 三学期も始まったばかり、新年早々足切りに引っかかるヤツなんて、あたしくらいだろうと思ったら、本当にあたしだけだった。うちの代、優秀なんですね。寂し。

 補習まで時間があったので、あたしは荷物だけ置いてすぐお隣を覗きにいった。そこは通常なら三年生の先輩たちの補習室だけど、一月の初旬といったらもう大学受験の火蓋が切って落とされる時期で共通テストも目と鼻の先。こんなところにいるなんて論外のはずだった。

 だけど、その人はいた。職人の巧みな技術でのされたうどんの生地みたいに、べろーんと机に突っ伏している。

「愛沙せんぱーい」

 あたしは西泉愛沙にしずみあいさ先輩の肩を揺すった。ヘリウム風船がぷかーっと浮かぶように、形の良いお下げの頭が上がってきて、寝起きのレッサーパンダみたいなくしゃくしゃくりくりの目があたしを見る。

「んうー……アオちゃん?」

「おはようございまーす。今日の補習、三年はせんぱいだけみたいっすよ」

「あー……まあ、そうだろうねえ」

 愛沙先輩は他人事みたいに言って、にゅあああああっと声を漏らしながら伸びをした。この人ととは世曜高校に入って以来の補習仲間で、そのクリオネみたいな不思議感がクセになる、あたしの推しだった。

「っていうか、三年生って授業も小テストもないから落としようがなくないですか?」

 あたしは首を傾げる。三年生の三学期は自主勉強期間、という名目で登校を免除されるから、少しもの寂しくなる時期だった。

「わたしの場合は救済措置の補填授業枠があんの。そこで赤点とったからまた落ちてきた」

 愛沙先輩の危機感のない様子に流石のあたしはちょっと心配になった。

「それ大丈夫? ちゃんと卒業できるんですか?」

「うん。最低限の要素を回収してクリアする完璧なチャートはできてるのだ」

「ほんとは頭めちゃ良いんだから残りの一ヶ月くらい頑張ればいいのに」

「まー、そうするのが賢いんだろうけどさ……やーる気が出ないんだねえ……」

 そう言って、クレープの生地みたいにトローっと机の上にとけていった。あたしはクレープの焼ける、クリーム色の香ばしい匂いを幻嗅する。ただ甘いだけじゃなくて、柑橘系の酸味も混じったような色もある。はしばみ色? 外国人の瞳のような甘酸っぱい色、それが愛沙先輩の匂いだった。

「まあ、ちゃんと見通しあるってのなら信じるけど……あ、そういえば今日、ラルヴァ落ちたの、知ってます?」

 あたしの言葉に愛沙先輩はにゅいっと人の形を取り戻す。

「へえ、そなの? 午後はずっと寝てたから知らないな」

 それから教室内をさりげなくきょろきょろ。ネタにされそうな話題を喋る時、聞き耳がないかを確かめる世曜高生の習性だ。それから先輩はスマホを取り出して、倍速かけてるのかと思うくらい超高速で指を動かし、首をふいっと傾げた。

「……普通に動いてるけど?」

「あ、じゃあ直ったんだ」

 あたしもアクセスしてみたら確かに表示される。なんだ一時的なやつか。あたしと麻路が原因でラルヴァがぶっ壊れたってなれば、めっちゃ面白かったのに。

「確かに書き込み内容的にサーバーが落ちてたっぽいね。っていうか……アオちゃんと麻路ちゃんのこと、先月以上にすんごい書かれてる」

「あ、やっぱり? やっぱあたしたちが落ちた元凶か」

 胸を張るあたしに、愛沙先輩は複雑に絡まってしまったコードを見るような目を向けた。

「……こんな猛烈に書かれてよく平気だね」

 どんなもんかと、あたしもログを遡ってみる。

 ──「兎褄と朝烏が一緒に昼食べてる」「なんか距離近くない?」「やっぱり付き合ってんだって」「購買の戦利品シェアしてる」「脱法マカロン食べさせた!」「食べかけ食べてる」「ばっち~、間接キスじゃん!」「え? ついに付き合った?」「誰か訊きに行け」──うんぬんかんぬん。やっぱり、あたしにはこの興味関心の雨あられが愉快に感じられてたまらない。

「んー、ライブ配信とか普通にコメントつきまくるじゃないですか。それと一緒っすよ」

「何でもない日常を勝手に盗み見られてるんだから、ライブ配信とは違うって」

 愛沙先輩の声音には怯えが混じっている。事典に載るレベルで典型的な世曜高生の心理だ。

「まー、確かにラルヴァの方が悪趣味ですけど……あたしも麻路も平気だし、やりたくてやってることなんで心配しなくていいっすよ」

「本当に……?」

「うん、だからあいさせんぱいは──」

 と、あたしが言いかけた時、ガラガラっと部屋の扉が開いた。

「補習の時間だぞ……ってお前らだけか? 新年なってもやる気のない奴らだな……」

 英語教師の堀川ほりかわがあたしたちを見て、呆れたような声を出した。画像生成AIに「おっさん」と打ち込んだら最初に出てくるようななりの、嫌われ役を自負しているような手合いの教師だった。好く要素がひとつもないからあたしは嫌いだ。

「そもそも兎褄はこっちじゃないだろ。自分とこへ戻れ戻れ」

 指さされたあたしは「へいへい」と、敬意がくれぐれも感じられないような適当な返事をし、愛沙先輩はふあ あ あ、とスカスカな欠伸を漏らす。

 あたしたちの最高な態度は見事堀川の癇に障った。

「お前らな、欠席扱いにして今すぐここで留年にしてやってもいいんだぞ」

 カチカチカチカチ、と赤いボールペンを威嚇するように執拗なノックをする。それはちゃんと困るので、あたしは引くことにした。

「んじゃ、絶対に留年だけはしないでくださいよ、せんぱい!」

「うん……」

 愛沙先輩に手を振り、部屋の出口へ足を向ける。必然、堀川の脇を通ることになるんだけど、その時、あたしの耳におっさん特有の独り言が飛び込んできた。

「ったく……色事にうつつ抜かしやがって……」

 バタン。あたしは後ろ手で扉を閉めつつ、お? と思った。スマホを出して「いろごと」と打ち込む。一秒で結果が出て曰く「情事、恋愛」。近年、世曜高校で表立った色恋沙汰は観測されていない。なのにあんな毒を吐けるということは──先生もラルヴァ見てる?

 気づいた瞬間、鳥肌が立った。きっしょ!

 一応、ラルヴァ設立の大義名分はやたら締め付けの激しいデジタル環境への抵抗だ。SNS禁止はひどい、なら自分たちで作っちゃおうという運動で、教師は発見したらそれを取り締まるのが立場的な筋というものだ。

 それが、生徒と一緒になってラルヴァの参画しているとは汚職警官みたいなもので、シンプルな嫌悪感があった。なんか、愛沙先輩を始めいろんな世曜生が見せる、観察されることへの拒否感の正体がやっとわかった気がする。

「あ、兎褄、もう補習始めるよ」

 呼ばれてそちらを見ると、丹堂にどう先生がいた。こちらは三十代くらいのノーマルメガネくらいしか印象に残らない国語教師。一児のお父さんで息子に何かあると即座に学校を休むほど溺愛してる。優しい物腰と眠くなる声音が特徴的な補習教師陣の良心だった。学校の大人を基本的に好まないあたしだけど、丹堂センには相対的に心を許してる。

「ねえ、丹堂センセ、質問あんだけど」

「うん? 珍しいね、何でも聞いて」

 あたしは丹堂センの後を追って二年の補習室に入りながら、訊いた。ド直球に。

「ラルヴァってなんだかわかる?」

「ラルヴァ……なにかマンガのキャラ?」

 きょとんとした様子で問い返してくる。なんか藍子とあたしの会話に口を挟むママみたいだな、と思った。

「うん、まあそんな感じ。知らないならいいや」

「なんか悪いね。でも、気になることがあったら自分で調べるクセをつけた方がいいね。特に最近はAIとかも進化してるわけだし、そういうのを使いこなせるようになっておけば──」

「へいへい」

 あたしは席に着きながら、どうだろう、と考える。それっぽくもあり白々しくもある。「一部の教師が知ってるかも」くらいの認識が良いかも知れない。

「というか、今日は兎褄ひとりだけか」

 ふと、教壇に立った丹堂センがあたしを見下ろして言った。なんか嫌な予感がする。あたしはニコニコーっと友好的な表情を見せてうなずいた。

「あー、うん、そだね」

「そっか……なら、今回はマンツーマンで徹底的に補習できるね」

「……丹堂センセ?」

「これは兎褄のためを思ってやるんだからな。ええと、今日は坂口安吾の『堕落論』か……難しいテキストだけど、頑張ってついてくるんだぞ」

 丹堂センもメガネの奥で、ひっくり返した三日月みたいな目にして言った。

 ──ニドウセンハ、セイトオモイノイイセンセイデス……。

 現代詩みたいな心の悲鳴が放課後の空に響いていく。

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