2-2 二年生・八月

 そんなあたしの醜態とは関係なく、ふとお祭りに行こうという話が飛び出して、集った親戚一同、車三台でとある神社へ出かけることになった。もちろん、あたしもついていく。藍子だけ自分のバイクでひとり気ままについてきていた。いいな、大人は自由で。デカ車の最後列の窓から姉のライダー姿を見やりながら、でも、あたしは今後一生、二輪の乗り物には乗れないのだろうな、と思う。じくじくと窓に触れた指先が痺れた。

 お盆の直前に催されていたそのお祭りは、なかなか豪勢で煌びやかだった。地元では有名な祭りらしくて、全ての地元民が集結し、人混みと聞いて思い浮かべる情景が広がっている。あちこちの屋台から魚介やソースの焦げるカラメル色の良い匂いが漂い、あちこちで稼働する発電機の音をベースに、そこらのBOSEのスピーカーから流れるピーヒャラ笛の音と、子供の歓声と泣き声が絡み合い、賑やかでとてもいい。

 久々の祭りにテンションが上がって、好奇心の赴くままフラフラ見て回っていたら、あっという間にひとりぼっちになった。あたしは昔から集団行動ができない。まあ、集まる雰囲気になったら、私用スマホの家族ラインに連絡が来るはずだし、いっか。

 そんなわけで、リンゴ飴とチョコバナナを頬張り、水風船ヨーヨーをビョンビョンしつつ、何か知らんけど多分ポケモンのお面を被って、くわえるとなんかほんのり甘い笛をピーピー吹いて歩いていた時、あたしは見知った顔を遠目に見つけた。

「あれ、健翔じゃん……?」

 灯籠というのか知らないけど、神社にありがちな石造りの何かの傍らに立っているのは、確かに同じクラスの比良宮健翔ひらみやけんとだった。甚平を着こみ、誰かと喋っている。

 相手は女子だった。それもめちゃくちゃ可愛く着飾った浴衣姿の。

 あたしはぎょっとして視線を明後日の方に向けた。もしかしてヤベーとこを見ちゃったか?

 というのも、恋話はラルヴァでめちゃくちゃ好まれる。恋愛沙汰ほど面白くて、インスタントに盛り上がりやすく、簡単に報じやすく、チンチロリンの賭け金並に感情が動くものはない。誰かの目に留まったが最後、別れるか卒業するまで、ラルヴァでは永劫に取り沙汰され続けるし、何なら狂気の有志による恋愛史すら編纂される。

 比良宮健翔はあたしと同じ中学出身の質朴なヤツだった。身長は普通くらいで、あたしに負けず劣らずひょろっとした体型、おしゃれなんて何一つ気にしていないような散切り頭に、犬みたいに黒々としたつぶらな目付き、ピッと閉じた口。何があっても、常にバックグラウンドであたしなんかには想像もつかない別の何かを考えている雰囲気の男子で、恋愛なんかには縁遠そうな、典型的な世曜男子だとあたしは認識していた。

 そんなヤツが学校から県境をいくつもまたいだ地方のローカルなお祭りで、誰か可愛い女子と逢い引きしている──これ、ラルヴァの民に知られたら、そっちでもお祭りになるくらい盛り上がるんじゃないの?

 うわー。あたしは身体中がカッカとしてくるのを感じた。移動を始めたふたりの後を、人混みに紛れながら追う。相手の子は誰だろう。めかしこんでいるし遠いのでよくわからない。普通に親戚の女の子とかかも知れないけど、それにしてもふたりきり? というか、オイオイ、あのふたり、人気のないところに向かってるよ。どう考えても「そういう」関係では──。

 あたしは学校用スマホを取り出して、じっと見つめる。ラルヴァはこいつからしかアクセスできない仕様になっていた。しかし、学校用スマホは校内で飛んでるWi-Fiにしか接続できないよう小細工されている。だから、学外ではラルヴァにアクセスできない──と思いきや、更なる小細工をすれば私用スマホのテザリングで、校外からでも通信できてしまうズル技術が情報メディア部によって確立されていた。簡単なので大半の生徒が施している処置だ。

 あたしは軽く想像してみる。

 ──【速報】比良宮健翔、○○県で彼女とデート。

 そう自分の指が打ち込んで、投稿する未来を。ほどなくたくさんのリアクションがつく。たくさんのコメントがつく。「えー、あいつが?」「やっぱやることやってんだな」「彼女かわいい?」「外部かも」「なんだ、見たかったなあ……」云々。

 ラルヴァは匿名性だけど、ポストにリアクションをつけられて、内部的な個人ステータスで自分の投稿についたその総数を確認できる。もし健翔の恋愛を報告すれば、あたしの持つその数字はモリっと増えるだろう。きっと、他の何物にも代えがたい快感がある。大きなSNSでバズるのとは全く違う、水筒にお酒を入れてきて授業中に飲んじゃうみたいな、濃厚でスリリングな刺激──。

「……ま、やんないけど」

 あたしは学校用スマホをしまった。あたしひとりが楽しいならともかく、夏休み中もラルヴァにたむろするような連中に、餌をばら撒くような真似をする気は起きなかった。何よりもシンプルに、健翔に対して悪い。せっかく高二の夏休み、世曜の悪しき裏面から解放され伸び伸びと過ごしているのを、あたしみたいな子鬼に台無しにされるなんて可哀想が過ぎる。

 なんて考えつつも、なんとなく尾行を続けていたら、やがてふたりは境内から少し外れたところにある休憩所みたいなところまで来ていた。近くにはトイレがあって、女の子の方がそこへ入っていくのが見える。健翔は手持ち無沙汰そうに私用らしいスマホをいじっている。あたしはその様子を、離れた場所にある謎の東屋の陰から見ていた。

 もう、あたしのふたりに対する興味はもう出涸らしの茶葉のように、ほとんどなくなっていた。見つかったのがあたしで良かったな、お好きにやりなさい、としか思わない。LINEにも藍子から「どこにいんの?」とメッセージが来ている。もう潮時だな。

 と、スマホをしまって踵を返そうとした時、あたしはものすごいパワーで引っ張られ、小屋の壁面に押しつけられた。

「見たな」

 そして、恐ろしい声音がそう囁いてきた。

 あたしは一瞬、何が起こったのかわからず呆然として、目の前にある顔を見つめていた。浴衣姿の長い黒髪の女が、あたしの首元へまっすぐ両腕を伸ばした状態で、殺意の籠もった眼をあたしに向けている。

 あたし、首を絞められてる。

 それを理解した瞬間、恐怖が全身を貫いた。ぶわっと全ての鳥肌が立つ。あたしは首を圧迫してくる指から逃れるように身をよじると、必死で叫んだ。

「み、見てない、なんも見てないっ!」

「嘘、ラルヴァにチクった」

「し、してないよっ! してないです──うぐっ」

 ぐ、と息ができなくなって、意識がぐらっと霞む。中学生の時、首を絞め合う失神ごっこをした時のことを思い出す。あれは所詮遊びだったので、ちょっとクラっときた後「やばー」とへらへら笑って終わりだったけど、これは本気でヤバい。

 殺される。

 あたしは首を絞める手を無我夢中で掴むと、必死で抵抗した。相手がバカ力なのか、あたしが非力過ぎるのか、全然引き剥がせそうにない。それでも僅かに開いた隙間から、僅かに空気が流れ込んで意識が戻ってくる。

「たすけて……ほんと、なんもしてないの……ラルヴァ、見ればわかるから……」

 痛いのと苦しいのとで、涙がぽろぽろ零れてくる。あたしの訴えに女は訝しそうに眼を細めると、片手であたしが肩から提げてた鞄に手を突っ込み、学校用のスマホを引き抜いた。

「ロックのパスは?」

「しじみのひゃくとおばん……」

 女はちょっと考えた後、443110と入れて解錠すると、あたしを片手で器用に拘束したまま、スマホの中を物色し始める。あたしは脱出を試みようとしたけど、うううう、と情けない声が漏れるだけで、何も起こらない。そのうち息が足りなくなって、ぷわーと意識がふわふわしてきた。あれ? なんだか気持ちいい……物心ついたばっかの頃、ママに頭を洗ってもらっていた時のことを思い出す……ぽちゃぽちゃして、あったかくて、すべてがまあるくあたしを包み込んでいて……ああ……。

「……ふうん、何も書いてないみたいね」

 そんな呟きと共に、あたしの首は突然解放された。喉が痙攣して苦しく、身を折ってゲホゲホと咳き込む。そんなどう見ても憐れな様子のあたしの肩を女は掴み、ドン、と小屋の壁にもう一度押しつけた。まだなんかあんの、もう勘弁して……。

 そいつは大蛇の這うような低く暗い声で言う。

「今日見たことは絶対に、誰にも、どこにも言わないで──」

「は、はい……言いません……バラしません……」

 あたしはお線香の煙みたいなほっそい声で答えた。涙と怖さで前が見えなかった。女はふう、と小さく息を吐くと、あたしから身を引いた。

「約束は守りなさい。私はずっとあなたを見ているから……兎褄碧子」

 あたしの名前。

 その瞬間、あたしの恐怖メーターは天井を突き破って、遙か彼方、吹き飛んでいった。

 ぐっと引っ張ったピンボールのハンマーで思い切りお尻を弾かれたように、あたしは猛ダッシュでその場から去った。人混みをかき分けて神社の入り口まで走る。無我夢中で本当にその時の記憶がない。見慣れた顔を見つけると、一目散に近づいてぎゅっと抱きついた。

「うわ、びっくりした! ……なんだよ、アオ、あつくるしいって」

 あたしが捉えたのは藍子だった。姉はかったるそうにそう言うと、あたしの額を掴んでグイグイと引き剥がそうとしてくる。

「ででで、でた、でた、ヤバイ、ヤバいやつ──」

 あたしは岩に張り付くカメノテみたいにガンコに粘着しながら訴えた。藍子は訝しそうにあたしを見下ろす。

「なに? 露出狂でもいた?」

「ち、ちが──」

 健翔がデート中で、女があたしを殺そうとして……と言いかけて、喉がヒュッと詰まった。

 ──今日見たことは絶対に、誰にも、どこにも言わないで。

 あの女にぶち当てられた殺意が蘇り、声帯がピキリと固まって言葉が出てこなかった。そのうち、じわじわと怖気が上ってきて、あたしは藍子の胸に顔を埋めた。

「う、うわあああああん、お姉ちゃあああああん……」

「な、なに、なに……そんな久々の迷子が怖かったの……」

 藍子は戸惑いつつも、あたしを拒まずに受け入れてくれた。前まではクソ性格が悪くて大嫌いな姉だったけど、高校卒業後、就職してからは随分と丸くなって、叫ぶくらいおいしいプリンを買ってきてくれたり、今みたいに、同じDNAを引き継いだとは思えない豊かなおっぱいを貸してよしよししてくれるようになった。あたしはその谷間で存分に溺れた。

「どうした、アオ。アイにひっついて。またいつかみたいにドチャメチャにコケたん?」

 やがて、戻ってきたママが藍子にべったりなあたしを見て、心配そうに言った。泣きべそ状態で答えられないあたしの代わりに藍子が肩をすくめる。

「ううん、幽霊見たんだって」

「幽霊? アハハ、ここ神社でお墓ないんだけど」

 ママはケタケタと笑った後、はたと真顔に戻ってあたしの顔を覗き込んだ。

「それで大丈夫? ケガはしてないんね?」

「うん……」と藍子の谷間の中からあたしはうなずく。

「そ。気をつけてね、あんたホントそそっかしいんだから──」

 随分と心配そうに言われた。まあ、そそっかしいというのは認めるけど……今日、あんな目にあったのはあたしがそそっかしいせいなのか?

 いやいや、理不尽じゃなかった? 藍子の乳に埋没しながら、あたしは少しずつ冷静さを取り戻していく。その後、親戚が揃い踏みした頃には、何か知らんけど多分草タイプのポケモンの顔面を頭に乗っけてぶすっとしている十七歳の女がそこにいた。

 帰路の車中、シートにダラっと座りこけながらあたしは考える。どうしてママのお腹にいたあたしは、豊満なママではなくヒョロガリのパパの染色体だけを器用に選んでしまったのか──じゃなくて、あたしを殺めようとしたあの女は一体何なのか。

 まあ、健翔の彼女なんだろうな。ラルヴァで噂されるのを嫌い絶対に世曜高生と遭遇しないよう、こんな遠地のお祭りをわざわざ選んでデートを楽しんでいたら、どっかであたしの存在に気づいてしまい、お花摘みと称して健翔のもとを離れ、あたしを始末しようとしてきた。ラルヴァを知っているということは彼女も世曜高生で、多分、暗殺者の家系なんだろう。

 アサシンカノジョなんてマンガかアニメみたいな響きがしてちょっと面白そうだけど、嫌だなあ、と当事者としては途方に暮れてしまう。あたしにやるつもりがなくても他の誰かが書き込む可能性だってあるじゃん。冤罪で縊り殺されたらたまったもんじゃない。まあ、まさか本当に殺しはしないだろうけど、暴力を振われるのはイヤだ。あたしは楽しい人生を過ごしたいだけなのに、痛かったり怖い目に遭うのは本当に懲り懲りだ。

 面倒なことになったなあ、と目を閉じると、瞼の裏にあの女の顔が浮かんでくる。鬼気迫った眼差し、ドスの効いた声、乱れた黒髪。む……フラッシュバックもどきみたいなイメージだったけど、改めて観察すると整った顔してる。怒ってなければ美人かも知れない。だからこそ怒った顔が怖いんだけど、それよりも、この面影なんか見たことあるような──。

「あっ」

 目を開いた。あたし、知ってる。

 知らない顔だと思ったけど、混乱が落ち着いてきた今になってちゃっかり思い出した。あれは朝烏麻路という隣のクラスにいる女だった。定期考査では毎回首位争いを繰り広げ、空手か何かでめっちゃ良い成績を収めて表彰されてた、辞書通りの文武両道スーパー優等生、ついでに眉目秀麗大和撫子。そんなすげー完璧超人でも体育の授業ではちょこんと体育座りするんだ、と思ってガン見していたのでよく覚えている。

 それであたしは納得した。それくらいの知力があれば世曜高生全員の顔を把握するのもわけないし、それくらいの武力があればこの人混みの中であたしを発見するのもわけない。

 ただ、神はそんな二物を朝烏へうっかり与えてしまったので、差し引きで運を持っていってしまったのだろう。学校とは全く関係のないお祭りで、あたしと居合わせてしまうという不幸にはドンマイと言わざるを得ない。

 いろいろと整理がついたところで、そっかあ、とあたしは窓に頭を預けた。健翔と朝烏麻路がねえ。健翔は何を考えてるのかよくわからないヤツだけど、朝烏麻路くらい脳の皺が深くて表面積が大きければ、余裕で会話が成立するんだろう。

 そう考え始めた頃にはあんまり怖さはなくなっていた。サバンナにいる未知の恐ろしい存在も、「ライオン」と名付けた結果、単なる野生動物となって調教できるようになったのと同じように、あたしを襲ったのも朝烏麻路だと知れれば大したことはない。あいつの前でスマホをいじらなければいいし、万が一、あたしの預かり知らんところで健翔の恋人情報が出回っても、あんな美人に殺されるなら仕方ないと思える。何なら首絞められた時、ちょっとエクスタシーあった気がしてきた。こう見えてあたしはドMなのだ。むしろ殺してくれ。ドンとこいだ。

 幽霊の正体見たり朝烏麻路、ということで気が緩んだあたしは、課題疲れ、祭り疲れ、スキャンダルうっかり見疲れ、殺されかけ疲れが一気に来て、一瞬で眠りに落ちた。

 そんな風にあたしは麻路とのほぼ初めての交流を解釈して、終わった気になっていたのだけど、まあ、事態はそこまで単純ではなかった。

 それから数ヶ月経った年明け三学期、あたしと朝烏麻路は、衆人環視の世曜高校で付き合い始めることになってるのだから。

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