滅国 6
——意識の始まりは、頭痛からだった。
鈍痛が、後ろからも前からもやってくる。思わず、手を額に当てようとする。しかしそれは叶わない。身体が全く動かない。
「気がついたか」
暗闇の中で声がする。どこかで聞いた声。記憶の引き出しが使い物にならない今、散らばった中身をかき集めるところから始めなければならなかった。
僕はちーちゃんのいる施設に来て、施設内を案内されて、応接間でちーちゃんを待っていたら、久米が意識を失って、僕も……そこで探している手を止める。
違う。この声はここに来る前から知っている。
男の声。聞き覚えのある声。僕は無理矢理まぶたをこじ開ける。目の前にいる相手の正体を確かめるために。
「水谷、くん」
霞む視界で揺れる影。ぼんやりとした輪郭が笑った、気がした。
「水谷くんだよね?」
「ああ」
低い声が静かに響く。普段の視界に戻っていく中で、彼がゆっくりと微笑んだ。懐かしい旧友に会った時の表情。あの雪の中で見た、水谷くんの顔がそこにあった。
「水谷くん、なんで」
混乱する頭で、必死に訴えようとする。しかし、言葉は途切れ途切れにしかやってこない。どうして水谷くんがここにいるのか。それすら聞くことができない。
「痛いか」
「え?」
「鼻から血が出てる。おそらく意識を失った時に、思い切りテーブルに打ちつけたんだろう」
そう言われて、初めて鼻の下に違和感を感じた。口の中に広がる血の味。
「水谷くんは、どうしてここにいるの」
彼の顔が不自然に歪んだ。悲しそうに眉根を寄せているが、口元を歪ませ無理矢理笑っているようにも見える。
久しぶりに会った水谷君は前よりも痩せて、ますます人間離れした風貌をしている。黒い革靴に黒いスーツを着ており、それが葬儀屋を彷彿とさせた。
「田中、俺の名字なんだか分かるか」
床に腰を下ろし、水谷くんは片足を伸ばした。
「え、あの、水谷、だよね」
「そう、水谷だ。ずっと水谷って名乗ってきた。でも違う。本当の名前は……」
「……石田」
そう言うと、彼は僕を見つめた。深い色の瞳が静かに揺れる。
「ああ。本当の名字は石田だ。
石田——水谷くんは僕を見つめたまま、遠い景色を見るように、目を少しだけ細めた。
「でも俺はこの名前が嫌いだった。父親と同じ名字を名乗るのが嫌だった。だから母さんの旧姓を名乗ってきたんだ……母さんが死んでからもずっと」
顔が苦しそうに歪む。今にも泣き出しそうな表情。水谷くんはごく稀に、困惑するくらい、酷く悲しげな表情をする。
「俺は母さんの連れ子として、石田の屋敷に入った。うちは元々貧乏で、母さん一人だけの稼ぎじゃどうにもならなかった。そんな中で出会ったのが、石田の親父だった」
「……本当のお父さんは?」
「知らない。昔、母さんに聞いたはずなのに、思い出せなくてな。自分がその事実を拒絶しているのか、石田との生活のせいでそれ以外の記憶が欠落したのか、正直分からない」
そう言いながら、水谷くんはそっと笑う。
「俺の記憶が合っているなら、石田は未亡人の母さんを気に入って、俺と一緒に屋敷に迎え入れた。でも、本当は母さん、嫌だったんだ。不吉な噂が飛び交う屋敷で暮らすなんて、正気の沙汰じゃない。でも、そうせざるを得なかった。俺との生活のために、自分の身を捧げたんだ」
水谷くんは伸ばしていた足を胸元へ持っていき、膝を抱えるように折り曲げた。
「——ダメだった。母さんは、石田のやってることにすっかり参っちまったんだ」
そう言うと、水谷くんは口元を歪ませた。
「田中、石田が何をしてたか分かるか? どうして、ただの金持ちだった石田家に変な噂がたつようになったのか、分かるか?」
真っ黒の瞳が大きく見開かれる。その瞳が濡れているせいで、少し泣いているようにも見えた。
「……石田家はな、代々人を殺して生計を立ててたんだ」
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