渡井『自画像の断面』


 困った。私の通う美大で、課題として自画像を求められている。絵を描くことは好きだ。視線を向け、自分で定義し、筆を走らせその輪郭を浮かび上がらせるあの時間が好きだ。


 しかし私の手元の、画用紙は白紙のままだった。近くには先を尖らせた鉛筆と練り消しが転がっている。


 これは別にスランプではない。いや、世間一般ではスランプというのかもしれなかった。なにせ、自分の顔に確信が持てないのだ。


 机の上にあるスタンド鏡を見る。そこにはぼんやりとした顔の「自分」であるはずのものが映っていた。本当に、この顔が私なのか?


 スマホのロックを解除し、アルバムのカメラロールを下にスワイプしていく。数か月前の、LINE上で送られてきた学園祭の集合写真。そこに、私が映っていた、はずだった。しかし、それが自分だと認めるには、くっきりとした顔なので、困惑するしかなかった。


 鏡に映る私と、集合写真の私。どちらも私のはずだ。

 しかし、確信が持てない。どれが本当に、私が絵として仕上げるべき顔なんだ。いや、どちらでもないのか。


 自室の隅にある印刷機に向かって、スマホからデータを送る。やがて、ひとりでに印刷機が集合写真を写した紙を吐いた。椅子から立ち上がり、近づいて、縋るように写真が写った紙を丁重に持ち、覗き込んだ。


 そこには、どこかぼんやりとした目元がくっきりしている男がいた。私だ。私のはずだ。おかしい。鏡を覗き込むとぼんやりしている。カメラロールの写真を見るとくっきりしている。紙に印刷すると、目元だけくっきりだ。


 私は惑わされた。苛立った。ああ、提出期限は迫ってきているのに。

 頭の中で責める声がする。「お前どうするんだよ」「お前がおかしいだけじゃないか」「絵描くの向いてねえよ」うるさい。


 だいたい、鏡と写真なんかに私を定義できるとは思えない。


 鏡を壁に向かってなげつける。ガシャリ、とあっけなく割れて壊れた。

 スマホから写真を全部選択し、全て消去する。あっけなく画面は白くなった。

 流し台に行き、ライターを取り出して印刷した紙を燃やす。あっけなく真っ黒な燃えカスになった。


 私は一息ついてから、机に戻った。

 記憶の中の私を描こう。そうすれば、ちゃんとした絵を描けるだろう。


 眼を瞑って、脳裏に思い浮かべる。だが、その顔はぼんやりとしていた。先ほどの、鏡に映った私よりも。モヤやモザイクがかかっているようだ。どんな目の形をしていたのかすら、思い出せない。唇の形、耳の大きさ、髪の生え際すら。


 世界に負けた。私は、私の顔は、どこにも無いものなのだろうか。

 否、そもそも、私の顔は見せるためのものではないだろう。なぜ、見せるという枠に無理やり押し込もうとしたのだ。


 結局、課題は白紙で提出した。


「どういうつもりかね」 教授に問われた。

「提出自体はしていますよね。ふざけや逃げではございません。私の顔は、定義ができないものなのです」

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