第39話


夜も更け、暖炉の火がパチパチと音を立てる。こたつに入った菜々美は、こずえと向かい合って座っていた。高井まどかは、奥の部屋で明日からのスケジュールを確認している。


「明日、もう東京へ帰るの?新社長は忙しいわね」


こずえは、菜々美に微笑みかけた。その笑顔には、娘の成長を喜ぶ、母親の優しい眼差しが込められていた。


「ええ。やらなくてはならない事が、山ほどあるから」


菜々美は、少し申し訳なさそうに答えた。


「まあ、会長はゆったりでいいわ。若い人に任せて、私は隠居生活を楽しむつもりよ」


こずえは、くすくすと笑った。


「そんなこと言わないでください。お母様の経験と知識は、アトリエシノハラにとって、かけがえのない財産です。これからも、相談に乗ってください」


菜々美は、真剣な眼差しで言った。


「あらあら、そんなに褒めなくてもいいわよ。でも、困ったことがあったら、いつでも相談してちょうだい。いつでも、菜々美の味方だから」


こずえは、菜々美の手を握りしめた。その温かい手に、菜々美は安堵感を覚えた。


「ありがとう、お母様」


菜々美は、改めて感謝の言葉を伝えた。


「それより、気になることがあるんだけど」


こずえは、少し表情を硬くして言った。


「気になること?」


菜々美は、首を傾げた。


「高橋香織……その人のことよ。菜々美が、あの人のことを調べていると聞いたわ。何かあったの?」


こずえは、鋭い視線で菜々美を見つめた。


菜々美は、一瞬、言葉に詰まった。過去の辛い記憶が蘇り、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。


「……昔、派遣で働いていた会社で、酷い目に遭わされたの。許せないの。どうしても、仕返しがしたい」


菜々美は、絞り出すように言った。


こずえは、しばらくの間、何も言わずに菜々美を見つめていた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「菜々美の気持ちは、よく分かるわ。私も、若い頃は、色々な苦労をしたから。でも、復讐は、何も生まないわ。憎しみは、憎しみしか生まない。菜々美が、そんなものに囚われてしまうのは、見たくない」


こずえは、菜々美を諭すように言った。


「分かってる。でも、どうしても、あの時の悔しさを、忘れられないの」


菜々美は、俯きながら言った。


「菜々美は、もう、昔の菜々美とは違う。アトリエシノハラの社長になった。たくさんの社員を抱え、社会に貢献できる立場になった。そんな菜々美が、過去の憎しみに囚われるのは、勿体ないわ。もっと、未来を見据えて、進んで欲しい」


こずえは、菜々美の肩に手を置いた。


菜々美は、こずえの言葉を聞きながら、複雑な気持ちになっていた。復讐したいという強い気持ちと、こずえの言葉に対する理性的な考えが、心の中で葛藤していた。


「……少し、考えさせてください」


菜々美は、そう言うのが精一杯だった。


こずえは、それ以上何も言わずに、菜々美の肩を優しく叩いた。


夜空には、満月が輝いていた。菜々美は、窓から月を見上げながら、過去と未来、憎しみと希望の間で、深く考え込んでいた。明日、東京へ戻った菜々美は、一体どんな決断を下すのだろうか。

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