第31話


ドアを開けたこずえの目に飛び込んできたのは、秘書の高井まどかの姿だった。しかし、いつもと違うのは、彼女が大きなスーツケースを抱えていることだった。しかも、それは、まるで高級ドレスでも入っているかのような、ドレス専用のケースだった。


「高井さん?どうしたの、こんな朝早くに…?」こずえは、驚きを隠せない。


高井は、いつもの冷静な表情を崩さず、丁寧に頭を下げた。「おはようございます、先生。少し、お話がありまして。」


「話…?どうぞ、入って。」こずえは、高井を部屋に招き入れた。


高井は、リビングに入ると、持っていたスーツケースを床に置いた。「先生、実は、菜々美さんの件で、私なりに考えたことがあるんです。」


「菜々美の件…?一体、何のこと?」こずえは、訝しげに眉をひそめた。


「菜々美さんは、今、非常に不安定な状態だと思います。今回の報道で、自分の過去や、先生との関係について、深く悩んでいるはずです。このままでは、デザイナーとしての才能も、潰れてしまうかもしれません。」高井は、真剣な眼差しで語った。


こずえは、黙って高井の言葉に耳を傾けた。高井の分析は、的を射ている。菜々美は、今、人生の岐路に立たされている。このままでは、才能を活かすこともできず、不幸な人生を送ることになるかもしれない。


「そこで、私は、菜々美さんが、自分の才能を再び信じ、立ち直るための、ある提案をさせていただきたいんです。」高井は、そう言うと、スーツケースを開け始めた。


中から現れたのは、未完成の美しいドレスだった。繊細なレースや、上質なシルクが使われており、そのデザイン性の高さは、一目でわかる。しかし、まだ、いくつかの部分が未完成のままだった。


「これは…?」こずえは、息を呑んだ。


「これは、菜々美さんがデザインしたドレスです。次のコレクションのために、制作途中だったものなのですが…、今回の騒動で、制作を中断してしまったそうです。」高井は、説明した。


「それで…?一体、何を言いたいのかしら?」こずえは、高井の意図が読めず、焦り始めた。


「先生に、このドレスを仕上げていただきたいんです。」高井は、きっぱりと言った。


こずえは、目を丸くした。「私が…?このドレスを仕上げる…?そんなこと、できるわけないわ。私は、自分のデザインで手一杯だし、第一、菜々美がそれを望むはずがない。」


「いいえ、先生なら、きっとできるはずです。菜々美さんの才能を一番理解しているのは、先生です。先生の技術と感性があれば、このドレスは、必ず素晴らしい作品になるでしょう。」高井は、熱心に説得した。


「でも、菜々美は、私を拒絶している。私が作ったドレスなんて、見たくもないはずよ。」こずえは、悲しげに言った。


「だからこそ、意味があるんです。菜々美さんは、今、先生の愛を試しています。先生が、このドレスを仕上げることで、菜々美さんは、先生の愛情を、改めて確認することができるはずです。」高井は、力強く言った。


こずえは、高井の言葉に、心を揺さぶられた。高井は、菜々美の気持ちを、よく理解している。そして、自分に、何ができるかを、的確に示してくれている。


「それに、先生には、このドレスを仕上げる、もう一つの理由があります。」高井は、続けた。「それは、先生自身の過去と向き合うためです。先生は、昔、母親に、裁縫の才能がないと言われ、夢を諦めかけたことがありましたよね?このドレスを仕上げることは、過去の自分を乗り越え、母親としての自信を取り戻すことにも繋がるはずです。」


こずえは、高井の言葉に、深く感銘を受けた。高井は、ただの秘書ではなく、自分のことをよく理解し、支えてくれる、かけがえのない存在だった。


「…わかったわ。私が、このドレスを仕上げる。」こずえは、決意を込めて言った。「高井さん、ありがとう。あなたのおかげで、また、前を向いて進むことができるわ。」


高井は、微笑んだ。「先生なら、そう言ってくれると思っていました。私は、先生のことを、ずっと応援しています。」


こずえは、高井に感謝の気持ちを伝え、未完成のドレスを手に取った。そして、その繊細な美しさに、改めて心を奪われた。


(菜々美…、あなたの才能を、私が、必ず輝かせてみせる。)


こずえは、そう心の中で誓い、ドレスの制作に取り掛かった。

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