第4話。引き裂かれる糸

小説「針と糸と夢」


第四章:引き裂かれる糸


嵐の前の静けさ、という言葉がある。片岡菜々美の日常は、まさにその言葉を体現しているかのようだった。吉田美咲や田中優子、そして他の女性社員たちの静かな、しかし確かな連帯は、高橋香織の独裁的な振る舞いに見えない楔を打ち込み、オフィスには以前のような息詰まる緊張感は薄れていた。香織自身も、あからさまな嫌がらせは鳴りを潜め、まるで獲物を前にした肉食獣が、しばし息を潜めて次の機会を窺うかのように、静かに菜々美の様子を観察しているように見えた。菜々美は、久しぶりに肩の力を抜き、深く呼吸ができるような、そんな解放感を味わっていた。失いかけていた笑顔が少しずつ戻り、夜も以前よりは眠れるようになった。デスクには、小さな多肉植物の鉢植えを置く余裕も生まれた。それは、ささやかな、しかし確かな希望の萌芽だった。


しかし、その平穏は、あまりにも脆く、儚いものだった。まるで、薄氷の上に築かれた砂の城のように。その日、オフィスは月末の繁忙期を迎え、いつも以上に慌ただしい空気に包まれていた。内線電話の呼び出し音、キーボードを叩く音、書類をめくる音、そして人々の早足で歩く靴音。菜々美もまた、山積みにされた伝票整理とデータ入力に追われ、額に滲む汗を手の甲で拭いながら、一心不乱に作業に集中していた。窓の外は、いつの間にか鉛色の雲が空を覆い始め、じっとりとした湿気を含んだ空気が、オフィスの中にまで流れ込んでいるようだった。


その時だった。菜々美の背後に、音もなく、影のように高橋香織が立っていた。まるで、熟練した狩人が獲物に忍び寄るように、その気配はほとんど感じられなかった。菜々美がふと顔を上げた瞬間、香織の冷たい視線と真正面からぶつかった。その瞳の奥には、以前のようなあからさまな敵意ではなく、もっと深く、ねっとりとした、得体の知れない感情が渦巻いているように見えた。


「片岡さん、ちょっと、いいかしら?」

その声は、いつになく低く、抑揚がなく、まるで古井戸の底から響いてくるかのように不気味だった。菜々美の背筋を、嫌な予感が走り抜ける。心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

「は、はい…高橋さん、何か…?」

努めて平静を装ったが、声が僅かに震えるのを止められなかった。


香織は、何も言わずに、菜々美のデスクの上、キーボードの脇にちょこんと置かれた小さな布製の巾着袋に、ゆっくりと視線を落とした。それは、菜々美が幼い頃、田舎の祖母からもらった手作りのお守りだった。藍色の地に、白い糸で小さな花の刺繍が施された、簡素なものだ。中には、祖母が神社の境内で拾ったという、親指の爪ほどの大きさの、丸みを帯びた水晶の小石が入っている。菜々美にとっては、それは単なる物ではなく、遠い日の祖母の温もり、そして、どんな困難な状況に陥っても、自分を見守ってくれているという心の支えだった。緊張する場面や、心が折れそうになる時、菜々美は無意識にそのお守りを握りしめる癖があった。その小さな布の感触と、中に込められた水晶のひんやりとした硬さが、不思議と心を落ち着かせてくれるのだ。


「あら、これは何?可愛らしいわね。お人形さんごっこでもしているのかしら?」

香織の唇の端が、微かに歪んだ。それは、嘲笑と呼ぶにはあまりにも冷たく、侮蔑と呼ぶにはあまりにも静かな表情だった。しかし、その言葉は、鋭利な刃物のように菜々美の胸を刺した。

菜々美の顔が、カッと赤くなるのを感じた。

「これは…祖母が作ってくれた、お守りです。大切な…ものですから」

かろうじて、そう答えるのが精一杯だった。声が震え、語尾が消え入りそうになる。


「ふぅん、お守りねぇ。そんな非科学的なものに頼って、よく仕事ができるものだわ。だから、いつまで経っても派遣社員止まりなのかしら。もっと現実を見たらどう?」

香織の言葉は、容赦なく菜々美の心を抉っていく。それは、もはや嫌がらせというよりも、人格そのものを否定するような、悪意に満ちた響きを持っていた。

「そ、そんなこと…ありません…!」

反論しようとしたが、言葉がうまく出てこない。喉の奥が詰まったように苦しい。


香織は、まるで面白い玩具を見つけた子供のような、残酷な好奇心を瞳に宿らせながら、一歩、菜々美のデスクに近づいた。そして、ゆっくりと手を伸ばし、その指先がお守りの巾着袋に触れようとした。

「ねぇ、そのお守り、本当にご利益があるのかしら?ちょっと、試してみましょうよ」

その声は、囁くように甘く、しかしその裏には、底知れない悪意が潜んでいた。


「や、やめてください!」

菜々美は、咄嗟に身を乗り出し、お守りを庇うように手を伸ばした。しかし、香織の方が一瞬早かった。彼女の細く、しかし力強い指が、巾着袋をひったくるように掴み上げた。

「何をするんですか!返してください!それは、私にとって、本当に大切なものなんです!」

菜々美の声は、悲鳴に近いものになっていた。必死に手を伸ばし、お守りを取り返そうとするが、香織はそれを嘲笑うかのように、ひらりとかわす。


「あら、そんなに必死になるなんて。よっぽど、その石ころに頼り切っているのね。でも、本当に、あなたを守ってくれるのかしら?この、ちっぽけな袋が?」

香織の顔には、歪んだ愉悦の色が浮かんでいた。彼女は、菜々美の目の前で、そのお守りを弄ぶように持ち上げた。そして、次の瞬間、まるでゴミでも捨てるかのように、それを無造作に床へと叩きつけた。


パサリ、という乾いた音と共に、巾着袋は硬い床に落ちた。そして、その衝撃で、古くなっていた縫い目の一部がほつれ、中に入っていた小さな水晶の小石が、コロコロと床の上に散らばった。一つ、二つ、三つ…。乳白色の、鈍い光を放つそれらは、まるで涙の粒のように見えた。


「あ……あぁ……」

菜々美は、目の前で起こった光景に、息を呑んだ。時間が止まったかのように感じられた。全身の血が逆流し、頭の中が真っ白になる。ただ、床に散らばった、小さな、小さな水晶のかけらだけが、やけに鮮明に目に映った。


彼女は、反射的に床に膝をつき、震える手で、散らばった水晶を一つ一つ拾い集めようとした。しかし、その時、香織が、まるでそれを阻止するかのように、菜々美の目の前で、ハイヒールの硬い踵で、水晶の一つを無慈悲に踏みつけた。

コツン、という乾いた、そして残酷な音。

「あら、ごめんなさい。足元が見えなかったわ。でも、大丈夫よ。ただの石ころじゃないの。そんなものに、意味なんてないわ。無価値なものに執着するなんて、本当に馬鹿みたいね」

香織の冷笑が、菜々美の頭上で響いた。その言葉の一つ一つが、鋭い棘となって、菜々美の心臓に突き刺さっていく。


涙が、堰を切ったように溢れ出した。もう、堪えることなどできなかった。それは、悔しさ、悲しさ、怒り、そして、どうしようもない絶望感が入り混じった涙だった。菜々美は、その場に泣き崩れた。嗚咽が、静まり返ったオフィスの一角に響き渡る。もはや、周囲の目など気にする余裕もなかった。大切なものを、かけがえのない思い出を、目の前で踏みにじられた衝撃は、あまりにも大きすぎた。それは、物理的な暴力よりも、もっと深く、もっと残酷な形で、菜々美の心を打ち砕いた。


その時だった。異変に気づいた吉田美咲と田中優子が、血相を変えて駆け寄ってきた。彼女たちの後ろから、他の数人の女性社員も心配そうな顔でついてくる。

「高橋さん!あなた、一体何をしているんですか!」

美咲の声は、怒りに震えていた。彼女は、床に散らばった水晶と、泣き崩れる菜々美、そして冷然と立ち尽くす香織を交互に見比べ、事態を瞬時に理解した。

「これは…!片岡さんの、おばあ様の大切な形見だって、前に言っていたじゃないですか!どうして、こんな酷いことができるんですか!」

優子もまた、厳しい表情で香織を睨みつけた。その瞳には、軽蔑の色がはっきりと浮かんでいた。


「高橋さん、あなたの今の行動は、断じて許されるものではありません。これは、単なる嫌がらせの域を超えています。私たちは、この件を正式に人事部、場合によってはコンプライアンス部門に報告させていただきます!」

優子の言葉は、冷静だったが、その中には揺るぎない決意が込められていた。

周囲の社員たちも、遠巻きにこの騒ぎを見守っていたが、その視線は明らかに香織に対して非難めいたものに変わっていた。もはや、誰も彼女の味方をする者はいなかった。


香織は、さすがに周囲のただならぬ雰囲気に気づき、焦りの色を見せ始めた。いつもの自信に満ちた表情は消え、顔が僅かに引き攣っている。

「…な、何を大袈裟な…。これは、ただの、ちょっとした冗談のつもりだったのよ。そんなに、目くじらを立てなくてもいいじゃない…」

しかし、その言葉は、誰の心にも響かなかった。彼女の弁明は、あまりにも空々しく、そして見苦しかった。


菜々美は、震える手で、床に散らばった水晶の欠片を、一つ、また一つと拾い集めた。破れた巾着袋に、そっとそれらを戻していく。しかし、一度砕け散ったものは、もう元には戻らない。それは、まるで今の菜々美の心のようだった。ようやく見え始めた希望の光、仲間たちとの絆、そして、ささやかな平穏。それら全てが、香織の悪意によって、無残にも引き裂かれてしまった。


心の奥深くで、何かがブツリと切れる音がした。それは、かろうじて繋ぎ止められていた、最後の細い糸が切れた音だったのかもしれない。菜々美は、顔を上げることができなかった。ただ、破れたお守りを胸に抱きしめ、とめどなく流れる涙に身を任せるしかなかった。目の前が、再び真っ暗な絶望の闇に閉ざされていくのを感じながら。


引き裂かれた糸は、もう二度と元通りにはならない。そして、その断絶は、菜々美の心に、決して癒えることのない深い傷跡を残した。


(第五章へ続く)

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