第3話。綻び始める糸
小説「針と糸と夢」
第三章:綻び始める糸
高橋香織の執拗な嫌がらせは、まるで粘性の高い毒のように、じわりじわりと片岡菜々美の日常を侵食していった。それは、あからさまな暴力ではなく、もっと陰湿で、計算され尽くした精神的な攻撃だった。朝の挨拶は無視され、菜々美が淹れたお茶は「猫舌なの、知ってるでしょ?」と、わざと他の社員の前で手つかずのまま放置される。重要な連絡事項は菜々美にだけ知らされず、結果としてミスを誘発し、それを待ってましたとばかりに、フロア中に響き渡るような声で叱責する。香織のデスクから放たれる冷ややかな視線は、常に菜々美の背中に突き刺さり、見えない針で絶えずチクチクと刺されているような不快感が、一日中彼女を苛んだ。
菜々美のデスクは、いつしかフロアの隅の、コピー機とシュレッダーの騒音、そして埃っぽい書類棚に囲まれた、隔離された島となっていた。以前はランチを共にしていた同僚たちも、香織の無言の圧力に屈したのか、あるいは彼女の巧妙な噂話に影響されたのか、次第に菜々美から距離を置くようになった。休憩室で一人、味のしないサンドイッチを喉に押し込む菜々美の耳には、遠くで聞こえる楽しげな笑い声が、まるで別世界の出来事のように響いた。夜、布団に入っても、香織の嘲るような顔や、同僚たちの冷たい視線が瞼の裏に焼き付き、なかなか寝付けない。眠れたとしても、悪夢の中で黒い糸に雁字搦めにされる夢を繰り返し見ては、心臓を鷲掴みにされたような息苦しさで飛び起きた。鏡に映る自分の顔は、日に日に痩せこけ、目の下の隈は化粧では隠しきれず、まるで生気を吸い取られた抜け殻のようだった。
他の女性社員たちは、この異常な状況に気づかないわけではなかった。彼女たちの多くは、菜々美と同じように、あるいはそれ以上に、香織の気まぐれな言動や威圧的な態度に内心辟易していた。しかし、三ツ星トレーディングという巨大な組織の中で、営業企画部のエースとして確固たる地位を築き、上層部からの覚えもめでたい香織に逆らうことは、自らのキャリアを危険に晒すことを意味した。だから、彼女たちは見て見ぬふりをした。菜々美が香織に叱責されている間は、わざとらしくパソコンの画面に集中し、キーボードを叩く音を大きくする。すれ違いざまに、申し訳なさそうな、しかしどこか他人事のような視線を向けるだけで、誰も助けの手を差し伸べようとはしなかった。それは、保身であり、恐怖であり、そして、僅かな良心の呵責を押し殺すための自己防衛だった。
その淀んだ空気に、最初に小さな波紋を投げかけたのは、入社二年目の吉田美咲だった。彼女は、菜々美と同じ派遣社員で、歳も近く、どこか影のある菜々美の姿を、他人事とは思えずにいた。美咲自身、以前の職場で似たような経験をしたことがあり、あの時の無力感と孤独感を鮮明に覚えていた。最初は、香織の威圧感と、周囲の見て見ぬふりをする空気に飲まれ、何もできずにいた。しかし、日に日に憔悴し、まるで魂が抜け殻になったかのように虚ろな目で宙を見つめる菜々美の姿を見るたびに、胸の奥が締め付けられるような痛みを感じていた。このままでは、彼女は壊れてしまう。それは、もはや確信に近い予感だった。
ある雨の日の昼休み、美咲は、休憩室の片隅で、窓の外をぼんやりと眺めている菜々美を見つけた。その手には、ほとんど減っていないコンビニのパンが握られている。いつもは誰かしらいる休憩室も、その日は珍しく他に誰もいなかった。美咲は、深呼吸を一つすると、意を決して菜々美の隣にそっと腰を下ろした。
「片岡さん…あの…」
声をかけると、菜々美の肩がびくりと震えた。ゆっくりとこちらを向いたその顔は、驚きと怯えが混じったような表情をしていた。
「…吉田さん…?」
か細い声だった。まるで、長い間声を発していなかったかのように。
「大丈夫…ですか?って聞くのも、おかしいですよね…ごめんなさい」
美咲は、言葉を選びながら、慎重に続けた。
「高橋さんのこと…見ていて、すごく…辛くて。私、何もできなくて、本当にごめんなさい」
美咲の声が僅かに震える。菜々美は、何も言わずに俯いてしまった。長い沈黙が流れる。雨音が、窓ガラスを叩く音だけが、やけに大きく聞こえた。
やがて、菜々美の肩が小さく震え始めた。俯いた顔から、ぽつり、ぽつりと涙が落ち、テーブルの上に小さな染みを作っていく。
「…ううん…吉田さんは、悪くない…です…」
絞り出すような声だった。
「私が…私が、弱いから…ダメなんです…」
その言葉は、美咲の胸を抉った。
「そんなことないです!片岡さんは、何も悪くない!悪いのは…!」
美咲は、思わず声を荒げそうになり、慌てて言葉を飲み込んだ。そして、震える菜々美の手を、そっと自分の両手で包み込んだ。冷たく、か細い手だった。
「一人で、抱え込まないでください。私も…何か、何かできることがあれば…」
その温もりに、菜々美の心の奥で固く閉ざされていた何かが、少しだけ緩んだ気がした。堰を切ったように、嗚咽が漏れ始める。美咲は、ただ黙って、菜々美の背中を優しくさすり続けた。言葉はなかったが、その温もりは、何よりも雄弁に、菜々美の孤独な心に寄り添っていた。
その日を境に、美咲の心の中で何かが変わった。もう、見て見ぬふりはできない。彼女は、勇気を振り絞り、同じように香織の横暴に疑問を感じているであろう他の女性社員たちに、少しずつ声をかけ始めた。最初は、誰もが及び腰だった。「高橋さんに逆らったら、今度は自分たちがターゲットにされるかもしれない」「波風を立てない方が賢明よ」。そんな言葉が返ってくることも少なくなかった。しかし、美咲は諦めなかった。菜々美の憔悴しきった顔、孤独な涙、そして、かつての自分自身の姿を重ね合わせながら、粘り強く説得を続けた。
そんな美咲の熱意に、最初に心を動かされたのは、入社五年目の正社員、田中優子だった。彼女は、普段から物静かだが、芯が強く、曲がったことが嫌いな性格だった。優子は、香織のやり方が明らかに度を越していることを以前から感じていたが、派遣社員である菜々美の問題に、正社員である自分がどこまで介入すべきか、躊躇していたのだ。
「吉田さんの言う通りよ。高橋さんのやり方は、明らかにパワハラだわ。見て見ぬふりを続けるのは、私たち自身の問題でもあると思う」
ある日の給湯室で、美咲が他の数人の女性社員に話を持ちかけていた時、優子は静かに、しかしきっぱりとした口調で言った。その場にいた他の社員たちは、優子の言葉にハッとした表情を見せた。彼女の言葉には、不思議な説得力があった。
「でも…もし、高橋さんの機嫌を損ねたら…」
一人が不安そうに呟いた。
「確かに、リスクはあるかもしれない。でも、このまま片岡さんを見殺しにする方が、私はもっと辛い。私たちは、同じ職場で働く仲間じゃないの?誰かが苦しんでいる時に、手を差し伸べられないような人間にはなりたくない」
優子の言葉は、彼女たちの心の奥底に眠っていた良心を揺り動かした。恐怖よりも、義憤が、そして仲間意識が、徐々に彼女たちの心を支配し始めた。その日、彼女たちは、密かに菜々美をサポートすることを誓い合った。それは、大げさなものではなく、お互いの目を見て、静かに頷き合うだけの、しかし確かな誓いだった。
それから、オフィスの中で、小さな、しかし確実な変化が起こり始めた。菜々美が香織から無理難題を押し付けられそうになると、誰かがさりげなく「片岡さん、先日お願いしたあの件、どうなりました?」と声をかけ、香織の注意を逸らす。菜々美がコピーで手間取っていると、美咲が「手伝いますよ」と自然に声をかけ、作業を分担する。ランチの時間には、「片岡さん、あそこのカフェ、新しいランチメニューが出たらしいですよ。一緒に行きませんか?」と優子が誘い、自然な形で菜々美を輪の中に引き入れた。
最初は戸惑っていた菜々美も、彼女たちのさりげない優しさに触れるうちに、少しずつ表情に明るさが戻り始めた。一人ではない、という感覚が、枯れかけていた心に潤いを与えてくれた。それは、香織に対する直接的な反抗ではなかったが、確実に彼女の孤立を防ぎ、精神的な支えとなっていた。香織は、自分の意のままに事が運ばないことに苛立ちを感じ始めているようだった。時折、眉間に深い皺を寄せ、不機嫌そうな視線を周囲に投げかけるようになったが、以前のような絶対的な威圧感は薄れていた。
そして、運命の日が訪れた。その日、香織は朝から極度に機嫌が悪かった。どうやら、重要なプレゼンテーションで何か手違いがあったらしく、その怒りの矛先は、いつものように最も弱い立場である菜々美に向けられた。
「片岡さん!あなた、この前の会議資料、一体どういうつもりで作成したの!?数字が一部間違っているじゃない!このせいで、どれだけ私が恥をかいたと思ってるの!」
フロア中に響き渡る甲高い声。香織は、菜々美のデスクに叩きつけるように書類を投げつけた。散らばった紙を、菜々美は震える手で拾い集める。
「申し訳…ありません…しかし、あのデータは、確か高橋さんから直接…」
「言い訳するな!あなたの確認不足でしょう!だいたい、派遣のくせに、こんな簡単なミスをするなんて、給料泥棒もいいところよ!」
香織の言葉は、もはや理不尽を通り越して、人格否定にまで及んでいた。
その時だった。
「高橋さん、少し言い過ぎではありませんか」
凛とした、しかし静かな声が、フロアの空気を切り裂いた。声の主は、吉田美咲だった。彼女は、自分のデスクから立ち上がり、まっすぐに香織を見据えていた。その瞳には、怯えの色はなく、確固たる意志が宿っていた。
香織は、驚いたように美咲を見た。まさか、自分に反論してくる者がいるとは思ってもいなかったのだろう。
「…吉田さん、あなたには関係ないでしょう?黙っていなさい」
「いいえ、関係あります。片岡さんは、私たちの仲間です。それに、その資料の元データを確認しましたが、問題の箇所は、高橋さんが最終チェックをされた時の修正指示によるものだと思われます」
美咲の言葉に、周囲の社員たちが息を飲んだ。
「なんですって…?」
香織の声が、僅かに上ずる。
そこへ、田中優子が静かに続いた。
「私も確認しました。片岡さんの作成段階のデータと、高橋さんの朱書きが入った修正指示書、そして最終版のデータを照らし合わせましたが、吉田さんの言う通りです。もしミスがあったとすれば、それは片岡さん一人の責任とは言えないのではないでしょうか」
優子の言葉は、冷静で、論理的だった。
香織は、一瞬、言葉を失ったようだった。顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「あなたたち…何を言ってるの…?私に逆らうつもり…?」
その声には、怒りと共に、明らかな動揺が滲んでいた。
すると、今まで黙っていた他の女性社員の一人が、おずおずと口を開いた。
「あの…私も、片岡さんがいつも一生懸命仕事に取り組んでいるのを見ています…」
「私もです。片岡さんは、いつも私たちの仕事も手伝ってくれています」
次々と、菜々美を擁護する声が上がった。それは、決して大きな声ではなかったが、一つ一つの言葉が、確かな力となって、香織を追い詰めていく。
フロア全体が、水を打ったように静まり返っていた。他の部署の社員たちも、何事かとこちらに視線を向けている。今まで、香織の独壇場だったこの空間に、初めて彼女の意のままにならない空気が生まれていた。
香織は、わなわなと唇を震わせ、周囲を見回した。しかし、そこには、もはや彼女の権威に怯える者たちの姿はなかった。あるのは、静かな怒りと、連帯感で結ばれた社員たちの、揺るぎない眼差しだけだった。完璧に塗り固められていた彼女の仮面が、音を立ててひび割れていくのが見えた。書類を握りしめるその手が、微かに震えている。いつも自信に満ち溢れていたその瞳が、不安げに揺らいでいた。
「…もう、いいわ」
絞り出すような声でそう言うと、香織は踵を返し、逃げるように自分のデスクに戻っていった。その背中は、いつものような威圧感はなく、ひどく小さく、そして孤独に見えた。
菜々美は、その場に立ち尽くしていた。頬を伝う涙は、もはや絶望の色をしていなかった。それは、感謝と、安堵と、そして、長いトンネルの先にかすかに見えた光に対する、震えるような感動の涙だった。美咲と優子が、そっと菜々美の肩に手を置いた。言葉はなかったが、その温もりが、どんな言葉よりも強く、菜々美の心を支えていた。
ふと窓の外を見ると、厚い雲の切れ間から、金色の陽光が差し込んでいるのが見えた。それは、まるで祝福の光のように、オフィスの一角を柔らかく照らしていた。絡み合い、固く締め付けていたはずの黒い糸が、確かに綻び始めている。そして、その綻びから、新しい、もっと強く、もっと優しい糸が紡がれ始めているような、そんな予感がした。
これは、完全な勝利ではないのかもしれない。香織の嫌がらせが、これで完全に終わるという保証もない。しかし、何かが確実に変わった。菜々美は、もう一人ではない。そして、彼女の心には、諦めかけていた夢に向かって、もう一度歩き出すための、小さな、しかし確かな勇気が芽生えていた。顔を上げた菜々美の瞳には、雨上がりの空のような、澄んだ光が宿っていた。
(第四章へ続く)
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