第2話。歪んだ糸

小説「針と糸と夢」


第二章:歪んだ糸


あの更衣室での冷たい宣告は、目に見えない境界線だった。それを境に、片岡菜々美の世界から色彩が急速に失われていくのを、彼女はなすすべもなく見ているしかなかった。高橋香織の執拗な攻撃は、まるで丁寧に仕立てられた衣服の縫い目を、一本一本、鋭い針で執拗に引き裂いていくようだった。それは、決して派手な破裂音を立てるのではなく、静かに、確実に、菜々美の心を蝕んでいった。


朝、重たい瞼をこじ開けると、まず感じるのは言いようのない倦怠感。以前は窓から差し込む朝日にささやかな希望を感じたものだが、今はただ、これから始まる長い一日を告げる冷たい合図にしか思えない。通勤電車の中、ガラス窓に映る自分の顔は、生気を失った人形のようだった。目の下の隈は化粧では隠しきれず、唇は乾燥してひび割れている。以前は新しいブラウスやアクセサリーを選ぶ楽しみもあったが、今はただ、目立たないように、香織の目に留まらないように、くすんだ色の服を機械的に身に纏うだけだ。


オフィスに足を踏み入れると、空気が変わる。いや、変わったのは菜々美自身に対する空気だった。以前は挨拶を交わした同僚たちが、今は目を合わせようとしない。すれ違いざまに聞こえるのは、ひそひそとした囁き声と、乾いたキーボードの打鍵音だけ。まるで自分が透明人間になったかのような、あるいは、触れてはいけない汚物になったかのような疎外感。香織のデスクは、フロア全体を見渡せる位置にある。彼女は、いつも背筋を伸ばし、完璧な笑顔を浮かべているが、その視線だけが、まるで獲物を狙う爬虫類のように、時折、菜々美の背中に突き刺さるのを感じた。


コピー機のトナー交換、シュレッダーにかける書類の山、誰かが飲み散らかした給湯室のカップ洗い。菜々美の仕事は、いつの間にか、誰の評価にも繋がらない雑務ばかりになっていた。かつては、企画書の一部を任されたり、会議の資料作成を手伝ったりすることで、ささやかな達成感を得ていた。しかし、今は違う。


「片岡さん、この資料、五十部コピーお願いできる?両面で、ホチキスは右肩斜め四十五度。間違えないでね。前回みたいに手間取らせないでちょうだい」

香織の声は、蜜のように甘く、しかしその裏には鋼のような冷たさが潜んでいる。彼女は、わざと他の社員がいる前で、菜々美の些細なミスを大袈裟に指摘した。コピーの向きがミリ単位でずれている、お茶の温度が一度高い、ファイリングのラベルの文字が僅かに傾いている。それは、もはや指導ではなく、公開処刑に等しかった。周囲の社員たちは、一瞬だけ同情的な視線を送るが、すぐに自分の仕事に戻っていく。誰も、香織に逆らおうとはしない。三ツ星トレーディングという巨大な組織の中で、彼女は確固たる地位を築いているのだ。


「あら、片岡さん。そんな簡単なことも、まだ覚えられないの?派遣社員の方って、皆さんそうなの?それとも、あなただけ特別なのかしら」

その言葉は、鋭利なガラスの破片となって菜々美の胸に突き刺さる。反論しようとしても、喉の奥で言葉が凍りつき、声にならない。唇を噛みしめ、俯くことしかできない自分が、情けなくてたまらなかった。彼女の言葉は、菜々美の尊厳を少しずつ、確実に削り取っていく。


昼食は、いつからか、オフィスの隅にある誰も使わない休憩スペースで、一人で摂るようになっていた。以前は、同じ派遣社員の仲間たちと、近くのカフェで愚痴を言い合ったり、ささやかな夢を語り合ったりする時間が、唯一の息抜きだった。しかし、香織が彼女たちに何かを吹き込んだのだろう。徐々に誘いの声はかからなくなり、ぎこちない会釈を交わすだけの間柄になってしまった。コンビニで買ってきたサンドイッチは、まるで砂を噛んでいるように味がしない。窓の外には、忙しそうに行き交う人々の姿が見える。彼らは、それぞれの人生を生きている。自分だけが、この淀んだ空気の中で、時間を止められてしまったようだ。


ある日の午後、菜々美は営業部のフロアへ書類を届けに行った。その時、偶然、佐藤健太の姿を見かけた。彼は、数人の部下らしき社員に囲まれ、熱心に何かを指示している。以前と変わらない、爽やかな笑顔。しかし、その笑顔はもはや、菜々美に向けられるものではなかった。目が合ったような気がしたが、彼はすぐに視線を逸らし、部下との会話に戻ってしまった。あの金曜日の約束は、当然のように反故にされた。彼にとって、自分はほんの気まぐれだったのか、それとも香織の言う通り、何か別の意図があったのか。確かめる術も、勇気も、今の菜々美にはなかった。ただ、胸の奥が、鈍く痛んだ。


精神的な消耗は、確実に身体にも現れていた。夜、ベッドに入っても、香織の嘲るような声や、同僚たちの冷たい視線が脳裏を駆け巡り、なかなか寝付けない。ようやく浅い眠りに落ちても、悪夢にうなされることが増えた。特に、あの糸の夢は頻繁に見るようになった。暗く、底の見えない空間で、無数の黒い糸が自分の身体に絡みついてくる。それは最初は細く、頼りないものだったが、次第に太く、強靭なロープのように変化し、呼吸すら困難になるほど菜々美を締め付ける。助けを求めて叫ぼうとしても、声が出ない。ただ、もがき苦しむだけ。夢から覚めると、全身がびっしょりと汗で濡れており、心臓が激しく鼓動していた。まるで、現実の自分の状況を正確に映し出しているようで、言いようのない恐怖に襲われた。


それでも、菜々美は会社を辞めなかった。ここで逃げ出したら、本当に自分の価値を、自分の存在を否定してしまうことになる。香織の思う壺だ。それに、心のどこかで、まだ諦めきれない夢があった。大学時代に描いた、クリエイティブな仕事への憧れ。こんな場所で潰えてたまるか、という意地が、かろうじて菜々美を支えていた。毎朝、鏡の前で無理に口角を上げ、自分に言い聞かせる。「大丈夫、私はまだ戦える」。それは、悲痛なまでの自己暗示だった。


その日は、朝から雨が降っていた。灰色の空から降り注ぐ冷たい雨粒が、オフィスの窓を叩いている。室内は、いつも以上に静かで、重苦しい空気が漂っていた。菜々美は、香織から膨大な量のデータ入力を命じられていた。それは、明らかに一人で一日で終えられる量ではなく、しかも入力ミスが許されない重要なデータだった。香織は、にこやかに言った。

「片岡さん、これ、今日中に頼むわね。スピードも大事だけど、正確性が最優先よ。もしミスがあったら、大変なことになるから」

その言葉には、失敗を期待するような響きがあった。


菜々美は、黙々とキーボードを叩き続けた。指先が痺れ、目が霞んでくる。何度も同じ箇所を読み返し、入力ミスがないか確認する。昼食もろくに摂らず、ひたすら画面と向き合った。他の社員たちは、時折、心配そうにこちらを見ているが、誰も声をかけてはこない。香織は、時折、菜々美の背後を通り過ぎ、わざとらしく溜息をついたり、鼻で笑ったりした。その度に、菜々美の集中力は削がれ、焦りが募った。


夕方、終業時刻が近づいてきた頃、香織が菜々美のデスクにやってきた。そして、入力途中のデータが保存されたUSBメモリを手に取ると、こともなげに言った。

「あら、片岡さん。このデータ、ちょっと確認させてもらうわね」

そして、自分のデスクに戻ると、数分後、血相を変えて戻ってきた。

「片岡さん!あなた、何てことをしてくれたの!このデータ、一部破損しているじゃない!これじゃあ、使い物にならないわ!」

その声は、フロア中に響き渡った。菜々美は、何が起こったのか理解できなかった。

「そ、そんなはずは…何度も確認しました…」

「言い訳はいいのよ!現にデータが壊れているんだから!あなたのせいで、明日の重要な会議に間に合わないかもしれないのよ!どうしてくれるの!」

香織は、まるで悲劇のヒロインのように顔を歪め、菜々美を糾弾する。周囲の社員たちも、驚いたようにこちらを見ている。


菜々美は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。これは、罠だ。香織が仕組んだに違いない。しかし、証拠はない。ただ、自分の不注意として処理されてしまうのだろう。理不尽な怒りと、絶望感が、胸の中で渦巻いた。今まで抑えに抑えてきた感情が、堰を切ったように溢れ出しそうになる。唇が震え、指先が冷たくなっていく。


香織は、勝ち誇ったような、それでいて憐れむような視線を菜々美に向けた。

「本当に、あなたって人は…。派遣だからって、仕事に対する責任感まで欠如しているのかしら。これだから…」

その言葉が、最後の引き金となった。


「ふざけないでっ!!」


菜々美の口から、自分でも驚くような大きな声がほとばしり出た。それは、もはやか細い囁きではなく、魂からの叫びだった。フロアにいた全員の視線が、一斉に菜々美に突き刺さる。時間が止まったかのように、静寂が支配した。


菜々美は、椅子から立ち上がり、震える足で香織の前に立ちはだかった。涙が次から次へと溢れ出し、視界が滲む。しかし、その瞳は、怒りと決意に燃えていた。


「やっていいことと悪いことがあるんだよ!わかんないの!あんた!!」


声は震えていたが、一言一句、はっきりと香織に叩きつけた。

「毎日毎日、私を貶めて、馬鹿にして!そんなことして、楽しいの!?人の心をここまで踏みにじって、何とも思わないの!?あんただって人間でしょう!?少しは、人の痛みが分かるでしょう!?」

言葉が、次から次へと溢れ出してくる。それは、今まで飲み込んできた無数の言葉の塊だった。


「私は…!私は、ただ、一生懸命仕事がしたかっただけなの!夢があったの!それを…それをあんたが、全部めちゃくちゃにしたんだ!」

嗚咽が混じり、言葉が途切れ途切れになる。しかし、菜々美は止まらなかった。これが、自分の最後の抵抗かもしれない。ここで言わなければ、自分は本当に壊れてしまう。


香織は、一瞬、虚を突かれたように目を見開いていたが、すぐに冷笑を浮かべた。

「…何を馬鹿なことを言っているの?被害妄想も大概にしなさい。私は、ただあなたに必要な指導をしていただけよ。それを逆恨みするなんて、見当違いも甚だしいわ」

しかし、その声には、いつものような絶対的な自信は感じられなかった。わずかに、動揺が滲んでいる。


周囲の社員たちは、固唾を飲んで二人を見守っていた。誰も口を挟めない。これは、もはや単なる上司と部下の諍いではない。二人の人間の、剥き出しの魂のぶつかり合いだった。


菜々美は、香織の言葉に、さらに怒りを燃え上がらせた。

「指導…?これが指導ですって!?あんたのやってることは、ただのいじめよ!陰湿で、卑怯で、最低なやり方よ!そんなことも分からないなんて、あんたの方がどうかしてる!」

涙でぐしゃぐしゃになった顔で、菜々美は香織を睨みつけた。もう、失うものは何もない。心の奥底で、何かがプツリと切れる音がした。それは、我慢の限界を示す音であり、同時に、新たな始まりを告げる音でもあったのかもしれない。


歪みきった糸は、ついにその張力を失い、大きくたわんだ。この叫びが、絡み合った運命の糸を断ち切る一閃となるのか、それともさらに複雑な結び目を作るだけなのか。菜々美の熱い戦いは、まだ始まったばかりだった。


(第三章へ続く)

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