幸せの糸車

志乃原七海

第1話絡み合う糸

小説「針と糸と夢」


第一章:絡み合う糸


アスファルトを叩く無数の踵の音、排気ガスの澱んだ匂い、そしてひっきりなしに明滅する信号機。東京という巨大な生き物の血管を流れる血液のように、人々は朝のコンクリートジャングルへと吸い込まれていく。その無個性な流れの一滴として、片岡菜々美はいた。革の持ち手が少し擦り切れたバッグを肩にかけ、イヤホンから流れる気休めの音楽も、満員電車の圧迫感の前では無力だった。窓ガラスに映る自分の顔は、どこか疲れていて、寝不足の目の下には薄っすらと隈が浮かんでいる。大学を卒業して二年。描いていた未来予想図は、いつの間にか色褪せ、手元には派遣社員という肩書きだけが残っていた。


勤務先は、大手町に聳え立つガラスと鉄骨の城、「三ツ星トレーディング」。新卒採用のパンフレットで見たそれは、未来への希望に満ちた輝かしい場所だった。しかし、派遣社員としてその門を叩いて半年、菜々美に与えられたのは、陽の当たらないオフィスの一角と、単調なルーティンの繰り返しだった。コピー機の鈍い作動音、シュレッダーのけたたましい咀嚼音、そして時折響く内線電話の呼び出し音。それらが、彼女の日常を刻む退屈なリズムとなっていた。クリエイティブな仕事に就きたい。大学時代、サークルの仲間と夜通し語り合った夢は、この無機質な空間では化石のように固く、息を潜めている。それでも、生活のためだ、と自分に言い聞かせ、感情のスイッチを切る術だけは上達していった。


その日も、いつものように午前中のルーティンを終え、給湯室で自分のマグカップにインスタントコーヒーを淹れていた時だった。背後から、不意に明るい声がかかった。


「片岡さん、お疲れ様。今週の金曜日、仕事終わりにもし時間があったら、一杯どうかな?」


振り返ると、営業部のエース、佐藤健太が立っていた。長身に、アイロンの効いた白いシャツが眩しい。雑誌から抜け出してきたような、非の打ち所のない笑顔。社内でも彼の名は轟いており、女性社員たちの羨望の的であることは、派遣の菜々美の耳にも届いていた。彼が自分に?予期せぬ出来事に、菜々美の心臓が不規則なビートを刻み始める。マグカップを持つ手が、微かに震えた。


「え、あ…わ、私ですか…?」

声が上ずるのを止められない。佐藤は、そんな菜々美の動揺を面白がるでもなく、あくまで自然に微笑み続ける。

「うん、片岡さん。たまには、部署の垣根を越えて話してみるのもいいかなって。もちろん、無理にとは言わないけど」

その言葉には、有無を言わせぬ軽やかさがあった。菜々美は、一瞬、思考が停止するのを感じた。これは、現実なのだろうか。それとも、単調な日々に疲れた自分が見ている白昼夢か。

「…は、はい!ぜひ!喜んで!」

気づけば、弾かれたように返事をしていた。声はまだ少し震えていたが、胸の奥からは、抑えきれない喜びが湧き上がってくる。まるで、モノクロームの世界に、一瞬だけ鮮やかな色彩が差し込んだかのようだった。


「良かった。じゃあ、金曜日の終業後に、また声をかけるよ」

そう言って軽く手を振り、佐藤は颯爽と営業部のフロアへ戻っていった。彼の後ろ姿が見えなくなるまで、菜々美はその場に立ち尽くしていた。手のひらにじっとりと汗が滲んでいる。給湯室の窓から差し込む西日が、やけに暖かく感じられた。


その日の午後は、どこか足元が覚束なかった。コピーを取る手が僅かに震え、ファイリングする書類の順番を間違えそうになる。心ここにあらず、とはこのことだろう。佐藤の笑顔が、声が、脳裏で何度も再生される。これは、もしかしたら、あの色褪せた夢の続きが始まるのかもしれない。そんな淡い期待が、胸の中でゆっくりと膨らんでいった。


終業時刻を知らせるチャイムが鳴り、オフィスが俄かに騒がしくなる。菜々美も、安堵の息を吐きながらデスク周りを片付け始めた。その時だった。

「片岡さん、ちょっといいかしら?」

凛とした、しかしどこか温度の低い声。顔を上げると、そこには営業企画部の高橋香織が立っていた。きっちりと撫でつけられた黒髪、寸分の隙もないネイビーのパンツスーツ。彼女は、菜々美がこの会社で唯一、密かに憧れを抱いている女性だった。仕事の出来るキャリアウーマン。その佇まいには、近寄りがたいほどの完璧さがあった。


「は、はい、高橋さん」

香織に呼び止められることなど滅多にない。菜々美は、緊張で背筋を伸ばした。

「少し、話があるの。更衣室に来てくれる?」

その声には、有無を言わせぬ響きがあった。先程の佐藤とは質の違う、冷ややかな圧力。菜々美の胸に、小さな不安の棘が刺さった。


人気のない女子更衣室は、蛍光灯の白い光が壁に反射し、やけに寒々しく感じられた。金属製のロッカーが整然と並び、シンと静まり返っている。香織は、菜々美に向き直ると、ゆっくりと口を開いた。その目は、値踏みするような、それでいて感情を一切排したような、読めない光を宿していた。


「単刀直入に聞くわね。佐藤くんから、飲みに誘われたそうじゃない?」

やはり、そのことか。菜々美は、ゴクリと唾を飲み込んだ。肯定も否定もできず、ただ頷く。

「…はい。本日、お誘いいただきました」

「そう」

香織は短く応じると、腕を組んだ。その仕草一つにも、揺るぎない自信が滲み出ている。

「佐藤くんはね、うちの会社の、そして営業部の顔なの。彼がどれだけ重要な顧客を抱え、どれだけ大きな契約を動かしているか、あなたも少しは耳にしているでしょう?」

その言葉は、静かだが重みがあった。菜々美は、香織の言わんとすることが分からず、ただ黙って次の言葉を待つ。更衣室の換気扇の低い音が、やけに大きく聞こえた。


香織は、一歩、菜々美に近づいた。その距離感が、見えない壁となって菜々美を圧迫する。

「あなたは、派遣社員。それは理解しているわね?」

言葉はナイフのように鋭く、しかし声のトーンはあくまで平静だった。その冷静さが、かえって菜々美を追い詰める。

「…はい」

「彼があなたを誘った理由は、私には分からない。気まぐれかもしれないし、何か別の意図があるのかもしれない。でもね、片岡さん」

香織の目が、冷たく光った。

「勘違いだけはしないでちょうだい。あなたは、彼と釣り合う立場ではないの。彼のキャリアに傷がつくようなこと、会社の利益を損なうような軽率な行動は、断じて許されない。慎重に行動することを、強く求めるわ」


一言一句が、重い鉛となって菜々美の胸に沈んでいく。頭の中で、何かがガラガラと崩れ落ちる音がした。佐藤の爽やかな笑顔、淡い期待、そしてほんの少し芽生えかけていた自信。それらが、香織の冷徹な言葉によって、跡形もなく砕け散った。

好意だと思っていたのは、自分の都合の良い解釈だったのだろうか。それとも、香織の言うように、彼は何か別の意図を隠しているのだろうか。どちらにしても、自分はただの「派遣社員」で、それ以上でもそれ以下でもない。その事実が、冷たい刃となって心臓を抉るようだった。


「…申し訳、ありませんでした」

絞り出した声は、自分でも驚くほどか細く、震えていた。俯いた視線の先には、香織の磨き上げられた黒いパンプスが見える。その完璧さが、今の自分にはあまりにも眩しく、そして残酷に感じられた。


「分かってくれたなら、いいのよ」

香織はそう言うと、踵を返し、静かに更衣室を出て行った。残されたのは、菜々美一人と、重苦しい沈黙だけだった。壁にかけられた鏡に映る自分の顔は、血の気が引き、まるで幽霊のようだった。


更衣室を出ると、いつの間にか窓の外は深い藍色に染まっていた。都会の喧騒が、遠くで唸りのように響いている。冷たい夜風が、火照った頬を撫でていくが、心の奥の熱までは冷ましてくれない。

あの時、佐藤の誘いに、どうしてあんなに舞い上がってしまったのだろう。自分は、このコンクリートジャングルの中で、ただ歯車の一つとして機能するだけの存在。夢を見る資格なんて、最初からなかったのかもしれない。


重い足取りで駅へと向かう。頭上には、無数の星が瞬いているはずなのに、今の菜々美の目には、高層ビルの窓明かりが滲んで見えるだけだった。あの華やかな光の中に、自分の居場所はない。

「私の夢は、どこにあるんだろう…」

絞り出すような呟きは、雑踏の音に掻き消された。あの時、軽い気持ちで頷いた自分を、今更ながら激しく後悔する。


絡み始めた糸は、見えない力で菜々美の心をきつく締め付けていく。それは、憧れと現実、期待と絶望、そして見えない誰かの思惑。複雑に、そして容赦なく。この糸の先がどこに繋がっているのか、今の菜々美には知る由もなかった。ただ、この息苦しい現実から逃れたい一心で、彼女は夜の闇へと紛れていった。


(第二章へ続く)

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