第1章ー第2話「沈黙の中で鳴ったもの」
次の日、”うまくやる”はずの朝だった。
朝は6時に目が覚め、いつも通り早めに教室へつき、
「西の魔女が死んだ」をホームルームの時間まで読み耽る。
いつも通りチャイムがなり、その日のはじまりを告げる。
ホームルームが終わり、
いつものように航平が声をかけてくる。
「お、透。また読書か? 朝から偉いな〜」
航平が隣の席に座りながら声をかけてくる。 僕は笑って、本のページを閉じた。
「いや、ただの習慣みたいなもん」
「てかさ、最近ちょっと元気なくね?」
「え?」
「いや、別に悪い意味じゃないけど。前だったらもっと突っ込んでくるだろ。俺がバカなこと言ったときとかさ」
僕は少し考えてから、笑って返した。
「そんなこと言ったっけ?」
「……ま、俺が勝手にそう思ってただけかもな。透ってマジでちゃんとしてるし」
航平の口ぶりは軽いけど、僕の中には重く沈んだ。
“ちゃんとしてる”
その言葉に、どこか首輪みたいな重さを感じた。
「それ、本当に“褒め言葉”なんだろうか?」
僕は笑いながらも、心の中で思っていた言葉を声に出す。
「褒め言葉に決まってるじゃん。母さんも航平のことちゃんとしているっていっつも言ってる。」
航平は笑って肩を叩いた。
僕も笑い返す。でもその声は、喉の奥で引っかかった。
チャイムがなり、授業の開始を告げる。
先生が授業を始める。 いつも通り、みんなノートを出して、静かに板書を写していく。
でも—
その日だけ、ノートを開く手が止まった。 ペンは持っていた。親指と人差し指の間に、確かにそこにある。 でも、それを動かすための“きっかけ”だけが、どこかに消えていた。
ページの罫線が、波打つように揺れて見えた。 目の奥がじんわり熱くて、でも涙が出るわけじゃない。
心臓の音が、ごうん、ごうん、と鈍く響いていた。 耳のすぐ横で、誰かが壁を叩いているような重たい音。
航平が、何かを言って笑っていた。 「先生、それ鬼すぎっすよ」とか、そんなふうな軽口。 教室のあちこちから、小さな笑い声が起きていた。
でも、その全部がフィルム越しに聞こえているみたいだった。
音の輪郭がぼやけていて、意味だけが抜け落ちていく。
わからないわけじゃない。ただ、“届かない”だけだった。
自分だけが、水の底にいるみたいだった
ぱちん。
澄が“死んだ”あの日に、僕は、あの音を聞いた。 あのときは、澄の中で何かが弾けたのだと思っていた。
でも今はちがう。 胸の奥で、小さく、でも確かに“ぱちん”と鳴った。 耳ではなかった。音ではなく、感覚として、身体の中に響いた。
息が詰まり、指先がびくりと震えた。
これは—
僕の中で、何かが鳴ったんだ。
「次、透、この問題答えてみろ」
先生の一言で、教室に引き戻される。
ノートは開いたまま。 ペンも持っていたけれど、文字は1行も増えていなかった。
「……すみません」
声に出すまでに、思っていたより時間がかかった。
「透らしくないじゃないか」
その言葉はきっと責めてるんじゃなくて、心配のつもりだ。 でも、“らしさ”を外れたときに向けられる視線は、 なぜか、いつもより重く感じた。
「…いえ、大丈夫です。」
黒板の前で、先生が何かを話していた。
「この……は……に……、そこがポイントだ」
チョークの音と一緒に、 意味のない破片だけが耳に届いた。
きっと、大事なことを話しているんだと思う。 周りの誰もがペンを走らせていたし、 僕だって、聞こうとすれば聞けたはずだ。
でもその日は、耳の奥で風が吹いていて、 単語がノートの上を滑っていっただけだった。
肘をついた手が、かすかに震えていた。 震えを止めようとしたけど、力の入れ方がわからなかった。
頭の奥では、風のような耳鳴りがしていた。
耳をふさいでも変わらないそれは、 “外”じゃなく、“中”で吹いている音だった。
気づけば、ノートの余白に、 僕は、何か小さな図形のような線を描いていた。 芽のような、爪のような、何かがそこにあった。
一瞬、その線が何かを訴えかけているように見えた。
でも— 僕は気づかないふりをして、 ペンを、そっと止めた。
放課後のチャイムが鳴ったとき、 僕はようやく、時間の流れが戻ってきた気がした。
航平が「じゃーな!」と声をかけてくる。 それに返した笑顔が、ちゃんと笑えていたかはわからない。
1分もかからずに、荷物をまとめた。
教室を出て、昇降口で靴を履き替える。 後ろから、友達同士の笑い声が聞こえた。 それが“日常”に戻る合図みたいに響いた。
外に出ると、空はまだ明るかった。 でも、まぶしさだけが体にまとわりついて、 視界の奥で、チカチカと何かが揺れていた。
家までの道を歩いていると、 いつもより、自分の足音だけがやけに大きく響いていた。 他の音は、全部どこかに吸い込まれていった。
家に着くと、ドアの向こうから、味噌汁の匂いがした。
僕は何も言わずに靴を脱ぎ、階段を上がった。
玄関のドアを閉めて、僕は母の声に返事をしなかった。 「おかえりー」と、明るい声がどこか遠くから届いた気がしたけど、 その意味だけが、耳の手前で止まってしまった。
制服のまま階段を上がって、自室のドアを開ける。 いつも通りの部屋。 でもその日だけは、壁の色すら違って見えた。
鞄を落とすように投げて、ベッドに倒れ込む。 目を閉じても、耳を塞いでも今朝の”音”が頭から離れない。
頭の奥が重く、耳鳴りが風の音のように続いていた。 全身が水の底に沈んだような感覚。 体の位置が、自分でもうまくつかめなかった。
しばらくして—
ぱちん。 胸の奥で、何かが小さく弾けた。
「まただ……」
痛みではないけれど、 何かが剥がれたような感覚だけが、じわりと広がっていく。
「また鳴ったね」
ナギの声がした。 聞こえたというより、“浮かんだ”ような感覚だった。
僕の頭の中に直接落ちてきたような、そんな声だった。
「今のは、間違いなく“君の音”だったよ」
「そろそろ、気づいていいんじゃない?」
返事をしようとしたけれど、声が出なかった。 まぶたの裏で、“芽”の形をした黒い線が、静かに揺れていた。
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