第4話「1頭捕った!でも捌けない」
朝靄が立ち込める中、修は日課となったわなの見回りに向かっていた。数日前から雨が続き、今朝はようやく晴れ間が見えてきた。地面はまだ湿り気を帯び、長靴に泥が絡みつく。
「そろそろ何か進展があってもいいはずなんだけど...」
自分に言い聞かせるように呟きながら、修は北側の沢付近に設置したわなに近づいた。何事もなければ、いつものように何も捕れていないわなを確認し、餌を補充して帰るだけだ。そんな日々が一ヶ月近く続いていた。
しかし、何かが違った。
まだ数十メートル先だったが、わなの近くで何かが動いているのが見えた。修は一瞬、心臓が止まったかと思うほど驚いた。
「まさか...」
息を殺し、慎重に近づいていく。近づくにつれて、箱わなの中で何かが激しく動いている音が聞こえてきた。扉が閉まっている。
そこには間違いなく、わなに捕らわれたキョンがいた。
「やった!」
思わず声が漏れた。瞬間、わなの中のキョンは一層激しく暴れ始めた。
「あ...落ち着いて、落ち着いて」
修は自分に言い聞かせた。狩猟免許の講習で学んだ通り、捕獲した動物にはできるだけ素早く対応しなければならない。不必要に苦しめることは避けるべきだ。
ポケットからスマホを取り出し、竹内に電話をかけた。
「もしもし、竹内さん。修です。わなにキョンがかかりました!」
「そうか、やっとだな」竹内の声には安堵感が混じっていた。「すぐ行く。それまで獲物を刺激するな。遠巻きに見ているだけにしろ」
電話を切った修は、わなから少し離れた場所に座り込んだ。心臓が早鈍りを打っている。実際に捕まえるまでは、こんなに興奮するとは思わなかった。
わなの中のキョンは、修が動かなくなったことで少し落ち着いたようだが、それでも警戒心に満ちた目で周囲を見回している。成獣のメスで、子連れではなさそうだ。茶色の被毛に白い斑点、犬ほどの大きさ。近くで見ると、愛らしいとさえ言える顔立ちだ。
「ごめんな...でも、白菜を食べたのはお前だろう?」
修は小声で話しかけた。キョンは耳をピクリと動かし、修の声がした方向を見た。その黒い瞳に、恐怖が映っている。
修は複雑な気持ちになった。害獣と知りつつも、生きている動物を目の前にすると、罪悪感のようなものが湧いてくる。しかし、畑の野菜たちの姿を思い出し、気持ちを引き締めた。
わなの近くに座り込み、修はキョンをじっと観察した。箱わなの閉鎖空間でも、キョンの警戒心は解けない。時折、体を震わせて逃げ出そうとするが、すぐに無駄だと悟るのか、また静かになる。
「本当に美しい生き物だな...」
修は思わず呟いた。茶色の被毛に散りばめられた白い斑点は、まるで星空のようだ。細い脚、引き締まった体。自然の中で生き抜くために進化してきた完璧な姿。
「でも、お前はここにいるべきじゃない生き物なんだよな」
特定外来生物。日本の生態系に本来存在しないはずの存在。人間によって連れてこられ、人間の管理を離れ、そして今、人間の作物を荒らす存在になった。
「僕たち人間が勝手に連れてきて、勝手に放し、そして害獣だからと排除しようとする...」
修は自分自身の矛盾に気づいた。東京の生活に疲れて田舎に逃げてきた自分も、ある意味で「外来種」ではないのか。この土地に根付く覚悟はあるのか。
キョンと目が合った。驚くほど知的な眼差しだった。
「もし君が日本の在来種だったら、こんな風に捕まえることはなかったかもしれないな...保護されていたかも」
修は考え込んだ。自然との関わり方、命との向き合い方。東京では考えたこともなかった問題だ。
竹内の到着を告げるエンジン音が聞こえてきた。修は立ち上がり、決意を固めた。
「君の命は無駄にしない。それだけは約束するよ」
「無事か?」
「はい、おとなしくしています」
竹内はわなを覗き込み、中のキョンを観察した。
「成獣のメスだな。栄養状態も悪くない」
竹内はトラックの荷台から道具を取り出した。ロープ、手袋、そして鋭い猟刀。
「これから止め刺しをする。見ておけ」
竹内は実務的な口調で言った。修は緊張しながら頷いた。
「止め刺し」とは、捕獲した獣を素早く、苦痛を最小限に殺すための技術だ。講習では理論を学んだが、実践は初めてだった。
「まず、わなの中の動物を落ち着かせる。急な動きをせず、静かに近づく」
竹内はゆっくりとわなに近づいた。キョンは再び警戒し始めたが、竹内の動きには静かな威厳があり、あまり激しくは暴れなかった。
「次に、体勢を固定する」
竹内は素早い動きでわなの小さな窓から特殊な棒を差し入れ、キョンの動きを制限した。キョンは驚いて暴れたが、竹内の手際の良さで、すぐに身動きが取れなくなった。
「そして...」
竹内は別の窓から猟刀を差し入れた。一瞬の躊躇いもなく、正確な位置に刃を入れる。キョンはわずかに震えて、そして動かなくなった。
「終わった」
竹内の声は静かだった。その表情には畏敬の念のようなものが浮かんでいた。
「獲物の命を奪ったら、まず感謝する。そして最大限に活かす。それが猟師の誇りだ」
竹内はキョンの体に手を合わせ、一瞬目を閉じた。
修は、命が失われる瞬間を初めて間近で見た。想像していたよりも静かで、速やかだった。しかし、生と死の境界を目の当たりにして、言葉を失った。
「さあ、次は搬送と解体だ」
竹内の声で我に返った修は、わなからキョンを取り出す作業を手伝った。
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「解体は基本的にこの流れだ」
竹内は自分の作業小屋で、キョンの解体手順を説明していた。キョンはロープで吊るされ、血抜きの準備が整っている。
「まず血抜き。首の動脈を切って血を抜く。次に皮剥ぎ。そして内臓の摘出。最後に肉の分割だ」
竹内は手際よく作業を進めながら、一つ一つの工程を修に説明した。皮を剥ぐ技術は特に繊細で、肉を傷つけないように慎重に行う必要がある。
「この辺の脂肪が多いところは臭みの原因になる。丁寧に取り除くんだ」
修は真剣に観察し、時々手を貸しながら技術を学んだ。
「今日は見学だけでいい。次回からは自分でやってみろ」
竹内が言う通り、今回は基本を学ぶことが重要だった。しかし、修の頭の中では別の考えが浮かんでいた。
「竹内さん、この肉、自分でも処理してみたいんです」
竹内は作業の手を止め、修を見た。
「初心者が一人でやるのは難しいぞ」
「でも、自分で捕まえたキョンですから...最後まで責任を持ちたいんです」
竹内はしばらく考え込んでから、頷いた。
「分かった。基本的な部位に分けるところまで俺がやる。あとは持ち帰って、お前自身で料理してみろ」
「ありがとうございます!」
竹内は黙々と作業を続け、約一時間後、キョンの肉は基本的な部位に分けられていた。竹内はそれらをビニール袋に入れ、修に渡した。
「冷やして保存しろ。早めに調理するのが基本だ」
「はい、わかりました」
修は貴重な荷物を抱え、軽トラで自宅に向かった。今夜は特別な晩餐になるはずだ。
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「さて、どうしよう...」
自宅のキッチンに立ち、修は途方に暮れていた。ビニール袋から出したキョンの肉は、想像していたよりも生々しい。筋肉の赤身、脂肪の白さ、わずかに残る血の匂い。スーパーで売っている肉とは全く違う。
「とりあえず、YouTube で調理法を調べてみるか」
修はスマホを取り出し、「キョン 肉 料理」と検索した。いくつかの動画がヒットしたが、ほとんどは鹿肉一般の調理法で、キョン特有の情報は少ない。
「まあ、鹿肉の一種だから同じようなものだろう」
動画を参考に、修は肉を水で洗い、余分な血や汚れを取り除いた。次に、臭み抜きのために牛乳に浸す作業に移った。
「牛乳か...」
冷蔵庫を開けると、牛乳はほんの少ししかなかった。
「足りるかな...まあいいか」
修は肉の一部だけを牛乳に浸し、残りは水に塩を溶かした塩水に浸した。動画では最低でも一時間は浸すように言われていたが、修は空腹だった。三十分で引き上げることにした。
「次は...焼き方か」
動画によると、鹿肉は低温でじっくり焼くか、逆に高温で素早く焼くのが良いとのこと。修はフライパンを熱し、オリーブオイルを引いた。
「よし、行くぞ」
肉を室温に戻し、塩・胡椒で下味をつけ、熱したフライパンに投入した。
「ジュッ!」
予想以上の煙と脂の飛び散りに、修は少し後ずさりした。調理中の臭いも、普段の料理とは明らかに違う。生々しさと獣臭さが混じったような独特の匂いだ。
「うっ...大丈夫、これは自然の恵みだ...」
自分に言い聞かせながら、修は肉を裏返した。外側は焼けているようだが、厚みのある部分はまだ生々しい赤色を保っている。レアで食べるべきか、それとも完全に火を通すべきか。
「安全のために、しっかり焼こう」
修は火を弱め、蓋をして蒸し焼きにした。時々蓋を開けて様子を見る。徐々に肉の色が変わっていくが、同時に肉が硬くなっていく感じがする。
「あれ?なんか硬くなってきたぞ...」
不安を抱きながらも、修は調理を続けた。約十五分後、肉に完全に火が通ったと判断し、一枚を皿に盛りつけた。
「いただきます」
修は恐る恐るフォークとナイフを入れた。予想通り、肉はかなり硬くなっていた。ナイフでなんとか一片を切り取り、口に運ぶ。
「うっ...」
まず感じたのは強烈な臭み。そして、想像以上の硬さと歯ごたえ。噛めば噛むほど、獣臭さが口の中に広がる。
「これは...」
修は必死に咀嚼を続けたが、飲み込むのが精一杯だった。せっかく捕まえたキョンの肉なのに、これでは食べられない。
「どこで間違えたんだ?」
修は残りの肉片を見つめた。調理法が悪かったのか、肉質の問題なのか、それとも下処理の段階で何か見落としがあったのか。
「竹内さんに聞いてみるべきかな...」
しかし、初めての獲物を自分で台無しにしたことを報告するのは恥ずかしい。修は別の方法を試すことにした。
残りの肉を小さく切り、長時間煮込むシチューにしてみようと思いついた。臭みを消すために、たっぷりのスパイスと野菜を加える。
「これなら食べられるかも...」
約一時間の煮込みの後、シチューは見た目も香りも悪くなかった。修は再び挑戦した。
「うーん...」
臭みは若干マシになったものの、肉はまだ硬く、独特の風味が気になる。なんとか食べられないことはないが、美味しいとは言えない代物だった。
「やっぱり何か足りないな...」
修はスマホを取り出し、もう一度検索した。より詳しいジビエ料理のサイトによると、鹿肉特有の処理方法があるようだ。血抜きの方法、熟成の必要性、そして何より、捕獲後の初期処理の重要性。
「あっ...」
修は重要なことを見落としていた。キョンの体温を早く下げること、血抜きを徹底すること、そして適切な熟成が必要だったのだ。
「これじゃ美味しくなるわけがない...」
残りの肉を見つめながら、修はため息をついた。冷蔵庫に入れておいた肉からは、すでに少し異臭が漂い始めていた。
「ダメだ...これは...」
修はついに観念し、残りの肉を処分することにした。せっかくの獲物を無駄にしてしまったことへの罪悪感と、初めての失敗への落胆が入り混じる。
「次は絶対に上手くやるぞ...」
その夜、修は空腹を抱えながら、スマホで再びキョン肉の正しい処理方法について徹底的に調べた。いつかリベンジする日のために。
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翌朝、修はみのりに電話をかけた。キョン捕獲の報告と、今後の対策についての相談だった。
「キョンを捕獲されたんですね!おめでとうございます」
みのりの声には純粋な喜びが感じられた。
「ありがとうございます。でも...肉の処理に失敗してしまって...」
修は昨夜の失態を正直に話した。みのりは理解を示しながら聞いていた。
「それは残念ですね。でも、初めてなら仕方ないと思います。多くの方が同じような経験をされていますよ」
「そうなんですか?」
「はい。実は最近、農業委員会からの要請もあって、市でもジビエの適切な処理と活用についての講習会を計画していたところなんです。地域の獣害対策として捕獲だけでなく、資源として活用する方法も大切ですから」
みのりの説明は流れるように自然だった。彼女の仕事として、こうした地域課題に取り組んでいることが伝わってくる。
「ちょうど先週、猟友会の方々と打ち合わせしたばかりなんです。竹内さんも協力してくれることになっていますよ」
修は少し救われた気がした。自分の失敗が特別なものではなく、多くの人が経験する学びの過程なのだと。
「それはぜひ参加したいです」
「素晴らしい!では詳細が決まり次第、ご連絡します」
電話を切った後、修は竹内にも連絡を入れた。昨日のお礼と、肉の処理に失敗したことを伝えるためだ。
「そうか、やはり失敗したか」
竹内の声には非難の色はなかった。
「すみません...せっかくのキョンを無駄にしてしまって」
「気にするな。誰もが通る道だ。次はもっと上手くいく」
竹内の言葉に、修は少し気が楽になった。
「それより、今日は空いているか?」
「はい、なにか?」
「二頭目を捕まえたいなら、来い。今度は解体から一緒にやろう」
修は迷わず答えた。
「行きます!」
失敗から学び、再び挑戦する。それが自然と向き合う生き方なのだと、修は感じていた。腐りかけの肉の臭いは、まだ鼻に残っていたが、それすらも大切な経験だった。
畑に出る前に、修は小さなノートを取り出し、昨日の失敗について詳細に記録した。野生動物を捕まえるだけでなく、その命を最大限に活かすことの難しさと重要性。次は必ず、キョンの命に敬意を払った形で、美味しく料理してみせる。
修の「失敗ノート」は、また一つ、貴重な経験を刻んだ。
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