ドッグス・ネバー・スリープ

三波 想

二〇十八年  十二月十四日 午後四時三十分

 無様、という姿は今の俺にこそ当てはまる。手首に食い込んだ手錠は惨めさを一層引き立てた。

「おい、何動こうとしてんだ」

「してねぇですってば」

 俺を見下ろす中年男性は眼光こそ鋭かったものの、瞳の中には怯えが混じっていた。冷たい床に耐えかねて尻を動かしただけで肩がびくついている。そのあまりの普通さに安心しかけたが、男が手に持っている鉄パイプが目に入ってやっぱりまともな人間じゃねぇ、と評価を改める。

 生え際が若干後退している恐らく元サラリーマンの男でさえバカな真似をして食い扶持を稼ぐようになってしまったのだから、この世は混迷を極めていると評価せざるを得ない。

 ガラスが入っていない、最早本来の意義を完全に失った窓に目を向けると、鮮やかな夕陽が人の少なくなった街を照らしている。半年前だったらカレーの匂いでもしていて、学校帰りの学生の声でもしていただろうに、今じゃ鳥の鳴く声しか響いていない。

 夜は、もうすぐだった。

 俺が今拘束されているこのガソリンスタンドだって、少し前までは誰かが働いていたんだろう。部屋の隅に乱雑に積まれた銀色のデスクは表面が酷く歪んでいて、職を失ったガソスタ店員が最後の鬱憤を晴らすべく椅子でも叩きつけたのだと思わせる。俺を見張るこの中年男性がやったのかもしれないが。

 誰であれ器物損壊を責める気にはならない。社会だって咎めない。だが、俺は許したくない。

 今こうして手錠で縛られていなかったら後ろから思いっきり殴りつけて――と、そこまで考えたところで、やめた。俺だって誰かを殴るなんてことをしたくない。しかも、俺の貧弱な拳で不意打ちしたところで大してダメージを与えることができないことは明白だ。考えるだけ無駄。

 壁に背を預けて、瞬間鋭い痛みが走った。気絶させられた時にぶん殴られた時の傷が触れたのだろう。呻きたくなるのを必死に堪える。声を出したら鉄パイプ野郎がブチ切れて、俺の頭を上司とのゴルフでは絶対に発揮されないであろう渾身のフルスイングで殴り飛ばしてくるかもしれない。恐ろしいにも程がある。

 夕陽が、徐々に部屋の中の領域を狭めていった。

 もうとっくの昔に終わったキャンぺーンを知らせるポスターに描かれたアイドルの顔は、段々と影を濃くしていく。時間が経つのをこうして見せつけられると、焦りがじわじわと胸をひっかいてくる。

 あいつが俺を助けに来ないというのは考えづらかったが、かといって日が出ているうちに襲撃を実行してくるとも思っていなかった。あいつなら、狡猾さという点で言えば日本一みたいなあいつなら、相手が一番嫌がる方法を取ってくるはずだ。

 俺のタスクはそれまで生き残ること。目の前の男が人を殺せるとは思わないが。そもそも、どうして俺なんかを拉致したんだろうか。

 ガソリンを持ってるわけじゃないし、食料を抱えているわけでもない。出で立ちからしてそんな風に見えないはずだ。他の都心に向かう人間達と比べても、俺達二人はだいぶ貧相な身なりをしていると思う。というかなんならそこらへんで散歩してます、みたいな雰囲気すら出ている。俺の隣を歩くあいつがそう見えるんだから。

 そうなると――カモだと思われたか。俺みたいなひょろい男と、いかにも遊んでそうな男の二人組なんて格好の的だ。

 じ、じじ、と、外から音が聞こえた。ガソリンスタンドの大きなライトが点いた。男がトランシーバーをポケットから取り出して、苛立ったようにそれに向かって声を放った。

「おい! まだ日は落ちてないだろ! なんで電気なんか点けた!」

 電気の浪費が心配なのだろう。このガソリンスタンドも他の多くの場所と同じように電気が通っていないはず。自家発電なのかそれともソーラー発電なのか、どちらにせよこの時間帯に電気を消費するのは愚策だ。聞き耳を立てていると、トランシーバーから、同じように苛立った声が返ってくる。

『そりゃあ、ガキの片割れが襲ってくるのが怖いからでしょ。なんすか甲斐さん、アンタがもう片方捕まえ損ねたからっすよね? 俺に怒鳴るの筋違いですわ』

 明らかな侮蔑のニュアンスを含んだ若者の声。どうやらこの集団も一枚岩ではないらしい。遣る瀬無い怒りを発散するように男――甲斐は足元に転がっていた空き缶を蹴っ飛ばした。

 夜が街を呑み込もうとしていた。

 浮かんでいた夕陽が見えなくなって、紫色とオレンジの混じり合った境界線がぼやけていく。

 きっと、大昔の、電気なんてない時代。人間が火を支配しきる前は、闇が空を埋め尽くせば眠りに落ちていただろう。狩りも採集も何もかもを止めて、洞穴やねぐらに帰る。そんな生活が普通だったはずだ。

 夜は怖いから? いいや違う。

 夜はどこまでも温かいから。だからこそ人は夜に眠る。

 それなら俺とあいつは――人なのか?

『甲斐さん! ちょ、ヤバいっすよ!』

 トランシーバーが、不意に声を飛ばした。さっきのような軽薄さは全く無く、切羽詰まったような声だった。

「なんだ、戸佐。報告は正確にしろと言っているだろう」

『ンなくだらないこと言ってる場合じゃねぇっすよ! 戸部さんがぶっ倒れてるんす!』

「……なに?」

 天然の光が差し込まなくなって、真っ白な人工光が甲斐の怪訝そうな表情を照らしている。

 あいつが来た。甲斐に気取られないように音を立てず、体勢を変えた。後ろ手に手錠がかけられているが、それでも一応走れるはずだ。何が起こってもいいように準備だけは整えておきたかった。

「わかった。今から戸部の様子を見て来い」

『わかりまし……え?』

 素っ頓狂な声が鳴った。トランシーバーの向こう側の人間は何かを見たようだ。

 開け放たれた、今はもう機能していない自動ドア。そこに目を向けた瞬間、俺にも見えた。甲斐は加齢による目の衰えのせいなのか、未だに気づいていない。

「おい、どうした」

『ガキが……え、これやべぇって。マジかアイツ。ちょ、俺逃げますね』

「は?」

 呆気にとられた様子の甲斐は、その後もトランシーバーに向けて怒鳴り続けたが、返事は返ってこない。宣言通り逃げたのだろう。その方がいい。俺は背中に、この寒い中なのに噴き出てきて止まらない嫌な汗が伝うのを感じた。

 ここはいったいどこだ? ガソリンスタンド。

 ガソリンスタンドで一番気を付けなければならないのは? ガソリンに火がつく事。

 では目の前で、段々と近付いてくる光源は? どう見たって煙草の火と、見せびらかすように明滅を繰り返すジッポーライター。暗くなりかけた闇の中で瞬くそれは、まるで星だった。

 がら、がら。ずずず。なにか重いものを、アルミでできたものの中に入れて引きずる音。それが俺の耳に入るようになった時、甲斐はようやくそれに気が付いた。

 こちらからは甲斐の顔が見えないけれど、恐らく口をぱくぱく開いているだろう。いやあんぐりと顎が外れそうなぐらい口を開けているかも。

 甲斐は俺の方を振り向いた。予想通り、呆然とした顔だった。

「あ、あいつは何を……」

 俺に聞くんかい。それだけ余裕が無いのだろう。かといって逃げ出すほどの決断力もないようだ。逃げ出した若者の方が幾分か聡い。

「見たまんまじゃないですかね。あいつ、多分火を点けますよ」

 一斗缶を引きずり、煙草を咥えながらライターを弄ぶ男は、まだここからは見えないけれど、いつも通りのあの、犬歯を剥き出しにした笑みを浮かべているのだろう。

「がっ……ガソリンスタンドだぞ! 火気厳禁だろうが!」

 言ってることはもっともである。俺は思わず頷いてしまった。俺と光源を交互に見て、甲斐は最終的に俺の髪を掴んで、引き寄せた。

「痛ってえ!」

「さ、さっさと来い!」

 震える声で俺に命令する甲斐。先程までは辛うじてあった余裕はガソリンスタンドより先に吹き飛んでいた。交渉でもする気か?

 冷静な頭で、今の状況が最高にまずいと認識する。

 甲斐は俺を引きずって、あいつの前に対峙して言うだろう。このガキを返すから火を点けるのはやめてくれ、と。甲斐のシミュレーションの中では相手がそれを受け容れて、俺を解放して、なんとかガソリンスタンドを守れて――なんてことになってるはずだ。

 この男は不幸にも、あいつのことを知らなすぎる。

 徐々にあいつが、大きなライトの照らす範囲に入ってくる。

 真っ黒のシャツに真っ黒の髪の毛。まるで喪服のような出で立ち。異常なまでに好戦的な目だけが、口に咥えた煙草の先よりも鮮烈に光っていた。

 あいつは、俺と、俺を掴んでなにかを喚いている甲斐を不謹慎なほどに愉しげに一瞥すると、一切の躊躇もなく手にぶら下げていた一斗缶を振り――遠投のようなフォームで給油口の並ぶスペースにぶん投げて――。

「ハチ! 走れっ!」

 鋭い声が俺を貫いた。頭で考えるより前に、俺はあいつのいる方に走った。髪の毛が何本か抜けた。痛みに気を配っている暇はない。

 目の端で、銀と赤の飛行体が放物線を描いていた。ハリウッド映画でよく見るけれど、それを目の前で見れるなんて、と気が狂ったとしか思えない感想を胸に秘めたまま走った。

 数秒後、ぞっとするような爆発音と、甲斐の間抜けな叫び声が後ろで響いた。

 熱い風を背中に受けながら、俺達は、ひたすらに走った。

「あはははははは! 燃えてらぁ! おいハチ! イカしてんだろ!」

「馬ッ鹿野郎! ああもう、お前って本当に!」

「詳しい話はあとだ! とりあえず――行こうぜ! 月の石、拾いによ!」

 いたずら小僧のように、俺の相棒――クロは笑って、そう言った。

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