Libera Homo -リベラモ-
久慈柚奈
第1話 噴水広場で
昼食を持ってくるのを忘れた日、彼は広場に座っていた。
ちゃんと包んでテーブルの上に置いたはずなのに。鞄に入れるのを忘れてしまったんだ。うかつな自分を呪いながら、僕は昼休みになるなり石畳の街路に飛び出した。貴重な昼休みを費やすのは気が進まなかったが、すきっ腹を抱えたまま午後の仕事をするのはもっと気が進まない。オフィスから一番近いパン屋は広場を突っ切ったところにある。あそこなら手軽な昼食が手に入るだろう。古い街並みを早足で通り抜けながら、僕はそんなことを考えていた。
僕が初めて彼の姿を見た時、彼はやはり本を読んでいた。
太古の肖像画みたいだった。円形の広場の真ん中には噴水があるのだが、彼はそのふちに腰掛けて読んでいる。うすい紙をめくる手つきは大切なものを扱うように丁寧で、それが本そのものと同じかそれ以上に目を引いた。
今時、紙の本を読んでいるなんて珍しい人だ。それも自宅でもカフェでもなく、広場の真ん中で。
彼を観察する間も僕の足は止まっていない。パン屋に辿り着き、サンドイッチを買って広場へ出る。彼はまだ読んでいた。彼を物珍しく感じているのは僕だけではないようだ。通行人の中にも、彼にちらちら視線をやりながら通り過ぎていく人が多くいる。
彼から目が離せないまま、オフィスに戻ろうと広場を横切る。噴水を注視しながら広場を半周する格好になる。すると噴水の土台の影に隠れていたものが見えるようになった。小さな棚とスタンド看板だ。そこに大きく書かれた「本」という文字が僕の目を引き、思わず足を止めてしまう。じっくり見ると看板には「本あります」と書いてあった。
小さな棚は本棚で、大人の腿に届くくらいの高さがある。三段に仕切られた内部は本でぎっしり埋まっていた。両開きの扉は広場に向かって開かれ、どうぞご自由にご覧くださいと棚自体が語っている。あの人は本屋のようだ。
広場で読むだけでなく、今時本を売るなんて。ますます珍しいことをしている人だ。それも客引きするでもなく、ただ自分が座って読んでいるだけなんて。気づけば僕は時間の限られた昼休みのことも、片手にぶら下げたサンドイッチのことも忘れて、その本売りの元へ吸い寄せられるように近づいていた。
「あのう、こんにちは」
「こんにちは」
おそるおそる声をかけると、彼は軽快に顔を上げて愛想よく応じた。読書中の人間に声をかけてはいけないかもしれない、との思いは杞憂だった。彼は人好きのする顔で静かにこちらを見上げ、僕の次の言葉を待っている。
ようやくしまったと思った。買う気もなかったのに声をかけてしまった。ただただ好奇心に突き動かされて。けれど「間違えました」なんて言ってすぐ踵を返すのもなんとなくきまりがわるい。それでもう少し会話を続けることになった。
「本を、売られているんですか」
「ええ。今の品揃えはこの通りです」
にこやかに棚を指し示す。一見して古書らしかった。思えばそもそも新刊書というのは、現在作られているんだろうか。
「売れるものなんですか。……あ、急にすみません。あんまり珍しいものですから。紙の本を売っている人というのが」
続けてしてしまった質問が不躾だったかもしれないと思ったが、彼は気を悪くするふうでもない。
「ぼちぼちやってますよ。まったく売れないわけではありませんし、飛ぶように売れるわけでもありません。
最近は電子書籍が主流で、紙としての書物が新しく発刊されるのはベストセラーの愛蔵版や特別版みたいなものですからね。その分作りがしっかりしていますが、値も張ります。わたしが商っているのはこのとおりすべて古書なんです。一度誰かの手に渡ったもの――わたしも並べながら読んで、手を触れた人の一人に加わるのが常ですが――だけを扱っています。だから価格も手頃だし、自信を持っておすすめできます。何が書いてあるか分かっていますからね」
僕たちが話しているうちに、棚の前にしゃがみこんで本を見ている人が現れていた。その客は青い表紙の本を抜き出すと、本売りに見せて「これはどういう本ですか」と尋ねる。本売りははきはき答える。
「それはアーネスト・ルユラニの短編集ですね。わたしは表題作の『慕わないで』がお気に入りです。ルユラニを読んだことはありますか? ない。でしたらこれは手軽でおすすめですよ。どれも二、三ページととても短くて、それなのに物語にのめり込んじゃうんです。……」
お客はそのままの流れで本を買うことにしたらしい。二人が精算している間に、僕の視線は改めて本棚に向いている。棚を満たす本たちは軽く見積もっても三、四十冊はある。これだけの数の本に余すところなく目を通して、内容を人に説明できるくらい明瞭に覚えておくなんて、すごい記憶力だ。僕なんて最近いつ本を読んだかさえ定かでないのに。
本は嫌いではなかったはずだ。思わず見つけた本屋に声をかけてしまうくらいなのだから。
お客は本を手にして立ち去った。本棚には一冊分のすき間ができた。本売りの言葉が僕の耳にすべり込んでくる。
「どうぞお手に取ってご覧になってください。もちろん見るだけでも結構ですよ」
彼の言葉が終わらないうちから、僕の目はすでに熱心に背表紙の上を探索し始めている。僕は尋ねた。
「いつもここでお店をやられているんですか」
「この街にいる時は、そうですね。場所の説明がしやすいんです。石畳の街の噴水広場と言えば、大体の人がここのことだと了解してくれる」
「この街にいる時は?」
「わたしは行商人の真似事みたいなことをしていましてね。あちこちの街を行ったり来たりしながら本を商っているんです。渡り鳥のよう、とも言えますか。暖かくなれば北の方へ行き、寒くなれば雪の少ないところへ。何しろ外で売るものですから」
彼を初めて見たのも合点がいった。オフィスの窓からこの広場が見えるのだ。
「どのくらい滞在する予定ですか?」
「決めていません。いつものことですが。本の気分次第というところでしょうか」
「はあ」
急に不思議なことを言い出した。
彼はおもむろに軽く背中をねじり、背後の噴水を見上げる。
「街街を行き来するのはおもしろいものですよ。来るたび違う発見や微妙な変化がある。歴史が積み重なって、なかなか変わらないように見えるこういう街にも。噴水がホログラム映像になったのはなかなかない驚きでした」
僕もつられて噴水を見上げる。
広場の噴水は歴史あるモニュメントだが、一方では批判を受けるようになって久しくもあった。老朽化のメンテナンスに税金がかかる、水の無駄遣い……。文化財保全と環境保護のバランスが検討された結果、噴水の水は三六〇度ホログラムに切り替えられた。止水前に録音された水音が噴水の内部に取り付けられたスピーカーから流れている。遠目から見れば、本物の水が流れていた頃と変わりない。だがやはり近いところで見上げると。
彼も同じことを考えていたようだ。
「見た目には遜色ありませんが、やはり本物の水とは感じが違いますよね。なんというか、噴水のオブジェとしての機能が強調されてしまって、人との関わりの部分、人が働きかける余地が薄れてしまった感があります。昔は噴水にコインを投げるために近づいてくる人がいたり、暑い日に水に触りに来る人がいたりしましたが、もうそういう人たちはいませんね。通りすがったついでに本を見ていってくれたりもしたものですが……」
僕は驚いて彼の横顔を見つめた。彼は、一体幾つなんだろう? この噴水がホログラムになったのはおよそ二、三十年は前。僕は小学生くらいだった。見た目には彼も同年代に見える。そんな幼い頃から行商を……?
考えていると、手元でガサリと音がした。とある本に伸ばした手が、ぶら下げていたサンドイッチの袋とぶつかったのだ。サンドイッチ。昼休み。僕は自分がなんのために広場へ出てきたのかを急に思い出した。慌てて立ち上がる。
「失礼。急いでいたことを思い出しました」
「おや。そうでしたか。お立ち寄りいただいてありがとうございました」
「今度はもっとゆっくり見たいものです。また会えますか」
気づけばそんなことを口走っている。彼は屈託のない感じで「わかりません。でもまた会える時があれば、会いましょう」と応じてくれた。
僕は彼に背を向けて荻須へ戻る。だが午後はほとんど仕事に身が入らなかった。
あの本――サンドイッチが手にぶつかった時に手に取り損ねた本――。あれには一体、どんなことが書いてあるのだろう。もしも僕が急いでいなかったなら。もっと時間に余裕があったら。間違いなく手に取ってページをめくり、あるいは買っていただろうに。きっとそうなっていたはずなのに。
あの本が欲しい。もう一度、彼に会えないだろうか。
退勤時、窓から広場を眺めてみる。もう外は暗く、街灯の中に浮かび上がる噴水には人影がなかった。それが自分でも意外なほど残念だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます