第37話
地面にぽっかりと穿たれた、禍々しい穴。
粘液に濡れたその縁から立ち昇る瘴気は、まるで異界への入り口だった。だが俺は、迷いなくその淵を蹴る。
「行くぞ……!」
闇に飛び込むと、重力に引かれて身体が急降下する。耳元で風が唸り、衣服がはためく。底は見えねぇ。だが、この下に必ずアイラがいる。絶対に、助け出す。
全身に力を込めた。体内を駆け巡る熱が、喉の奥を焼く。
「──ッああああああッ!!」
咆哮とともに、意識が爆ぜた。次の瞬間、全身に赤黒いオーラが迸る。骨が軋み、筋肉が膨張し、血流が爆音のように鼓膜を打つ。
《狂化》──!
視界が赤黒く染まり、神経が研ぎ澄まされる。思考の中に余計な迷いはない。ただ一つの目的を遂げるための、狂気すら孕んだ加速。
拳を振り下ろすようにして、地下へと突き進む。衝撃を減速させることもなく、着地の瞬間──
──ドゴォン!!
爆音とともに、俺の身体は地面を穿ち、ようやく落下が止まった。土煙が舞う。崩れた岩とコンクリートの瓦礫が跳ね散る中、ゆっくりと立ち上がる。
「……っは、なんだここは……」
視界を覆うのは、まるで悪夢のような景色だった。
そこはかつて、人の手で作られた構造物の残骸だった。水路のような溝、崩れかけた鉄の配管、壁に刻まれた警告標識、きっと、かつての下水処理施設か何かだったんだろう。
だが、いまそこにあるのは人間の営みの名残ではなかった。
天井を這う根。壁に絡みつくツタ。地面を覆う苔のようなもの。それらすべてが、微かに光を放っていた。青白く、冷たい光。セリオンが放つステラエネルギーの色だ。
ただの植物じゃねえことは一目瞭然だった。
「気持ちわりぃ……」
不気味な青に染まったその世界は、地上とはまるで違うルールで成り立っている。植物の形状はどれも歪で、自然の摂理を逸脱している。壁からは無数のツタが垂れ、地面には巨大なつぼみがいくつも点在していた。
──そのうちの一つ、最も大きなつぼみが、まさに目の前で開こうとしていた。
青白く発光するつぼみの表面が、内側から脈動し始める。まるで心臓の鼓動のように、ドクン……ドクンとリズムを刻みながら、表皮が徐々に剥がれていく。
「……っ、来るか」
つぼみが、音もなく開いた。
中から出てきたのは、見覚えのある形状だった。
「……ッ、異形種……!」
地上で見たものと、ほぼ同じ姿。ツタのような四肢、歪んだ蝋細工のような頭部、背中の肉塊── ただ、よく見れば微妙に形状が違う。頭部の形は歪んでいるものの左右非対称ではないし、見た目もより獣のような姿をしている。
「まさか……このつぼみが、異形種を生み出してるのか……?」
嫌な想像が浮かぶ。もしかして、取り込んだ生き物を異形種に変えているのではないか。ということは、さっきアイラを呑み込んだあの巨大なつぼみも……?
背筋が冷える。
「早く助けねえと……ッ!」
心拍が跳ね上がる。
――ちょうどそのときだった。
ぬるり、と。青い粘液を滴らせながら、奥の影から巨大な異形種が現れた。間違いない。あの体格、あの圧。フォルティラスを捕食した、あの個体だ。
その背後には、他と比べるとまだ小さな“つぼみ”が浮かんでいた。
俺の直感が告げている。
「——アイラッ!」
──あの中に、アイラがいる。
「……返してもらうぞ」
肩を落とす。拳を握る。心の中に灯る、焦燥と怒り。
目の前には、未知数の脅威。でも、それ以上に、あのつぼみの中で眠るアイラを……絶対に助け出す。
そう強く誓ったその時。
異形種が──動いた。
ヌルリと粘液を引きずりながら、ゆっくりと地を這うようにしてこちらに迫ってくる。数十本のツタが蠢き、その一本一本がこちらを品定めするかのように、空気を探っていた。全身を硬質な外殻で覆いながら、異形種は一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その背後にはアイラが囚われているあのつぼみ。
時間はねえ。何を迷う必要がある?
「ぶっ潰すしかねぇだろ、こんなの……!」
俺は一気に距離を詰めた。足元はぬかるんでいて、まるで泥に足を取られるような不快な感触。だが、そんなの構ってられねぇ。地面を蹴り、正面から跳びかかる。
「オラァッ!!」
叩き込んだ拳が、異形種の触手に当たる。だが――
「チッ……またかよッ!」
ガキィンと音が鳴るほどの硬さ。あのフォルティラスの外殻に匹敵するほどの硬度。拳が軋む。それでも構わず、もう一発、三発、五発と連撃を叩き込むが、手応えは薄い。触手の外皮に微かなヒビを刻んだだけで、奴の動きは止まらない。
すぐさま別の触手が俺を狙って襲いかかってくる。咄嗟に身を捻って回避――できなかった。
「ぐっ……!?」
肩に鈍い衝撃。蹴り飛ばされたような衝撃に、身体が浮く。コンクリートの壁に叩きつけられ、脳が揺れた。
視界がかすむ。が、休む間もなく、次の触手が迫る。
「……このっ!」
拳で受け止め、跳ね返し、その勢いのまま地面を転がって距離を取る。
こいつの攻撃、ひとつひとつが重すぎる。常人なら一撃で全身を砕かれてるほどの威力だ。でも、俺はまだ立てる。狂化の恩恵で痛覚が鈍ってるのもでかい。
だが、問題はそれだけじゃねぇ。
──ギュルッ
ぬめった音が背後から響く。
「っ……!?」
振り返った瞬間、俺は絶句した。
さっきつぼみから生まれ落ちたもう一体の異形種が、いつの間にか背後に迫っていた。小型とはいえ、こいつも油断はできない敵だ。しかも……一体じゃねえ。
つぼみが、次々と開いていく。
青白い粘液を撒き散らしながら、同じ姿の異形種が四体、五体と地面を這いずって出てくる。狭くて暗い空間に、得体の知れない化け物が複数体。
「マジかよ……何体いんだ……」
身体が冷える。だが、今さら怯むつもりはねぇ。
「まとめて相手になってやらあああッ!!」
怯んでる暇なんかねえんだよッ!
咆哮とともに、一体目に飛びかかる。脇腹に一撃、殴り飛ばし、続けてもう一体の横っ面に回し蹴り。ぬるりとした体表に拳がめり込み、粘液が飛び散った。
だが、その隙を突いて、奴が触手を這わせてくる。
「ッ、甘く見てんじゃねえよ!!」
背中越しに腕を振るい、硬質な触手を弾き飛ばす。だがそれも一瞬のこと。また別の個体が地面を滑って迫ってくる。
──ガシィ!
油断した。足首に、冷たい感触。触手だ。地面から伸びたそれが、俺の足を拘束する。
「うおおおおッ!!」
全身の力を足に回して振りほどく。筋肉が軋む音とともに、ツタを引きちぎった瞬間、正面から巨大な異形種が突っ込んできた。
全身を包むように襲いかかる無数の触手。天井、壁、足元――あらゆる方向からうねるそれは、もはや避けられるもんじゃねえ。
だったら……受けるしかねぇ。
「ッぐおおおおおおおおおッ!!」
構えた腕に、何本もの触手が叩きつけられる。全てが鉄をも砕くほどの一撃。皮膚が裂ける。骨にひびが入る。激痛が神経を駆け抜ける。だが、止まらない。
「まだ、やれる……俺は……まだ……!」
血が滲むほどに拳を握る。気合いで立つ。足元が滑るが、歯を食いしばって踏みとどまる。
敵の触手は、容赦なく襲ってくる。だが、俺の拳も、まだ折れちゃいねえ。
と、そのとき。
全身を駆け抜ける、熱い“流れ”があった。
それは狂化とも違う。だがしかし、同じくらいに力強い、確かな流れ。
――それは《狂化》を得たときと同じ感覚。
「……最高のタイミングじゃねえか……!」
激戦のさなかに感じる、異質な熱。身体の奥が、何かを生もうとしている。鼓動が爆ぜる。心臓が暴れだす。
──全身に、火傷しそうなほどの熱が駆け巡る。
激痛の中、思わず笑みを浮かべ――俺は、その熱を受け入れた。
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