AIが淘汰したはずの感情

チャーハン@新作はぼちぼち

またね、大好き

 図書館の扉を押し開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。古びた木の香りと、長年積み重ねられた紙の匂いが微かに混じり合い、外界の喧騒とは隔絶された静寂の世界が広がっている。


 ハルにとって、この図書館は単なる書物の保管場所ではなかった。騒がしい日常から離れ、誰にも邪魔されずに過去の物語と静かに向き合うための聖域だった。


 ゆっくりと木製の床を踏みしめながら、奥の席へ向かう。歩くたびに、古い床板が微かに軋む音が静かに響いた。高い天井から吊り下がるシャンデリアの柔らかな光が、整然と並ぶ本棚の間を優しく照らしている。ハルは、背の高い書架が迷路のように続く中を抜け、窓際のいつもの席へ足を運んだ。


 モスグリーンのリュックサックから、一冊の文庫本を取り出し、少し色褪せた表紙を指先で丁寧になぞる。それは幼い頃から何度も読み返してきた、大切な一冊だった。角は擦り切れ、ところどころに思い出の染みが薄く広がっている。


 ──一目ぼれ。


 それは、ハルが生きる西暦2047年の社会では、もはや死語と化した言葉だった。人々は生まれたときから脳にチップを埋め込まれ、「ブレイン・ネット」と呼ばれる情報ネットワークに接続されている。思考は瞬時に共有され、言葉を交わさずとも相手の感情を数値で把握することができる。


 恋愛における好意の有無など、数値を見れば一目瞭然だった。告白が失敗するという概念はなくなり、人工知能(AI)が個人のデータを解析し、最適な相手を選び出す時代。人々は、感情が芽生える前に、AIによって「最適化された」人間関係の中に組み込まれていた。


 ──それが、果たして本当に幸福なのだろうか?


 ハルには、どうしてもそうは思えなかった。数値化された感情は平坦で深みがなく、まるで人工的な甘味料のようだった。彼女が求めていたのは、予測不可能で、心臓が高鳴るような、生身の人間らしいつながり。


 ページをめくる手がふと止まる。


 顔を上げると、向かいの席に、いつの間にか青年が静かに座っていた。


 さらりとした黒髪が、時折、彼が顔を傾けるたびに揺れる。整った顔立ちの青年は、メガネの奥の知的な瞳を開いたまま、本に視線を落としていた。彼の指先は、ページの端をまるで繊細な芸術品を扱うかのようにそっとつまみ上げ、慎重にめくる。その一連の静かな動作に、ハルは思わず目を奪われた。


「君も、その本を読むんだね」


 不意に、青年が顔を上げ、ハルを見つめながら微笑んだ。その笑みは、無理に作ったものではなく、内側からじんわりと湧き出るような穏やかさをたたえていた。


 ハルは息を呑んだ。彼の声は落ち着いていて、心地よく響く。それはAIアシスタントの合成音とはまるで違う、生きた人間の温もりを感じさせる声だった。


 彼が指さしたのは、ハルが手にしている、何度も読み返してきた文庫本。


「……うん」


 小さく頷くと、青年は少し嬉しそうに目を細めた。


「なんだか、運命みたいだね」


 ──運命。


 今ではほとんど使われなくなった、古い言葉。


 けれど、彼の口から発せられた「運命」という言葉には、計算や合理性とは対極にある、確かな温度と、人間らしい感情が宿っていた。それは、ハルがずっと求めていたもの。


「……あなたは、AIを使わないの?」


 衝動的に問いかけると、彼は少し驚いたように瞬きをしたが、すぐに柔らかく微笑んだ。


「使ってないよ」


 その言葉が、ハルの心に小さな波を起こした。


 合理性と効率が支配する世界で、彼のような存在に出会ったのは、もしかすると本当に──運命だったのかもしれない。


「……ねえ」


 ハルは、小さな勇気を振り絞った。


「今度、一緒に本について話しませんか?」


 青年の瞳が、優しく揺れた。


「うん。また会おう」


 その言葉に、ハルは静かに微笑んだ。


 ――数日後。


 ハルは再び図書館を訪れた。


 彼にまた会えるかもしれない。そう思うだけで胸が高鳴る。


 けれど、彼の姿はどこにもなかった。


 何度も館内を見渡したが、見覚えのある黒髪は見つからない。


 今日は、いないのだろうか。


 静かに溜息をつき、ハルはいつもの席に座った。窓の外では木々の葉が風に揺れ、春の日差しが優しく差し込んでいる。


 ふと、カウンターの横に一冊の本が置かれているのが目に入った。


 それは、あの日彼と一緒に読んだ本だった。


 そっと手を伸ばすと、ページの間に小さなメモが挟まれているのに気がついた。


 指先で慎重に取り出し、そっと開く。


 そこに書かれていたのは、たった一行の言葉だった。


《またね、大好き》


 その瞬間、ハルの視界が滲んだ。


 指先でメモをなぞる。


 ──これは、数値化された感情ではない。AIが導き出した最適解でもない。


 彼の心が、言葉になったものだった。


 ページを閉じ、胸にそっと抱きしめる。


 目を閉じれば、あの日の微笑みが浮かんでくる。


 ──また会えるよね?


 小さく呟き、ハルはそっと本を開いた。


 彼とまた出会う未来を願いながら。

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