第35話 ルナディルの香りが教えてくれる
ジャスミンが、ハーブを使った料理のリクエストを挙げ始めた頃、少し眠気が襲ってきた。
シルヴェローズを使った肉の香草焼きは外せない。トマトのマリネはミスティアで爽やかに。シルキーセージを使って手作りソーセージを作るのはどうか。アップルミスティアと果物でゼリーを作るのもいい。──饒舌に語るジャスミンに、そうだなと頷きながら欠伸を噛み殺した。
ルナディルが効いてきたのだろうか?
「ルーファス、眠そうだな。大丈夫か?」
「……大丈夫だ」
「そういえば、寝不足だったよね」
「今朝も、うなされてたよな。悪夢を見るんだろ?」
「……今日は遅くまで森でハーブを摘んだし、よく眠れるだろう」
空になったカップにハーブティーを追加して、それを口に運んだ。
優しい香りが口の中に広がり、鼻を抜けていく。
短い息をつくと、また眠気に視界が揺らいだ。いくらリラックス効果があったとして、これほど眠気が出るのは珍しいな。ハーブ摘みで疲れが蓄積していたのか。それとも、ハーブの効果なのか。
「……ジャスミン。ルナディルは睡眠効果もあるのか?」
「んー、そうね。疲労が蓄積してたり、魔力抵抗が低かったら……ルーファス?」
ジャスミンの声が遠くなる。
眠気に抗って額を抑えたが、どうにも堪えられそうにない。視界が暗くなっていく。
死ぬ前は、他人に寝姿をさらすなんてことも出来なかったが……まあ、ここはログハウスの中だ。こいつらの前なら、少し眠ってもかまわないか。
楽しげに話す二人を見て心が緩んだのだろう。
眠気に抗うのをやめ、ソファーに体を横たえた。遠くに、俺を呼ぶ二人の声を聞きながら。
気付けば森にいた。暗い夜の森だ。
幽閉されていた牢屋でも、処刑台でもない。だが、月明かりのない森は果てしなく暗く、どこからか突き刺さる視線を感じる。
闇の中、ひそひそと声が聞こえてきたの。
「国を滅ぼしておいて、のうのうと生きて」
「裏切り者のくせに幸せになろうなんて」
「失地王を信じたらいけないよ」
罵声や陰口にはなれている。──自身に言い聞かせながら、奥歯を噛んだ。
どこで囁かれているのか。誰がそういうのか。見えない憎しみに晒され続けるのには慣れた。そう思っていた筈だ。なのに、足元が揺らいだ。
黒い影が足にまとわりつき、ずりずりと俺を引きずりおろそうとした。
それが真っ黒な手だと気付いた時、ぞわぞわと背筋が震えた。
「お前のせいだ。お前さえ、いなければ」
声がする。
憎しみに満ちたそれは、兄上の声。
これは夢だ。
わかっているのに、目を覚ます手段がわからない。身体が動かない。
「……ルナディルは安眠に効くんじゃなかったのか?」
全身から汗が噴き出した。
俺がいなければ──国はただ滅びた。もっと、民衆に死者も出た。俺は間違っていない。俺は、王弟として間違った選択をしなかった。
過去を思い出すごとに、足が地面に飲み込まれていく。抗うことも出来ず、ゆっくりと飲まれていく。
間違ってなどいない。だけど、もっと頼れる仲間がいたら、結果は違ったんじゃないか。例えば、ジャスミンのような……
暗闇の中、遠くで小さな光が揺れた。ランタンの灯りだ。
「──ルーファス!」
ジャスミンの声が響いた。
暗い森の中、ランタンの光が揺れる。光が近づくにつれ、柔らかなルナディルの香りが次第に濃くなった。
「もう、こんなとこでなにやってるの?」
ずぶずぶと底なし沼に落ちる俺の顔を、あっけらかんとしたジャスミンが覗き込む。
「こんなとこで寝たらだめだよ。ほら、こっち!」
俺の手よりも遥かに小さな手が、俺を引っ張り上げようとした。だけど、びくともしない。そりゃ、そうだ。大の大人を女一人で引き上げるなんて無理だろう。
「もう! 強情なんだから。トレヴァー!!」
ジャスミンが声を上げると、暗闇からトレヴァーが現れた。実にめんどくさそうな顔をしている。
「あー、なんだよ。俺は金になんねーこと、しねーかんな!」
「つべこべいわないの! ルーファスがいなくちゃ、カフェが成り立たないでしょ」
「……そうだけどよ」
「ほら、手伝って。引っ張り上げるわよ!」
「仕方ねぇな……貸しだかんな。こんなとこ、さっさと出て、俺にたんまり稼がせろよ!」
ジャスミンの手に加え、トレヴァーの手も俺の手を掴む。
「さあ、帰るわよ。ログハウスに!!」
ジャスミンの声が森を駆け抜け、甘い風が巻き起こった。
闇が晴れる。ランタンの光がはじけ飛び、世界が真っ白になった。
顔を上げれば、そこはログハウスの前だった。花が咲きほころび、丸太で作られたテーブルには、テーセットとサンドイッチに、ケーキが並んでいる。
「いらっしゃいませ、お客様!」
可愛らしいエプロンドレスを翻したジャスミンが笑った。
「今日のオススメセットは、ルナディルのハーブティー。怖い悪夢も、悲しい思い出も、きっと大切な今が吹き飛ばしてくれるよ!」
ティーポットから淡い青紫色のハーブティーが、白磁のカップに注がれる。
「さあ、召し上がれ」と笑う愛らしい顔に、自然と口元が緩んだ。
大切な今、か。
あまりにも簡単なことだと気付く。この香りと共に、見失っていた大切な今を、忘れないようにしよう。
ルナディルの香りが全身を覆っていく。
一度瞳を閉ざし、再び目を開けた時、床で丸まって眠るジャスミンとトレヴァーを見た。二人とも毛布をかぶって、ソファーに寄り掛かるようにして眠っている。よく見ると、ジャスミンの手にはルナディルが一束、握りしめられていた。
もしや、俺のことを心配して、ルナディルを持って側にいたのか。
起こした身体は不思議と軽かった。
丸まって寝る二人の髪をそっと撫で、小さく「ありがとな」と呟く。気のせいだろうか、二人の口元が少しだけ笑ったように見えた。
振り返った窓の外からは夜明け前の静かな空が見える。それに、部屋は穏やかなルナディルの香りで満たされていた。
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