故郷

 洋館の中に流れる、どことなく慌ただしい空気を、カエデはその肌に感じていた。


 取り決め通り、カエデの出産予定日の二日前から産科医の守永と加藤が洋館に泊まり込んで、空き部屋を使って出産の準備をしていく。

 分娩時に使うベッドを部屋に運び込み、タオルを大量に買い込み、その他必要な機材や物を手に取りやすい場所へ配置していき、出産後に使うベビー用品の買い出しや点検をしたりと、生まれるまでにやることは多く、アスターと春花も協力して動いた。


 予定日当日、陣痛はまだ来ない。


 カエデは分娩用の部屋に移動し、ベッドの上でその時を待つ。つい数分前までは傍にアスターがいたが、時刻が正午を過ぎたからと、軽食を作りに行ってしまった。

 この場にいるのは、カエデと、シャムロックのみ。

 守永と加藤は、カエデがいる場所より離れた部屋にいて、分娩時の段取りを話し合っているのが聴こえた。春花の声や足音は一切聴こえて来ず、恐らく外に出ているのだろう。

 吸血鬼の耳は便利だなと、カエデはこっそり感心する。これで不快な想いをすることもあるけれど、だいたいは役に立つ。──不安な時、家族の出す音を聴いて、心を落ち着けられるのだ。


「カエデ、具合はどうだ?」

「まだ、大丈夫。痛くない」


 いつ誰が買ったのか、分娩用のベッドは簡単な操作で上半分を起き上がらせることができ、脇には掴む為の手すりも付いていた。

 今はベッドを起こし、カエデはそこに背をもたれさせながら、シャムロックを両手に抱えている。

 生首は程好く温かい。カイロのように腹に密着させ、その後頭部にカエデは軽く顎を乗せていた。顎から伝わる髪の毛の感触に安堵を覚える。


「春花、外にいるみたい」

「だと思うぞ」

「どこに行ったのか知ってる?」

「……察しはつかないか?」


 そのように言われ、カエデは口を閉じた。姉の出産予定日当日に、弟が向かう場所。向かってくれそうな場所。向かってくれていたら、嬉しい場所。

 脳裏に、愛する男の顔を思い浮かべ、カエデは静かに微笑む。そうであればいいのにと、願いながら。

 願って、願って──微笑みが消える。ほんのりと暗い声で、カエデはシャムロックに訊ねた。


「赤ちゃんが生まれた後、どうなると思う?」

「どうなるって」

「──ジェラルド、帰っちゃうのかな」

「……」

「ジェラルドもジュリアスも、ここじゃない所から、お師匠様を助けに来たでしょ? 本当はジェラルドの怪我が治ったら、すぐに故郷に戻るつもりだったのに、赤ちゃん達がカエデのお腹に来てくれて、ずっと引き留めてる。……帰らないと、ダメ、だよね。お師匠様、待って、いる、みたいだし」


 そんなつもりはなかったのに、カエデの瞳は潤んでいき、赤い結晶がいくつも溢れ落ちて、ベッドの上に積もっていく。


「行かない、で、なんて、言っちゃダメ、なの、分かって、でも……でも!」

「カエデ、落ち着け」

「いっ……一緒に、育てて、ほしいなって……!」

「──それでいいじゃないか」


 カエデは一瞬、シャムロックが何を言ったのか分からなかった。涙を溢しながら、嗚咽を溢しながら、頭の中で何度もシャムロックの言葉を繰り返していき、一つの疑問を口にする。


「どういう、こと?」

「ジェラルドと一緒に育てればいい。──カエデ、あいつと一緒になれ」

「……ジェラルド、帰らないと」

「一緒に帰るんだよ、お前も、ジェラルド達の故郷に」

「……え?」


 愛する男の故郷に共に行く。そんなことは可能なのか。

 カエデは、カエデ・グレンヴィルは吸血鬼。植園紅葉と手を組み、植園春花に監理されている者。

 そんな自分が、この場を離れて良いのか。

 疑問は、同時に、希望でもある。それがもし許されるなら、どんなに幸せなことか。


「……ジェラルドと、ジュリアスと、一緒に?」

「そうだ」

「……カエデが、ジェラルド達の故郷に?」

「そうだ」

「……シャムロックや、アスター、春花も一緒?」

「残念だがそれは違う。行くのはお前だけだ」


 夢見心地に呟かれた声は、最後の最後に否定される。


「吸血鬼が皆いなくなったら面倒なことが起こるだろう。きっと追っ手を差し向けられる。そうさせない為に、オレとアスターはここに残ろうと思う。ハルカは……どうなんだろうな。取り敢えず、訊いてみろ」

「……カエデ達、一緒に、いられないの?」


 赤い瞳から溢れ落ちる涙の量が増していく。


「お前は十分一緒にいてくれたよ」

「……これからも……カエデ……皆と、一緒が」

「そうしたら、ジェラルドと離れ離れになるぞ? カエデ、両方は選べない」

「……だ……やだっ!」


 逃がさないとばかりに、カエデはシャムロックを強く抱き締める。生首に腕はない。抵抗する術も──頭を撫でて落ち着かせる術も、ないのだ。


「やだ! やだよ、やだ!」

「カエデ、お前は母親になるんだぞ? 父親だって、その、いい奴だ。あいつの故郷で、協力して子育てするんだ」

「シャムロック!」

「オレとアスターはここで、お前らの無事を祈っているから」

「──やだぁ!」


 拒絶の叫びは一際大きく、それを耳にした誰かの慌ただしい足音が近付いて来て、扉が音を立てて開かれる。


「カエデ! 何かありましたか!」


 アスターだ。血相を変えてベッドに駆け寄り、泣き崩れるカエデの背中をしきりに擦った。


「やだ! やだっ! やだぁ!」

「カエデ、落ち着いてください! ほら、大丈夫ですから、怖くないですから、ね、カエデ」

「一緒! ずっと一緒!」

「ええ、お傍にいますから。……シャムロック様、何があったのですか?」

「……言うべきでないタイミングに、興奮させるようなことを、つい」


 アスターとシャムロックは何かを話し合っているが、カエデの耳には入って来ない。子供達が生まれた後は、この吸血鬼達と別れることになるかもしれず、それを拒めば愛する男を失うかもしれない。

 両方を選ぶことは許されない、など──そんなこと、認められるわけがない! 家族は全員、揃っていないとダメだというのに……。


「……いたい」


 下腹部に、ふいに、痛みを感じた。

 無意識にシャムロックを離し、カエデの脚の上を生首が転がっていく。あわわわわと、慌てた声を出すシャムロックとアスター。シャムロックが床に落ちる寸前にアスターがキャッチして、そちらは無事だった。

 カエデ、と口にするアスターの声は、これから注意をしようとしているもので、けれど、彼が彼女に注意をすることはなかった。

 できなかった。

 カエデは腹を押さえ、呻き声を上げながら背中を丸める。うっすら汗を掻いたその顔は、見るからに苦痛に堪えていた。


「カエデ!」

「どうした!」


 主従が声を揃えて案じてくるが、カエデに答えられる余裕はない。──来たのだ、陣痛が。


「呼んできます!」


 アスターは生首を抱えて走り出す。残されたカエデは、脇にある手すりを力の限り掴み、荒い呼吸を繰り返しながら、医師が来るのを待った。

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