温室
昨日の夕食時、カエデからこんな話をされた。
「あのね、春花。この家の中でね、好きに過ごしていいんだけど、温室には行かないでほしいの」
どうやら、長年放置しているせいで中は荒れ、おまけに屋根が壊れているらしい。
「危ないから、絶対に行かないでね」
「私の魔法で直しましょうか」
普段、アヴィオール様から涙を頂き、どこに行く時も多めに持ち歩いている。残量にも余裕はあった。片付けも修理も魔法で容易にできたはずだ。
だが、断られた。
「申し出はありがたいが、子供にそんなことはさせられない」
断りの言葉を述べたのはカエデではなく、テーブルに置かれて、アスターの腕から血を飲んでいたシャムロックだった。
「私が手ずからやるのではなく、魔法を用いてやるつもりですが」
「それでもだ。何かあってはいけない」
「怪我には注意しますし、そもそも、怪我しても魔法で直せます」
「二度も言わせるな。お前に万が一のことが起きたらどうする。魔法だって万能ではないんだぞ」
「……」
「カエデも、アスターも、同じ気持ち。春花は、そんなこと気にしないで、のんびりしていて」
「……」
分かりました、とは言ったが、今まで知らなかった温室の存在を知らされれば、そして頑なに近付くことを拒まれたら、気になるのが人の性。
どこかのタイミングで忍び込もうと思うが、いつがいいのか。
この家にいるのが人間であれば、寝静まった夜中に行動できるが、彼ら吸血鬼はいつ寝るのか、そもそも寝るのか。
アヴィオール様はよく分からなかった。瞼を閉じて寝ているように見えるのに、いざ近寄ればすぐに瞼を開けて凝視してくる。あれは心臓に悪い。
吸血鬼は眠りを必要とするのか。彼らの眠りは総じて浅いのか。休息の為に瞼を閉じているだけなのか。
アヴィオール様に訊けば良かったと思うが、気になるなら訊けばいいのだと思い直す。
本日は曇天。しかし雨は降っていない。
一度帰宅することにした。
泊まるつもりはなかったので、着替えを何も持っておらず、下着も服もアスターがどこからか用意してくれた。助かりはしたが、やはり自分の衣類を身に纏いたい。
吸血鬼達からは、もう少しゆっくりしても、と言われたが、家にいる弟のことが心配だと答えれば、それは早く帰るべきだ、引き留めて申し訳ないと言われる。念の為に、また来てもいいかと訊けば、いつでもと言ってもらえたから、明日また来ようと思う。
土産にアスター手製のクッキーを頂き、家路に着く。五階建ての古びたアパートの一室は、あの家に比べると、いや比べるのも烏滸がましいほどに、ひどく狭い。
入ってすぐ、居間で夏樹が倒れていたのには驚いた。空腹で動けなくなっていたと聞いたが、冷蔵庫には食材があるし、レトルト食品もインスタント麺もたくさんあったというのに。
「料理は兄貴の担当だろうが」
面倒なら魔法を使えと言ったが、魔法を使うことすら面倒なんだと返された。なんと阿呆な弟か。やはりあの家には、私が向かって正解だった。
野菜炒めと卵焼きを手早く作ってやり、ちゃぶ台に並べていくと、一瞬で平らげてしまった。
待たせている間に持たされたクッキーを渡していたというのに、それも一つ残らず食べた上で、おかわりまで所望されたから、カップ麺を食べろと言えば、一気に三つ、味の違うカップ麺を魔法で用意していた。
三分、待っている間も、過ぎた後も、夏樹は何も言わなかった。私がどこにいるか連絡していたからだろう。
夏樹にとってもカエデは姉だ。母親違いの姉。私達は全員父親が同じだが、母親は全員違う。
婚姻関係があったカエデの母と、アヴィオール様を守る子供を作る為だけに関係を持った私の母と夏樹の母。父は三人の女を誰も愛していなかったはずだ。
あの人の目には、アヴィオール様しか映っていなかっただろうから。
「アヴィオール様に血は与えていたのか?」
「一応。俺の傍に転がってただろ? アヴィーにあげたら自分の飯用意すんの怠くなってさ」
アヴィーだなんて気安い呼び方は不敬だからやめろと、何度注意しても夏樹はやめない。なんなら、当のアヴィオール様が許可してしまっている。
父が生きていた時からこうだった。父から冷たい目で見られようと、魔法で折檻されても、態度を改めなかった。気持ち、私より態度が厳しかった気がする。
夏樹は駄目だ。夏樹では駄目だ。その考えは夏樹と接するたびに強くなる。
私は植園春花。継ぐ家はないが継いだ吸血鬼はいる。彼を守り、血を繋いでいくには、私が励まねばならない。
吸血鬼を取られ、命を取られては、何の為に作られたのか分からなくなる。やらなければ。
生きたければ、秘密を探らなくては。
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