灰恢恢

作者(ツクリモン)

一章

 名前の無い怪物が居る、高空に浮かぶ空島に。

 ……人肉を喰らい、人血を啜る、怪異とも、化物とも、超人とも呼べる黒き生命体。

 …………そして。

 俺も、それに成ろうとした。


 ――空島。

 何らかの裂け目の影響で――突拍子も無い事を言うが――異世界へと繋がった。

 その異世界からやって来た土地が、今の空島だ。

 裂け目は最初、海底付近に出現したと言われている。

 裂け目から土地が出現し、それと共に大量の魔力が地球に流れ込んだ。

 その魔力を用いて、海底に強力な磁石の様な物を仕込んだ。

 磁石は英文字のVの字状に地中に埋め込まれており、その形状に嵌る様に、空島の下部が、頂点を下にした円錐状に伸びている。

 つまり、空島は磁力の穴に嵌っている様な状態で固定されている。

 そして海底の磁場が地球の自転と共に移動するので、空島もそれに合わせて移動する。

 だから空島は、太平洋の上で浮遊し続けている。


 異世界人は、強く賢く逞しい。殆どが地球人の上位互換と言える。

 それが、空島が発展した理由だ。

 元は異世界とは思えないビル街を歩く。

 天空の地に聳え立つ高層ビル群は、空島の異様な光景。

 異世界と、地球……現実世界。二つが混じって、一つの街並みを形成する。その果てとも呼ぶべき場所。

 路面には車道が無く、人も多過ぎず少な過ぎず、天上の月が良く見える。

 少し歩いて、閑散とした工事現場に足を踏み入れれば、辺りには殆ど人が居なくなる。

 展開された結界に侵入すれば、結界の外の背景に暗幕が掛かる。

 敵は一人、生後間も無い影人。

 さてと。

 一仕事、やろう。

 携えていた拳銃を構える。

 暗闇に紛れる真っ黒な人影に、発砲した。

 ……影人というのは、この島に不定期的に現れる、怪異なのか超常現象なのかも分からない存在。

 ただ人の形をしている、黒い何か……若しくは、何かの集合体。

 顔面のパーツは無いし、筋肉や関節、内臓も存在しない。

 人をベースにした容姿の、人とは呼べない何か。

 黒一色の人型。

 無論それだけなら、怪異とも化物とも、超人とも言えない。

 通称、カゲビト。漢字で影人。

 影人は人に非ざる者だ。

 奴等は、人を食う。人肉を喰らい、人血を啜る。

 そうして食った分だけ強く成っていく。

 硬軟も長短も大小も、他の生物の部位でも、それらを組み合わせたオリジナルの物でも、如何様にも強化されていく。

 そして、影人は再度人を狩る。成長し、狩りを始め、世界を巡る。

 ……その繰り返しは人類が消える迄続く。

 影人に寿命は無い。

 殺害する為には、影人の『影の力』を破壊するしか無い。

 影の力は、影人の身体の全部。身体を削った分だけ、影人にダメージが与えられる。

 そして一定以上影人の身体を破壊すれば、影人は停止する。

 それが、影人。

 人類の敵だ。

 ……そんな影人と戦い、観光客を守る組織――『レティー』は、今回の影人の相手を俺に任せた。

 裂け目からやって来た人達――空島先住民は、大抵は影人の事を知っていて、レティーに暗黙裡に協力している。それだけでなく、殆どの企業や政府もだ。

 密かな協力のお陰で、この空間は影人と俺の二人だけ。他には誰も居ない。

 この空間でやる事は一つ、影人の殲滅。

 暗闇から影人が出現する。

 街灯の光の元に出てきた黒い人型は、髪の生えていない頭部に風穴が空いている。

 頬を貫通し、骨の無い後頭部を打ち抜いたのにも関わらず、影人はその穴を一瞬で防いだ。

 再生した。これが影人の強靭さ。

 銃弾で死なないならば、もっと大規模な攻撃が必要だ。

 勿論、多くの影人の場合、連続で打てば火力は足りる。

 だが、少なくとも一人以上食ってる影人は、倒し切れない。そして大抵はリロードの間に再生する。

 拳銃を腰のホルスターに仕舞う。

 今度はその手で腰の短刀を取った。

 銃が効かないなら、こちらで殺るしかあるまい。

 地を弾いた瞬間、影人の目の前に躍り出た。

 蹂躙が始まる。

 一閃。

 一太刀で、影人の首が撥ねられる。

 瞬間、影人が死ぬ。重力に従って全身が崩れ落ちていく。

 速さ、それが討伐の正攻法。

 高速で移動し、影人の首を斬り落としたのだ。

 ……影人に弱点は無い。影人を倒す為には、相応のダメージを与える必要が有る。

 ダメージは身体の密度と体積に依存する。

 殆どの場合、頭部は勿論、腕でも脚でも何でも、何らかの部位を切り離された影人は死ぬ。分裂して別個体に成る事は殆ど無い。

 それ以前に銃で撃ち抜かれただけで死ぬ個体が多くを占めるが、一人以上食った個体は、大抵はそれだけで死なない。

 一発で死なない時には、二発目。それでも死なない時は、身体の一部を欠損させるのが定石。

 そうやって今日も、溢れる前に影を潰す。

 俺達は決して、表舞台に出てはいけない。レティーの構成員は、世界から追放された者なのだから。


 一二月。

 だが、冬という実感は全く無い。空島に於いては。

 季節という概念に左右されない理由は、常に寒いから。一年中ずっと低温で過ごすからだ。

 いや、本来ならこの高さだと人は暮らせない程冷えているが、実際はそうじゃない。

 空島全体を保護する結界が在るから。

 異世界をルーツに持っている空島らしく、空島人は空島を幾つかの結界で覆っている。

 一つは空島の温度を調節する結界。外界から入ってくる空気の温度をある程度調節する結界だ。

 一つは温度を調節する結界の外側に在る、酸素や水蒸気等の大気を管理する巨大な結界。代償として、擬似的に対流圏の範囲を拡張している為、積乱雲等で空島に嵐が訪れる。

 一つは空島の全ての建物の外郭に存在する、緊急時に展開される結界。緊急時のみに展開され、避難した人と建物を守るが、膨大な魔力を消費する。

 他にも、魔力が外に出ない様な結界とか、予備の結界とかも張り巡らされているらしい。

 改めて考えると、意味の分からない世界観だ。

 魔力も結界も、魔法だって何故か実在している。そして、影人という存在も、空島で散見される。

 ジャンルの違う世界観をそのまま足し算してクロスオーバーしてしまったかの様な、そんな奇妙な世界。

 楽しいとは思わない。

 ファンタジーとダークファンタジーが合体しても、地球に生きる住民は、大半は魔法を使えないし、大半は影人と戦う組織を知らない。

 さて、と。

 一二月という事は、月末より約一週間程前にクリスマスが在る。

 そして一二月二四日は、空島がこちらに来てから丁度一〇〇年が経つ。

 更に、空島では皆既日食が見れるらしい。夕陽が沈む丁度その時に見れると予想されている。

 ……因みに旧約聖書では、日没から一日が始まり、明日の日没で一日が終わるとしている。

 纏めると、クリスマスの始まりに皆既日食と空島のアニバーサリーが重なるのだ。その特別感や経済効果は想像せずとも分かるだろう。

 今年は、今の段階で例年より数倍の観光客が来訪している。

 ……そうしたらその分、影人も増える。

 影人は、元は人間だ。

 福祉の概念が殆ど無いこの島では、弱者は住所やホテルを失う。

 住処を失った人は、その日暮らしを始める。

 空島のどこかで暮らしている弱者の中には、人の立ち入らない場所に隠れて拠点にしている人も居る。テントや寝袋だけ買って、外で暮らしているのだ。

 それを密かに攫って、影人の材料にする。こうして影人が増えるのだ。とはいえ、確証は無い。

 だが、観光客が増えれば、弱者も増え……そして、影人は増えている事も事実。

 例えば、ギャンブルで金を減らした親が、連れてきた子供に飯を食わせる事を煩い、島の何処かに捨ててしまう、という事例は幾つも有る。

 そういう口でレティーに入った人も少なくない。

 何とも醜悪な世界が、天国やら楽園やらと呼ばれている。

 影人だって、こうして裏で殺しているだけで、公表されていない。

 だからこそ、こうして毎度、影人の処理に苦労する。

 切れ味の良い短刀が、死んで動かない影人を切り刻む。

 慣れた動作で、ある程度の大きさに身体を分解する。

 ポケットから畳まれているポリ袋を取り出した。広げると、少し大きい黒色のゴミ袋として使える。

 切り分けた身体を中に詰めて、空気を抜いてから縛って、背負う。レティーのビルのダストシュートに捨てる迄が、俺の仕事だ。

 結界を抜けて、工事現場から離れる。少し歩けば、人通りの多い場所に出る。

 俺は、レティーに向かって歩き始めた。

 ……最近は影人が増えている。

 人手もかなり不足している中で、こうも影人の出現数が増加していると、精神的に参ってしまう。

 レティーは正式な軍隊ではない。極秘の組織でもなく、幾つかの企業の協力と、俺達みたいな世界から見捨てられた奴等の献身で成り立っている。その為、正式に支援される事は無いが、出所の分からない報酬金は入ってくる。

 正式に支援される事は無いだろう。政府が直接、死んだ筈の俺達を支援する事は出来ない。

 せめて誰でも良いから、空島人が欲しい。魔法や結界を使う人でなくとも、空島人は全体的に人間の上位互換なので、そこら辺を漁ってくれないかと切に思う。

 人種の垣根に阻まれて、裏稼業は大変なのだ。

 本来は人員が有り余っていたのだが、それもこれも、最近話題の――と。

 レティーに、到着した。

 レティーの事務所。丸ごと一棟のビルが事務所だ。

 事務所の横の地下駐車場への下り坂を歩いて降りていく。

 空島は幾つかの区域に分かれていて、ここは特に、二区……通称で繁華街と呼ばれている。

 繁華街と言っても、メインストリートに並んでいる高層ビルの群に、大量の商業施設が詰め込まれているだけだ。

 この区画には、そのメインストリートに加え、三本のサブストリートが在る。それらの範囲内では、例外的に自動車での移動が認められている。

 自動車の殆どがバスやタクシー、トラック。社用車は稀に通る程度。

 地下駐車場には、レティーの管理する車が車庫に整列されて並んでいる。車庫を通り過ぎ、エレベーターの横を通って突き当たりに在るダストシュートにゴミ袋を入れた。

 ダストシュートを通ったゴミ袋は地下駐車場の更に下、配管やら機械やらが混在しているスペースの端に流れる。

 とはいえ地下二階は、普段は入る事の無い場所だ。

 エレベーターは勿論、地下一階の端の方の下り坂から、車で降りていく事も出来るのだが、行った事は余り無い。

 俺は基本、仕事の代わりに影人を殺すだけ。

 影人の処理はまた別の人がする。というか何なら死体の運搬も基本的に別の人が担当している。

 近日は人手不足に悩まされている為、元より運搬の方で働いていた俺は、影人を殺す様に命じられたのだ。

 今は何とか出来ているが……本当に俺に出来ると思っているのだろうか。

 思われているのなら、甚だしいものである。


 空島は六の区画に分けられている。

 平たい円形の地形に大量のビルとホテルを載せた地上と、その地下。それぞれに三つの区画がある。

 区画は真北から時計回りに一二〇度ずつの三つの扇形。地上と地下で計六つ。

 区画の番号は、地上の真北から時計回りに一区、二区、三区。地下で同様に四区、五区、六区。

 それぞれに通称が付いていて、例えば四区、五区、六区はそれぞれ、温泉街、住宅街、官庁街と呼ばれている。

 一区には空港が在って、区の殆どが巨大なターミナルビルだ。ターミナルビル内の、カジノや闘技場等の娯楽施設から、歓楽街と呼ばれている。

 二区は繁華街と言われている。真南に伸びるメインストリートと、そこに交わる三本のサブストリート。立ち並ぶ大量のビルの中には多様な商業施設が詰め込まれている為、どれだけ時間を掛けても遊び切れない。

 三区は風俗街。円の中心付近には普通のホテル。外側に行く程ラブホやら風俗やらが混じってくる。

 二区の情報に付け加えると、外縁に近いサブストリートの一端に進むと、建設会社や小規模な工場等が集まっていて、レティーはその最奥に位置している。

 殆ど目立たないがアクセスは悪い。

 まあ、どちらにせよ余り関係は無い。基本的に、俺は指定された場所に向かって影人を殺すだけで、車は運転しないし、出来ないのだ。

 ……今みたいに、誰かに乗せて貰わない限り。

「……何でここに?」

 呼び出されて直ぐに車に乗せられたから、その意図を未だに教えて貰っていない。

 取り敢えず影人を殺すであろう事は、隊服を着て集合と言われたので分かったのだが……

 今日に限っては車で送ってくれるとの事で、俺は少し困惑していた。

 そして、運転席に座る若い女性が、質問に回答する。

「影人の卵が出たので、それを殺して貰います」

「もう少し早く言って下さいよ」と助手席から文句を言う。

 少し前に急に呼び出されて決まった討伐任務なので、特に何も分かっていない。

 道路なら、路面の修復工事と称して一帯を封鎖し、結界も展開しなければならない。

 建物なら、建物内の人を避難させて、無人の状態を作らなければならない。

 どちらにせよ、事前の連絡も無しに俺を呼び出すのは、余程の用件でないと有り得ない。

「どこに出たんですか?」

「銀行です。少し商談が有ったので」

「……いや、中止しないんですか?」

「ハイ」

 まあ、この人の立場的にも中止は出来ないのだろう。

 偶然知り合っただけで、本来この人は、名前は知ってるけど実際に会う事は殆ど無い程度、と言い切れる程、レベルが違う。

 俺が汚物なら、この人は傑物だ。最底辺と最高峰の二人である。

 仮に出会っても、挨拶だけで話す事は確実に無い。こうして会話しているのが奇跡みたいな立ち位置の人。

 それでも文句は言うが。

「……で、俺を呼んだ理由は何です?」

「……聞きますか?」

「頼みます」

 外の風景に人が少し増える。

 もう、随分と外は暗い。空島の位置の関係で日が暮れる時刻はかなり早いが、それでも銀行に行く様な時間帯ではない。

 空島の銀行は日時を問わず常に開いているが、それでも、俺の生活リズムを考えると別の人を呼ぶ筈だ。

「仕事をして貰うんですよ。悩んだんですけどね」

「……何もこんな時に呼び付けなくても」

「退職するアナタに向けて、ワタシからのプレゼントです。丁度、緊急で人員を要する事態が転がって来ましたので」

「最悪だ」

 本当なら、昨日やったあの任務で終わったのに。何をしてくれたのだろうか。

「最近は人手不足なので」

「いやでも、相当に脳味噌が巫山戯てないと出来ませんって。急な依頼とか」

「分かってます、報酬は弾みますので」

「……。俺は、報酬は、要らないんです」

 現実を直視したくなくて、窓の外に目を向ける。深夜でも昼間と同じ位人が多い。

 景色を見る限り銀行にはもう着きそうだ。

 こう見ると窓の外も現実なんだなと思う。

「――困りましたね。渡す予定だった金が浮きました」

「いや、困るなら俺が貰いますけども」

「イエ、大丈夫です。任務が終わったら、浮いた金で飲みにでも行きましょうか」

「飲めませんって、俺は」

 左折して、立体駐車場に入場する。

 銀行は、一般人だけでなくここの区の労働者達も時折使う為、駐車場やタクシー乗り場等も保有、管理している。

 立体駐車場に入って直ぐの所に車を停めた。

 中から降りて外気に触れる。

 息を吐くと空気が白く濁り、フェイスマスクに水滴が付着する。

 隊服は、これでフル装備だ。普段はフェイスマスクは着けないが、今日だけは流石に着けてきている。

 黒の長袖長ズボンに、黒い靴と靴下、黒い手袋、黒い制帽。

 標準的な影人の討伐時の隊服。レティーの戦闘員の服だ。

「屋上から影人の卵の反応が検出されました。アナタはワタシが商談をしている最中、屋上に行って影人の処理をお願いします。結界は貼れませんので、絶対に失敗しない様に」

「分かりましたっと」

 屋上か。

 少なくとも二〇階以上のビルの屋上となると、空調施設やアンテナとかで射線が通り難いし、跳弾で弾丸が下に落ちたりもする。

 壁とかも無いので、下手すれば外に弾丸が飛んで行って、意図せず誰かを射殺してしまうかもしれない。

 然し、相手は卵なので、変に別に銃殺しなくても、斬殺すれば大丈夫だ。

 失敗した時の後が怖いが、今回に限って失敗するという事は無いと信じたい。

「取り敢えず、屋上ですよね?」

「ハイ。行きましょうか」

 立体駐車場のエレベーターを降りて、銀行の中に入る。

 中で働く職員達は黒尽くめの男に軽く驚いた様子を見せたが、一部の職員は俺が来たという事の意味を分かっている様子だ。

「では、ワタシはこれで」

 と、俺と別れて歩いていく。本気で商談を済ませるつもりらしい。

 屋上とはいえ、一応外なので結界を使用する許可は取って欲しかったのだが、時間が足りないしコストもカット出来るからなのか、結界も無い。

 ……あの人は、良くも悪くも限界を攻める人だ。

 だからこうして無茶をする。俺はあの人の背中を追うので一杯だ。

 ……仕方が無い、行くか。

 エレベーターの方に向かう。ボタンを押して、エレベーターを待つ。

 直ぐにエレベーターが来て、中に乗り込んだ。

 他の人も数人乗ってくる。

 ……空島先住民の中には、勿論、異世界ファンタジーで良く見る亜人とやらも居る。

 例えば、獣人。特徴は、頭から生えている。他には尻尾も。

 そして強い。魔力も使える。

 この世界というか、何というか……当たり前なのだが、地球で働いている時はスーツを着ている。

 獣人が乗っているという事は、少なくとも監視も兼ねているのだろう。

 レティーの隊員が建物に来ても、良い事は殆ど無い。行き先だけでも見ておこうというつもりだろうか。

 案の定、押したボタンを見て溜息を吐いている。

 屋上という事は、少し踏み間違えたら下に落ちるという事。そして下には、出来る限り干渉したくない人達が居るから、獣人は嘆息した。

 人気の少ない路地裏には捨て子が居る。捨て子の大半は表向きには既に死んだ事にされているが、そういう人達は後でどこかに拾われる。

 銀行は例外だが、多くの現場が捨て子の酷使で成り立っている事は事実。

 そういう現場から顰蹙を買うからか、銀行も他の企業も、雑に捨て子に介入しないのだ。

 路地裏は奴隷の畑であり、要らない奴隷のゴミ捨て場でもある。

 そういう場所に触れても、良い事は無い。良心が少しだけ刺激されて、それでも現実から目を逸らす事しか出来ない。

 仕事の山という現実以外に、嫌な現実は必要でない。それがここの職員の気持ちだろう、溜息も吐きたくなる。

 獣人はそれぞれバラけてボタンを押す。

 見送りは無い様だ。行き先を知りたいだけで大した目的も無いから、切り上げて仕事に戻り始めるのだろう。

 屋上迄の中途で何回かエレベーターが開閉して、獣人は居なくなった。

 ……そして、エレベーターは屋上に着く。

 屋上は普段、人が立ち入る事は滅多に無い。その上相手は卵で、影人の中で最も弱い形態だ。

 卵は名の通り、卵の様な形状の影人。周囲の魔力を取り込んで独自の成分に変換し、それを内部に凝縮しつつ、人型に成る時を待っている形態。要は孵化する前だ。本当に孵化する訳ではないが。

 自力で動けず、攻撃性能は無い……人を一人も食っていない状態。

 だからエレベーターが開いた途端、その血の匂いと死体の数に、動揺した。

 周囲に充満した異臭が鼻を刺す。

 血の付着した服が散らかっていて、エレベーターを抜けて直ぐの血溜まりが、重力に従ってエレベーターと屋上との隙間に流れ出した。

「……は?」

 一瞬、思考が途切れる。

 眼前には、人を食い、強化された影人が居たから。

 ――本当は、何事も無く退職する筈だった。

 だが、任務が入った。

 その時は、影人の卵を壊し、死体を持ち帰って捨てるという、いつもの軽い任務だと思っていた。

 ……違った。全てが、少し別の方向にズレていた。

 何故、影人が卵型から人型に成っている。

 その思考を断ち切るかの如く、影人がこちらを向いて、飛び掛かってくる。

 崩れる。

 崩壊する。

 思い描いていた理想の景色は、現実には無いと知る。

 ――半ば本能に助けられる形で、無心で短刀を振っていた。

 そして。

 影人との殺し合いが始まった。

 斜めに振り上げた短刀が影人の腕を切断する。

 影人は痛みを感じない。腕が飛んでも構わず、無地の断面を晒して殴り付けてくる影人を、頬に当たる寸前で避け腹に膝を叩き込んだ。

 一先ずは、エレベーターから出る事が優先だ。

 影人が弾かれてエレベーターの外にぶっ飛ぶ。

 斬った腕を右手で掴み、習得している高速移動の技でエレベーターから抜け出した。

 咄嗟に利き手じゃない方で短刀を抜いた分、殺し切れなかった。いや殺せるかどうかはかなり微妙だったが、利き手で短刀を振ってたら一連の流れで首を飛ばしていただろう。それでも死なない奴は死なないが。

「影人――」

 ――右手に掴んだ腕を放る。

 長方形の屋上。中央付近にはエレベーターが出っ張っている。右前の隅にアンテナ、影人の真後ろの一辺には室外機が並んでいる。左後ろ、アンテナの対角には階段。

 外は雪が降り始めていた。

 異臭が寒風に乗って掻き消され、周囲の服が吹き飛ぶ。

 吐いた息が濁り、広がる。

 何人食った。

 ……強過ぎる。

 右手に短刀を持ち替えて、左手で拳銃を抜く。

 正対し、対峙し、双方同時に駆け出す。

 影人の腕が再生する。

 全てが影色に染まった影人と、黒の外装を纏った人間。

 似て非なる黒が、衝突する。

 高速移動に身を任せ、腕を振るう。その延長線上を短刀が走り抜けていった。

 迎え撃つ影人の右手が短刀と激突し、拮抗する。

 やけに、硬いッ――

 影人の身体は変幻自在で、幾らでも硬化が出来る。とはいえ、硬化した分だけ別の部位が柔らかくなったりするのだが、この影人は素で異様に硬い。

 短刀を振り抜いて、影人を一瞬怯ませる。

 そのまま、左の裏拳を叩き込んだ。

 半分は銃身で殴り付けたからか、影人が軽く弾き飛ぶ。腹から折れ曲がった全裸の黒尽くめが、柵代わりの室外機をに激突した。

 全く柔らかくないクッションが轟音を立てて凹むが、奴は何事も無く体勢を整える。

 これが厄介。

 痛覚が無いから復帰が早いし、再生もする上に戦闘能力が高い。

 裏拳の方は腹の硬化が間に合って無かったが、慣れてきたら硬化で対応される。

 一方的な駆け引きが出来る今が好機。

 ――影人は周囲の様子を察知し、学習する事が可能だ。

 賢さを身に着け、駆け引きを覚え、経験を積めばその分だけ強く成っていく。

 その内、殴られて吹き飛ぶ事も殆ど無くなる。

 こいつは戦闘経験が皆無だから、そこに付け入る隙が有る。

 何でも良い、体積を減らせ。

 それが影人戦で重要な事。

 足が少し痛むが、再度、高速移動を仕掛ける。

 刺す様に短刀で腹の中央を突き、右斜め下に切り込む。次いで、後処理が面倒そうだが発砲した。切り込んだ逆側に数発分の穴が開く。

 影人の差し返し……顔面目掛けて両方の拳がアッパー気味に飛ぶ。若干左の方が遅い。

 右の拳は頭を捻って回避。回避先にホーミングする左の拳は左腕で受け、その力で軽く仰け反る。

 床を弾き、右足を差し出しつつ縦方向にターン。

 影人の顎に足先をぶち当てつつ、空いてる左足で腹部を蹴り込み、先程の切断と合わせて致命的に裂く。

 そして、上半身と下半身を分離させた。

 最後に蹴って、刳り貫いた下半身を遠くに飛ばすと、室外機に当たって鈍い音が鳴る。

 駆け上がる様な攻撃。その勢いで回転し始める。

 流石にこれで、と思った途端、影人の両腕が物理的に伸び、中空で縦回転する俺の頭を側面から掴んだ。

 緊急回避、短刀を逆手に持ち、振るう。

 影人の左手首から先を斬り落として、片面の束縛を解放。そちらに姿勢を傾けて、崩れる様に落ちていく。

 ……拳銃は仕舞えない、短刀を手から離して、片手を着地させて跳ね跳んだ。

 バク転し、最後の方は捻りを加えて着地。影人と向き合う。

 影人は見た目を大きく変化させていた。

 物理的に伸びた腕が縮んでいるが、先程ぶち抜いた下半身の断面から、人魚の様な尾を生やしている。

 滑らかに影人が突っ込んで来る。

 トリガーに指を掛け、残弾を早撃ちして両腕を弾いた。

 リロードの為にも距離を離したい。左回りにその場で回転して、足を浮かして蹴りを横腹に叩き込む。

 エレベーターから見て右の隅、アンテナの方に蹴飛ばしたが、直ぐに姿勢を立て直す。

 どこかのタイミングで攻めないと勝てない。リロードをしつつ、既に下半身を別の生物の物に再生させた影人を睨む。

 すると影人は、右の脇から、触手とも蔓とも言える様な、細長い黒い何かを伸ばして来た。

 一直線に伸びつつ向かってくる触手を短刀で……

 クソッ――

 翻りつつ触手を避ける。そのまま前へと高速移動。

 だが、左の脇から触手を鞭の様に撓らせて迎撃してくる。

 それが当たる寸前で身体を弾き、右斜め前に跳んだ。一か八か、一瞬の低空飛行で鞭を躱す。

 急な高速移動で若干制御が出来ていない。カバーの低空前宙を完遂し、左方向に直角に方向転換する。

 全身と足にえげつない負荷が掛かるが、気にせず突撃。

 影人は少しは弱っている筈だ。仮にも下半身を消したのだ、身体の密度が下がっている。

 硬化を貫通して、蹴りを入れた。

 だが。

 蹴った途端、右脚が影人に呑まれる。

 ――軟化した、泥やスライムの様な液体状に変化し、文字通り足を取られた。

 迷わず銃を構え、連射。弾は数発で無くなった。

 自らの脚を貫いても構わない、抜け出さないと、死ぬ――

 だが、抜けない。

 影人が右フックで頬を殴る。フェイスマスクが剥がれ、彼方にぶっ飛んだ。

 負けじと殴り返し、何とか取り込まれている足を引く。

 抜けないッ――

 ……駄目だ、死ぬ。

 勝てる任務じゃない。

 ――――なら。

 足が擦り切れても構わない。高速移動を開始する。

 右足で地を大きく弾く。繋がった状態の二人が、軌道上のアンテナの先を圧し折り、天空へと踏み込んだ。

 宙空、空の彼方、突風が白濁した吐息を四散させる。

 カウントダウンが始まった。

 吹雪と暗闇の間を縫う様に、真隣のビルからの光が二人を射る。銀行の職員がこちらを見ているかも確認出来ない。

 ただ二人して、戦う。

 影人が素早く変形する。頭部が拡張し、膨張し、頭上に幾つかの管で結ばれた、巨大な物が形成される。

 海月の様な傘状の黒い物体が直上に展開され、落下速度が減速した。

 生き残る気だ。させてはならない。

 緩やかに、然し高速で地面へと降りていく。

 手はリロードに使い、足を暴れさせる。

 藻掻く、足掻く、身体を振って動かす。

 そして一瞬、影人が変形の影響で緩んだ。

 瞬間、埋まった足で高速移動を開始する。

 リロードを終えた右腕で横っ腹を引っ掴んで上昇する。

 割と無理矢理、影人の腹から俺の脚部を抜いた。腕に全力で力を入れて、更に上昇する。

 阻む腕が垂直に下がり、それを拒む腕が斜めに弾いて躱す。

 管の数は左右と奥で計三本。

 顔面に蹴りを入れながら、横っ腹から管へと掴み直す。

 俺から見た右の管を引っ張り、身体全体の上昇と同時に銃を拳銃嚢に仕舞う。

 足先で身体を支えつつ何とかリーチを伸ばし、左の管も掴み取った。

 右の管を左方向に、左の管を右方向に引っ張る。二本の管を、手が射線を邪魔しない程度にクロスさせた。

 右手の管を左手に渡し、二つの管を握り締めつつ、序でに奥の管に射線を合わせ、弾丸で一気に撃ち抜いた。

 左手のほんの少し上の、クロスした箇所を通り、奥の管にもヒット。

 傘の部分が空に取り残される。踏み込んだ顔面をそのまま弾き飛ばし、ビルの中央付近から影人を直下に墜落させた。

 強烈な撃墜の音が響く。

 一人、空に取り残されて。

 死へのカウントダウンが始まった。

 影人の後を追う様に、自由落下を始める。

 絶対に、ここで終われない――

 膝を、曲げた。

 何とか二の足で着陸したが、衝撃で身体の芯にダメージを食らった。

 脳が正常に作動しなくなり、速やかに地面に倒れ込む。

 呼吸が出来ない、感覚が途切れて、視界が真っ黒に染まる。

 吐息が、白く濁る。

 ……吹雪に溶けて霧散して、視界にはビルの横の路地裏が映る。

 路地裏には、人が居た。

 幼く、小さかった。

 その一人の子供の前に、影が出来た。影人だ。生きている。

 疑問が脳裏を駆け、それでも、何も言う事は出来ない。

 道連れにした筈だった。

 だけども、こいつは生き残り、目の前の子供に近付いていく。

 駄目だ。

 形振り構わずにその影を撃ち抜いた。

 照準が合わず、弾丸は肩を抉ってビルの外壁に弾かれ、硬い地面に転がる。

 影人は止まらない。

 身体の多くを失い、目に見える薄い傷や欠損を大量に抱えながら、それでも、生きる為に子供に襲い掛かる。

 人を食おうとしている。

 子供が踵を返す。

 影人が拳を振り上げ、それを追う。

 絶対に、躱せない。

 いつの間に変形したのか、影人が人型の脚を生やして、子供に素早く詰め寄っていく。

 ――何の罪も無い子が、食べられてしまう。

 許せない。

 力を振り絞って、高速移動を発動させた。

 跳ね起きた拍子に足先で地面を大きく弾き、影人に掴み掛かる。

 後ろから羽交い締めして、捻って壁に突き飛ばす。

 叩き、殴り、殴られる。小競り合いの末、影人に頬を裏拳で殴られ、吹っ飛ばされる。

 壁に激突し、そのまま勢い良く地面にぶつかった。

 鋭い痛みに悶える事も出来ない。

 でも、それでも。

 もう一度立ち上がれ。

 じゃないと……駄目だ。俺は、もう一度……

 …………その時。

 ――雪と共に微風が、吹いた。

 風に攫われ、影人が緩く姿勢を崩し、そのまま倒れ込む。

 その衝撃で、千切れかけの影人の腕が遂に切れた。

 地面に当たって弾けた腕が転がり、影人から大きく離れる。

 影人は。

 それを以て、殺された。

 ――殺した。

 …………殺した、勝った。

 俺は……守ったのだ。

 ブラックアウトする視界に幼い子を残して。

 俺は、安堵と共に気絶した。


 ……揺らされている事を何とか意識して、目を覚ます。

 耳が聞こえる。流石に少しは回復したらしい。

 痛みは酷く激しいが、耐える事しか出来なかった。

 起こされた理由に思い当たらないまま、座らされた状態である事に気が付いた。

 そして目の前には、子供。先程、影人と戦っている時に見掛けた子だ。

 あの、とか、電話、とかの幼い声が、微かに聞こえてくる。

 目の前の子供はスマホを持っていた。

 どうやら俺のらしい。それも、起きる前にポケットから漁れていた様子だ。

 ……耳が少し聞こえないが、そんな事を実感する前に、子供は勝手に電話に出た。

 スピーカーモードにされたのか、電話越しに、遅いですよ、とかそんな声が聞こえる。

 子供がスマホ越しに喋り始めた。

 ……嵩んだ疲労の所為か、全く聞き取れない。

 ……何を言っているのだろうか。

 ふと横を見ると、路地の隙間から月が見える事に気が付いた。

 外縁に近いサブストリートだからなのか、雲海の水平線が何者にも邪魔されずに見える。

 ……そのビルの角から、誰かが来た。

 パンツスーツの、銀髪の若い女性。何かを叫びながら、こちらに走り寄る。

 微かにどこかで聞いた気がする声。

 その女性が発している声は……多分、一緒に任務に来たあの人だ。

 何か言いながら、こちらに走り寄る。

 大丈夫ですか、とか。そんな風に言っているのだろうか。

 大丈夫、と答えようとして、そこで、女性が急に眼前に迫って来て――肩を掴まれる。

 少し強めの接触。脳が揺れる、衝撃で意識が明滅する。

 そして強制的に、シャットダウンした。




 ……目を開くと、疲労が嘘の様に取れていた。

 意識が覚醒し、影人との戦いがフィードバックする。

 ……そうだった、影人と戦って何とか勝ち、そのまま倒れて……それで、子供に介抱されていた気がする。

 その後はあの人が来て、肩を掴まれて意識が途切れて……

「……目は覚めましたか?」

 と、俺を気絶させた張本人が声を掛けてきた。

「………………お陰様で?」

「それは良かったです」

「……」

 白いベッドの上から辺りを見回すと、清潔感が保たれている室内が見える。

 椅子と机に、薬品の入った棚、そして窓。窓の外の景色から考えても、ここは間違いなくレティーの医務室だ。

「……俺は何でここに?」

「怪我したんですから、当たり前です」

「いや、その……はい」

 その怪我をした後に、どうやってここに運んだのかを訊きたいのだが。

 正直助かるとは思っていなかったので、少し驚く。下半身の骨は殆ど折れてる筈だし、意識も無い筈だ。

 病院や医務室に運ばれる前に死んでしまうと思っていたが、何とか生き残ったらしい。

 というか、そこを気にしていても仕方が無い。

 それよりこの人は何でここに居るんだ。

 当たり前の様にベッドの脇に座っているが、この状況はかなり異常だ。

 この人は割と雲の上の住人なので、こんな所で時間を食っているのは有り得ない。

「……アナタも起きた事ですし、ワタシから要件を話します」

 そしてこの口振り。

 もう昨日付で――昨日……なのか? ――まあ、少し前に退職した筈なのだが、何か有るのだろうか。

「要件は二件。一つ目、その病衣は会社からアナタに譲渡します。そして、アナタの着ていた隊服はベッドの下の籠に入れておきましたので、回収を忘れない様に」

 どうやら、今着ている病衣をくれるらしい。今気付いたが、治療の時に隊服は脱がされていた様で、病衣に着替えていた。

「二つ目、アナタに新しく任務が有ります。内容は、明日の夜、住宅街で影人の卵の討伐。拒否権は無いです」

「また依頼ですか……というか退職は」

「別日に変更しました。医務室を使う為に必要だったので」

 そう言われると、反論出来ない。

 医務室、というかレティーの事務所は、勿論関係者以外立入禁止なので、俺が退職したら社内の医務室は使えない筈だ。まあバレなければ使っても咎められないが、良くない事ではある。

 しかも俺の場合は、身元を証明する事が不可能なので、レティー以外の医療機関も全く使えない。

「という訳で、明日も宜しくお願いします」

「え、あ、はい」

「……では、ワタシはこれで」

 そう言って、翻って去って行った。

 ……改めて室内を見回す。

 時刻に加え、年月日も表示されているデジタル時計が傍に置かれていた。

 どうやら俺は、二日間も寝ていたらしい。


 医務室の医療施設は、魔力を用いた機械が高いレベルで実用化されており、世界最高峰の医療機関の一つ。

 要は、どれだけ怪我しても一瞬で治療出来る、という事だ。何なら条件さえ揃えば死者蘇生も可能である。

 とはいえ現場で死んだら意味が無い。俺達の場合は、死体が影人に食べられて、復元が出来なくなる。

 そんな訳で、俺の傷は全快している。その分、討伐任務が生えてきたが。

 任務は明日の夜。詳細はもう送られてきている。

 あの人は俺の事を限界迄使い潰すつもりらしい。

 そんなに人手不足なのか。少し前は、かなり人が居た筈なのだが。

 まあ、詳しい事情は分からない。

 怪我が治り、自由な時間が出来た。少し買い物をして、ホテルに戻ろう。

 ……因みに、レティーに入ると、国籍が無い者に対して事務所内で生活スペースが与えられる。同時に、どこかのホテルのどこかの部屋が住居として与えられる。

 前者はレティーを抜けたら使えないが、後者はレティーを抜けても使えるのだ。

 退職するつもりだったので、荷物はそちらに移動していた。なので、現在は事務所に食料が無い。

 一先ずは食料を買っておく事にした。

 事務所には食堂や購買所が常時開かれているが、俺の場合は、コンビニ飯の方が合っている。

 どうせ早死にするから、健康に気を遣う必要は無い。栄養も彩りも何もかも気にする事は無い。

 影の力は人体を破壊し、侵食する。俺なんかは特に、いつ死んでも不思議ではない程に、錆び付いている。

 こればかりは、地球人に産まれたから。そうとしか言い様が無い。

 空島先住民の血が少しでも混ざっていたら、殊更強靭で、聡慧で、生きているだけで勝ち組の人生が送れた筈だ。大前提から違ったのに。

 空島先住民は、身体の構造から違う。

 生活すれば分かる。

 基本的な学力が違う。空島先住民系の家系だけで未解決問題を何題解いただろうか。

 スポーツも体術も、地球人では話に成らない。身体の質から違う。

 ……影人と接触した例は少ないが、それでも、何代も続くレティーの中には、そういう例が存在する。

 影人と接触した地球人は、多くは三〇迄に死に、殆どは四〇迄で死ぬ。

 空島先住民の血が混じっていたら、その分だけ寿命が伸びる。一番血が濃い状態で、五〇が平均。

 対して地球人は、二五が平均。実に倍の差だ。いや、実際の所、数字以上に差が有るだろう。

 それでもどちらも早逝したと、世間的には見られる様だが。

 とはいえ、空島人が影人と戦う例が殆ど無いので、根拠と呼べるかは分からないが……そんな現実逃避に縋ったってみっともないだけだ。

 開き直って身体に悪そうな丼やら麺やらを買い、レンジや湯沸かしで調理して、イートインスペースで食うだけ。

 今日もその例に漏れない。

 コンビニは便利なので、空島にも在る。観光客の為だけでなく、空島の大量の労働者の為にも。

 近場のコンビニに入って、商品を見漁る。

 食いたいと思った物を持って、セルフレジに向かう。

 バーコードを通し、スマホで決済を終える。

 金も気にする事は無い。どうせ使っても使い切れない程の報酬金が有る。

 温める時間を確認し、レンジにぶち込んで対応するボタンを押す。空いた時間でスマホを眺めながら、オムライスが温まるのを待つ。

 これが日常。否、日常の一部。

 日常の全ては、影人の殺害と、普段の生活と、その二つで構成されている。

 …………レティーを退職して。

 もし仮に、復讐に成功したら。

 まあ、その頃にはどうせ、生きていないか。

 日常が変わるだなんて、例えば。

 まさか俺が美少女に出会うみたいな事で。そんな非現実的で、創作じみた状況は有り得ない。

 復讐の半ばで、或いは何も出来ないままで死んでも、成功した時と変わらない。

 どうせ直ぐに死んでしまう。もう分かる、限界なんだ。

 それでも俺がやるしかない。

 ……

 ……灰色が、広がっている。

 ずっとそうだ。

 灰を被った日常を生きている。




 腹拵えを終え、帰り道を行こうとして、ふと先に、任務の場所を見ておこうと住宅街に立ち寄った。

 理由も何も無い……強いて言うならば、少しスーパーで飲料水が買いたかっただけだ。

 スーパーの方が少し安かったという記憶が有るから。

 それと、気紛れ。

 裏路地を抜けながら、五区の中を横断する。

 多少の捨て子が居るが、気にする程ではなかった。

 ……この島だけでも八〇〇〇万人、観光客を含めて人口は大体一億人程度。

 そして更に、年間で二〇〇万人がこの地で新しく誕生する。これは亜人の体質的に、一度に多くの子供を産む事が多いから、出生数が多くなるのだが。

 尚、年間で一八〇万人程度が死ぬ。過労に伴う病気や自殺が後を絶えないのが原因だ。

 とはいえ、それだけなら人口は緩やかに上昇を保っていく……のだが、実際は一億人程度をキープしている。

 差し引きして残った二〇万人の内、八割以上が外国に行ったから、というだけ。

 残った四万人弱も事情が有る。

 例えば両親の過労死等で家を失う。

 貯金や遺産が有れば直ぐにホテルを借りて、取り敢えずどこかに就職して何とか出来るが、それが出来ない人がその内の一割以上……四〇〇〇人程度。

 要は市場には四〇〇〇人も居る。

 ……捨て子なんかに構っていられないのだ。これが現実。

 そしてその四〇〇〇人は、公企業と一部の私企業を除いた多くの企業が取り合う。

 とはいえ、単に捨て子を働かせて経営が成り立つ訳じゃない。

 繁忙期に現場に足りない箇所の補強という形で漁って、魔力で無理矢理身体を動かして、落ち着いてきたら路地裏に捨てる。

 好き勝手やりたい放題。奴隷扱いだ。

 治安も秩序も何一つ無いからこそ、弱肉強食がそのまま適応されていると言える。

 社会のシステム的に、ずっと雇う事は到底不可能だ。現場の補助、お助け係として使い潰す。それが弱者の使命。

 こんな感じの胸糞悪い話なんて、手を出しても解決する事は無い。

 普段から空島先住民は過労死と戦いながら働いているのだから、繁忙期に人を雇うのは当たり前で。更に費用を工面する必要が有るとなれば、路地裏に転がっている人材を使役するのも、自然な事なのかもしれない。

 現実は、こんなんだ。

 醜い。そして俺は、こんな地獄の中でも、もっと醜いだろう。影人を殺さなきゃならないのだから。

 ……住宅街の裏路地を進んでいると、不意に、少し小さい広間に出る。

 この辺は奥まっていて、捨て子も殆ど寄り付かない……というか、寄れない。

 迷路を特定の道順に従って抜ける事で、初めてこの秘密の空間に辿り着く事が出来る。

 何度か来た事が有る。あの時の、あの頃の、俺の拠点が在った場所。古く、懐かしく、それでも鮮やかに、この灰色の路地裏が目に映る。

 ……そしてそこには、一人の少女が居た。

 一目見て、この子は空島先住民だと分かる。

 根本から人間らしくない究極の頭身に、白を基調にした長い髪と、満点の体付き。

 そして頭の頂点から顎先迄、全てが完璧なバランスを保っている顔に、魔力の影響で煌めく瞳が付いている。

 子供ながらの飾らない顔面でこれ。美をそのまま擬人化したかの様だ。

「…………」

「……」

 互いに黙り、そして気付いた。どこかで出会った……あの夜、戦闘中に出会った子だ。

 薄暗く、戦闘中だったのであの時は全く見えなかったが、今改めて見たら、本当に素晴らしい顔立ちだ。

 視線が交差する。

「……ぁ……」

 少女が口を開いた。

「……あの時の……人……」

 覚えていたのだろうか。いや、格好はかなり違っているが。

 病衣を着て路地裏を歩く男なんて不審でしか無いので、誰彼構わず逃げ出すのが正解だろう。

 だが、少女は逃げもせずにそこに居る。

 ……何を言おうか。思っていると、相手の方から挨拶をしてくる。

「……あの……あの時は……」

 ……あの時は。

 そこに続く言葉を察して、それに被さる様に言葉を放った。

「――あの時は済まなかった」

「……え……?」

「不用意に路地裏を騒がしくしてしまった。俺の実力不足の所為だ」

 あの人の顔も立てつつ、先ずはああなってしまった事を謝罪する。

 路地裏の住民とはいえ、危険な目に遭わせてしまったのだ。

 偶然か運命か、こうして直接謝れる機会が出てきたのだから、言っておいた方が良いと思った。

「…………失礼した」

 言いたい事を言ったので、横を通り過ぎ、去ろうとする。

 今から俺がやれる事は無い。

 というか俺の記憶だと、この子はあの人と一度出会っている筈なので、普通に考えれば礼の一つは言われているだろう。

 ……今更俺が、詫びの品を持って礼をするのは、あの人に対しても失礼だ。

 だが、去る直前に後ろから声を掛けられる。

「――あの……!」

 何か話す事が有るらしい。こちらを呼び止めてくるので、肩越しに振り返った。

「そっ、の……えっと……」

 先んじて感謝の言葉を防いだからか、盛大に悩む。

 俺が持ち込んだ危機を俺が解決して、助けてくれて有難う、は余りにも違和感が有ったのだ。

 別の事を訊くしかない。

 その結論は、思ったよりも早めに導き出された。

「……な、名前を……教えて下さい」

 ……名前。

 何故名前をチョイスしたのだろうか。

 何かのフラグが立って、そのまま妙に関係性が続きそうな気がして、その予感を断つ為に考え始める。

「……名前か」

 …………

 俺はもう、名乗る資格は無い。

 レティーに入った時から、その者は、対外的には死亡している事にされる。

 そして、新しい名前を考え、時には自由に改名し、暮らしていく。

 若しくは名前も考えず、役職や、立場だけでその人を表す事も多い。

 通常の世界に比べたら、緩くて雑で、自由自在な概念。

 俺は名前を、疾うの昔に捨ててしまったんだ。

 だから。

「今後どこかで、名乗る必要が有れば教える」

 そう言って、歩いていく。

 明日、明後日、その次の日。未来永劫、果たされないであろう口約束。

 きっと会う事はもう無い。

 九年程度経っても、この場所が誰かに使われていている。

 それが分かったのだから、もうここには来れないのだ。


 スーパーで飲料水を買って、適度に現場を見ておいた。

 卵は路面にそのまま有るらしく、付近はキープアウトにされている。

 そして卵を隠す為に、小さめの、目隠し用の真っ黒な結界が展開されている。

 因みにだが、俺が勝手に処理する事は出来ない。

 元から卵は、空島に出現してから孵化する迄に、少なくとも二日以上は掛かる。

 多少の放置は問題無い……寧ろ、周囲の安全を確保してからじゃないと危険だ。

 影人の卵は当然、影の力で出来ている。

 その対処は、事情を知っている一般人には任せられない。

 影の力は人を取り込んで育つ。極少量でも触れてしまえば、寄生され、影の力に自らを食われ続けるのだ。

 影の力は身体に宿る。とはいえ、普段の生活で、その量が増加する事は殆ど無い。

 だが稀に、一定以上の影の力が一箇所に固まる事が有る。

 影の力はある程度集まった後、自力で行動する。

 影人と成って人を襲い、狩るのだ。

 特定の条件下で成り立つ特例。影人に宿られた者同士での接触や、影の力が混じった空間に長く居る事で、増加、蓄積されていくのだ。滅多に起きないが。

 その事故を防ぐ為にも、一般人が完全に居ない時に影人を討伐する必要が有る。

 周囲の避難を済ませた後に、この一帯を何らかの理由を付けて封鎖するので、発見から討伐迄の時間もかなり分散している。一応、最長でも孵化に間に合う様に調整されているが。

 封鎖する言い訳にはテンプレートが有る。

 普段は清掃と称して一帯を封鎖する事が多い。後は、路面の補修の工事現場に混ぜて貰う、とか、測量や地質調査に乗じて、とか。兎に角、結界を使う仕事に捩じ込んだりする。

 一般人に違和感を持たれない程度には上手く隠蔽している。

 無論、最低限の秘匿の為には調節の時間も必要なので、こうして処理せずに放置。

 これが放置の理由だ。

 というか影人関連の情報は……退魔モノの漫画みたいな感じのノリで、割かし秘匿されている。

 レティーも、空島政府も、空島の企業も、先住民も、影人の存在が明るみに出る事を良しとしていない。世界の各国も勿論そうだし、魔力という最強の武力を持った空島が牽制している面も有る。

 ……一度、欧州に在るもう一つの空島の方で、戦争に似た出来事が起こったのだが……魔力を持った異世界の亜人族に、地球で生まれ育った生身の人間が敵う筈が無かった。

 ……本題に戻ると、今日ここに来たのは、一応偵察の為だ。

 普段ならそんな事はしないが、俺が変にやらかして、退職を引き伸ばされたりしない様に割と念入りに調査している。

 場所の確認や周囲の把握をする。

 一通り見終わって、帰る事にした。


 ……昨日が終わると、今日が始まる。

 昨日を振り返る。少なくとも、日常の範疇に収まっていた。

 だから今日も、その延長線上を行こう。

 道を踏み外してはいけない。終着点に行く迄は。

 空島を徒歩で歩いて、日が変わる頃に、巨大なホテルに辿り着く。

 ここが俺の住むホテル……というかラブホだ。

 とはいえ、年始からはラブホじゃなくなるらしいが。まあ今は関係無い。

 そういう事は特に頓着していないので、住処はラブホでも何でも構わない。

 ラブホではあるが、ラブホの中でも空島最大手なので、内側と外側の丁度中間付近に位置する。その為アクセスはかなり良い方だ。

 だがまあ、ホテル内のアクセスは悪い。

 最上階の角部屋。

 敢えて褒めるなら景色は良い。

 夕日が雲海に沈む様は絶景だ。限られた人しか見る事の出来ない景色。今は晩なので、一面の紺碧に星の大河が望める。

 エレベーターで最上階に行き、部屋に入った。

 早速手を洗い、嗽もする。そのまま服を脱いでシャワーを浴びに行く。

 一通り洗って、体を拭き、館内着に着替える。

 そのまま電気を消して、ベッドに直行した。

 眠気は直ぐにやってくる。

 微睡みの中で、少し、考えた。

 ……やけに嫌な予感がする。

 イレギュラーが起きた。

 あの影人は明確に変だった。食われた従業員の注意不足、指示不足で片付ける事は出来ない。

 レティーはそんな雑な組織じゃないし、銀行も同様だ。

 ……最近は、レティーで何か事件が起きていると思われる。

 無断で失踪する者が後を絶たないと、そういう噂を聞いた。

 だからこそという程では無いが、その理由も含めて俺も、レティーを辞める訳だし。

 ……気を付けておいた方が、良いのかもしれない。


 朝を超え昼を超え、夕方。

 念を入れてかなり寝た為、もう夕方である。

 近年少し寝る時間が長くなった気がする。心当たりが有ったりもするが、余り信じたくない。

 問題は無いとして、行動を開始した。

 コンディションは抜群に良い。割と寝たお陰だ。

 ホテル内の机の上からレジ袋を取る。数日前に買ったパンを取り出し、レジ袋だけ机に置いて、パンの包装を開ける。

 齧り付く。

 朝はパン派だ。空島で生活している人は自炊なんかしないし、必然的にパン派が多くなる。

 惣菜パンは美味しい。

 いつも毎回、同じ見た目のパンを買う。

 でも、中身は異なっている。肉、野菜、果物に、クリーム、漉餡、ホイップに。空島発祥の料理なんかも、時折パンの中に入っていたりする。

 ……そして、何個か食べた。今日はこれ以上は食べないつもりだ。

 タスクが終わり、暇が出来る。やる事が無い。

 現場付近の店で時間を潰しておこうと、戦闘時の隊服に着替え始めた。


 レティーの戦闘員は割とどこにでも居る。

 戦闘員は各地のホテルに散らばっていて、基本はそこの周辺か、レティーの周辺で過ごすから、町中でも見掛けるというだけだ。

 観光客も特に気にしていない……というか、ある意味で観光客の方が派手な事も多い。コスプレみたいな恰好をしている人達は日常茶飯事だろう。

 そしてそれよりも目を引くのが、煌めく衣装に身を纏った亜人の一団。

 亜人と言っても、獣人やドワーフの様なメンバーが多い。要はステゴロに自信が有りそうな人。

 金属光沢を煌めかせ、胸にデカいアクセサリーを付けた集団は、非常に屈強で異様な雰囲気。

 治安の維持に一役買っている、『空島軍』の軍人。あの高級そうな装備を着ていても、それでも端くれなのだが。

 空島の治安は軍隊が守っている。

 というか、そこら辺の空島人は、魔力が使えるだけで軍人並の力は有るのに、加えて軍隊も町中に放出している為、普通に過剰防衛だ。

 地球で例えるならば恵体のマッチョマンがそこら中を何人も彷徨いているみたいな感じ。まあ、魔力とはそういう物。

 サラリーマンと軍人と、観光客の人混みを抜け、住宅街のカフェに来た。

 住宅街にもカフェは有る。空島先住民は勿論、職業選択の自由は保障されているので、こういう店も幾つか有る。

 といっても客は偏っている。観光客が一割、軍人が三割。他は空席。

 軍人が大勢居る。

 いや、見る限りは多いのだが、軍人の数が特段多いという訳じゃなく、大半の軍人がカフェに集まっているだけ。

 どうせ居ても居なくても治安には関係無い。

 金持ちの地球人は、空島人が上位存在である事を理解している。逆らわない、抗わない、侮らない事が徹底されている。

 毛程の知能を持たない地球人なら、トラブルを起こしてしまう事も有るだろう。だがそんな人はここに居ない。だから、治安は脅かされない。

 とはいえ何故軍人が店に集まるのかと言うと、店で雑談をしつつ仕事をしているから。

 彼等は全員、小さい機械を所持している。この機械に出来る限り魔力を籠めて、それを軍に提出する。

 胸のアクセサリーがその機械。

 要は兵器を作っているのだ。朝から晩迄、皆に見せ付ける様に。

 こうしている間も、毎分毎秒、兵器が生産されていく。

 濃密な魔力を籠める事と、それを大衆に晒す事。彼等はその仕事を熟している。

 普通はこういう事はしないだろうが、これが空島のおもてなしなのだ。そんな事をしなくとも、大抵の観光客は治安を悪化させないが。

 観光客は基本的に、体に悪い飯を食ったり、カジノで遊んだり、風俗に行ったり、奴隷を買ったりして多様な欲求を満たす。なので元から、黙認されている違法な施設で法を犯すのだ。それでも一部の客はそんな事をするから、こうしているのかも。

 その濃密な魔力の塊を誰かに奪われたりしたら、被害が大きそうだが……仮にも軍人だし、余程の盗人でない限り、そんな事は無いか。

 ……端の方の席を選び、座った。正面には窓硝子、隣の席には誰も居ない、カウンターテーブルの席。

 備え付けのタブレットを取って、デジタル化されたメニューを見る。

 紅茶か珈琲か、若しくは他の飲み物か。迷ったが、折角なので期間限定の物を頼む事にした。

 季節は冬。柑橘類や林檎に、苺も旬か。

 結局、旬の果物を使ったミックスジュースを頼んだ。

 空島は輸入に頼っているものの、果物や野菜、肉は贅沢に食べる事が出来る。

 それこそある程度は日本が輸出している。地理的な要因で、日本からの貿易は必然的に増えてしまうし、当然ではある。

 空島はその気候に依り、植物が完全に無い。最初期……海から磁力で浮上してきた頃は普通に有ったが、今は全滅している。

 動物も人以外には居ない。転移直後は勿論居たのだが、今は見る影も無い。

 自分達で育てる訳にもいかず、大半が輸入に頼っている。農場を作る程の土地も無いし。

 そしてやはり、その分値段が高い。日本に居た頃は考えられない額面だ。

 間も無く、ミックスジュースがやってくる。店員がコースターにグラスを置いて、去っていく。

 一口何円するんだろうとか思いながら、グラスに直に口を付けた。傾け、呷る。

 美味い。

 当たり前か。天国の飯が、不味い事は無いだろう。

 白濁した吐息が霧散する。感嘆の入り交じった、素直な褒め言葉の代わりだった。

 硝子が白ばんで、眼前の景色にノイズが生まれる。

 曇っても尚、手前と奥の、両方が映っている。

 硝子に映る景色の中で、何者かが俺に近付いてくる。

 誰かが俺の隣に座った。

 軽く横を見ると、見知った少女が居た。

「……ぁ、ぉ……お久し振り……です」

「……昨夜の……」

 あの子か。会う事は無いと思っていたが、残念ながらそんな事は無いらしい。

 考えれば、先住民と会う確率は思ったよりも高いのか。活動する時間帯が合っていれば、住宅街付近に居たら見つかり易いだろう。

「……久し振りだな。俺に、何か用か?」

「あ、いえ……あの……」

 少女が若干、吶る。威圧感を与えてしまった様だ。

「……ここの席、お前のいつもの場所だったりするのか?」

「いやっ、それは全然、違います」

「そうか」

 席を譲って欲しい訳では無いらしい。

 だとすると、何用なのかと思うが……気にしても無駄か。

 元から人の気持ちには鈍感なのに、年下の異性の、その上一般人の考えとなると、最早別次元の物だ。

「なら、何でこの店に?」

「あの……その……実は、ここで働いてて……」

 確かに、先住民が働く場所は、カジノやらホテルのスタッフやらを除けば、候補は少ない。

「従業員なのか」

「あ……いや、その……バイトです」

「バイト?」

「はい……幾つか、掛け持ちしてて……」

 幼い見た目に似合わず、どうやらかなりの労働者らしい。典型的な空島人の気質だ。

「あの……その。おじ……おにいさんは、仕事ですか?」

「俺?」

「ぁ、はい……」

 ……もう、おじさんに見えるのか。悲しいな。

「俺はそうだな。仕事は仕事だが、今日で最後だ」

「そうなんですか?」

「あぁ」

 喜ばしい事に、と付け加える。

「……仕事って、いつですか?」

「全然、後。この店の閉店迄は居るよ」

 少女が少し、口元を緩めた。軽く笑ったらしい。

 表情が素直に顔に出る。

 何だ、俺と話せる事が嬉しいのか? 確かめる様に、質問を振る。

「家に帰らないのか?」

「ぁ…………その。帰っても、やる事が無くて……」

「なら、俺で暇潰しか?」

「ぇ、あ、いや、その……えっと……」

 動揺を表す、意味の無さ過ぎる発言。しどろもどろとか、あたふたとか、そんな感じ。

 流石に意地の悪い発言だったと若干反省する。

「冗談だ、済まない。俺も暇だし、寧ろ有り難い」

「……本当、ですか?」

「話し相手をしてくれるなら、嬉しいが」

 すると、少女の顔に隠し切れない笑みが浮かぶ。口元だけ笑っている。

 俺と話したいだなんて、珍しいな。こういう炙れ者は、基本的に先入観と偏見で避けられる事が多いイメージなのだが。

「……折角だ、水じゃなく、何か頼んだらどうだ?」

「あ、はい」

 ……少女が、メニューを見る。

 少しだけ楽しい時間が始まりそうだ。

 間も無く注文を終えて、俺に向き直る。

「何を頼んだんだ?」

「……それと、同じ物、です……」

「これ? これか……まあ美味いしな」

 そう言っている内に、店員が季節限定のミックスジュースを持ってくる。

 客が少ないからか、企業努力の賜物なのか、その両方なのか、かなり早い。

「……乾杯でもするか?」

「あの……ここ、居酒屋じゃ無いと思いますけど……」

「それも、そうか」

 目線だけ合わせて、その後、互いに飲み始める。

「……どうだ?」

「えっと……どう、とは?」

 流石に言葉足らずだったので、「美味いだろ?」と付け加えた。

「いや、あの、色んな意味で何か違う気がするんですが……」

 まあ、俺が作った訳でも無いし、俺が飲む様に勧めた訳でも無い。どうツッコめば良いか分からなかったんだろう。

 俺は少し、目を細めた。その様子を見て、少女が怪訝そうに尋ねる。

「その……何か、有ったんですか?」

 理解する為に、もう一度噛み砕く必要が有った。言葉の中の、何か、の部分を反芻する。

「……いや、何も無いな」

「……ぇ……っと、あの、その……」

 言おうか迷って、でも、言った。

「前会った時と違って、テンションが高い気がするんですけど……」

「…………」

 思い当たる節は、残念ながら、見当たった。

 仕方が無い。

「例えばさ」

「……はい」

「明日君が、死ぬかもしれない。そう言われたら、最後の晩餐は美味しく食べたいとは思わないか?」

「………………そう、かも」

 本当に死ぬとは思いたくない。だが……

「罰が当たりそうなんだ、最近」

「罰……ですか?」

「そう」

 椅子の背凭れに凭れて、小さな溜息を吐いた。少女はミックスジュースを少しだけ飲んで、そんな俺に疑問を呈する。

「当たるんですか、罰」

「……どうかな」

 身体は限界に近い。

 それでも、俺は影人と接触し続ける。

 だから、寿命は少しづつ縮んでいる。

 ……分からない。いつ、黒に染まるのか。

「まあ、どうでも良いんだよ。今日くらい、楽しまないと」

「…………罰は、当たらないと思いますよ」

 そう言う少女の方を、横目で見た。

「だから、今日も、明日も、その次も。楽しみませんか?」

「……多分もう、会う事は無いと思うが」

「そうですか?」

 意外にも、それを否定したがる。

「私、この店でバイトしますし……そうじゃなくても、他の店でも会えるかもしれませんよ」

「………………なら」

 グラスをコースターに置く。正面の硝子に、路面と通行人と、反射した口元が映る。

 何と無く、微笑んでいる。そう思えた。

「気が向いた時に」

「――そうですねっ」

 そして、「もし、また会ったら」と、少女が続ける。

「こうして雑談しましょう」

 硝子越しに、眩しい笑顔を見た。

 ……その後は、時間が許す限り雑談していた。


 好きな食べ物、教科、趣味。それらを話している内に、時間は過ぎていく。

 そして、閉店時間。

 会計を済ませ店の外に出て、道路の端の方に寄る。

「ここでお別れだな」

「……はい」

 「それじゃあ」と言って、身体の向きを変える。が、歩き出す直前、真っ黒な袖を少女が掴んだ。

 控え目な声で、「あの」と呼び止める。

 振り返ると、目が合った。一瞬、その目が泳ぐが、直ぐに焦点が俺の目に合う。

「……その、申し訳無いんですが……送っていってくれませんか?」

「……別に、構わないよ」

 少女の手が袖から離れる。

 明かりの無い夜道を二人、歩き始めた。


 人の居ない静かな住宅街を、二人の足音が騒がせる。

「……家は、有るのか?」

「ぁ、はい、一応……」

 なら、この少女は路地裏で生活している訳では無い、と。

 違和感を感じて疑っていたが、その疑問は直ぐに解消された。

「でも……実は、今月末で家の契約が終わってしまいまして……」

「……あー……」

「一応、今の収入で契約出来る所は有ったんですけど……」

「来月以降なのか。大変だな」

 要は、繋ぎの家を探しているらしい。家というより、場所か。

 そう都合良く家が見つかる筈も無い。元よりこの島は、弱肉強食が常だし、予算をケチるなら余程運が良くないと無理だ。

「ホテルは駄目なのか?」

「……その、年始は、どこも空いてなくて……」

 そちらも空振り。例年なら空いていそうだが、今年は運悪く、この時期は全体的に人が来る。

 不条理な世の中である。とはいえ俺が助ける訳にもいかない。

 少女一人程度なら、俺の住んでるホテルに泊める事は出来るだろうが、それは流石にやらない方が良い。

 暗黙の了解で成り立っているとはいえ、レティーにも機密は何個か存在する。

 機密は社用スマホやらノーパソやらにデータとして詰め込まれているが、迂闊な事をしてそれらを盗まれたら目も当てられない。

 というかそれ以前に、小学生をラブホに上げるのも大問題だ。

「…………じゃあ、昨日会った時も、銀行の裏に居た時も、場所を探してたのか」

「ぁ、はい。そう、です……」

 端的で、それでいて醜いシステム。

 この調子だと、家族は急病とか急逝とか、その類いの状況だ。

 家が無いという事は、恐らくはそれ程の事が起きている。

 所持金とバイト先の給料を考えれば、家の契約も継続出来ない。

「…………狙い澄ましたかの様な、酷い理由だな」

「そうですか?」

「……あぁ」

 家族だなんて、空島では全く重要視されない。

 明日への切符は、簡単に手に入らない。金が全ての黄金郷で生きる為には。

 それでもスリは起きないし、犯罪行為は極端に少ない。上位存在の定める場所以外で犯罪は出来ないのだ。

 一天に浮かぶ島国は、多くの倫理を無視している。

「なぁ」

「……はい?」

「………………将来、何をしたい」

 急に振られた質問。

 少女は躓きかけて、でも留まった。余りにも脈絡の無い、性急な質問だ。

「私、ですか……?」

「そう」

 将来、と復唱して、少女が答える。

「何をしたいとかは、無いんですけど……困っている人を助けたいです」

 何も親の突然の過労死は、不思議な事じゃない。空島では毎日起こる事。

 それが当然で、当たり前で……そして、最も既視感の溢れる動機に成り得る。

「少し、独り言だ」

 その一言を先に言って、軽く空を見上げた。

「……自分を、見失わないでくれ」

「……ぇ、っと……?」

「困ってる人を、助けたいんだろ?」

「ぇ、ぁ、は、はい……! ……?」

 どんな事をしても、その善し悪しは……白黒は、自分自身で決める。

「決して、自分の理想の解以外に流されてはいけない」

「…………?」

「……軸を失った者は、優しさも正義も、何もかもを失う」

 俺からの、一抹の親切。いや、余計な世話。

「まあ、俺からのアドバイスだ。話半分程度にしておけ」

「……はい。

 ……あの……私、この辺りで大丈夫です」

 家の近くに着いたらしい。とすれば俺は、これで用無しだろう。

「また会いましょう」

「…………そう、だな」

 隣に居る少女が、横道に逸れていく。

 見過ぎるのもどうかと思い、こちらも別方向へ歩み出す。

 さて、仕事だ仕事。

 もう一人だけ、殺らなきゃな。


 ……影人一体の討伐には、相当時間が掛かる。

 レティーはリアルタイムで影の力を観測する人工衛星を保有しており、それで影の力の出所を発見する。

 最初に影人の卵が出現してから、その出現場所の所有者や管理者に連絡し、どうにかその場所が使えなくなる言い訳を考えて、観光客や労働者を何とか隔離して、やっと討伐。

 今回だと、俺は路面の改修工事に混ざる。

 つまりは改修工事中じゃないと討伐出来ない。目隠し用の小さい結界ではなく、工事の為に用意された丈夫な結界の中に入って討伐する訳だから、時間の前倒しは不可能だ。

 尚、影人の卵については、立入禁止と結界の合わせ技で誤魔化している。

 そして一応、割れた路面に結界を被せる事については、万が一破片が風に吹かれて飛び散った時に危ない、という言い訳で通用している。

 本当に、どうしてこんな都合の良い街なのか。何故こんなにも無駄な努力をしているのか。

 ヒエラルキーが覆るからなのかもしれない。

 医者や農家と同じで、影人を討伐するという職は、人類の生活に必要だ。だけどもそれを、炙れ者が成している。

 果たしてそれは、倫理的で、人道的で、合理的な社会と言えるのか。

 だが、その疑問は当然無視される。

 俺達はその稼業を、心を無にして熟すのだ。

 現場付近は立入禁止区域が拡大していて、補修に使う道具が搬入されている。

 薄暗い住宅街には作業着を着た亜人が何人か居る。似つかわしいとは思えない、ファンタジーの住民達。

 亜人が俺の方を見て、軽く一礼。同じく、俺もそれをする。

 強そうな人に軽く礼をされる事も、多少は慣れてきた。とはいえ未だに、亜人のお前等が戦えよ、と思う事は有るのだが。

 打ち合わせというか、突入はもう少し後……準備が終わって結界が展開されてから。

 通常の工事の手順とズレた事は出来ない。住宅街なので、ある程度は大雑把にやっても大丈夫なのだが。

 空島先住民は、殆どが影人関連の事情を知っている。というか、各会社のトップ層は殆どが影人関連の事を知っていて、そのトップ層の大半が空島人だから知っている人が多い。

 観光客の数は少ない、というか殆ど居ない。夜はラブホやカジノに行くし。

 環境の条件はかなり良い。後で時間通りにまた行こうと、住宅街を抜けていく。

 昨日は、卵一つと侮っていたら普通に失敗してしまった。

 だが今日は、周辺の土地もチェックした、周囲には観光客が居ないし、前とは違い結界も展開されている。後はもう一度、現場に戻るだけ。

 少し念を入れ過ぎている気もするが、余程のイレギュラーでない限り、大丈夫だ。

 ……本当に? 本当に、イレギュラーは起きないのか?

 起きないと断言出来るのか?

 本能が、囁く。嫌な予感をそのまま伝える。

 冷や汗が一筋流れ落ち、軽く肩越しに後ろを振り返った。

 閑散とした空間の大部分を占めるマンション見える。そのベランダやバルコニーが空間の左右を占めた。中央には、街灯に照らされた夜道が直線に伸びている。左右にはそれと対照的に、何一つ照らされていない横道が規則的に並んでいた。

 上は、星と月の良く見える夜空。真下の方は、月明かりに照らされた俺の影で殆ど見えない。

 ……現場付近から離れて、少し人通りの少ない道に出てしまった。

 盗人か何かが、俺を見ているのかもしれない。そうだったら、視線に納得出来る。

「はぁ……」

 戻ろうと、踵の向きを見ている方に変える。

 歩み出す。

 硬い路面を踏む。

 そして、若干陥没した。

「は――?」

 それが戦闘の合図だった。

 液体から固体に。俺の影が……影人が変形する。

 唐突に人型を象ったそいつは、一閃――躊躇いの全く無い、蟷螂の様な腕が伸びる。

 高速移動で何とか極小の動きで回避したが、次いで影人は、その見た目を変形させる。

 基本は人型がデフォなのに――こいつ、変形に慣れ過ぎている――

 そんな事を思っている暇は微塵も無かった。

 気が付けば、真横から衝撃を受け、路面を割って転がった。

 暗闇の中での、防御姿勢すら無い場所への意識外からのインパクト。

 攻撃の過程が不明なのに、横腹に渾身の一撃を受けた、という結果が残る。

 兎に角、何らかの攻撃で吹き飛んだのだ。その結果が今、路面に殴り倒されていた。

「ッぁ、ぐ」

 ……珍しく呻きが漏れる。

 調子が悪い、そんな次元じゃない。

 身体が死にかけてる。

 やはり、アレの負担は尋常では済まなかった。

 現在位置は路地の中央より少し横に逸れた場所。街灯に身体が少し照らされている。

 影人は正面に、今は人型で居る。

 ……この感じ、二桁は食ってるな。

 コートを脱ぎ捨て、銃を…………いや、無理だ。

 …………周囲には人の気配は無いが、ここで発砲すれば、戦闘の痕跡が明確に残る。

 痕跡の残らない場所――この場所から近い工事現場は、影人の卵が放置されてある筈の、俺の任務予定の場所。

 連れて行くか。

 短刀を抜いた。

 多少見られてもこの際構わない。住宅街の住民だし、後始末はレティーに押し付ければいい。

 圧倒的なイレギュラーを抱えながら、住宅街を駆け抜ける。それ以外に選択肢は無い。

 逆手に持った左手の短刀を水平に――外から内へ振り被りつつ、高速移動技術――地駿を発動した。

 影人の片腕が短刀を弾き出す。

 硬い。

 その衝撃を腕の力で抑えて、短刀を鞘に仕舞った。少なくとも短刀は得策ではない。

 地駿を、発動する。

 身体を折ってから、溜めて、ロケットスタート。影人を引っ掴んで彼方へと跳んだ。

 宙空、影人が変形する。

 近くの街灯に蔓が巻き付いた。

 俺の手で掴んだ箇所が変形して凹んだ。

 今度は影人が俺を掴む。地面と平行な身体を半回転させ、上下の位置が逆転する。

 街灯の光を背負う影人が、腕を変形させる。蟷螂の様な形で、然しそれよりも数段硬い刃が、光を乱反射する。

 影人の右腕が動いた。

 左手を振るい短刀で受ける。

 極小の火花が散って。

 押し出されて墜落。

 宙空で二枚の翼を生やした影人が、上下を逆さまに俺に迫る。

 背中を地に着けながら、短刀で影人の硬い拳を受けた。

 衝撃で道路に罅が発生する。

 影人は一度、拳を離す。

 猛攻。

 右で拳撃、左で斬撃。

 重い衝撃で追加の罅が広がった。

 殴り合った拳が骨から折れる。

 だが、死んではいない。

 足を跳ね上げ影人を突き飛ばす。

 上半身を起こしてそのまま立ち上がる。

 脳が揺れる。痛みが駆け抜ける。

 二回の衝撃で相当に削られた。

 距離を取った筈だが、着地した影人が再度こちらに飛び掛かる。

 こちらも、地駿で応戦を始めた。

 自在に変形する影人が、臀部から巨大な尻尾を生やして攻勢に出る。

 短刀を右手に持ち替えて、こちらも同時に攻めに行った。

 このままだと、勝てない。

 もう一段階、上に、高みに。

 別次元の世界へ――


 地駿、呼び方はチズル。

 端的に言えば、超速移動。

 瞬歩とか縮地とかそういう感じの技。

 まあ、若しくは。

 ――最強の武器。


 振り回す尻尾を短刀で止めつつ、瞬間移動。影人の真後ろから蹴飛ばして、シュートされたサッカーボールの様にぶっ飛ばす。

 そのまま追撃に向かって瞬間移動。

 吹き飛んでいる最中の影人を更に拳で一撃。

 有り得ない速度で路面を破壊しながら、影人を殴り飛ばす。が、影人が周囲に巨大な触手の様な物を展開した。

 街灯を幾つか折りつつ、こちらにもその触手を伸ばす。

 既に追撃に向かう俺は、手前で一旦減速する。

 高速移動らしく、地駿は一歩がかなり大きい。通常、下手に着地すると、減速してしまう。

 だが、その理屈は承知の上だ。

 爪先で、足先で、弾く動作を完了させた。

 真っ直ぐこちらに向かう触手を撫でる様に、左斜め方向に加速する。

 右手に持った短刀で触手にメスを入れ、無茶苦茶に切り裂きながら、再度影人に急接近。

 そこの路地を右に曲がれば、結界はもうそこだ。

 だから俺は、左足で踏み込んだ。

 左に逸れた進路から、左足を軸に、直角に進路を圧し折る。

 通路の奥を抜ければ、その右手に結界が在る。

 中に入ったら、時間的には人が居る筈だ。居る人に現場付近を覆う結界を発動して貰って、更に、工事用の結界も起動して貰う。

 肝心な所で他人任せだが、四の五の言ってられない。

 引き千切る様に、影人の身体から生えた触手を分離させる。

 一本は左手の力だけで豪快に千切り捨て、他の触手は短刀で切断する。

 ダメージは入った筈。とはいえ触手の密度は小さかった為、大して削れていない。

 決め手には欠けている。

 もう一撃、高密度の身体を消し飛ばせ。

 地駿。

 角度は良好。影人の身体を民家に押し付けて、鑢掛けをする様に削る。

 黒色の肉片で民家の壁面に軌跡を描きつつ、瞬く間に住宅街を抜けた。

 影人を床に叩き付け、一瞬、周囲を見回す。

 誰か、周囲の人に通達しなければ。

 現場の人は居る筈。その人達に結界を……展開……

「――ッ」

 呻きが漏れる。

 床に仰向けで伏せた影人が、黒い蔓を伸ばし、俺の頬を殴り飛ばした。

 そうだ。

 一帯は血腥い異臭に包まれていて。

 血の付着した服やヘルメットに、解除された結界に、放り出された工具。

 在る筈の影人の卵は、そこには無い。

「がッ――」

 追撃を食らう。

 何もかも分からず壁に叩き付けられた。

 最早、自分が何を食らったのかさえ分からない。

 意識が急激に白ばむ。

 白濁し、揺れ、激動する。

 気が付けば床に両膝と片腕を押し付けていた。

「…………ぅ」

 込み上げてきた物が、喉を通ってそのまま吐き出される。

 瓦礫で裂けた頬から血が垂れ、隊服に沿って床に落ちる。

 髪からは数滴、汗が滴る。

 余りにも激し過ぎる高速移動の反動を一身に受ける。

 ……寒い。

「ッ、ぶッ――」

 どこかの骨が潰れて、それを認識した時には、既に俺はぶっ飛んでいた。

 朦朧とする意識の中で、靄の掛かった視界で何が起きているのか判別出来る筈が無い。

 床に転がり、気が付けば、仰向けだった。

 視界に影が入り込む。

 夜空よりも暗い、容赦の無い影の拳が、顔面を貫いた。

「ッ……」

 声に成らない。

 引っ付いた拳が離れて、意識だけは保っている俺にもう一度振り下ろす。

 無抵抗でそれを受けて、受けて、受けて。そして、意識が落ちた。

 だが、その後の衝撃で覚醒する。

 何一つ容赦の無い拳が腹を刺し、内臓を破壊する。

 金属でそのままぶん殴られた様な一撃。

 血塗れの顔面、腹部。そこに触れて、水音が鳴る。

 直後、拳は隊服の防御性能を貫通する。

 この街の路面は、どれだけ壊されるのだろうか。

 そして。

 白濁した靄の向こうで、影が迫る。

 ……その次の瞬間、影人は何者かに突き飛ばされた。

 そして、視界が若干クリアに成る。残った意識で、乱入者にピントを合わせた。


 ――それはどう見ても、先程別れた筈の少女だった。

 何か口元を動かしていて、そこで少女が喋っている事に気が付く。

 然し、それも何を言っているか全く分からない。見る事しか出来ない。

 そして少女は、影人に向かって何か喋って――魔法を放つ。

 単なる下級魔法。火や水、氷等が影人に当たる。

 が、それらは尽くノーダメ。当たり前だ、影人に弱点は無い。

 有効打と思わしき攻撃も無く、木や石の下級魔法が影人にぶつかる。これも効かないまま、少女は影人にぶん殴られた。

 ……何をやっている。

 戦闘以下の行為だ。

 何でそんな、自ら死のうとする。

 お前が時間を稼いだって、この影人は少なくとも、レティーの特保隊並に強い奴でしかタイマンで対処出来ない。

 ……少女は、路面を滑って、民家の壁に身体を打ち付けられた。

 重力に従って身体が垂れ、そのまま全く動かない。

 影人が少女に迫る。その身体機能を停止させようと、パーツの無い顔面を少女に向け、一歩、近寄る。

 拳が高く振り上がった。

 もう俺は何も動けない。そんなの、分かっている。金属バットで何度も殴られた後に動ける方が珍しい。そんなレベルの疲労と損傷。

 だけど。

 両腕を床に押し付けて、勢い良く立ち上がる。

 付着した血が飛び散る。流水の様な勢いで水音が鳴る。

 俊敏なゾンビが、少女と影人の間に割り込んだ。

 振り絞った最後の力が少女を守る。

 頬をぶん殴られて頭蓋がぶっ飛んで壁に激突する。首から下が追随して激突し、もう一段階血が拡散する。

 ……無理だった。

 薄く開いた目が、少女と影人を見つめる。

 影人は、筋肉が無い筈なのに拳を握り直して、少女に殴り掛かる。

 何か。

 奇跡は起きないのか。

 願っても、俺の身体は何一つ動かない。

 ……非道だ。

 そんな道理は、許し難い。

 何故。いや、決まっている。

 そうか。

 これが人殺しの、罰。


 ……然し。

 神は俺を見捨てても、少女の事は見捨てなかった。


 影人の突き出した拳が、一瞬にして消失する。

 目を見開いた。

 ……その白い何かに呑み込まれて、攻撃が出来なかったのだ。


 ――影人の再生条件は二つ。魔力と隣接している事と、一定以上の影の力が一塊に纏まっている事。

 人体のシステムとは大きく違う。血は巡っていないし、筋肉も骨も内臓も持っていない。人間の真似事をしているかの様に、不気味に見た目が人間臭いだけ。

 その再生を阻害する為には、影の力を一定以上溜めない必要が有る。

 だがそれには抜け道が二つ。

 一つは、余りにも重い一撃を与える事。物として顕現している影の力を、強制的に単なる影の力――即ち、魔力と同じ状態に戻す。

 もう一つは、影の力と正反対の力。それ即ち、特異な魔力――特異と呼ばれる物。

 神に選ばれし存在しかその特異を発動出来ない。

 ……だから。

 きっと彼女は、少女は。

 神に選ばれたんだ――


「――火と、光――」

 たった今、覚醒した少女の呟きと共に白炎が路地に巡る。

 魔法と原理は同じ。だけども、それは影人にとっての、正しく特効を持っている。

 対消滅するのだ。特異と影の力は。

 物質と反物質の様に、二つが混じり合って消滅し、超大なエネルギーを放つ。いや違う。魔力に変換される。

 その代償の片方は、影人の身体そのもの。一方もう片方は、身体でも、大事な物でも、金でも命でも何でも無く、少しの疲労のみ。

 真後ろの民家に手を付いて、血塗れの少女が起き上がる。そして、自立した。

 何かのエフェクトの様に周囲に時折顕現し、そして消滅している白く煌めく炎が、バランスボール程度の大きさで出現した。

 視線の先が瞬刻、こちらを向いた。

 今度は確かに、聴こえた。「ごめんなさい」と呟いていた。

 そして直ぐに、影人に向き直る。

「私は――」

 そして影人に、光り輝く炎が向かう。

「――困ってる人を、助けたいから」

 触れた途端、影人を呑み込んだ。

 対消滅擬きの現象が起き、影の力と特異は合成され、魔力と化す。炎が掻き消え、場には何も残らない。

 そして。

「……はぁ」

 影人が居た所を見て、完全な消滅を確認した少女が安堵の混じった息を吐く。

 そして直ぐに、「大丈夫ですか!?」と俺の方に駆け寄ってくる。

 いや、大丈夫ではない。

 そう思いながら、影人の消滅を見届けた俺は、意識を落とした。

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