子猫の吐息



 甘さの中にある独特な刺激。


 この匂いは──シナモン?


 彼女の愛すべき友たちに水をやり額にかいた汗を拭っていると、換気口からふわりと漂ってきたその匂いでお腹がぐぅっと鳴る。なんて単純な身体なんだと呆れてしまうが、時刻は昼と夕方の合間。

「そろそろいつもの時間か──」

 こう毎日習慣づいてしまうと無理もないかと、あと片付けをすませ私は家の中へ戻った。

「……!」

 今ちょうど焼きあがったの!──やわらかく頬を緩めそれを持ち上げる彼女の言いたいことはそんなところだろう。手の中にはこんがりと焼きあがったアップルパイ。まだ湯気が立ち、早く食べろと私を誘惑している。

 

 食器棚に手を伸ばすと、その大きさに合いそうな皿を探した。なかなか見つからず手間取っていると、彼女が横にきて下の引き出しをガッと開ける。ああ、大きめの平皿はここか。

 ありがとう──そう微笑むと、彼女もそれに応えてくれる。


 最近、彼女はよく笑うようになった。

 くしゃっとしたようなものではないが、それでも喜んでいると分かるくらいには目が細まり、口元がつつましく円を描くのだ。

 笑ったときにも眉が下がるなんて、なんとも彼女らしい──初めてそれを目にしたとき私はそう思った。


 雨が降ったあの日、彼女は私の涙を拭った。

 

 どうしたの?とか、そんな顔はしていなかった。

 腰かけていたピアノの椅子から立ち上がると、ただ寄り添うように私の目からこぼれたそれを撫で、頬に手をあてがったのだ。

 どうして涙が流れたのかは分からない。どうして彼女があんなにも寂しげな背中でそれを奏でていたのかも、つゆ草色の瞳が愁いを帯びていたのかも。

 いまだにひとつだって分かりはしない。


 ただ私はもう一度、それを弾いてほしいと。

 彼女にそう頼んだ。


 もっと、聴いていたかったのだ。

 あのゆりかごのような曲を──。


 やや長めのその椅子。彼女の横に腰を下ろすと、白くて細い指がまた鍵盤を撫でるように動いた。ときに弾くように、ときに溺れるように。音をあげているのは指なのか鍵盤なのかも分からないほどひとつになっていた。

 すっかり耳に馴染んでしまったその曲。ピアノの音色に乗せて無意識にそれをなぞると、鼻から声が抜けた。凛と鳴る白と黒の音しか認識しなくなっていた耳が声に反応して、急に雨音さえも入り込んでくるようになる。


 そこで私は気づいた。


 すっかり向こうのよく知る曲に重ねていたが、この曲は目を覚ましたときに感じた旋律──歌に似ている、と。


 五線譜を踊るものも似つかわしいが、一番そうだと感じるのは雰囲気だ。

 雰囲気とは、辞書で引くと"自然に作り出される気分"と、そう記されているほどに曖昧なもの。どこがどう似ているのか言葉にするのは難しいが、それを聴いたときの胸の奥のざわめき方には近しいものがある──そんな気がした。


 そのやさしい音を追いかけながら、私はいつのまにか彼女の隣で眠りについていた。

 私よりもずっとちいさな肩にもたれて、それを奏でる腕が揺れるたび、夢と現のあいだで思ったのだ。


 まるでこの曲のようだ──と。



 そのときから、なぜか彼女との距離が近づいているような気がする。

 笑うようになったのだ。彼女が。


 今までは私を見ているようで見ていないような、そんな虚しい表情しか見せてはくれなかった。たまに口元を緩めても、それはほんのわずかで。笑っているというよりは笑いにいっているような。そんなものばかりだった。

 

 それが、彼女の肩で目を覚ましたとき。

 どのくらいそうしてしまったのかも分からずに慌てた私が顔をあげると、彼女は笑っていたのだ。おだやかなその笑みはまるで女神のようで、私はつい見惚れてしまったものだ。

 笑ってくれたことは素直に喜ばしい。だが、私には気がかりなことがある。彼女の青い瞳は──。


 ──ガシャンッ──


 引き出しから無理に取り出そうとした大皿が手から逃げ出し、元の位置へと滑り落ちる。あぶない。ほかのことに気を取られて食器を割ってしまっては台無しだ。せっかく彼女との信頼が築けてきているというのに。

 私はそれを切り分ける彼女にこれくらいのでいいかと尋ねると、その首はすぐに縦に振られた。


 ──いただきます。


 毎日やってくるおやつの時間。

 声には出さなくても、食べる前には頭の中でそう呟く。そして切り分けられたそれを小皿に乗せると、彼女の前にスッと差し出した。


 おやつはもぱっら彼女が作るが、料理は日によって分担している。

 腕に自信があるわけではないが、人が作ったものというのはその味に限らず嬉しいものだ。彼女にもその気持ちを味わってほしくて、私が頼み込んでからもう何日が過ぎたのだろうか。

 きっと、自分で作って自分で食べる。彼女の暮らしはその繰り返しなのだろう。ここに来てからずいぶんと時間が経っているが、家を訪れるひとはいない。

 

 彼女は独りなのだ。

 庭の世話をするときも、料理をするときも。


 二階であれを奏でるときも。


 いつからそうなのだろう──私は口の中に広がる香ばしい甘さを感じながら考えている。

 食器棚の皿の数。一人暮らしにしてはやけに多いのだ。

 一階には居間と、私が世話になっている小さめの部屋。それから彼女の部屋もある。であるのに、二階にも部屋はふたつ。片方は入ったことがないが、もう片方はピアノが置かれ、ややほこりっぽい。上の階は彼女自身もあまり近寄らず、雨が降った日にだけそれを弾きに上がるのだ。

 博士は云った。この森の近くに住むのは一人だけ──と。

 であるからして、ここに彼女しか住んでいないのは間違いないのだろう。だが、家の広さからしてもこのテーブルの大きさも。どれをとっても一人用ではないことはたしかだ。

 以前、彼女はここで誰かと暮らしていたのだ。

 家族か友人か──はたまた恋人か。

 それは分からないが、彼女の青い瞳がずっと悲痛な声をあげているのは、きっとその誰かが今ここにいないことが原因なのではないかと私は思う。

 一見小柄で幼く見えるが、その行動や知識、顔つきを見ればわかる。彼女は二十代なかごろ。私とそう変わらないはずだ。──であれば、家族がひとり、いいや二人三人いたっておかしくはない。友人だって、まだ縁が切れるような歳ではないはず。

 それに、恋人だって。

 青く澄んだ大きい瞳。それを抱えてゆったりと流れるように弧を描いて垂れる目。鼻はちいさく口元はもっと控えめ。輪郭や眉は整った線で描かれ、肌は透き通るように白い。

 はっきり言って、彼女は美人だ。

 ぬいぐるみのような甘い顔つきをした文愛とはひと味違うが、人形のように麗しい顔つきをしている。こんなにきれいであるのに、それのひとりやふたりもいないなんて、一体この世界はどうなっているのだと私は声を大にして言いたい気分だ。それに、ぺリウスは恋愛に性別が関係しない。彼女なら、星の数を以てしても足りないほどではないか。


 ──コンコンッ──


 くだらないことを考えて手が止まっていた私に向かい、彼女が机を叩く。覗き込んだその顔は不安げに眉が狭められ、おいしくなかった…?とでも言っているようだ。

 私は首を振ってそれをばくばくと口へ運ぶと、美味しいということを全身で伝えた。それを見て安心したように見開かれる瞳を見て思う。


 やはり、彼女の瞳は泣いている。


 花を見て微笑んでも、買い出しを忘れて困っても。小鳥のさえずりを楽しんでも、どろだらけの私にぷくっと頬を膨らませても。


 ずっと彼女の瞳はうつむき、嘆いている。

 初めて視線がつながった、あの瞬間ときと同じまま──。


 どうしたら彼女のその瞳はほころぶのだろうか。

 おそらく、そんなことを頭で考えても意味はない。幼いころからお前には足りないと言われ続けてきたもの──答えにたどり着けるのはきっとそれなのだ。

 ためになるか定かでないが、博士にでも聞いてみるとしよう。どうせ、ここで頼れる相手は博士しかいないのだ。

 ──ところで、あの人は一体いつになったら戻ってくるんだ?

 数日って云ったよな?とあいかわらずの博士に呆れながら、私は落ち着く風味のアップルパイをもうひとかけ皿に乗せた。


 本来の目的を、すっかり忘れたまま──。

 



    *********



 

 やがて秋も過ぎ、ぺリウスという星に木枯らしのような風が吹いたころ、季節は白へとその色を変えようとしていた。


 “ちょっと任された研究に手間取ってね?あ、いやぼくは天才なんだけど、資料が整ってないんだ!”

 そう云う博士はあいかわらず戻らずにたまに連絡を寄こしては、その町の様子を写真で送り付けてくるのだった。

「……またクレープ食べてる…」

 同じような写真が何枚も何枚も。イリオという町はクレープが有名だとでもいうのだろうか?いいやきっと違う、博士が同じものを食べ続けているだけだ。嬉しそうにそれにかぶりつく姿は、新型のスティロを開発するためのチームでせっせと仕事をこなしているとは到底思えないが、まあ元気にやってはいるのだろう。


 不思議なものだ。はっきりは数えていないが、おそらくこの世界に来てから私はもう、博士といる時間よりも彼女といる時間のほうがよっぽど長い。それであるのに、まるでホームシックにも似た感覚を博士にたいして向けているのは、ひよこが初めて目にしたものを親と認識してしまうそれに近いのだろうか。

 しかしそう思っているのに対し、意志も交わせないというのに、彼女といるのは博士といるよりも安心感がある。


 そして、文愛といるときよりも──。


 時間をともにしているとすべてのさざめきが溶かされ、ここにいることを不安に思う要素すらなくなってしまうのだ。


 ここ最近の私は少し様子がおかしい。

 隣で眠る彼女を見ていると、胸の奥が手を伸ばしてしまいそうな感覚になるのだ。


 それは少し前、彼女とオキヘルマで出かけたあの日から──。




    *********



 

 その日、私はいつものように彼女と冷蔵庫を眺めていた。

 週に一、二回。あの町──ルピナスの近くまで買い出しに行くのが彼女から任された私の仕事だ。買い出しのメモ。そんなものが使えない以上、不足しているものを洗い出すには冷蔵庫や戸棚を一緒に見て回り、あれがないこれがないと確認していくしかない。

 初めのころは時間を要したが、だんだんと目線や仕草でわかるようになり、このごろは慣れたものだった。

 彼女が私の考えていることを素早く理解するのと同じくらい、私もそれに近づいてきているのだ。

 この日必要になったものは紅茶とじゃがいも、それからレモンに小麦と替えの洗剤などなど。

 「~…!」

 抜けがないかと頭をひねっていた彼女が、そうだといわんばかりに目を開いて私の肩をばたばたと叩いた。

 私は右手で下から丸いものを掴むように手で空を握ると、がぶっとそれにかじり付く素振りをして見せた。これ?──と、そう聞くように目を大きくさせて。

「!、!」

 彼女は頷いて微笑んだ。

 最初から何が欲しいのか、私は分かっていた。毎回きまってそのリストに名前があがるのは赤い果実──りんごだ。

 彼女はりんごが好きだった。毎朝毎晩、必ず食す。

 それも、無邪気に丸かじりで──。

 見た目にそぐわないその食べ方をはじめて目にしたときは驚いたもので、目を丸くした私に彼女はおそるおそるそのりんごを差し出してきたのだ。私と同じ目をして、食べたい…?と、そう問いかけるように。むしゃむしゃと頬張る姿が小動物のようでなんともかわいらしく、私はそれから彼女がりんごを食べるときは毎回その姿を見ることにしている。

 なぜそんなにりんごが好きなのか尋ねてみたことがあったが、一瞬でぐらついた瞳を見て、私は慌てて話題を変えようと持っていたグラスの水をテーブルにぶちまけて彼女を怒らせたのだった──。


 オキヘルマに乗り込んでボタンひとつでエンジンをかけた私が、彼女の姿に気づいたのは窓をトントンと叩かれたそのとき。もう一つ欲しいものがあったと、彼女が家を飛び出してきたのだ。

 窓を開け、それがなんなのかを掴み取ろうとするが、彼女の欲するものがどうしても分からなかった。しばらく頭を悩ませた私はもはやこれしかあるまいと、後ろのほうにひとつだけ付いているドアを開けた。

 乗って──と。そんなふうに首を後ろにやって。

 彼女は目線を少し下にずらして、両手をきゅっと握った。

 人里を好まないのはなんとなく分かっていた。行けるのであれば最初から、買い物など自分で行っているはず。あんな面倒な作業を要するというのに、それでも私に頼むのはなにか理由があるのだ。

 それを分かってはいたが、その日の私はどうにも諦めが悪かった。シートに手をついて運転席から起き上がると、後ろのドアから飛び降り彼女のもとへ。


 そしてその手を取った。

 大丈夫、一緒に行こう──そう言うように。


 冷たいその手はわずかに震えていたが、彼女はためらいがちにほんの少し。顎をくいっと下にさげた。それから助手席に彼女を座らせると、私はルピナス方面へと走ったのだった──。


 天気がよかったから。


 彼女を無理に連れ出した理由は、きっとそんなところだ──。



 道中、彼女はひたすら窓の外に目を向けていた。

 眺めているというよりは想いを馳せているような。そんなどこか遠くを見つめる瞳を横目にしながら、私はハンドルを握った。

 ルピナスまであと半分──それくらいの距離を行ったときのこと。

 彼女が身を乗り出すようにして窓に手を添えた。何かに食い入るようなその姿に、私は足を浮かせてゆっくりとスピードを落とすと、その目線の先を追いかける。

 眉間にやや力を込め焦点を狭めると、そこに見えたの大きな影──。細長い枝に陽を透かせる薄い葉と、まるでクリスマスのように二色の飾りをつけたそれ。


 彼女の視線を釘づけにしていたのは、りんごの木だった。


 まだ時間はあるな──私はダッシュボードについたデジタルのそれで時刻を確認すると、アクセルを踏み直しハンドルを左に回した。急に旋回したそれに驚いた彼女がこちらを振り向いたが、私はそっと目線だけで笑いかけたのだった。


 近づくにつれて形がはっきり、色濃くなるその実。その一粒一粒の大きさが分かるほどになったころ、私はゆっくりと車を停めた。

 そして、彼女に触れる。

 降りてもいいよと、子どもを諭すようにその肩に手を置いて。

 彼女は申し訳なさそうに視線を泳がせ手をまごまごとしていたが、私はもう一度、次はその手に触れた。

 少し歩こう──そんな思いを込めて。


 私のあとをついてそれを降りたはずの彼女は、気づけば私よりも先にその幹に触れていた。まるで空をやんわりとぼやかす太陽のように柔らかく、流れる風のように清らかな顔をしながら。

 小柄な赤と緑のそれは健気にも立派に生り、葉の間からこちらのようすを覗っているようだった。草原に一本、それはひっそりと遠慮がちに佇んでいた。まばらな枝や実の大きさを見るに、足元の下で身を隠した根っこは野生に張られたものだろう。それにしても、こんなところになぜ──。彼女もよくあんなところからこれを見つけたものだと、私は彼女のりんごに対する熱意の高さに感心すら覚えた。

 足のつま先をトンッとあげて、彼女は目を閉じスーッと肩を膨らませた。なにをしているのだろうと私もそれを真似てみると、冷たい空気と一緒に身に染み込んだのは、しなやかに香るほのかな甘い匂い──私は気づいた。初めて彼女の家のドアを開けたとき、香ってきたのはこれだったのだと──。

 今ではすっかり鼻も慣れてしまったが、こうして外の空気の中であればはっきりと感じることができる。ゆるやかに甘い、りんごの匂い。


 私はそれに手を伸ばし、取っていく?と彼女に頭を傾けてみたが、彼女は伏し目がちに首を横に振った。そして地面にしゃがみ込み、落ちてしまったその仲間に触れたのだ。


 ここで一緒に、眠りについてほしいの──。

 彼女のおだやかな表情はそんなことを云っているようだった。


 せっかく良い天気なのだからと、そのあたりを二人で歩いた。

 彼女の庭園ほどではないが、鮮やかな花たちが切磋琢磨しながらその命を燃やしていた。私でもついしゃがみ込んで目を向けたくなってしまうようなその一本一本に、彼女が我慢できるはずもなく、あちらこちらへとその足を向ける様子はさながら子犬のようだった。

 いつものように彼らの紹介をしながら目を細める彼女を見て、無理にでも連れ出してよかったと私は思った。

 隣で腰をおろしていた彼女が急に立ち上がると、またお目当てのそれを見つけたのか急に駆けて行ってしまった。まあ、大丈夫だろう──と、しばらく別々の時間を過ごしながら私も彼らを愛でた。


 ヒューッっと。

 北の方から強い風が吹いたとき、視界の端で丸まった何か凛と揺れ動いた。


 振り向いた先にあったその花は、花というよりもどこか団子のようにも見えるほど。茎の先でまるっと集合したその小さな花びらたちはお祭りで食べる飴にもよく似ていた。絵の具の筆先から垂れ落ちたように、薄く滲む露草色の花びらには、真ん中に濃ゆい線が一本。

 美しいその色味は、私が毎日見ているものに似ていた。

 それがどんな子であるのか訊ねてみようと彼女の姿を探すと、すでに見当たるところにはおらず、私は立ち上がってあてもなくあたりを歩いた。

 こういうとき、連絡も取れないというのは不便だ。本来なら一方が動き回っているのだから私はじっとしているのが正解なのだろうが、不思議と出会える気がしたのだ。彼女がどこかで私を待っている──そんな気が。


 数分歩いていると、肩をポツッと鳴らして雨が上着を水玉模様に変えた。

 天気が良いとばかり思っていたが、足元に気を取られて近づいている雨雲にも気づけないなんてどうしようもない。そう思いながら早くオキヘルマに戻ろうと彼女を探していると、太く大きな木の幹に背を預けた彼女を見つけた。


 少し前までほころんでいた顔はそこになく、出会ったあの日のように瞳を揺らして、手のひらを打つその一滴一滴を遠い眼でじっと見つめていた。

 

「……レイ。」


 その淡い姿に、気づけば私は彼女の名を口にしていた。


 そして近づき震えるその手を取ると、彼女のやわい身体を両腕に抱え込んでいた。

 冷えた身体をあたためるように、その心をくるむように。

 

 そして、持ってきた一輪のそれを彼女に差し出した。


 これはどんな子──?

 本当はそう聞くつもりだった。でも、私の瞳はきっとこう言っていた。



 レイにあげる──。



 強くなってきた雨足から逃げるように、二人で草を鳴らした。

 途中、彼女が何かを落としそれを拾い上げると、固く手に握りしめていた。大切なものなのか?と思ったが、それが何かはよく見えなかった。一瞬、草のうえに転がったその面影はどこかで見たことがあるような気もしたが、そんなことよりも雨を凌ぐほうが先だと、私はその手を引いて走った。


 名前を呼んだとき、彼女がそれを理解したわかったような顔をしていたのはきっと、よくひとり言を呟く私の声に反応しただけだろうと、そう思いながら──。




 ここまででも十分、私の様子はおかしいが、ふたりの空気が変わってしまったのはこの日の夜だったように思う。


 結局彼女の欲しかったものは分からないまま、来た道を引き返して家に戻った。それがただのドライブになってしまったのは、雨の量にある。この星ではめずらしい量のそれが降りそそぎ暴風が吹きつけると、夜には雷まで鳴り出す始末。

 濡れた身体を早々に風呂で温めると、早めに食事を取って互いに部屋へ戻った。


 しかし夜も更けたころ、私が手洗いにとベッドを立つと、居間のドアから光が漏れ差していたのだ。

 明かり消すのを忘れたのか──?と手をかけてのぞき込むと、そこには彼女の姿。冷めきったようすのホットミルクに手もつけず、身を縮めて服の袖をぎゅっと掴み、椅子のうえで身体をさらにちいさくしていた。


 私は震えるその肩にそっと手を添えた。一瞬身体がびくっとなって、彼女が私を見上げると、あの草原では子犬だったその顔が次は子猫のように。


「……一緒に寝ますか?」


 私はそう言葉にしていた。

 彼女がそれを分かるはずもないのに。


 それよか、そんなことを聞くなんてどういうつもりなんだと、自分の思考に驚いた私はしばらくフリーズしてしまった。同性とはいえ、この星ではそれは関係ないのだ。いくら彼女が雷を怖がり寝つけないからといって、二人きりのこの家でそんなことをして良いわけがない。


 それに、なぜそんなことを言ってしまったのだ。

 私には文愛という愛する人がいて、彼女のために──。


「……、…。」


 そんなふうに頭の中でぐるぐる考えていると、私の手に彼女の冷たい手が重なり、ゆっくりと首が縦に振られた。

 まさか。わかるはずはないのに──。

 そう思って覗き込んだ先のその瞳が、私に伝えていた。


 そばにいて──と。


 勘違いかもしれない。

 いいや、勘違いに違いない。


 だが、それでもいい。


 私は彼女の手を引くと、自分の使っている部屋へと連れ込み、その華奢な身体を包んで眠りについた。毛布が彼女をあたため、熱でわきあがったその香りはつつましくもやわらかく、まるで心を撫でるよう。


 これは断じて浮気ではない。やましい気持ちなんて、ここにはないのだから。

 そう自分に言い聞かせて、私は瞼をむりやり下ろした。


 りんごの香りがする彼女の横で──。




    *********



 

 そんな奇妙な夜を経て、私と彼女は寝床をともにするようになった。


 そこにたいそうな理由はない。ただ、暴風雨の影響で屋根の一部が崩れ、彼女の部屋が水漏れしているから。修繕するにも時間はかかる。だからとりあえず私の部屋で寝るしか手がなかっただけ。

 横で静かに眠る彼女の肩抱き寄せているのも、ただそれだけのことだ。


「……?」


 私の思考がうるさいからなのか、彼女が目をしばしばとさせぼんやり瞼を開いた。

「おはよう」

 そう言ってもわかるわけはないが、朝の挨拶ということぐらいは伝わるだろうか。彼女はまだとろけた眼でゆっくり私を見つめ、それに返すように頷いた。


 この瞳の奥は、なにを抱えているのだろう。


 あの日、町へと連れ出したのも雨の中で手を取ったのも、いまこうして肩を抱いているのだって。透き通るそのきれいな瞳が、笑っているところを見たいから。


 いつか、泣き止んでほしいから──。


 安心してくれているのか、ちいさく口を開いてあくびをこぼす彼女。かわいらしい欠伸だ。猫のような、少女のような。

 だが、そのはかない吐息に声が混じることはない。もし、彼女がそれを持っていたら、いったいどんな音色がするのだろう。


 涼風や日向?それともせせらぎや渚か。


 それがなんだってかまわない。

 きっと、私は美しいと、そう感じてしまうのだろうから。


 彼女の瞳を晴らしてあげたい。

 そう思いながら、私はその心地よい香りの中でふたたび眠りについていた──。




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