誠実すぎる執着は、きっと愛を連れてくる

おみ

第1話

 事務所の扉を開けた途端、爽やかな挨拶が奔流のように叩きつけられてきた。負けないように声を張る。

「おはようございます!」

 なんせ、ここにいる人間のほとんどは声優かその卵だ。腹を据えて出さなければ、俺の声なんて簡単にかき消されてしまう。さっと頭を下げて扉をくぐる。昭和レトロな赤いレンガ風タイルの貼られたビルの戸口は小さくて、無駄に百八十七センチまで伸びた俺は今までに何度も上枠に頭をぶつけていた。

 忙しそうに駆け回るマネージャーに声をかけているのは、台本の受け取りや打ち合わせに来た先輩たちだ。そのまわりでは、なんとかマネージャーに顔と名前を覚えてもらおうと預かり声優たちが物欲しげにうろうろしている。俺もまた、そのうちの一人だった。

 演技の練習は欠かしていない。見た目だって精一杯整えている。どんなに小さな仕事でも喜んでやるし、熱意や努力なら誰にも負けない。だけど、ここに来るたびにそんなことは当たり前で、俺にはなんの価値もないんだと思い知らされる。どれだけ全力で挨拶をしても、よい声に慣れきった人たちは誰も振り向きはしなかった。 

 手持ち無沙汰にあたりを見渡すと、受付のカウンターにくしゃくしゃになったメモ用紙が転がっていた。けっして懐事情が豊かとは言えない声優事務所の宿命で、マネージャーは少なく、声優は多く、いつだって手が足りていない。重要なスケジュール調整や連絡を優先すれば、事務所の片付けや掃除はどうしても後回しになりがちだった。

 暇を持て余すくらいなら片付けでもしていようとゴミを拾うが、ゴミ箱からは紙屑が溢れそうになっていた。部屋の隅にある掃除用具入れのロッカーから袋を出し、ついでに事務所中のゴミ袋を交換して回る。

 声優の養成所と大学を両立させながら、単発でも入れる割のいいバイトとして始めた引っ越し屋の仕事はもう五年目になる。荷物の運搬からドライバー、掃除までなんでも請け負うこともあって、掃除やら片付けは得意分野だった。

 雑巾をゆすいできて、受付のカウンターや打ち合わせスペースのテーブルを拭き清める。歩き回っているとあちこちからアニメや外画と呼ばれる洋画の吹き替え、ナレーターなんかの仕事の話が聞こえてきて、俺も早くそんな仕事がしたいとそわそわした。

 ユー・ステップ・アクターズ。

 それが、俺が所属する声優事務所の名前だった。所属声優は百人ほど。そのうちの約六割が雇用契約を結んだ正規所属で、俺を含めた残りの四割は養成所を卒業して事務所のオーディションには受かったものの、まだ見習いでしかない預かりという身の上だった。

 預かり声優は、二年の契約期間内に成果を出ださなければ査定で契約を切られてしまう。そうしたら、アニメのオーディションにも、吹き替えのオーディションにも参加が難しくなる。つまり査定で切られるということは、何年も養成所に通ってようやく掴みかけた夢が消えてしまうということだった。

 俺も預かり声優になって二年目ではあるものの、いくつかのアニメで単発のモブをやらせてもらえたのと、スーパーの鮮魚大売り出しのナレーションボイスを録っただけでほとんど仕事がない。

 だからこそ毎日のように事務所に通い、養成所の練習にも参加させてもらって、いつでも仕事を受けられることをアピールしていたけれど、それだけでは決め手にかける。最近の俺はマネージャーたちに顔を覚えてもらえたのかもわからないまま、不安を紛らわせるように事務所に来るたび掃除ばかりしていた。

 悩みながらでも、拭き掃除を終えるとあたりはずいぶん綺麗になった。これでよし。すっきりとした打ち合わせスペースを見回す。使い終わった雑巾をゆすいでこようと振り返った途端、スーツ姿の女性とぶつかりそうになった。

「うわ……ッ」

 バサバサと落ちた書類を慌てて拾い集める。

「すみません……ッ!」

 慌てて頭を下げる。そこにいたのは、チーフマネージャーの菊池さんだった。

 書類を見ないように目を逸らして差し出す。受け取ると、菊池さんは軽く会釈をして笑った。まっすぐな黒髪が肩のあたりでさらりと揺れる。

「ごめん、こっちも前見てなかった」

 打ち合わせスペースに目をやって、きりっとした切れ長の目を瞬かせる。

「あれ、もしかして最近掃除してくれてるの、君?」

「あ、はい! すみません、勝手に」

 ううん、と首を振って菊池さんが俺の顔を見た。誰だっけ、とばかりに眉を寄せるのに姿勢を正して名乗る。

「ユー・ステップ・アクターズ所属、野垣のがき陽弘あきひろです!」

 オーディションのために何度も練習した名乗りに菊池さんが笑い出す。

「そりゃ、うちの子だよね、ここにいるんだもん」

 はっとする。声優の卵に過ぎない預かり声優にとっては、オーディションを割り振ってくれるマネージャーは直属の上司みたいなものだ。せっかく話す機会が得られたのに、格好がつかなさすぎてがっくりくる。

「ありがとね。気が回るっていうのはいいところだよ。現場でも重宝されやすくなるしね」

「ありがとうございます!」

 思わず声が大きくなる。

「野垣……野垣陽弘くんね。ん。了解」

「はいっ! よろしくお願いします!」

 勢いよく頭を振り下ろすと、顔の両脇でぶんと風が鳴った。視界の端に、近づいてくる先輩が映る。慌てて頭を下げたまま打ち合わせスペースから後退りして下がり、雑巾をゆすぎにいった。

 しばらく先輩やマネージャーに挨拶をして時間を過ごし、午後からバイトに出かける。二十三区内の近距離引っ越しだけに早めに作業は終わったものの、二月の十八時過ぎとあって外に出ると日はもうとっぷりと暮れていた。

 引っ越しセンターを出て、近くのレンタル自転車スタンドまで急ぐ。都内なら電車を使うよりもレンタル自転車のほうが安いし、電車事故に巻き込まれることもなく、健康にもよく、声優にとって一番恐ろしい遅刻をする可能性が低くなる上に、乗って帰る必要がないから飲み会に誘われた時にもすぐに応じられる。そうラジオで語っていたのは、俺が一番尊敬する声優のまとえいさんだ。それを聞いて以来、俺も都内の移動には自転車を使うようになっていた。

 サドルに跨がる前に切ったままだった携帯の電源を入れると、事務所からメールが一通届いていた。『オーディションの開催日時について』という件名に息を飲む。震える指先でメールを開くと、そこには確かに新規アニメのオーディションの日時が書かれていた。

「よっしゃあああッ!」

 右手を握り締めて月のない空に吠える。今の俺にとっては、オーディションひとつだってめったにない大きなチャンスだ。絶対に獲得してみせる。興奮のままにペダルを大きく踏み込む。一気に加速した自転車に冷たい風がびゅうと吹きつけ、火照った頬を心地良く冷ましてくれた。



 オーディションまでの一週間を、俺はみっちりと練習に費やした。

 養成所でやっているオーディション向けのワークショップに申し込むと一万円が飛んでいき、今週は一日二食になることが決定したが、合格には代えられないと涙を飲んで空腹に耐える。それでもくじけそうになった時は、大和さんの声を聞いた。

 大和さんは俺が声優を目指すようになったきっかけで、俺の憧れだった。まだ三十二歳なのに、抜群の演技力で若手ナンバーワンと言っていい人気を誇る。

 俺は子どものころから水泳の選手を目指していたけれど、高校三年生の夏、ずっと抱えていた肩の故障が決定的になり、出場が決まっていた高校最後のインハイに出られなくなった。家にこもっているしかない夏には配信でアニメを眺めるくらいしかできなくて、だけど何を見ても、ストーリーもキャラクターも頭に残らなかった。それなのに彼の声は、俺の中に飛び込むように響いてきた。

 その時俺が見ていたのは、高校陸上を描いた『トラックビート』というアニメだった。

 大和さんが演じる遠藤航は、怪我で競技を諦め、それでも陸上から離れられずにマネージャーをしているキャラだった。一年生として入部してきた主人公に励まされてまた陸上を始め、長距離リレーの選手が怪我をして大会への出場ができなくなった日、一度だけ大会に出て陸上部の危機を救う。だけど無理が祟って怪我が悪化し、二度と走れるかわからない体になってしまった遠藤に、主人公は自分のせいだと泣く。だけどそこで、遠藤は言う。 

『俺たちはさ、夢を見ちまうんだよ。走れなくなったって、それでもまた何かになろうって歩き出しちまうんだ』

 その声は、諦めと、希望と、悲しみと、気遣いと、自嘲と、色々なものが入り混じっているのにまるで世界に大好きだと告げるように優しく、柔らかに響いた。そうして数ヶ月後、大学のリハビリテーション学部に合格した遠藤の姿がちらりと描かれ、その後のスピンオフではトレーナーになった遠藤が現れる。

 俺はその声を聞いた途端、馬鹿みたいにわんわん泣いた。

 インハイでいい成績を残せたらと、大学への推薦入学の声もかかっていた。もしかしたらこの先、オリンピックにも出られるかもしれなかった。そんな夢が、怪我ひとつで全部がなくなった。自分のすべてが無駄になったような辛さと、なんで俺ばっかりという恨みがましい気持ちと、これでもう練習しなくていいんだという安堵と、そんな自分を責める苛立ちや怒りが全部許されたような気がして泣いて泣いて、ばたっと寝て丸一日眠って目が覚めた時には、俺の次の夢は声優になることになっていた。

 だけど俺はその前から、『トラックビート』を漫画で読んでいた。面白いと思っていた。だけど、ここまで心を動かされることはなかった。俺が泣きじゃくるほどに感動したのは、大和さんの声がひどく生々しい、だけどなんと言い表していいのかもわからない感情を声に乗せ、遠藤航をくっきりと描き出したからだった。

 大和さんの声は、物語を運んでくる。

 よりくっきりと、生々しく、だけどはっきりと言葉にはならないまま、俺たちの胸にぼんと物語を投げ込んでくる。

 なんてすごいんだろう。なんて格好いいんだろう。そう思ったのは俺だけではなかったようで、アニメ化してから遠藤航の人気は爆発し、脇役に過ぎなかった彼が主人公が主役のスピンオフまで描かれるようになった。

 当然新人だった大和さんの評価も爆上がりで、今となってはアニメのレギュラーはもちろん、ゲームでも、洋画の吹き替えでも、ナレーションにだって大活躍し、彼の声が聞こえない日は一日だってない。

 どんな役をしていたって、大和さんの声は求められている位置にばしっとハマるだけではなく物語の世界を広げた。俺もこんな声優になりたい。そう思って声優を目指した。いつか大和さんに会いたい。共演したい。そう思って頑張るようになった。

 もしかしたら、このオーディションがその第一歩になってくれるかもしれない。

 借り出してきた自転車のサドルをぐっと踏み込む。大井町のアパートからスタジオまでは直線で十キロちょっと。自転車なら一時間もかからない。目黒川沿いに自転車を乗り入れ、一気にスピードを上げた。春には桜並木の下に屋台が並び、のんびりとお花見客がそぞろ歩く一車線道路は二月の今は行き交う人の姿も少なく、冷たい風が吹き抜ける川縁を走り抜けるのが気持ちよかった。


 オーディション会場のスタジオは、新宿とも中野とも渋谷とも言えないあたりにあった。丸ノ内線と都営大江戸線と京王線、三路線が使えはするけれどどの駅も微妙に遠い。そのせいか国道沿いのレンタルスタンドは大きく、他ではあまり見たことのないスポーツタイプや、二人乗りのタンデム自転車まで取り扱っていた。

 スタジオの入ったビルの前で深呼吸をする。

 白とグレーで塗り分けられたビルは道路に面した壁がすべてガラス張りで、一階にはカフェ、二階には美容院が入っていた。観葉植物がたくさん並んだカフェの入り口の脇に、スタジオのある地下に続く階段が作られている。『amber studio』と書かれた看板を確認し、カンカンと高い足音の響く鉄階段を下りていった。

 扉を開いてすぐに、居心地の良さそうなロビーがあった。形の違うブラウンとライトベージュのソファがいくつも並び、壁際に作られたカウンターにはレザー製のスツールが並んでいる。カウンターには、小さな冷蔵庫とコーヒーマシンが置かれていた。

 鉄階段に沿った壁は一面が大きな窓になっており、地下にも関わらず晩冬の冴えた日差しが明るく降り注いでいる。なのにそこには、ひどく張り詰めた空気が漂っていた。

 オーディションの開始を待つ声優たちはそれぞれ離れてソファに座り、台本を読んだり、頭につけたヘッドセットを抱えるようにして何かを聞いていたりと準備に没頭している。まだ打ち合わせ中なのか、ガラス越しのミキシングルームのスタッフさんたちはこちらに目を向けることもなく、眉間に皺を寄せて何事かを話し合っていた。

 準備をしている人たちの邪魔にならないように静かにミキシングルームに向かい、扉をノックする。はい、という返事に「失礼します」と声をかけて扉を開いた。

「ユー・ステップ・アクターズ所属、野垣陽弘です。本日はよろしくお願いします!」

 スタッフさんたちに深く頭を下げる。

 声優の仕事は、挨拶に始まり挨拶に終わるとよく言われる。なんせアニメ製作というのは、絵や音楽、声、演出、プロデュースと、さまざまな専門家によるチームプレイだ。だから演技力と同じくらい一緒に仕事をしたいと思ってもらえる人間であることが重要で、そのためにはまず気持ちよい挨拶が大事だというのは養成所で一番初めに教えられることだった。

「よろしくお願いしまーす」

 スタッフさんたちが挨拶を返してくれる。真ん中に立っていた男性が、のっそりとした動きで俺に目を向けた。三日くらい寝続けたライオンのたてがみのように爆発した髪がわさわさと揺れる。

「音響監督の山倉です。よろしく」

 抑揚のない低い声に、びしりと背筋を伸ばした。音響監督というのは、作品の音のすべてに責任を持つ人だった。誰を声優に選ぶかというのも、監督とプロデューサー、そして音響監督が相談して決めることが多い。

「は……ッ、はい! オーディションに呼んでいただき、ありがとうございます! 失礼しました!」

 もう一度頭を下げて、邪魔にならないうちに退散する。山倉さんは瞼の重たげな三白眼を眇め、値踏みするようにこちらをじっと見ていた。

 すり足で後退ってロビーに戻る。後は呼ばれるのを待つだけだ。事務所に到着したとメールを送り、ぽっかりと空いていた中央のソファに腰掛ける。途端に地震のような揺れを感じた。

 カタカタカタと規則的に震える動きに何が起きているのかとあたりを見回すと、右隣に座った男が激しい貧乏揺すりをしていた。余程緊張しているのか、目をカッと見開いて台本に見入り、床に突っ張った右足の先を揺すり立てている。

 視線に気付いたのか、そいつがはっとこちらを向いた。

「あっ……、あ、すみませ……っ!」

 声が震えている。青ざめた顔は、まだ十代半ばに見えた。

「大丈夫、気にしないでいいから!」

 思った以上の若さに慌てる。中学生か、高校生か、それがこんなにピリピリした雰囲気のところに一人で来たら緊張もするだろう。

「はい……すみません……」

 俺の声が大きかったせいか、今度はしょんぼりしてしまった。年々声優の若年化も進んでいる。青ざめた顔を放っておけずに笑いかけた。

「オーディション、緊張しますよね」

 少年は少し間を空けた後、こくりと頷いた。

「ほんと、緊張、しちゃって……」

 強張った頬がうまく動かず、声がこもってしまっている。これじゃ実力を出そうとしても難しいだろう。トートバッグを探り、赤と金色の包装紙に包まれたのど飴を差し出した。

「良かったらどうぞ」

「あ、マヌカ梅のど飴……これ、この前大和瑛士さんがラジオで言ってた……」

「そうそう! あれ聞いて探したんだけど全然見つからなくってさ、あっちこっちのコンビニ回ってようやく見つけたんですよね!」

 大和さん絡みだと気付いてくれたのが嬉しくてまくしたてる。少年がぱちぱちと瞬いた。

「そんなの、もらっちゃっていいんですか」

「ぜひぜひ! めちゃくちゃ喉の通り良くなるんで!」

 ぺこりと頭を下げて少年が飴をひとつ取る。二人並んで、金色の丸い飴を口に放り込んだ。甘酸っぱさが口中に広がり、きゅっと頬がすぼまる代わりにじんわりと喉の奥が緩む。

 しばらく黙って飴を舐めていると、少年が静かに息を吐き出した。床に突っ張っていた足をぎこちなく伸ばし、照れた顔で笑う。

「ありがとうございます」

「や、ぜんぜん。お互い頑張りましょう!」

 ふと視線を感じて目を上げる。打ち合わせが終わったのか、ミキシングルームの二重ガラスの向こうから山倉さんがじっとこちらを見ていた。


 それからすぐにオーディションが始まった。アフレコブースに入ると、二十人ほどが入れる室内には三面の壁に沿ってソファが並び、正面の壁にかけられた四枚のモニターの前にはそれぞれ高さの違うマイクが並べられていた。一番高いマイクの前に立ち、開脚スクワットの要領でぐっと腰を落とす。

「ユー・ステップ・アクターズ所属、野垣陽弘です。ゼノムをやらせていただきます!」

 ミキシングルームに目を向けて再度名乗る。山倉さんがどうぞ、と言うように頷いた。

 大きく開いた内腿に力を入れる。ほとんど空気椅子のような姿勢だけれど、無駄にでかい身長が災いして、こうでもしなければマイクと高さが合わないのだから仕方がない。

 モニターに映し出された絵の中のゼノムを見つめる。紫色の髪に丸眼鏡がちょっと怪しい商人めいていた。

 参加させてもらえたのは、少年漫画誌で連載中の『翠燦すいさん破砕斬ブレイカー』のオーディションだった。

 平和な生活をしていた主人公の少年が敵に襲われたことで異能に目覚め、学園に通いながら敵と戦うファンタジー世界を舞台にした王道異能バトルだ。

 期待を外さないストーリー展開は文句なしに面白く、キャラクターは格好良く、モブだと思っていたキャラクターの一言が後々伏線だったと明かされてびっくりもする、そんな漫画は巻を重ねるほどに人気を増して、もう二十巻が刊行されている。つまり、長期アニメになることが約束された作品だった。

 ゼノムは主人公の師匠ではあるけれど、実は世界の平和よりも燃やされた故郷と恋人の復讐を望んでいる男だ。だけどそれを、普段は飄々としたうさんくさい言動の下に隠している。だから笑顔の中にも含みを持たせ、陰を匂わせた。

「なんて顔してんの。生きてるのが信じられない? 正義の味方、登場ー……って、ま、そんないいもんでもないけどね」 

 登場、戦闘、かつての恋人との思わぬ再会。指定されたセリフを言い終えて目を上げると、山倉さんと目が合った。爆発したような髪が揺れ、厚い唇が皮肉げな笑みを浮かべる。

「君さぁ、大和くん目指してんの?」

 見透かされて、かっと頬に血が上った。

「……ッ、勉強させてもらってます!」

 そんなに大和さんリスペクトがダダ漏れていただろうか。恥ずかしさに声が大きくなる。山倉さんがふんと鼻を鳴らした。

「ま、いいけどね。次、六歳くらい老けさせてみて」

「ハイッ!」

 即座に気持ちを切り替えてマイクに向かう。さらに年を取らせて、今度は若くして、怒ってみて、笑って、地声で……。いくつかのオーダーを終えると、山倉さんは不意に興味をなくしたように視線を外した。

「はい、お疲れさまでした」

「ありがとうございました!」

 振り抜くように頭を下げる。顔を起こすまでの一瞬で、今度こそ役をもらえるようにと全世界の神様に全力で祈っていた。

 


 オーディションの結果が出たのは三日後だった。今までは一ヶ月も受かったか落ちたかと思い悩んではメールを見たり、電話を待ち構えたりしていたのが嘘のようにあっさりと電話がかかってくる。

 ちょうどバイトを終えてアパートに戻ってきたところで、どきどきしながら電話に出ると菊池さんの声がした。

「残念でいい知らせがあります。聞く?」

「え、え……ッ、それどっちなんですか!」

 あたふたすると、面白そうに笑われる。だけど答えは待つほどもなくやってきた。

「この間のオーディション、番組レギュラーに受かりました。おめでとう」

 一瞬、頭が真っ白になった。

「……ば、番組レギュラーッ?」

「三月十八日から毎週火曜、十時からアフレコ。スタジオはオーディションと同じところね。遅れないで」

「は、はい……っ」

 淡々とした指示に慌てて頷く。

番組レギュラーというのは、毎週アフレコに参加してモブを担当する声優のことだ。大人から子どもまでさまざまな役を演じる必要があるし、先輩たちの演技を間近に見られるからものすごく勉強になるし、経験も積める。最初は番組レギュラーで入って、音響監督やスタッフさんに覚えてもらって他の機会に役をいただけた、なんていうのもよくあることだった。

 ゼノム役に落ちたのは残念だけれど、番組レギュラーに呼んで貰えたのはものすごく嬉しい。それでもやっぱり気になって、声をひそめて尋ねていた。

「あの……ゼノムって誰になったか知ってますか?」

「えっと、大和瑛士さんみたいだね」

 世界が止まった。

「……野垣くん? おーい、どうかした?」

 菊池さんの声が聞こえているのに動けない。ただぶるぶると、腹の奥底から震えがせりあがってきた。

「や……っ、や、や、や……ッ、大和さんッ? 大和さん、やま……っ、大和さんッッ?」

 絶叫する。途端、両側からアパートの壁をどんと殴られた。元は下宿屋だった古い木造アパートの壁は咳払いでさえ透過する。「うるせーぞ!」と怒鳴られて慌てて謝った。

「すみません……ッ!」

 声ごと体を縮める。耳に押し付けた携帯から警戒に満ちた声がした。

「もしかして、ファンなの?」

「はっ、はい! 大和さんは俺が声優を目指したきっかけで、憧れの人で、ずっと大和さんみたいになりたいと思ってて、いや俺なんかが大和さんの真似だってするのは僭越だってわかってるんですけどそれでも……っ」

「ストップ。黙って。止まって」

 諫める声に、ぴたっと動きを止めた。はあ、と菊池さんが溜息を吐く。

「それ、現場で出さないようにね」

 ぴしりと釘を刺されてハッとする。

「す、すみません、そうですよね、ファンの行動は大和さんの評価にもなりかねないし大和さんに気持ち悪い思いさせたら申し訳ないし演技の邪魔なんて絶対したくないし、わかりました大和さんファンとして弁えた行動を取ります……ッ!」

「え……」

「大和さんはめちゃくちゃプロ意識が高いし、現場の空気を大事にするし、まわりに気を遣うタイプの人だからファン丸出しで行ったら迷惑かけるし嫌われるかもしれないですよね、なにより大和さんファンの民度はそんなもんなのかと共演者の方々に思われるとか耐えがたい! 推しの評判に傷つけるとかありえない絶対許せませんだから安心してください……っ」

 ひたすらまくしたてると沈黙が流れた。

「菊池さん?」

「……ああ、うん。わかってるならいいけど。本当に、気をつけてね」

「はいっ、もちろんです!」

 戸惑った声が、少しずつ冷静さを取り戻してゆく。俺の行動は、事務所の評判にも関わる。注意しなければと頷く。

「それから君、思ってること全部口から出す癖改めて。興奮しないように。わかった?」

「が、頑張ります……っ!」

 もう一度釘を刺されて、決意を込めて深く頭を下げた。



 台本を何度も読み込んで一回目のアフレコに向かったのは、目黒川の桜がわずかに蕾を膨らませ始めた三月半ばのことだった。

 全速力でペダルを漕いでも、頬に当たる風が柔らかい。十時開始の収録に遅刻しないように早く出発したのと、嬉しさと興奮でスピードが出ていたのとで早く到着しすぎ、自転車を返して時計を見るとようやく九時になったばかりだった。

 スタジオを覗き込んでもロビーにはまだ誰もおらず、音響スタッフさんたちだけがミキシングルームに集まっている。そちらに挨拶をして呼吸を整えると、俺は入り口のすぐ近くに立って今日から同じ座を組む先輩たちを待つことにした。

 声優業界には、必ず新人のほうから先輩一人一人に挨拶するという不文律がある。どきどきしながら階段を見上げていると、最初にやってきたのは還暦を超えてもいまだにいくつもレギュラーを持っている大御所声優、小島さんだった。

 階段を下りてきながら俺を見ると驚いた様子で瞬き、にやりと唇を歪ませて笑う。半白の髪をオールバックに撫でつけた姿はいかにも知的なイケオジなのに、銀縁眼鏡の向こうの目は悪戯小僧みたいな楽しそうな色を浮かべていた。

「おはようございます! ユー・ステップ・アクターズの野垣陽弘です。今日からよろしくお願いします!」

「やーよろしく。小島だよ。このジジイよりも早く来る子がいるなんてなあ。君、実はジジイだったりする?」

「え、や、あの、二十三歳です……っ!」

 ぐいんと首を伸ばして顔を覗き込まれる。慌てる俺に笑うと、小島さんはさっさとロビーに入って悠々とコーヒーを淹れて飲み始めた。緊張の欠片もない素振りにさすが大ベテランだと感心する。

 それを皮切りに、次々に先輩声優たちがやってきた。まだ一話目で参加人数は少ないが、雑誌や動画で見ていた人に会えて興奮する。特に今回の主役のリベルを務める和田さんが階段を下りて来た時には、カラフルなワンピースを着ていることもあって眩しさに何度も瞬いた。

 和田さんは熱血な少年声に定評のあるベテランの女性声優だ。俺が子どものころから活躍しているのに、いまだに男性の中に混じっても見劣りしないどころか飛び抜けるほどの声量を誇っている。それなのに、俺の肩までもない小柄な女性でびっくりした。

 挨拶すると、彼女は俺を見上げて首が痛いとばかりにうなじを撫でて笑った。

「よろしくね。それにしても君、おっきいねぇ!」

「す、すみません。できるだけ近づかないようにしますね」

「やっだー。いいわよー、もー」

 優に三十センチは身長差があるだろう。近づきすぎると首を違えさせてしまいそうでじりじり後退ると、和田さんは笑いながらぱたぱたと右手を振った。

 ロビーに人が増えていく。けれど、収録一回目とあって皆緊張しているのか、挨拶の声は聞こえても会話らしい会話は聞こえてこなかった。

 また、頭上から影が差す。今度は誰が来たのだろうと顔を上げる。だけど逆光を背負った細身のシルエットを見た途端、ひゅっと喉が鳴った。

 カン、カン、と高い足音を響かせて降りてくるその人は、グレーのニットキャップを目深に被り、ミラーをかけたサングラスで顔を隠していた。ゲーミングマシンのような黒地に蛍光緑の縁取りのついたウインドブレーカーも、ちょっとダボついた黒いカーゴパンツも、まばらな不精ひげもどことなくガラが悪くて怪しげで、今まで写真で見ていたスマートな格好良さとはかなり雰囲気が違っている。

 だけど、あれは。

 ルーズなシルエットの服の中に浮かび上がる細いウエストと、ストンとまっすぐに落ちた腰回りのラインは。

 ドアが開く。俺は、呆けたようにその人を見つめていた。サングラスの向こうで、色っぽいタレ目が面白そうに細まる。何の音も、聞こえなかった。沈黙が挨拶するのを待ってくれているのだと気付き、慌てて頭を下げる。好きだと表に出してはいけない。ファンをあからさまにしてはいけない。何度もシミュレーションを重ねて挨拶の練習もしてきたのに声が震えた。

「ゆ……ゆ、ゆ……ッ、ユー・ステップ・アクターズしょぞ……っ、野垣、あああ、あきひ、です……ッ!」

「アストプロデュースの大和瑛士です。よろしく」

 ラジオで何度も聞いた覚えのある、ちょっとかすれた素の声が鼓膜を擽る。

 大和さんだ。大和さんだ。大和さん。

 叫び出しそうだった。跳ね上がりそうだった。そんな自分を全力で抑え込んで身動きもできないでいる俺の脇をすっと通って、大和さんがロビーに踏み込んでゆく。その姿を不思議そうに見た先輩たちの何人かが、はっとした様子で立ち上がった。

「え、あ、大和さん?」

「マジで? 気付かなかった」

「なに、どうしたの。事務所変えてイメチェン?」

 わあっと取り囲まれていく。

 大和さんが事務所の移籍を発表したのはつい最近のことだ。年末にインフルエンザにでもなったのか数週間の休養を取ってそのまま移籍になったけれど、声優にはよくあることだし、新しい所属先は以前のところよりもずっと大手だったから、仕事の幅を広げるためなのだろうと言われていた。

 今までの大和さんのファッションは、舞台挨拶や配信のみならず、プライベートフォトだと出される写真もアイドルばりのキレイめなコーデばかりだったけれど、もしかしたらそれは事務所に指示された営業用のスタイルだったのかもしれない。本当はカジュアルな服装のほうが好きなのかな、と聞き耳を立てたけれど、大和さんは答えずにすっとサングラスを外すと両手を広げてみせた。

「どうよ、似合う?」

 自慢げにヒゲの生えた顎を撫でる仕草は、バランスの取れた細身もあってモデルのようにさまになっていた。だけど、賛否両論の声が上がる。

「ちょっと小汚くなりすぎじゃない?」

「えー、似合うと思うけどなあ」

「ヒゲはともかく、そのパーカーは正直かっこ悪いと思う」

「これ、グッズなんだけど」

 大和さんがくるりと回って背中を見せる。そこには、最近彼が出演したサイバーパンクなバトルアニメのタイトルが蛍光緑でデザインされていた。大和さんを囲んでいた一人が深く頷く。

「ならよし」

「変わり身早ッ」

「出演作のグッズを大事にする声優に悪い奴はいない」

「お前がグッズ好きなだけだろ」

「まーでもわかるよ。出演作を大事にするってことは、ファンを大事にするってことだ」

「いいこと言ってる」

 ばらばらに座っていた先輩たちが大和さんを中心に集まっていく。部屋の空気が暖かくなったように感じた。わいわい喋っているところに、悠揚迫らぬ足取りで小島さんが近づいてゆく。

「よ、大和くん、今回もよろしくね」

 気やすい挨拶に、大和さんはわかりやすい苦笑いを浮かべた。

「お手柔らかにお願いしますよ、ほんとに」

「まあまあ。君がいるならさあ、僕が多少暴れたってなんとかなるでしょ」

 まるで悪ガキのような顔で笑う。小島さんは業界の中でも有名なアドリブ大王だ。それもとんでもない変化球を綿密に準備して繰り出してくるから、周囲は合わせるために四苦八苦させられる。大和さんが呆れ顔で頷いた。

「そりゃ、なんとかはしますけどね」

「頼りにしてるよ!」

 穏やかだが自信に満ちた声に、小島さんがなおさら嬉しそうにバシバシと大和さんの背中を叩いた。いてて、と声を上げる大和さんに笑いが広がる。

 大好きな人が、憧れの仕事について楽しそうに喋っている。ガラス越しに差し込む冬の日差しを浴びた大和さんは、皆に囲まれてキラキラ輝いているように見えた。思わず口をぽかんと開けて見ていると、突然大和さんがこちらを向いた。ばちっとぶつかった視線に息を飲む。

 まずい。見つめすぎたかもしれない。慌てて顔を逸らし、平静を装おうと顔に力を込めるけれど、普通の顔がどんなものなのかすぐわからなくなった。頬がヒクヒク震える。視界の隅で、大和さんが怪訝そうに眉を寄せた。視線を避けたくてじりじり下がると、扉の横にあった棚に背中がぶつかった。

「いて……ッ」

 棚に置かれていたキャンドルが落ちてきて頭に当たる。大和さんが目を見張った。

「おま、だいじょ……」

「大丈夫です! 大丈夫ですから!」

 両手を立てて近づこうとするのを阻止する。あたふたと落ちたキャンドルを拾うと、大和さんが首を傾げた。やばい。大和さんがこちらを見ているだけで心臓がバクバクと脈打つ。顔が熱い。こんな顔を見られたら、きっとファンだと一発でばれてしまう。

 階段を下りてくる足音に、救世主だと全身で振り向いた。大和さんに背中を向けて、扉を開こうとする人影にがばっと頭を下げる。

「ユー・ステップ・アクターズの野垣陽弘ですッ? よろしくお願いしますッ?」

 慌てすぎてほとんど絶叫になった。ロビーに入ってこようとしていたスーツ姿の小太りの男性がびくっと体を竦めて足を止める。沈黙が広がった。

「……あ、アストプロデュースマネージャーの、佐々木です。よろしくお願いします……」

 困った声が応じる。え、と驚いて顔を上げるのと、大和さんが声をかけるのが同時だった。

「佐々木さん。わざわざ来てくれたんですか。すみません」

 申し訳なさそうな声なのに、音の芯がピリリと張り詰めたように聞こえた。佐々木と呼ばれた男性が片手に提げてきた紙袋を持ち上げてみせる。

「うん、初回ですし。これ、差し入れです。よかったら皆さんで……」

「恐れ入ります」

 差し出された紙袋を受け取って、大和さんが頭を下げる。けれど、その言葉遣いは自分の事務所のマネージャーに向けるには丁寧すぎるように聞こえた。紙袋を傍らのテーブルに置いた大和さんを、佐々木さんがちらりと上目にうかがう。二人の間には、どこか遠慮がちで、緊張した空気が流れているように感じられた。そこはかとない違和感に眉を寄せた時、ミキシングルームの扉が開き、山倉さんたちが姿を現した。


 収録開始の挨拶を終えると、監督やプロデューサーはすぐにミキシングルームに下がっていった。音響監督の山倉さんだけがブースに残り、ディレクションと呼ばれる今日の収録部分についての説明や、台本の変更点の伝達を始める。慌ただしく台本を修正すると、すぐにリハーサルが始まった。セリフがなくなったり増えたり、最初の台本から相当の変更が発生しているのに先輩たちには動揺した様子もない。

 リハーサルでは声優それぞれが準備してきた演技を披露し、音響監督が作品のイメージに合わせて調整していく。

 小島さんは敵役を演じる登場シーンに高笑いの代わりに怒濤のような長セリフを差し込んでオッケーされ、主人公のリベル役の和田さんは一度吠えた後に出された「熱血六十パーセントで」という指示に合わせてすっと爽やかに声を切り替え、その後もトーンを揺らさずに演じ切った。誰もがあまりにもプロフェッショナルだったが、やっぱり大和さんがマイクの前に立った瞬間、ごくりと喉が鳴った。

 どこにも張り詰めた緊張感はないのに、まっすぐにマイクに向き合った背中がすうっと大きくなる。モニターに、オーディションと同じゼノムの姿が映った。

「なんて顔してんの。生きてるのが信じられない? 正義の味方、登場ー……って、ま、そんないいもんでもないけどね」

 登場シーンの一言を、大和さんは意外なほど軽やかに演じた。友だちを庇って怪我をした主人公を「やるねえ」と認めて面白がるような笑いを滲ませ、リベルから安堵の表情を引き出す。

 それでもゼノムの声にはうっすらと胡散臭さが漂っていて、そんな男が急に現れたことをリベルは怪しみ、だけど村を守ってくれた強さに憧れて、自分が手にした謎の能力について知っていそうなことも気になって、導かれるまま学園に足を踏み入れる。キャラクターの行動を、ゼノムの声が、大和さんの演技が納得させていく。

 彼はいつもそうだった。当然いい声だし、演技力もとんでもなく高い。だけど大和さんはいつもその力を、物語をくっきりと描き出し、架空の世界を確かにするために使っていた。現場で人気なのも当たり前だ。彼が世界を支えるから、キャラクターたちが楽しげに動きだす。自由に演じてもいいんだと、初めてのリハーサルなのに皆の演技が弾み始める。大和さんは誰がどれだけアドリブを入れても、楽しそうに受け止めて発展させていった。それぞれのキャラクターがくっきりと浮かび上がり、物語がぽんぽん弾んで転がってゆく。

 なんだか泣きそうだった。マイクの前に立つ人たちがひどく眩しい。握り締めた台本がくしゃくしゃによれた。頭の中に一つのセリフがぐるぐる回る。今日俺に与えられた、たったひとつのセリフ。その一言で、俺もこの世界を描き出す役に立てるだろうか。

 改めて台本に目を落とす。こんなセリフが出るってことは、キャラクターにとっては主人公たちの能力も、敵も初めて見るはずだ。平和だった世界を現し、それが壊れてしまった衝撃を視聴者に伝える。それがきっと俺の役目のはず……!

 タイミングを読んで立ち上がる。左端の一番高くセッティングされたマイクに素早く、だけど静かに歩み寄った。ぐっと腰を落とし、農民Aのセリフを高らかに放つ。

「な、なぁんだったんだあッ! さっきの爆発はぁ!」

 ボン、と音を立ててミキシングルームのマイクが入る。山倉さんの声がした。

「そういうのいいから。普通にやって」

「……はい…………」

 冷静な指示にしょぼしょぼと肩を落とす。普通とはなんて悩む隙もなく、ただテンションを抑えてリテイクを録る。じっとこちらを見ていた山倉さんが何も言わずにふっと視線を外した。諦められたのか、オッケーだったのかもわからない。邪魔にならないように急いで下がると、前に出ようとしていた大和さんと擦れ違った。ぽん、と軽く肩を叩かれる。

 ばっと振り返ると、大和さんがちらりと笑った。すぐに視線を前に向けてモニターに向き直る。

 大和さんの手が触れた肩が熱い。

 励ましてくれた。大丈夫だと力づけるような笑みが脳裏に焼きつく。明らかに新人だろう俺が滑った瞬間にフォローを入れてくれる、そういうとこ、めちゃくちゃ大好きです、なんて叫びたくなるほどの熱が脳天まで駆け上がり、身悶えしそうになる。沸き立ちそうな顔を両手で押さえ、じたばたと暴れそうになる足を必死に押さえた。だけど、興奮に飲まれて大和さんの演技を見ないのはあまりにももったいない。がばっと顔を上げると、マイク前から退こうとしていた大和さんがふと眉を寄せた。どうしたんだろう、と視線を追って振り返る。

 大和さんは、ロビーにいる佐々木さんを見ていた。冬だというのに額に滲む汗をひっきりなしにハンドタオルで拭いながら、心配そうに大和さんを見ている。大和さんが安心させるように笑みを浮かべ、ひらひらと手を振った。佐々木さんもちょっと笑って頷き返す。けれど、眉間にできた皺は解かれることはなかった。

 一体どうしたんだろうか。もしかして、まだ体調が優れないんだろうか。だけど大和さんはすぐに壁際のソファに腰を下ろし、落ちついた表情でモニターに目を向けていた。


 リハーサルが終わると再度山倉さんからのディレクションがあって、改めて本番の録音に入った。本番ではなんとか落ちついてテンションを控え、リテイクを食らうことなく終わらせられた。だけど二時間収録しても、まだ三十分番組の半分までしか終わっていない。後半は昼休憩の後と言われた途端、ブース内の空気がほっと和らいだ。皆が安心した様子で喋り出す。

「おーつーかーれー!」

「小島さん、あのアドリブはさすがに無茶でしょ!」

 途中でまるっとセリフを改変した小島さんに和田さんが突っ込みを入れる。

「いやー、せっかく大和くんがなんとかするって言ってくれたしね。張りきっちゃったよ」

 飄々と小島さんが笑った。

「ダメだこの人またやる気だ」

 賑やかなお喋りを聞きながら扉を開く。すうっとロビーから涼しい風が吹きこんできて、ブース内に熱気がこもっていたことに気付いた。

 ロビーのテーブルの上には、お菓子の箱が二つ載せられていた。進行のスタッフさんが声をかけてくれる。

「大和さんから差し入れいただきましたー。皆さんよろしければどうぞ」

 箱の中には、スティック状になったリンゴとチーズのパイがみっしりと並んでいた。お洒落な上に食べやすく、なるほど、現場の差し入れというのはこういうものを持っていけばいいのかと参考になる。先輩たちが「いただきます」と挨拶して取っていった。けれど、初回で人数が少ないこともあり、全員が取っても片方の箱には手がつけられないままだった。それを見ていた大和さんがくるりとこちらを向く。ばちっと目が合って、跳び上がりそうになった。

「野垣」

「ぅひゃいッ?」

 当たり前のように名前を呼ばれて、声がひっくり返る。ちょっと眉を寄せた大和さんに手招かれて、おっかなびっくり腰が引けながら近づいた。

「これ、持って帰れよ」

「ぇえ……ッ?」

 手つかずの箱を差し出されて驚く。慌ててぶるぶると首を振った。

「い、いや、そんな、俺、ひとりでなんて、そんな……ッ!」

「事務所に持って帰ってもいいしさ」

 これがアフレコあるあるで良く言われる『新人に差し入れのお菓子持って帰らせがち』って奴かと感動するが、大和さんとの距離の近さに動揺して後退った。このまま受け取ってしまったら、嬉しさと興奮で大和さんがお菓子をくれた嬉しい音頭でも歌って踊り出してしまいそうだった。どうにか落ちつこうと深呼吸をする俺に首を傾げて、大和さんがさらに箱を差し出してくる。とん、と腹に当たったそれに反射的に手が上がる。指先に、大和さんの手が触れた。

「うわぁああッ! す、すみませんッッッ!」

 ひとっ跳びに跳び下がる。受け取り損ねた箱がぼすんと音を立てて落ちた。床に転がったパイに慌てて床に這いつくばり、両手で掻き集める。

「すみません……ッ! あ、あの、おおおお、落ちたのは俺がもらいますんで、すみません、ごめんなさ……っ」

「あのさ」

「……ひぃっ」

 間近で大和さんの声がした。目の前にしゃがみ込んで声をかけられて、あまりの至近距離に悲鳴を上げて飛び退く。大和さんがぎゅっと眉を寄せて俺を見た。

「お前、なんでそんな怯えてんの? 俺、なんかした?」

 心配げに尋ねられて目を見張る。ぶるぶると首を振ると、やってきた小島さんが大和さんの肩をポンと叩いた。訳知り顔で俺を視線で示す。

「まーまー、大和くん。しょーがないんじゃないかなあ、ここはさあ」

「小島さん?」

 大和さんが振り向く。小島さんがにやりと笑みを深めた。

「彼さぁ、ゼノム受けて落ちたんじゃないの? 役競って負けたら悔しいよなあ、意識しちまうよなあ、役者だもんな」

 わかるわかるとばかりに頷きながら話す。そうなのか、とこちらに目を向けた大和さんに床に膝をついたまま慌てて首を振った。

「ち、違いますよッ! い、やあの、ゼノム受けたのは本当ですけどっ! それは、あの、自分の力不足ですし、大和さんのゼノムはそりゃあもう納得っていうかそう来たかっていうかそうだよなあっていうかで……ッ!」

「じゃ、なーんでそんな怯えたウサギみたいにぴょんぴょこしてんだい」

 完全に面白がっているニヤニヤ笑いを浮かべて小島さんが尋ねる横で、大和さんがじっと俺を見つめている。ぐうっと息を詰めるが言い訳のひとつも思いつかず、観念して叫んだ。

「ファンなんですよ……ッッ?」

 力が入りすぎて、床についた手が震える。

「俺、めちゃくちゃめちゃくちゃ大和さんのファンでッッ! 大和さんに憧れて声優になってッッ? でも一回もイベントのチケットも当てられたことなくて、生大和さん見たこともなくって? いつか仕事してたらお会いできるかなと思ってたけど、突然すぎてッ! 事務所からも現場でファン丸出しで騒ぐな嫌われるぞってちゃんと注意してもらってたし俺も絶対騒ぐまいと思ってたんですけどもう生の威力あまりにもすごくて今も目を合わせたらさっきの大和さんの演技の格好良かったところ三十分でも語り続ける自信があるしでもそんなことしたら絶対気持ち悪いと思われるし引かれるし嫌われたらめちゃくちゃ困るしなにより迷惑かけたくないしどうにか距離を保っていようとしていたんだけど緊張しすぎてどんな顔になってるかもわかんねえしで変な態度になっていただけです本当にごめんなさい!」

 ほぼ土下座の勢いで頭を下げる。沈黙が流れた。大和さんが呆れた声を上げる。

「……すっげー肺活量。ワンブレスかよ」

 広がる笑い声に顔を上げてあたふたと周りを見回した。半笑いの大和さんが立ち上がり、俺にも立て、とアイコンタクトしてくる。掻き集めたパイを詰めた箱を抱いてぎくしゃく立ち上がると、しげしげ眺められた。

「なんかスポーツやってた?」

「あ、俺、ずっと水泳やってて。七千ミリリットル以上肺活量あります……」

 高校生時代よりは落ちているが、今でも成人男性平均のざっくり倍以上はあるだろう。おー、と感心した声を上げられる。

「いいなあ。俺ももうちょい肺鍛えたいんだよな」

 普通に話してくれるのに戸惑って顔を見ると、大和さんは呆れた顔のまま笑い返してくれた。

「確かにファン丸出しで騒がれたら困るけどさ、怯えられるほうが困るし。どうしていいかわかんねえなら、普通にしてていいよ」

「……はい……」

 穏やかな声に結局迷惑をかけてしまったと肩が落ちる。大和さんがふらりと目を逸らした。

「あと……その、ありがとう、な」

 ちょっと照れた声に、ぶわっと血が顔に上っていく。

「あ、あのあのあのっ、俺一番初めに好きになったのは『トラックビート』の遠藤航で、あの叶わなくなった夢をそれでも抱えてる姿にすごい救われて、遠藤をそんなふうに演じてくれた大和さんがめちゃくちゃ格好いいと思って声優になろうと思って、あ、でも最近のも全部見てます特にやっぱり『スターリーゲート』の相馬刻はめちゃくちゃめちゃくちゃ大和さんじゃなきゃってキャラクターで大好きでゲームはもちろんアニメも全部見てラジオも……ッ!」

 困ったような顔をしていた大和さんが、不意に頬を強張らせた。え、と思った途端、止まれ、とばかりに顔の前に手をぱっと立てられる。

「ストップ! やっぱりお前、ちょっと大人しくしたほうがいいわ」

 呆れ混じりに言われてまた笑いが沸いた。小島さんが俺と大和さんの顔を覗き込んできて、両手でばしばしと肩を叩かれる。

「なんか大団円? 大団円っぽいね? よっしじゃあ皆でご飯行こっか。最初だしさあ」

 混ぜっ返したのは小島さんではないかと突っ込みたくなったが、皆が「いいですねー」とか「電話してみましょうか」とか言いながら出入り口に向かい出す。まだ熱い頬を手の甲で擦って、大和さんに小声で伝えた。

「あの……俺、顔洗ってから行きます」

 大和さんが頷いて携帯を出した。

「んじゃ、店決まったら送るから連絡先教えて」

「は、はい……ッ!」

 慌てて連絡先を交換し、大和さんの名前が表示された携帯を信じられない思いで見つめる。胸に菓子の箱を抱えた。

「これも、もらって帰ります。嬉しいです。ありがとうございます……!」

「おう」

 手を振ってスタジオを出て行く大和さんを見送る。火照った顔を冷まそうと、菓子を置いてトイレに向かった。


 冷たい水で何度もばしゃばしゃと顔を洗うと、火を噴きそうな火照りはようやく収まってきた。震えた携帯に画面を見下ろす。大和さんから店が決まったという連絡が入っていた。冷やしたばかりの頬にまた集まってきた熱をぶるぶると首を振って散らし、緩んだ口もとをなんとか引き締めてトイレから出る。だけどその途端、山倉さんの低い声が耳に届いた。

「……大和くんは、もう大丈夫なんですか」

 懸念げな音に思わず足が止まった。誰もいなくなったロビーの隅で、山倉さんと佐々木さんが向かい合っている。

「だいぶ落ちついたんですけどね。やっぱりまだ車は駄目みたいで」

「そりゃ、あんな目に遭わされりゃ無理ないわな」

 山倉さんが苦々しげに息を吐く。チリチリと広がった髪を片手で掻き回すと、佐々木さんが頭を下げた。

「収録には、ご迷惑をかけないようにします。何かありましたら、すぐに私どもも参りますので、よろしくお願いします」

「やめてくださいよ。大和くんみたいな声優さんがね、こんなことで仕事できなくなったら困るのはこっちなんですから」

 はっと我に返る。これは俺が聞いていい話じゃない。気付かれないように足音を忍ばせ、じりじりと後退ってトイレに戻った。だけど、扉を閉めた途端ぶわっと全身に鳥肌が立つ。大和さんが、車が駄目? 仕事ができなくなる?

 何が起きているのかわからない。でも、何か悪いことがあったというのはわかる。山倉さんと佐々木さんが大和さんを心配していることはわかる。湧き上がる不安にみぞおちが冷たくなった。

 話が終わったのか、外に向かう扉が開く音がした。耳を澄ませると、階段を上っていく二人の足音が聞こえる。それが遠ざかるのを待ってトイレを出た。無人のロビーを見回して、なぜかぞっとする。けれどはっと気付いて階段を駆け上がり、知らされた店に急いだ。

 店に入って声をかけると、奥まった座敷席に案内された。入ってきた俺を見上げて大和さんが気楽げに笑い、近くの空いた座布団を示してくれる。

「とっとと頼まないと、休憩なくなるぞ」

「は、はい……っ!」

 慌てて腰を下ろすとメニューを差し出される。落ちついた声はずっと聞いていたラジオと変わりはなかったけれど、間近にした不精ひげを生やした頬は、よく見てみると記憶よりも少し痩せてしまっているように見えた。



 二回目の収録の日までを、俺は練習とバイト、そして大和さんの情報を集めるために使った。

 大和さんに何かあったとすれば、年末から一月にかけての休養と、事務所の移籍が関係ないはずがない。けれどあの時期はインフルエンザが蔓延していて、他にも収録やイベントに参加ができなくなった声優が何人かいたし、休養の発表自体も事務所から『体調不良のためしばらく休養する』と出た後、しばらくして移籍の報告があって、二月には大和さん本人のSNSのアカウントから『お仕事復帰しております! ご心配おかけしました』と発言があったから、大したことはなかったのだろうと思っていた。

 アニメのアフレコは、収録から放映までかなりの時間が空く。俺が見てわかるような影響があった仕事は、他の声優さんが代わりに出演した週一のラジオが二週分くらいのものだった。

 だけど、じっくりと見ると気付くこともある。スケジュールを照らし合わせてみると、大和さんは去年の年末には『スターリーゲート』の第三期アニメの収録をしていたのじゃないかと思われた。それにこのアニメも、原作のゲームも、音響監督は山倉さんだったはずだ。

『スターリーゲート』は、女性向けの男性アイドル育成ゲームだ。プレイヤーとなる主人公がアイドルを育てる学校に入学し、アイドルの卵たちと友情や恋を育む一年間が描かれる。

 大和さんが演じる『相馬刻』は、一見怠惰な生活を送っているが、実は先天性の病気を患いながら、必死に努力をして夢を叶えようとしている上級生だった。普段の気怠げで色っぽい姿と、本当の彼が垣間見える真摯な歌声の落差は大和さんの演技があればこその説得力があって、キャラクター投票では毎回一位に輝いている。ゲーム原作には珍しく複数の期に渡って放映されているアニメでは、あまりの人気にほぼ主役のような活躍を見せていた。

 ゲーム原作のコンテンツではよくあることだが、『スターリーゲート』もコラボやメディアミックス、それにライブやイベントが多いコンテンツだった。Webラジオも放送されており、大和さんもよく出ている。なのに去年の十二月以降、一度も関連イベントには出演していなかった。だけどたかだか三ヶ月くらいのことだから、忙しければありえない話ではない。

 結局、何を考えても勝手な憶測に過ぎなかった。もしかしたら、こんなことを勝手に盗み聞きして調べていること自体が迷惑かもしれない。だけど、彼がもし何かに困っているなら、とても放ってはおけなかった。

「……なんか、俺に出来ることないかな……」

 溜息混じりに呟く。『スターリーゲート』のサイトを回っていると、五月末のライブの抽選に申し込んでいたことを思い出した。そういえば、そろそろ結果が出るはずだ。大和さんが参加するイベントはかなりチケット争奪戦が激しく、今まで一度も席を用意してもらえたことがなかったから、諦めもあってすっかり忘れていた。

 ライブ告知のページを開く。出演者一覧はまだ更新されておらず、『次のお知らせをお待ちください!』という文字とキラキラしたエフェクトだけが踊っていた。ぽいと携帯を枕もとに放り出す。その途端、メールの着信音がした。ポップアップしたお知らせをタップして目を見開く。

『厳正な抽選の結果、下記の公演についてチケットのご用意ができました』

 そこには、まさに今調べていたライブ当選の知らせが届いていた。喜びたいのに、大和さんのことが気になって全力で喜べない。調べ物をしすぎて熱くなった携帯をまた放り出して、重たくなった瞼を伏せた。

 


 夕方から降り出した雨は夜が更けるほどに冷たさを増し、段々と蕾を膨らませてゆく桜に待てをかけるように朝方まで振り続いた。

 スタジオに向かうころには雨は止んでいたけれど、まだぶ厚い灰色の雲が空を覆っている。二度目のアフレコに向かうために川沿いの道を自転車で駆け抜けると、桜の枝に残った雨が大きな雫になってぼたぼたと頭の上に落ちてきた。

 今日もスタジオに一番乗りで入り、音響スタッフさんたちへの挨拶を済ませる。ロビーとブースの椅子を整え直し、加湿器の水を交換してスイッチを入れた。

 現場の雰囲気がいいと演技がやりやすいというのは先輩たちの誰もが言うことだった。だからといってどうしたら雰囲気をよくできるのかはわからないけれど、居心地のいい空間を作っておくことは俺にだってできる。

 収録が始まる三十分前には前回と同じように階段のすぐ下に陣取り、次々にやってくる先輩たちに挨拶をしていった。

「おはようございます。今日もよろしくお願いします!」

「ありゃ、今日も負けたかあ。残念」

 やはり真っ先にやってきた小島さんがロビーのソファに腰を下ろし、悠々とコーヒーを飲み始める。そこからは次々に先輩たちがやってきた。一人一人の顔を見ながら挨拶する。

 足音が近づいてくる。階段を見上げると、うすぼんやりとした日差しに浮かび上がった細身のシルエットにどきんと心臓が跳ね上がった。

「お、おはようございます! 今日もよろしくお願いします!」

 声がひっくり返る。けれど大和さんは気にしていないと言うように笑ってくれた。

「おう、おはよ」

 トントンと軽快な足音を立てて降りてくる。

 今日は黒のミニタリージャケットにゆったりとしたカーキのパンツを身につけていて、布の下で緩やかに泳ぐ体にスタイルの良さを見せつけられる。やっぱり大和さんは動きやすそうなスポーティな服装をしていた。アイドルっぽい服も格好良かったけれど、ラフなのも可愛くて似合う。ぼけっと見蕩れていた俺に、大和さんが苦笑いを浮かべた。

「お前、見すぎ」

 慌てて言い訳しようとした時、頭上から明るい挨拶が聞こえた。

「おはようございまーす!」

 和田さんがカンカンと鋭い足音を立てて降りてくる。賑やかな音の原因は、十センチ以上はありそうなごつい厚底のブーツだった。小柄な和田さんは、底の厚い靴を履かないとマイクに届かないのだろう。一番高いマイクを使ってもスクワット状態で屈まないといけない俺とは真逆だった。

 階段の途中にいた大和さんが挨拶をしようと振り向く。瞬間、和田さんが濡れた鉄階段にずるりと足を滑らせた。丸い目を大きく見開き、手を泳がせる姿がスローモーションのように目に映る。

「ひ……ッ!」

 引き攣れた悲鳴が上がる。階段を駆け上がって受け止めようとするけれど、間に合わない。けれどその時には、体を捻った大和さんが和田さんの手を掴んでいた。落下の勢いが弱まる。しかし無理な姿勢に支えきれず、大和さんもまた大きく体勢を崩した。

「うわ……ッ」

「大和さん……ッ!」

 だけど、その一瞬で間に合った。和田さんごと落ちてくる大和さんを右腕で受け止め、力任せに引き寄せる。どん、と胸にぶつかった重たい質量に息が止まった。階段の手すりを掴んだ左手に三人分の体重がかかり、ガタンッ、と大きな金属音が響き渡る。

 ざっと血の気が引く。こめかみがどくどくと脈打つ。寒気が背筋を駆け上がるのに、どっと汗が噴き出す。気付けば俺は、二人を胸に抱え込んで階段に片膝をついていた。

「は、ぁ、……っは……っ」

 ほとんど同時に、三人とも息を吐く。大和さんと和田さんが我に返ったように身動ぎ、胸にかかっていた重みが少し軽くなった。

「……大丈夫ですか。腕、離しますね」

 和田さんが階段に腰を下ろし、大和さんも手すりに掴まったことを確認してからゆっくりと支えていた手をほどいてゆく。腰が抜けたようにぺたんと座り込んだ和田さんが上擦った声を上げた。

「ご、ごめん、ごめんね……! ありがとう、大和くんも、野垣くんも……ありがとう……っ!」

 ぱたぱたと両手を振り回して謝るのに、慌てて首を振った。

「落ちなくて良かったです。……あ、和田さん、濡れちゃいますよ」

 春らしい桜色のスカートが、濡れた階段に広がっている。和田さんがまた悲鳴を上げた。

「きゃー! びしょびしょー! ほんとごめんね……っ」

 ぴょんと勢いをつけて立ち上がった姿を見て、怪我もないようだとほっとする。大和さんが和田さんに笑いかけた。

「いえいえ、無事でなによりです」

 軽い口調に、和田さんがほっと息を吐いた。濡れたスカートを指先でつまんで慎重に階段を下りていくのを見送る。スタジオに入っていくところまで確かめて、大和さんに目を戻した。

「びっくりしましたね。……大和さん?」

 大和さんは、ぎゅっと眉間に皺を寄せていた。けれど、声をかけるとすぐこちらを向く。

「……ああ、うん。助かった。ありがとな」

「え、あ、いえっ! よかったです、間に合って」

「お前すげえな。二人落ちてきたの受け止めるって」

「ち、力は自信あるんで……っ」

「デカいしな。そりゃマイク前で空気椅子にもなるか」

 変な姿勢でアフレコをしているのに気付かれていたのかと顔が赤くなる。大和さんが手すりに凭れていた体を起こした。だけど、ふっと呼吸を揺らす。違和感に足元を見やると、大和さんは左足を段差から浮かせていた。

「大和さん、怪我……っ?」

 さっと手を上げて制される。ちらりと視線で指す先を見ると、ロビーに入った和田さんが小島さんと話していた。

「ちょっとひねっただけだから大丈夫。……内緒な」

 薄い唇に、とん、と人差し指を立てて笑う。深呼吸をして左足を床に下ろすと、動きはゆっくりながらも平然とした顔で大和さんはスタジオに入っていった。心配で後を追う。小島さんが振り向き、楽しげな声をかけてきた。

「朝から一仕事お疲れさん、大和くーん」

 からかうような呼びかけに大和さんが笑う。すっと息を吸うと、ゼノムの含みがありそうな声で応じた。

「師匠としちゃ、弟子に怪我させるわけにいかないからねぇ」

 それに乗って、和田さんもまたリベルの声で応じる。

「先生、ありがとうな! お礼に俺のいいとこ、見せてやるよォ!」

 楽しげな掛け合いに笑いが広がった。

「まーでも、最終的に受け止めたのこいつですけど」

 大和さんの手が俺の腕を掴んだ。引き寄せられて、輪の中に巻き込まれる。小島さんが、腕の太さを確かめるように覗き込んできた。

「野垣くん、水泳やってたんだっけ?」

「あ、はい……」

「水泳で育てた筋肉って見栄えがいいよねえ」

「出た、筋トレマニア」

「この年になると筋肉の大事さを実感するんだよ」

 小島さんは五十を過ぎてから筋トレにハマり、頻繁にSNSにもトレーニングの様子をアップしている。さりげなく力こぶを作って見せるのに、和田さんが間合いよくかけ声をかけた。

「よッ! 上腕二頭筋エベレストッ!」

 大和さんが感心した声を上げた。

「慣れてますね、和田さん」

「こないだ司会やったのよ、ボディビル大会の。眼福」

 本気の声にまた皆が笑う。声を合わせて笑いながら、雰囲気のよい現場というのはこういうものなのかもしれないと実感していた。

 大和さんが声をかけて話に引き込んでいくから、皆が一緒に話し始める。少しでも話せば、緊張が解れる。自分はこの現場で受け入れられているのだと感じられてゆく。

 そうして賑やかなお喋りの後に始まったアフレコは、一回目よりもスムーズに進んでいるように思えた。声を合わせたり、マイク前を譲り合うためのアイコンタクトもずっと伝わりやすくなっている。

 だけど大和さんは、マイクを交代して後ろに下がっても椅子に座ろうとしなかった。じっと立ったままの姿勢はわずかに右に傾いて、椅子に座ってしまえば立てないほど足が痛むのじゃないかとハラハラする。

 怪我を気付かせたくない大和さんの気持ちがわからないわけじゃない。和田さんに申し訳ないと思わせて、せっかく暖まった場を壊したくないのだろう。怪我のせいでアフレコが遅れでもしたら多くの人に迷惑がかかるのもわかる。だけど、だからといって治療もせずにいるのを放っておくこともできなかった。

 昼休憩の合図が出されると同時に駆け寄ろうとして、はっと止まる。あからさまに心配するような言葉はかけられない。それならと台本を握り締め、いかにも演技のことを聞きたいと言う仕草を取り繕って声をかけた。

「大和さん……っ、すみません、ちょっと相談いいですか」

 大和さんは俺を振り向くと、ちらりと台本に目を向けて苦笑いを浮かべた。

「おう、どうした」

 その傍らに歩み寄り、昼休みに出て行く皆を見送る。無人になったところで、視線を足元に向けた。

「足、痛みますか」

「大丈夫だって」

 軽い口調で笑う顔を見下ろす。じっと見つめると、大和さんはぱちぱちと瞬いた後、後ろめたそうに視線を逃がした。

「見せてください。座れないんじゃないですか」

「んなこと、……あ、おい……っ」

 床に跪いて、カーゴパンツの裾に手を伸ばす。大和さんは慌てた声を上げたけれど、足を引かなかった。きっと、痛みで出来なかったのだろう。

「失礼します」

 ぺらりと裾をまくり上げる。ふくらはぎまでのサイクルソックスに覆われた左足首は、布越しでもわかるほどに腫れ上がってしまっていた。

「ほっときゃ治るって。今、湿布買ってくるしさ」

 階段を視線で指すのに立ち上がって首を振る。

「俺が買ってきます。大和さんは休んでてください」

「んな大げさな……」

 大和さんは、俺を宥めるように笑顔を浮かべた。腫れ上がった足を引こうとして痛みに呼吸を揺らすのに、顔にも、声にも痛そうな様子を出すまいとしている。取り繕った顔を見た途端、鼻先がぎゅっとつねられたように痛んだ。

「無理しないでくださいよ……」

 気遣うように浮かべられる笑顔が痛い。ちょっと格好つけなところや、頑張りすぎるところをずっと格好良いと思っていたのに、面と向かった今はずきずきと胸が痛んだ。鼻を啜ると、大和さんがぎょっと目を見開く。

「野垣?」

「痛くないわけないでしょ、こんな腫れてんのに、座るのもきついのに、大丈夫とか、平気とか言わないでくださいよ……っ」

「ちょ、泣くなよ……っ!」

 大和さんが慌てた声を上げる。まだ、泣いてはいない。べそをかきそうではあるけど。

「お前、なんでそんな……」

 途方に暮れた声に、きっと顔を見つめた。

「俺、大和さんのファンだって言ったじゃないですか……っ! あなたが痛いのも、しんどいのも、嫌なんですよ……っ」

 大和さんが、目を見開いた。初めて見たもののように俺を見る。その前に、手を差し出した。

「支えるんで、座ってください。手当てさせてください。お願いします」

 大和さんは手を浮かせかけて、迷ったように動きを止めた。だけど引かずに手を出し続けると、戸惑いながらも掴まってくれた。

「……悪い」

 低い声に、ぶんぶんと首を振る。もう片手で肩を支えてゆっくり屈み込んでいくと、大和さんは腰を下ろした途端、ほうっと重たい息を吐いた。

「すぐ湿布買ってきます。ちゃんと匂いしないやつにしますから、待っててくださいね……!」

 苦笑いで頷いたのを確認して、階段を三段飛ばしで駆け上がり駅前のドラッグストアまでひた走った。この距離なら、自転車を借りるより走った方が早い。息は苦しかったが、久しぶりに本気を出したおかげで十五分ほどで戻れた。大和さんが驚いた顔をする。

「早くね?」

「走りました!」

「いくら走ったって言ってもさ……」

 首を捻っている大和さんの足元に跪き、湿布やテーピングを並べる。大和さんが慌てた。

「いいって。自分でやるから」

「俺、テーピング得意なんでやらせてください。ちゃんと歩けるようにしますから」

 ビッと音を立ててテーピングテープを引き出す。足首の痛みや捻挫も水泳ではよくあることだ。固定するのには慣れている。大和さんはまた困った顔で眉尻を下げたが、ひとつ息を吐くと頭を下げた。

「悪い……」

 ぼそぼそと謝るのに首を振る。痛ませないようにそっと靴を脱がせ、薄手のサイクルソックスを引き下ろした。青紫に腫れ上がった足首が現れる。

「うっわ……よくこれで平然と歩いてましたね……」

 怪我をしてから放置したためかひどく腫れているのに、そんな足を誰にも気付かせなかったのに驚く。大和さんが得意そうな声で応えた。

「役者だからな」

「そんなところで得意そうにしないでくださいよ」

 外傷がないことを確認して、足首に冷却スプレーをぶっかけて冷やす。

「ちょっときつめに押さえるんで、痺れたらすぐに解いてくださいね」

 湿布を貼り回し、その上にテーピングを巻いていく。大和さんがマジックテープのサイクルシューズを履いていてよかった。これならテーピングをしていても履ける。端まできっちりと巻き、カーゴパンツの裾を下ろしてから顔を上げた。

「どうですか? 足先、冷えたり痺れたりしてませんか?」

 大和さんが指先を動かして頷く。

「大丈夫」

「とりあえず固定しただけなんで、体重かけないでくださいね」

 頷いた大和さんがゆっくりと立ち上がり、そろそろと足を動かして動きを確かめる。

「……すげえな。歩ける」

「良かったです」

 ゴミをまとめて片付ける。大和さんが申し訳なさそうに言った。

「悪い。昼飯食いそびれただろ」

 昼休憩は、残り十分くらいしかなかった。もうすぐ皆も戻って来るだろう。

「大丈夫です! パンも買ってきました。食べたら痛み止め飲んでくださいね」

 二人分の飲み物とサンドイッチ、それと消炎鎮痛剤が入った袋を見せる。大和さんは目を見張ると、すぐにぷっと吹き出した。

「お前さ、世話焼きってよく言われない?」

「言われすぎてコンプレックスになって、一周回ってありがたくなってきたくらい言われます」

「だろうな」

 力の抜けた声で笑ってくれるのに、じんわりと胸に熱が広がった。


 午後の収録が始まる。

 テーピングをしても座ったり立ったりを繰り返すのは辛いらしく、大和さんは立ったままアフレコを続けていた。けれど、少しだけ表情が明るくなった気がする。

 今日の俺の役どころは主人公たち絡む感じの悪い先輩Aで、普通を心がけて浮かないように嫌味な男を演じた。おかげで注意されることはなかったけれど、ミキシングルームを見ると山倉さんはこちらを見てもいなかった。

 これでよかったのか不安になる。だけどここは演技を評価される場ではない。作品を作り上げる場だ。指摘がなかったことを参考に一人で考え続けるしかなかった。

 収録が終わると音声チェックが始まる。緊張した空気を断ち切るように山倉さんが淡々と終わりを告げた。

「はい、いただきました。お疲れさまでした」

 ブースの中にほっと安堵の溜息が溢れた。

「おつかれー」

「お疲れさま」

「また来週ー」

 挨拶を交わして皆が帰り支度を始める。携帯を見た小島さんが「うおっ」と低い声を上げた。

「やっべぇ。電車止まってるぞ」

「ええっ」

「どこですか」

 皆が口々に言いながら携帯を取り出す。俺も画面を見ると、「信号故障で運転見合わせ」と書かれていた。ちょうど接続する部分で起きたらしく、近くを通る三路線全部が止まっている。小島さんが首を捻った。

「こりゃタクシーのほうが早いかな」

「小島さん次どこですか?」

 和田さんが尋ねる。

「池袋のほう」

「あ、私大塚なんで一緒していいですか」

「もちろんもちろん。大和くんはどのあたり? 乗ってく?」

 小島さんが尋ねると、眉を寄せて携帯の画面を見ていた大和さんがはっとした様子で顔を上げた。けれどすぐに笑顔で首を振る。

「や、俺日暮里なんで。自転車ですし」

 思わず大和さんの顔を見る。けれど、彼はこちらを振り向かなかった。皆が千代田線まで歩こうかだの、タクシー相乗りしようかだのと喋りながら出て行く。静まったブースの中に、気付けばまた二人になっていた。

 腫れ上がった足では、自転車に乗るのはもちろん駅まで歩くのも辛いだろう。俯きがちに携帯を見つめる大和さんに近づく。

「大和さ……」

 呼びかけた途端、びくりと肩を震わせて大和さんが携帯を取り落とした。振り返った顔が青ざめている。大丈夫ですかと続けるつもりだった言葉が喉の奥で潰れた。

「……っ」

 携帯を拾おうとして足が痛んだのか動きを止めた大和さんを制し、屈み込んで拾い上げる。タクシー呼び出しのアプリが開いたままの画面が見えてしまった。

「……悪い」

 携帯を受け取ろうと差し伸ばされた手は、血の気が失せて白くなっていた。指先が震えている。「まだ、車が駄目みたいで」なんて、この間漏れ聞いた声が脳裏に蘇った。

「あ……」

 画面が見えたことに気付いたのか、大和さんが誤魔化すような笑みを浮かべた。

「や、あの、俺、車酔いひどくってさ……」

 気弱げに声が揺れた。あんなにも演技の上手い人が、丸一日誰にも気付かせずに足の痛みを隠し通した人が、表情を取り繕うこともできずに白い頬を引き攣らせている。それを目にした途端、堪らないやるせなさが胸に迫り上がった。

「……車酔い、辛いですよね!」

 見え見えの演技に全力で乗る。大和さんがびっくりした顔で俺を見た。勢いまかせに叫ぶ。

「俺に送らせてください!」

「送るって……どうやって……」

 オーディションの日、近くのレンタルスタンドで見たものが頭に浮かんだ。

「タンデム自転車で!」

 大和さんが目を丸く見開いた。


 遠慮されても無理矢理に腕を貸し、階段をゆっくり上る。いまひとつ飲み込めていない顔をしている大和さんに待っていてくれるように頼み込み、ダッシュでタンデム自転車を借りてきた。よく観光地にあるようなサドルが二つついた自転車を見て不思議そうに尋ねてくる。

「これ、二人乗りしていいの」

 全国の公道をタンデム自転車が走れるようになったのはごく最近のことだ。自信を持って頷く。

「大丈夫です。乗ってください。漕がなくていいんで、足休めててくださいよ!」

 押されるように頷いた大和さんに、こちらもレンタルしてきたヘルメットを渡す。もちろん安全運転をするつもりだけれど、万が一にも怪我をさせるわけにはいかない。ヘルメットを被ったのを確認してからサドルを跨ぎ、ぐっとハンドルを握り締めた。

「行きますよ!」

 ぐんとペダルを踏み込み、一気に加速する。ぶわっと左右に流れていく風の音に、大和さんの返事はかき消された。


 引っ越しのバイトを長くやっているおかげで、都内の地理はだいたい頭に入っている。電車遅延の影響もあるのか混雑した幹線道路から外れて、裏道に自転車を乗り入れた。方向さえわかっていれば、こんな時は細い道を走るほうが早い。

 道路交通法と安全を守りながらも、最大限のスピードで自転車を漕ぐ。うまく渋滞を避けられたおかげで、十五時には日暮里までもうすぐのところまで来ていた。

 隣の駅から続く大きな商店街に入ると、視界の先に「整形外科」の看板が見えた。そこまで走ってきゅっとブレーキをかけ、後ろを振り返る。

「大和さん!」

「うわ、何。つかお前、はっや……」

 大和さんもすぐに気が付いた様子で傍らの整形外科を見やった。幸い、ガラス越しに見える待合室は人影もまばらで空いている。

「寄っていきましょう」

「いや、だいじょ……」

「念のためです。ちゃんと見て貰ってください!」 

 病院の入り口脇に寄せて自転車を停める。サドルから降りるのを手伝い、外したヘルメットを受け取った。痛みが増しているのか、足を引きずりながら受付に行くのを見て息が漏れる。待合室に大和さんが落ちついたのを確かめてから、行き来の邪魔にならないように大きな自転車を脇に寄せ直した。


 三十分もかからずに出てきた大和さんは、俺を見ると決まり悪そうに視線を泳がせた。左足首はしっかりとテーピングで固め直され、病院で渡されたらしいサンダルに履き変えている。

「どうでした?」

「あー……。なんか、靱帯切れてて、全治三、四週間かかるって……」

 それはかなり重度の捻挫だ。溜息が漏れる。

「そんな足放置してアフレコしてたんですか……」

「や、歩けたしさ、んなひどいと思わなかったんだけど……」

「我慢強いにもほどがあります」

 大和さんはしょんぼりと肩を落とすと、窺うように上目で俺を見やった。機嫌を取ろうとする子どものような仕草にきゅんと心臓が弾んで、たやすく誤魔化されてしまいそうになる。溜息を吐いて手を差し出すと、大和さんは大人しくそれを掴んで後ろのサドルに腰を下ろした。ヘルメットを渡しながら尋ねる。

「ここからスタジオまで、道わかります?」

「大丈夫」

「じゃ、案内お願いします」

 道案内に従って先ほどまでよりもゆっくりと自転車を走らせる。辿り着いた雑居ビルは駅からかなり離れていた。これでは帰りも駅まで行くのは難しいだろう。けれど、こういうところのほうが家賃が安いのと、騒音に寛容なのだろうから仕方がない。入り口近くに自転車を停め、すぐにサドルを降りて乗り降りを助ける。

「時間大丈夫ですか」

「十六時からだから、余裕。ありが……」

「じゃ、終わりも迎えに来ます。二十時で大丈夫ですか」

 夕方のアフレコは十六時から二十時に行われることが多い。大和さんが慌てて首を振った。

「そこまでしなくて大丈夫だって」

「その足で駅まで歩くの無理でしょう。あの、俺、どうせ暇なんで、迎えに来させてください。お願いします」

 頭を下げると、大和さんは焦った様子で俺の手を引っ張った。

「なんでお前が頭下げるんだよ、逆だろ」

「迎えに来たいの俺なんで」

「助けて貰ってるの俺だろ」

「絶対に放っておきたくないの俺の勝手なんで」

「なんだよ、お前、もう……」

 半分呆れて半分困って、どうしようもなくなって諦めたような顔で大和さんが息を吐いた。

「うち、大崎だけど大丈夫か」

 飛び上がりたい気分で大きく頷く。大崎から大井町のアパートまでは、自転車でなら十分程度だ。近所だったと、それだけのことがとても嬉しい。

「俺、大井町なんで大丈夫です!」

「正直、すごく助かる。……だから、その、失礼だってのはわかってるんだけど、これ、バイト代……」

 財布を取り出し、折り畳んだ万札を差し出してくるのに慌てる。一歩下がって首を振った。

「そんな、貰えません……ッ!」

「さすがにタダで四時間も待たせるとかできねえよ」

「さっき昼飯代出してもらいましたし……」

「買い物行ってくれたんだから当たり前だろ」

「俺が好きでやってるんで……!」

 買い物も送り迎えも、推しに直接課金しているのだと思えばコスパがいいどころではない。対価が神すぎる。なんせ、大和さんと一緒にいられのだ。それだけで俺には全世界に感謝するほどの報酬だった。けれど、大和さんは差し出した手を引かなかった。ビルの前で押し問答をする男二人を通行人がちらりと横目で眺めていく。

 大和さんが困った顔を作った。肩を落として息を吐く。

「受け取ってくれたら、俺も安心して帰りも頼むって言えるんだけどな……」

 いかにも寂しげな風情は明らかに演技だった。だけど、充分にその威力を承知している素振りでちらりと見られては抗えなかった。ツリ眉タレ目の流し目の破壊力がとんでもない。

「わかりました……ッ。ありがたくいただきます……」

 両手を合わせて受け取る。大和さんがにやりと笑った。負けたような、嬉しいような複雑な気持ちが湧き上がる。

「つ、次も無理しないでくださいよ! 怪我してるって言えそうなら言って、歩けるからって体重かけちゃ駄目ですからね、アフレコ始まる前に薬飲んでくださいね、ちゃんと水で!」

 照れ隠しにまくしたてる。

「大丈夫、次は座ってられるから」

 大和さんが口にしたのは、会社勤めの動物がひたすら緩い会話を繰り広げる深夜アニメのタイトルだった。大和さんはその中で、面倒くさがりでだらしないピンクのうさぎを演じている。あれなら一度に参加する声優は数人だから、ラジオ形式で座ったまま収録ができるのだろう。

「毎週見てます……ッ! メンドウクサギ可愛いですよね、面倒がってるのにだいたい面倒に巻き込まれてるのが可哀想だけどウザいから笑って見られるし大和さんのギャグ声っていうのも貴重で、ヒトゴトワニのシュールなツッコミが入ることでメンドウクサギの可愛さがさらに引き立つっていうか……っ」

「野垣。ストップ」

 声をかけられて我に返る。

「す、すみません……っ」

「俺、ちょっとお前の扱いわかってきたかもしれない」

 大和さんが笑う。少しだけぎこちない歩き方でビルに入っていく背中を見送って、俺も踵を返した。


 大和さんから貰ったバイト代で漫画喫茶に入る。オーディションの準備のためにも話題作は読んでおきたいけれど、今の経済状況ではとてもすべてを買うことはできない。待ち時間の間に読めるのは正直ありがたかった。机の上にどさどさとコミックスを積み上げ、一気に読んでいく。そうして二十時少し前、自転車を引いてスタジオの入っている雑居ビルに向かった。

 目立たないように植え込みの影に自転車を停めると、ほどなくして入り口から数人の人が出てきた。その先頭を歩くニット帽の男性の横顔に見覚えがある。大和さんが演じるメンドウクサギの相棒のヒトゴトワニを担当する声優さんだ。きっと収録が終わったのだろう。

 だけど、大和さんの足では出てくるまで時間がかかるだろうと思ったのに、それからすぐに姿を現したのに目を見張る。自動ドアをくぐるとあたりを見回し、俺を見つけると足を急がせようとしたのに慌てて声を上げた。

「急がないでください!」

 強い口調に大和さんが驚いた顔で足を止めた。自転車を引き、急いでその前まで向かう。

「ゆっくり歩いてくださいよ」

「や、待たせてたし……」

「何十分でも待つんで、足に負担かけないでください」

「お、おう……」

 戸惑ったように瞬いている大和さんの前に自転車を停め、手を差し出して乗り降りを助ける。だいぶ慣れてくれたのか、大和さんはためらいなく俺の手を掴んでくれた。ヘルメットを確認して俺もサドルを跨ぐ。

「んじゃ、行きますよー! しっかり掴まっててくださいね!」

 ぐんとペダルを踏み込む間際、「おう」と大和さんが小さく応えた。



 山手線を東から西へ横断する。大和さんのマンションは、大崎と五反田の間の目黒川沿いあった。ベージュ色のタワーマンションの前で自転車を停めると、サドルから降りた大和さんは眉間に皺を寄せていた。重たい息を吐く。夜が更けてきて痛みが増してきたのかもしれない。

「大丈夫ですか。痛みます?」

「や……大丈夫……」

「部屋まで送ります。掴まってください」

 覇気の無い声に手を差し出すと、大和さんは力なく俺の腕に掴まった。辛そうに眉を寄せては、時折ぎゅっと目を閉じる。先ほどまでとは違う様子に心配になる。ふらつく体を背中に手を回して支え、抱え込むようにしてエレベーターに乗り込んだ。

 四機並んだ高速エレベーターは、三十二階まで俺たちを一気に運んだ。大和さんの呼吸が荒い。俺の腕に縋る手が熱かった。もしかしたら発熱しているのかもしれない。早く休ませないと、と焦りながら玄関を押し開ける。こんな時なのに、鍵がカード型なことにホテルみたいだ、と驚いた。

 暗い室内に入ると、玄関をあがってすぐ左にある扉を大和さんが指した。

「……そっち」

 きっと寝室だろう。ふらつく体を肘を掴んで支え、部屋の扉を開いて絶句した。

 八畳ほどの薄暗い部屋の中央には、大きなベッドが置かれていた。周囲には引っ越した時に運び込まれたのだろうダンボールが山のように積み上げられていて、床もほとんど見えない。窓にはカーテンもなく、畳まれたダンボールが日差しを遮るためか立てかけられていた。

 引っ越したばかりなのだろうか。それにしたってあまりにも荒れた光景に薄暗い部屋を見回して、まだ肌寒い季節だというのにベッドには薄い毛布一枚しかないことに気が付いた。余程暑がりなのか、それにしたって。茫然とした一瞬の後、掴んだ大和さんの肘の熱さに気付いて我に返る。

「……ベッド、行きましょう」

 声をかけ、手を引いてベッドに向かう。蓋が開いたまま床に放置されているダンボールを押しのけ、ベッドに座らせて床に膝をついた。大和さんが気怠そうにジャケットを脱ぐ。きっちりとテーピングを巻いた足首に手を伸ばした。

「一回解きますね」

「……ん……、悪い……」

 声がかすれている。テーピングを解くと、腫れ上がった足首はひどく火照っていた。

「熱出ちゃってますね。寝やすいように軽く巻き直しておきます」

 大和さんが放り出した鞄を指す。病院でもらってきたのだろう湿布を出して交換し、軽く足首を支えるように包帯だけを巻き直す。その合間も、頭上から聞こえる息づかいはどんどん早く、浅いものになっていった。

「大和さん、痛いですか」

「……怪我の、せいじゃねえから、大丈夫……」

 痛みを堪えるように眉を寄せていた大和さんは、俺と目が合うと力なく笑ってみせた。

「家、……帰るとさ、熱出んの。……いつもだから……大丈夫……」

 笑い話なのだと自分に言い聞かせるように低く声を立てて笑う。その頬は赤く、腫れ上がった足首だけじゃない、大和さんの額も、頬も、体中がいつのまにか熱の火照りを帯びていた。もう体を起こしていることも辛い様子でずるずるとベッドに倒れ込んでいく。まるで仕事中は無理矢理に押さえ込んでいた火が勢いを増し、彼を飲み込もうとしているようだった。

「さむ……」

 ぐったりとベッドに崩れ落ちた大和さんは、毛布を引き寄せると寒そうに身を縮めた。震えながら丸くなることしかできない姿が、巣から落ちて弱り果てた雛鳥のように見える。風邪を引き込んだ時のように、首裏にさわりと鳥肌が立った。

 ひどく熱っぽい騒めきの意味がわからず、首を振る。

「……毛布、広げますよ」

 くしゃくしゃの毛布を掴んで広げ、震える大和さんを包み込む。だけど、これだけではとても足りない。他にかけるものはないかと部屋を見回すと、ダンボールの合間に置かれた布団袋を見つけた。開いてみると、羽毛布団が入っている。軽く揺すって空気をはらませ、ふわりと大和さんの上にかける。大和さんがほっとしたように息を吐いた。

 ほんの数歩のところにある布団を取り出す気力もないほどに、この人は疲れ果てていたのか。それを隠そうと外では気を張って、張り詰めすぎて、家に帰った途端に熱を出して動けなくなるほどに追いつめられていたのか。

 丸くなって布団に潜り込もうとするのに、端を引き上げて風が入らないように軽く押さえた。布団の向こうに硬く強張った体を感じて手が放せなくなる。包むように腕を回してそっと背中を撫でる。かすれた声に呼ばれたような気がして口もとに耳を近づけた。

「はい?」

「……ご、め……、勝手に……」

 帰っていい、とでも続けようとしたのか。切れ切れの声で謝るこの人に堪らなくなった。背中に回していた手にぐっと力がこもる。

「俺のことは気にしないで大丈夫ですから、寝てください。おやすみなさい。大丈夫……」

 この人を脅かすものがあるなら、全部取り除いてあげたい。安心して眠らせてあげたい。アフレコ中はあんなにも大きく見えた背中が、掌の下で縮こまっている。とても離すことなんかできなくて、苦しげな呼吸が寝息に変わるまで、俺はずっと震える体を撫で続けていた。


 大和さんが眠りに落ちたのを確認して、音を立てないように立ち上がる。だけど、こんな状態の大和さんを一人になんてしておけなかった。足音を忍ばせて部屋の奥へ向かう。これからもっと熱が上がる可能性もある。勝手だけれど、起きるまでいさせてもらおう。

 廊下を歩きながらも、なんで彼がこんなしんどい思いをしているのか疑問と怒りが湧き上がっていた。それが、リビングの明かりをつけた途端に弾ける。

 俺の部屋まるごとよりもずっと広いリビングは、壁の一面が大きな窓になっていた。このあたりにはタワーマンションの他に高い建物がないから、白やオレンジ色にキラキラと輝く東京の夜景が遙々と見晴らせる。まるでマンションの広告のような景色だったが、こちらの部屋も床には大量のダンボールが積み上がり、その中にソファとテーブルが埋もれていた。これでは座ることもできない。かろうじてダンボールを押しのけて作られた一畳ほどの隙間にテレビが直置きされて、床にペンが散らばっている。きっとここで台本読みをしていたんだろう。

「なんなんだよ……っ」

 苛立った声が漏れる。大和さんはあんな平然とした顔をして、こんな荒れ果てた部屋で生きていたのか。これじゃ、帰ってきたって休むこともできない。こんなところに大和さんを住まわせておくわけにはいかない。勢いよく袖をまくり上げ、怒りをぶつけるようにダンボールを抱えて壁際に積み上げていった。

 片付けを始めてすぐに、引っ越したばかりというだけでは説明の付かない殺伐とした雰囲気の理由に気付いた。引っ越しの日、俺たち作業員は部屋にダンボールを運び込むけれど、当然動線は確保するし、ましてやソファを埋めるなんてことはしない。

 だけど、リビングにはダンボール箱が足の踏み場もないほどに散らばり、あちこちの蓋が開いているのに中身を出されることもなく放置されていた。たぶん大和さんは、必要な物があるとダンボールの山を崩して引っ張り出し、そうして片付ける気力もなくそのまま放置していたんだろう。この部屋からは、心地良く生活をしようとする意思が欠片も感じられなかった。

 まずはちゃんと座って休めるようにしたい。掘り出したソファを部屋の中央に置き、その前にカフェテーブルを並べる。重たいダンボールを台にしてテーブルの向こうにテレビを置くと、それだけでもずいぶん人間の住む家らしくなった。

 リビングを片付けただけでは怒りが収まらなくて、キッチンを振り返った。こちらのカウンターにもコンロにも、やっぱり開けないままのダンボールが積み上がっていた。かろうじて水道だけは使えるものの、シンクに洗い物のひとつもないのは使っていないからだろう。冷蔵庫も予想通り空で、あの人は一体何を食べているのだろうと心配になる。以前動画で見た時よりも痩せてしまっているのは、もしかしたらろくに食べてないんじゃないだろうか。

 笑顔で昼飯を食べていた顔をふっと思い出す。どれだけしんどくても人前にいる間は心配をかけないように楽しげな姿を演じてみせるなんていうのは、いかにも大和さんのやりそうなことだった。

 そう思うとなおさら腹が立ってきて、勢いのまま携帯を取り出す。大和さんから貰ったバイト代は、大和さんのために使おう。今までは配達側をやるためだけに使っていたデリバリーアプリを立ち上げると、二十四時間スーパーが出てきた。目についた食料品や日用品をどんどん買い込む。頼んだものが届くころには、キッチンのダンボールもあらかた片付いていた。

 受け取ったばかりのスポーツ飲料のペットボトルを手に、足音を忍ばせて寝室の様子を見にいく。かなり熱が出ていたから、水分だけでも飲んでほしかった。

「大和さん、入りますよ」

 ドアノブに手をかけると、中から低い呻き声が聞こえてきた。

「……ッ、く……ぅ……ッ、ァ……」

 慌てて扉を開き、ベッドに駆け寄る。布団の中に丸く縮こまった大和さんは、声を漏らすまいと喉を掴み、苦しげにうなされていた。

「どうしました……っ」

 呼びかけても聞こえていないのか、彼は首を大きく振った。汗の雫の浮いた額に黒髪が張りついている。邪魔そうなそれを指で払うと、顔は火照っているにもかかわらず汗はひんやりと冷たかった。

「――……ッ、う……ッ、く」

「大和さん……っ」

 喉を絞るように呻く声があまりにも苦しそうで、肩を掴んで揺さぶる。ひゅっと音を立てて息を吸い込むと、大和さんはぜいぜいと胸を喘がせて薄く目を開いた。ぼんやりと俺を見て、二度、三度と瞬く。

「――……野垣……?」

 寝起きのかすれた声で呼ばれて、頷き返した。

「すごい汗かいてる。着替えありますか」

「ん……」

 ぼうっとしたまま体を起こした大和さんは、それだけで疲れたように息を吐いた。べったりと胸に張りついたシャツを気持ち悪そうに引っ張る。

「風呂入りてえ……」

「じゃ、その前に水分取りましょう」

 キャップを外したスポーツ飲料を差し出すと、大和さんは不思議そうに俺を見ていた。

「なんで……いんの」

「す、すみません。大和さん熱出してたから、その、ほっとけなくて……」

 慌てて言い訳するが、大和さんは疲れたように息を吐いて頷くだけだった。

「……ん」

 ペットボトルを受け取り、喉を鳴らして飲んでゆく。水分を取れたのにほっとした。

「風呂入るなら、足、ビニールかけましょう」

 昼間、買い物した時に貰ったビニール袋を持ってきて左足に被せ、包帯が濡れないようにテープで留める。立ち上がって手を差し出すと、大和さんはすぐに掴まってくれた。熱でぼんやりとしているのか、ふらつく体を支えながら洗面所に連れて行く。大和さんはドラム型の洗濯機を開けると、中から乾いた着替えを引っ張り出した。

「足、気をつけてくださいね。滑らないように」

「ん……」

 いまひとつはっきりしない反応にはらはらする。一人で風呂に入って、転んだりしないだろうか。でもさすがにじっと見ているわけにもいかずに洗面所を出ると、さあっと軽いシャワーの水音が聞こえてきた。しばらく聞き耳を立てて、大丈夫そうだと判断してから寝室に戻る。明かりをつけて室内を見回すと、積まれているダンボールのひとつにシーツ類と書かれているのを見つけた。

 ちょうどいい、汗をかいていたし交換してしまおうとシーツと枕カバーを剥がし、ダンボールから取り出したものに替える。ついでに窓を開けて空気を入れ換え、毛布と羽毛布団をはたいてふんわりと空気を含ませた。

 こちらの部屋のダンボールも壁際に積み上げて通り道を作っていると、遠くで聞こえていたシャワーの音が途切れた。風呂場の扉が開く音がする。着替えをするだろう時間を待ってから大和さんを迎えに行った。ノックして声をかける。

「開けますよー」

「……おう」

 シャワーを浴びて目が覚めたのか、少し声がしっかりしている。扉をあけると、大和さんは黒いスウェットの上下に着替えていた。だけど頭はまだ濡れたままで、面倒そうに肩にタオルをひっかけている。また手を引いて寝室に戻ると、大和さんは室内を驚いた顔で見回した。

「すみません、勝手にやりました」

「そりゃ、いーけど……」

「じゃ、座ってください」

 戸惑った顔をしていた大和さんだったが、布団をめくって声をかけると黙って腰を下ろした。足に巻きつけたビニールを外す。包帯が濡れていないことを確認して、痛み止めを渡した。

「飲んでください。頭拭きますね」

 こんなに濡れたままではせっかく汗を流しても風邪を引いてしまいかねない。立ち上がって肩にかけられていたタオルで拭くと、短い黒髪はすぐにさらりとした質感を取り戻していった。

 薬を飲んだ大和さんが空になったペットボトルを床に置く。タオルを退かして額に手の甲で触れると、まだ熱を帯びて熱かった。

「大和さん、なんか食えそうですか? このまま寝ます?」

 尋ねると、少し考えてから大和さんは首を振った。

「寝る……」

 呟いてベッドに潜り込んでいくのに、布団を引き上げて肩を包む。部屋の明かりを消すと、大和さんが俺を見上げた。薄暗い部屋の中で、熱のせいで潤んだ瞳だけがくっきりと見える。

「……帰んの」

「え……っ」

 かすれた声で尋ねられて、離れがたい気持ちを見透かされているようで息が止まった。返事を待って、大和さんが俺をじっと見ている。ごくんと喉が鳴った。

「……いて、いいですか」

 大和さんが頷いた。

「じゃ、その、シャワー借ります、あの、リビングのソファ借りますね……っ」

 じろ、と上目に睨まれた。

「寒いだろ……ここ、来いよ」

 大和さんがベッドの端に寄るのに慌てる。

「や、そんな、俺割と寒さ強……っ」

「俺が、さむ……」

「すぐ風呂入ってきます!」

 ダッシュで風呂を借り、寝室に戻る。

「お、お邪魔します……」

 布団を掴んで声をかけると、彼はかすかに頷いた。マットレスを揺らさないように、そうっと傍らに滑り込む。まさか隣で大和さんが寝ているなんてとドキドキもするのに、大きなベッドの寝心地のよさにずんと体が重くなる。大和さんが小さな声で話しかけてきた。

「うるさかったら悪い」

 慌てて首を振る。

「うなされてる時、すぐ起こしたほうが楽ですか。寝かせておいたほうがいいですか」

 尋ねると、大和さんは驚いたように呼吸を揺らした。少しの間の後に呟く。

「……早めに、起こして」

「任せてください!」

 張りきって返すと大和さんはこくりと頷いた。くるりと背を向けて、体を丸めて眠る姿勢になる。けれど聞こえてくる呼吸は上擦って早く、時折寝苦しそうに身を捩る。限界がくると倒れ込むように眠ってしまうのに、眠ろうとしても眠れない。そんな様子が胸に痛かった。

「大和さん……」

 そっと呼びかけると、びくっと肩が震えた。眠ることを諦めたようにごろりと仰向けになり、彼が息を吐く。

「ん……?」

「ちょっと、顔、触ってもいいですか。役に立つかわかんないですけど、家族が寝られない時にやってたんで……」

「いーけど……」

「失礼します」

 閉じた目元を掌で覆う。小さなころ悪夢を見てはしょっちゅう目を覚まして泣き出す妹の目元をこうして塞ぐと、暗くなるせいか、温かいからか、すうっと寝入ることがあった。

「ゆっくり深呼吸してください」

 吸って、吐いて。湿度を帯びた熱い肌の柔らかさを感じながらゆっくりと誘うように深呼吸を繰り返す。それにつられたのか、大和さんの呼吸もまた段々と落ちついていった。

 二人分の体温を包み込んで、ベッドの中が暖かくなっていく。

「……おやすみなさい」

 小さな声で囁きかけると、大和さんがかすかに頷いた。呼吸が浅い寝息に代わってゆく。うなされたらすぐに起こそうと耳を澄ませていたけれど、伝わり合う温かさにいつのまにか瞼が閉じ、俺もまた引き込まれるように眠りに落ちていった。



 目が覚めた時には、窓の外はすっかり明るくなっていた。

 窓に立てかけたダンボールの隙間から目を射すような朝日が降り注いでくる。ぼんやりとそれを眺めて、ふっと大和さんの家に泊まったことを思い出した。大和さんは、と首を巡らせて、いつのまにかこちらに向いて寝返りを打った彼がすうすうと穏やかな寝息を立てて眠っているのを見つけた。

 昨夜は熱に火照っていた頬は白さを取り戻し、だけど血の気を残してかすかに色づいている。苦しげでもない、青ざめてもいない面差しにほっとした。

 このままゆっくり眠っていてほしい。そう願ったのに、ダンボールの隙間から差し込む日差しは陽が昇るにつれて角度を変えて、顔に当たった光に大和さんは目を覚ましてしまった。

 眩しそうに眉を寄せて瞬くと、目の前にいる俺に今気が付いたという様子で視線を向ける。怪訝そうな顔に、もしかして昨日のことを覚えていないのじゃないかと焦った。

「お、おはようございます。えっと、あの、ユー・ステップ・アクターズの野垣陽弘です……っ」

 余計にぎゅっと眉を寄せられてしまった。

「……なんで自己紹介」

 突っ込まれて、覚えているようだとほっとした。大和さんが小さく欠伸を漏らし、顔をぐりぐりと枕に擦り付ける。

「久しぶりに良く寝た……」

「やっぱり寒かったんじゃないですか」

 布団を引き上げて出てしまっていた肩を包むと、大和さんはちらりと俺を見て緩々と息を吐いた。まだ眠そうだけど、柔らかい表情に布団を掴んだ指先が温かくなる。

「大和さん、今日仕事は?」

「夜だけ。お前は?」

「残念ながらフリーです! 一件キープ入ってたんですけど、オーディションなくなっちゃって……」

 堂々と言うことでもないが、オーディションや突発の仕事が直前に入るために、最近はなかなかバイトの予定を入れるのも難しくなっていた。大和さんも身に覚えがあるのか、納得した素振りで頷く。

「あー……オーディション貰えるようになったころが一番生活キッツいよなあ……」

「そうなんですよねえ」

 息を吐くと、大和さんは何かを考え込むように顎を擦った。ふわ、とまた欠伸を漏らしながらも体を起こそうとする。大和さんが起きるなら起きようとがばっと体を起こすと、ベッドに座った大和さんが手を伸ばしてダンボールのひとつを指差した。

「そのへんに貰ったグッズの服、サイズ合わねえの詰めてあるから、いるなら適当に着て」

「えっ! いいんですか?」

「着られねえやつだし。非売品は外に着てったらまずいから、わかんなかったら聞いて」

「たぶん全部わかります!」

 飛んでいってダンボールを開きながら答えると、大和さんがおかしそうに笑った。中からは大和さんが参加した作品が洋服屋とコラボした時のシャツがいくつも出てきて、買えなかった柄の一枚を見つけてありがたく着替えさせて貰う。

 そのころには大和さんはベッドに腰を下ろして歯を磨き始めていた。俺も一緒に歯を磨いて、顔を洗う。寝ている間に緩んだ包帯を巻き直してリビングに行くと、大和さんは目を丸くして室内を見回した。

「こっちも片付けてくれたの」

「勝手にすみません。大和さんが座れる場所作りたくて……」

 ソファに誘導して座ってもらう。

「朝メシ食えます? 食いもん買ってありますけど」

「あ……うん」

「んじゃ、ちょっと待っててください」

 キッチンに取って返す。昨夜、大和さんが起きてきたら作ろうと思って買ったアルミ鍋のうどんを取り出して二つ火にかけた。出汁が沸いてきたところでエビ天やら椎茸やらの脇に冷凍のほうれん草と卵を足して、煮ている間にリビングに向かう。そこらのダンボールの蓋の一部をバリッと引き千切って鍋敷き代わりにテーブルに置き、出来上がったうどんを運んでいった。

 ソファに並んで座り、割り箸とうどんについていた七味を差し出すと大和さんは不思議なものを見るように鍋を見た。

「なんかすげーちゃんとしたもん出てきた……」

「最近の冷凍鍋焼きうどん、うまいですよね」

「そうなんだ」

 割り箸を割ってうどんを啜る。大和さんが目を丸くしてこちらを見た。

「ほんとだ」

 子どもみたいな反応に笑いが漏れる。黙って熱いうどんを食べているうちに、寝起きの体がほかほかと温まってきた。ほとんど同時に食べ終えて箸を置く。

「ごちそうさまでした」

「ごちそうさま」

 声が重なって、顔を見合わせて笑いを漏らしていた。ふう、と息を吐いて大和さんがソファに凭れる。

「じゃ、コーヒーでも……」

 立ち上がろうとすると、大和さんにシャツの裾を掴まれた。

「んな働かなくていいから。座れよ」

 引っ張られてソファに再び腰を下ろした。膝に手を置いて向き直る改まった素振りに、こちらもはっとして姿勢を正す。

「ありがとう。マジで助かった」

 深々と頭を下げられて慌てる。

「い、いやそんな、だから俺、めちゃくちゃ好きでやってたんで、むしろあの、迷惑かけてないかって……」

「それで」

 まくしたてた言葉を遮る強い声に、ぴたっと口を結んで続きを待った。

「頼みがあるんだけど。……足、怪我してる間の送り迎え……」

「やります!」

「早えよ」

 高々と右手を挙げて答えると、大和さんが即座に突っ込んだ。呆れたような顔で笑うのに詰め寄ってしまう。

「やらせてください! 俺、めちゃくちゃ体力には自信あるし、今割と暇ですし、あ、あの、引っ越し屋のバイトずっとしてたんで片付けもできるし、掃除得意ですし、雑ですけど多少は飯も作れますし……っ」

「頼んでるのこっちなんだけど」

「任せてくださいッ!」

「だから早えって」

「俺の最大優先事項、大和さんなんで」

 大和さんが息を飲んだ。怯えたような色が瞳の中に走る。緩々と下がっていく視線が、膝の上で緩く握られた拳に落ちた。

「……なんでお前、そんなにしてくれんの」

 抑揚のない声は、切迫した響きを帯びていた。考えるまでもなく答える。

「ファンだからです」

「ファンだからってさ……」

 大和さんが窺うように目を上げた。視線が合った途端、何かに驚いたように動きを止める。照れくささにちょっと笑って、ずっと思っていたことを言葉にしていった。

「俺……大和さんと、大和さんの演技が、本当に、本当に、大好きなんです」

 大和さんの瞳が揺れた。

「俺、大和さんの演技に救われたんですよ」

 まだ高校生のころ、水泳選手になるという夢が絶たれた時、大和さんの演技で救われたんだなんて照れくさい思い出を彼は身動ぎもせずに聞いてくれていた。

「それからずっと追いかけてたんですけど、大和さん、演技の話になるといっつもガチで、いい作品を作りたいって言ってて、他の人のラジオとか聞いてもアフレコに大和さんいると安心するって言われてて、すっげえ格好いいなって、こういう人に、大和さんみたいな声優になりたいなって思うようになって……」

 俺が話すうちに、大和さんは段々とうなだれるように俯いていってしまった。

「だから俺はファンとして、大和さんが全力で演技できるように応援したいんです……!」

 沈黙が続く。大和さんは、俯いたまま動かなくなってしまった。やっぱり気持ち悪かっただろうかと顔を覗き込む。

「あ、あの……。……ええと……限界オタクですみません……」

 大和さんが首を振った。短い髪がぱさぱさと音を立てて揺れる。顔を覗き込もうとすると、ずず、と鼻を啜るのに慌てた。

「……やべえ」

 かすれた声で言うと、大和さんは目頭を強く押さえた。

「え、……っあ、大和さん……ッ? す、すみませ……っ」

「謝んなよ。……怒ってるわけじゃねえから。……でも、ちょっと、やべえ……」

 震える声にいっそう焦る。ティッシュを探してあたりを見回すが見つからず、自分のバッグからポケットティッシュを出してきて差し出す。

「どうぞ!」

「……お前、なんでも持ってるな」

 まだ震えながらも笑みを含んだ声にほっとした。ティッシュを一枚取ると、大和さんはちーん! と音を立てて鼻をかんだ。はあ、と大きな息を吐き、濡れた目元を手の甲で擦る。

「演技をさ。……好きって言って貰えるの、助かる。ずっとさ、……キャラが好きって言われるのが嬉しかったんだけど……」

「大和さん、ずっとそう言ってましたよね。声優は裏方だから、キャラを好きになって貰うのが一番だって」

 ちらりと俺を見て頷く。強く擦った目元が赤くなっているのにどきりとした。大和さんが細く息を吐き出す。何かを話そうとしているのに気付いて、息を止めて続きを待った。

「今もさ、そう思ってる。……だけど、ここしばらく、キャラが好きだって言われるの、しんどくなってて」

 途切れがちな声を一度切ると、大和さんは気持ちを整えるように胸を押さえた。深呼吸をしてからゆっくりと体を起こし、赤くなった目で俺を見る。

「悪い。……自分語り、していい? あんまり気分のいい話じゃねえんだけど……」

 ためらいがちに尋ねてくるのに、前のめりに応じていた。

「すっっっげぇ聞きたいです!」

 大和さんは苦笑を浮べると、覚悟を決めるように息を整えた。朝の光の中で、痩せてしまった肩が上下する。  

「俺ね。……ファンの子に監禁されたの。十二月の末くらいにさ」

 意味がわかるまでに少しの時間が必要だった。ひゅっと息を飲んだ俺を見て、安心させるように大和さんが笑う。

「最初は、ちょっとヤバそうな手紙が来てるなとか、イベントの時に出待ち入り待ちされて困ったな、くらいだったんだけど。気付いた時には家も収録スタジオも全部バレてて、事務所が注意喚起出したら逆上させちゃったらしくてさ」

 確かにそのころ、大和さんの所属していた声優事務所のSNSアカウントが迷惑行為をしているファンへの注意と、声優に渡せるのは手紙だけ、プレゼントはご遠慮くださいなんて知らせを出しているのを見た覚えがあった。

「スタンガン当てられて、殴られて車に連れ込まれて縛られてさ。今、そういうことする奴もネットでバイト雇えるんだってさ。浮気した彼氏への制裁だとか言ってたみたいだけど」

 これは笑い話だと主張するように、大和さんは高いトーンで話した。俺の視線に応えるように笑ってみせた。だけどその声は、ほんの少しずつ早口になっていった。

「車の中にはさ、『スターリーゲート』の、相馬の……相馬刻の歌が、ガンガン、流れてて」

 ひゅっと喉を鳴らして苦しげに息継ぎをする。

「その子さ、……自分は、相馬刻の彼女だって言って……だから、こう言って自分を口説けみたいなセリフ集作ってきてて。……で、そのセリフ言いながら、……襲えって言われてさ」

「……はあッ?」

 思わず声を上げていた。大和さんがおかしくて堪らないように体を折って笑いを漏らす。だけど、握り締められた手には強張るほど力がこもり、小刻みに震え出していた。

「そんなこと言われてもさ、殴られて縛られて勃つわけねえし……そんなことのために演技させられるのも許せなくてさ。黙ってたらすげえ怒らせて、また殴られて、脅されて、スタンガン当てられて、明け方ぜんぜん知らない山奥でポイされて」

 肩を揺らして笑い続ける。なのに血の気を失ってゆく姿を見ていられずに、手を伸ばした。震える拳を強く握り締める。熱いうどんを食べたばかりなのに、手の中のそれはひんやりと冷えきっていた。

「だから車、駄目だったんですか」

「……ん。車も駄目だし、狭いところ辛い。バスも……電車も本当はちょっと、ヤバい」

 乾いた笑いが漏れ出す。震えを止めたくて、彼の手をいっそう強く握り締めた。

「その……犯人は、今……?」

 今も大和さんの傍をうろうろしているようなら、警戒しなければいけない。だけど大和さんは俺を安心させるように首を軽く振った。

「捕まったよ。俺も怪我してたし、さすがにそのままってわけにはいかなくて。その後、措置入院になったって聞いた」

 かすれた声は溜息混じりで、疲れてはいたけれど怒りは感じられなかった。それが不思議で尋ねる。

「……怒って、ないんですか」

 大和さんが目を上げた。かすかに眉を寄せて、困った顔で唇だけを微笑ませる。

「怒ってないわけじゃないけど、それよりもすげえ後悔してる。俺がもっと上手く立ち回れてたら、しっかり対策してたら、一度は俺が演じるキャラを好きになってくれた子をさ、犯罪者にさせないで済んだかもしれないのに」

「そんなの、大和さんのせいじゃないじゃないですか!」

「でもさ。そう思っちまうんだよ。予想できないことじゃなかったのにとかさ、注目されてることはわかってたんだから、俺のほうがどうにかすべきだったよなとか……」

「違いますよ! 絶対……ッ、絶対、大和さんは悪くないです! ファンは、好きな人が元気でいてくれるように応援するもので、なにがあったって、自分のものにしようとするなんて絶対間違ってる……ッ!」

 叫んだ俺を、大和さんは首を傾げてじっと見つめていた。

「……ありがとな。だからさ、お前がファンだって言ってくれて、すげえ真っ当に声優目指して、一緒にアフレコできるところまで来てくれたの、めちゃくちゃ嬉しい」

 穏やかな笑み混じりの声に、ぶわっと顔に血が上った。ずっと大和さんの手を握っていたことに改めて気付いて慌てて離す。どういたしましてなんて返答はおかしいし、なんて返せばいいのかわからない。口をパクパクさせている俺を、大和さんは面白そうに眺めていた。擦って赤くなっていた目尻が白さを取り戻しているのにほっとする。

「あの……っ、ええと、えっと……っ!」

 オタオタしている間に、言っておかなければいけないことを不意に思い出した。パッと右手を挙げて発言を求める。大和さんが不思議そうに瞬いた。

「何?」

「すみません。大和さんに隠しごとするの嫌なんでお伝えしておきますが」

 どうぞ、とばかりに頷いてくれるのに、最初のアフレコの日、佐々木さんと山倉さんの話を聞いてしまったことを伝える。大和さんが納得したようにああ、と声を上げた。

「だからお前、すぐ自転車で送るって言い出したのか」

「はい。黙っててすみませんでした!」

 頭を深く下げる。だけど、大和さんは柔らかい音で笑った。

「……聞かれたのがお前で良かった」

 穏やかな声に、引きかけた頬の熱さがまた駆け昇ってくる。慌てて俯いて顔を隠し、ぼそぼそと呟いた。

「あ、の。……タンデム自転車、予約しときます」

「おう。頼む」

 大和さんが笑った。

 

 それから俺たちは、バイト代のことでしばらく言い争った。

 大和さんは拘束時間も長いし肉体労働だからと引っ越し屋よりもかなり高い時給を提示し、俺は好きでやっているのだからと抵抗する。だけど最後はちゃんと払ったほうが遠慮なく頼めてありがたいという理屈で説き伏せられる。それでもまるっと飲めるわけがなく、俺はそれならサービスで家事をすると主張し、得意だからとか俺も部屋にいるのだからとか駄々をこねてなし崩しに認めてもらった。

 これで正々堂々と掃除ができると嬉々としてリビングのダンボールを開け始めると、大和さんはソファにころんと横になった。

「うるさくないですか?」

「大丈夫」

 そう言って肘枕に寝そべるのにベッドから毛布を持ってきてかけると、大和さんはもそもそと潜り込んだ毛布の中から目だけを覗かせて作業を眺め始めた。その姿はゴロゴロしながらも興味津々にあたりを眺めている猫のようで、ちょいちょいと猫じゃらしでも揺らしてじゃらしてやりたくなる。

 リビングに積まれていたダンボールからは、大和さんが出演した作品のディスクが大量に出てきた。チケットが取れなくて見られなかった朗読劇や、配信に入っていないアニメのディスクに歓声を上げると「うるせえ」と笑い混じりに怒られる。

 一通り片付いたところで、数枚を手にいそいそとソファに近づいて申告する。

「大和さんッ! これ見たいです!」

「いいけど」

「なら、コーヒー淹れますね!」

 半分スキップでキッチンに向かう。コンロに載せられていたダンボールには、コーヒードリップの道具が一式と、コラボグッズのマグカップがいくつか入っていた。どれも大和さんが演じたキャラクターのグッズだ。

 人気声優は演じる役が多いし、役者がキャラクターに思い入れを持ちすぎると監督や原作者が描こうとする世界の邪魔をしかねないからとわざと距離を置く人もいる。そのスタンスも間違いではないと思うけれど、ファンとしてはやっぱり中の人が大好きなキャラを大事にしてくれていることが嬉しかった。

 よく使っているのか、一番上に入っていた黒地に幾何学模様めいた砂時計が描かれたカップに牛乳を注ぎ、スティック砂糖を二本淹れて温める。その上に淹れたばかりのコーヒーを注いでカフェオレを作り、自分の分は寝転がっているメンドウクサギ柄のマグにストレートのコーヒーを入れてリビングに持っていくと、一口飲んだ大和さんは複雑そうな顔でカップを見下ろした。

「なんにも言ってねえのに好みのコーヒー出てくるの、さすがにちょっと気持ち悪いな……」

「甘いカフェオレが好きだって、大和さん去年の八月くらいのラジオで言ってましたよ」

 ドリップコーヒーにハマっていると話しながらも「でも、いつもカフェオレにしちゃうんだよな」と恥ずかしそうに言うのが可愛くて悶絶した神回を俺が忘れるはずがない。

「……ラジオ、全部覚えてんの」

「たぶんほぼ覚えてます」

「うっわぁ……」

 気味悪そうに体を引くのを横目に、朗読劇のディスクをセットする。十年近く前の映像で解像度は荒いものの音声は大迫力で、思わず前のめりになって聞き入る。時々思い出したように大和さんが裏話を話してくれるのがあまりにも贅沢だった。

 のんびり夕方まで過ごして、大和さんを仕事に送っていく。今日の収録は渋谷と恵比寿の間くらいにあるスタジオで、大崎のマンションからはそう遠くなかった。送り届けてすぐに自転車をユーターンさせて事務所に向かう。

 三階まで階段を駆け上がると、やっぱり事務所の中ではマネージャーさんや声優たちがバタバタしていた。きょろきょろしていると、こちらに気付いて振り向いた菊池さんと目が合う。近づいてくるのに、ばっと足を揃えて頭を深く下げた。

「おはようございます!」

「おはよう。どう? 現場」

 尋ねてくれる声に勢い込んで答える。

「いろんな役やるのは難しいですけど、めちゃくちゃ勉強になります。あ、あと、すみません、大和さんにファンだってばれちゃいました。でもすっごく良くして貰って、今日も見たことなかった朗読劇の映像見せて貰ったりして……っ!」

 大和さんの事情について当然言うつもりはないが、ファンだとばれないようにしろと言われていただけに、一緒にいることが多くなった状況を報告しておく必要はある。菊池さんが驚いた顔をした。

「意外。大和さん、騒がれるの苦手そうなのに」

「あの、たぶん騒ぎすぎて呆れられたっていうか諦められたっていうか……」

「あー……」

 呆れと納得が半々になった声を漏らすと、菊池さんは表情を引き締めた。

「まあ、それならこの機会に色々勉強させてもらうといいよ」

「ハイッ!」

 体中で頷く。目の前に、大型の封筒が差し出された。

「新しい台本きてたよ。来週、もしかしたら一件仕事入るかもしれない。名前出ないナレーションなんだけど……」

「なんでもやらせていただきますッ!」

 賞状のように両手で押しいただいて頭を下げる。菊池さんが頷いた。

「野垣くんは、内容問わず現場出るのが希望ってことね」

「はいっ」

「了解、覚えとく」

 頷いて歩き去って行く背中に頭を下げる。とにかく今はどんな仕事にも飛び込んで経験を積みたい。希望を聞いて、調整してくれるマネージャーがいることがありがたかった。


 一時間ほど養成所の夜の練習に参加させてもらって、アパートに荷物を取りに帰ってから大和さんを迎えにいく。俺が今日も泊まっていいかと聞くと、大和さんは黙って頷いた。

 余程外では気を張っているのか、大和さんはマンションに帰ってくるとまた熱を出したけれど、外出していた時間が短かったせいか昨日よりは少しましで、ベッドに倒れてしまう前にスポーツ飲料を一本飲むことができた。

 ぐったりした大和さんを布団で包み、うなされたらすぐに揺すり起こして、汗をかいていたら風呂に連れて行って着替えさせる。夜になると大和さんはほとんど喋らなくなったけれど、ベッドの左側を空けていてくれていて、俺も隣で眠るのが当たり前のような気がした。

 そっとベッドに入ると、大和さんに片腕を引っ張られた。されるままに任せていると、おでこの上や目の上とあちこちに試すように乗せられ、最終的に仰向けの胸の上に置かれる。

「重いと、安心する。……置いといて」

「は、はい……っ」

 恥ずかしいのか顔を逸らしたまま言うのに慌てて頷く。

 それから俺は、大和さんとずっと一緒に過ごすようになった。

 家中のダンボールを片付けて見つけ出した電気シェーバーを洗面所に置くと、大和さんは伸びていた不精ひげを剃り落とした。どうも、シェーバーを探すのが面倒で最低限カミソリで整えるだけになっていたらしい。

 見つけ出したといえば、寝室に大量に積み重なっていたダンボール箱を開けると、雑誌や動画で見覚えのある服が山のように出てきた。しかしこちらはクローゼットにかけても着ようとしないのでやっぱりカジュアルな服のほうが好きなのかと尋ねると、大和さんは「クリーニング屋がどこにあるかわからない」と困った顔をした。引っ越したばかりでクリーニング屋を探すことも、持っていくこともできず、アイロンをかける元気もなくて、洗濯機で乾かして着られるものだけを着ていた結果が今の服装だったらしい。

 クリーニングには俺が持っていくからと洗濯籠の横に紙袋を置くと、大和さんは頷いて以前のような細身のジャケットやシャツを着るようになった。ひげを剃り、キレイめの服を身につけた大和さんはずっと遠くから見ていた彼そのままで、「本物だ!」と叫ぶとなんだかとても嫌な顔をされた。

 山ほど出てきたアニメや映画のディスクを入れる場所が必要だと訴えてテレビ台と一体になった棚を買ってもらい、リビングにはグリーン、寝室にはブルーのカーテンをかけて、毛足の長いミルキーホワイトのラグをソファの前に敷く。居心地良くクッションを並べたソファに、大和さんは『翠燦すいさん破砕斬ブレイカー』の台本を手に腰を下ろした。

「練習しようぜ。台本持ってこいよ」

 当たり前のように言われて息を飲む。

「い、いいんですか……っ!」

 アニメは舞台と違い、集まって練習することはない。声優は一人で練習を重ね、リハーサルで用意してきた演技を披露して音響監督が調整をするとすぐに本番の収録が行われる。集まって練習ができるのなんて、養成所やワークショップでお金を払ってやらせてもらえる時くらいだった。それが、大和さんと練習できる。夢みたいで体が震えた。

「俺が返せるの、これくらいだし。二人いるんだから一人で練習することないだろ」

 ぼそぼそ言うのにダッシュで台本を取ってくる。隣に座ると、大和さんは俺が演じるモブだけではなく、主人公のリベルを始めとした色々なキャラクターをやらせてくれた。

 そうして、どんどんリクエストを振ってくる。

「もうちょい明るいトーンでやってみて」

「そこ、もっと急いで入って」

「ギャグに寄せられる?」

 言われるまま、同じシーンを何度も演じる。そうしている間に、ほんの少しだけ入る間が早いだけで、語尾が跳ねるだけで、シーンの意味が変わるのに気が付いて舌を巻いた。大和さんはどんな意味を持たせてこの場面を演じようとしているのか、全身で探りながら演じていると、大和さんは楽しそうにガンガンアドリブを振ってきた。振り落とされないように必死で食らいついていくほどに、俺の中からズルズルと何かが引っ張り出されていく。一体どこまで演じられるのかと、引き出を片っ端から開けて引っかき回されているようだった。

 通しで練習するともう息も絶え絶えで、ばたっとソファの背もたれに倒れ込んでしまった。だけど大和さんは録音を聞くと次はこうしてみようだのああしてみようだのと新たなプランを話し出した。弱音なんて言っていられずにガバッと体を起こして応じる。

 それに、次の収録では俺にも名前のついた役があった。といっても、登場シーンは主人公の仲間のロザリアに一目惚れしてぶっ倒れる一場面だけだし、セリフも一言しかない。名前にしたって、鼻血を吹いて倒れ込むところを受け止めたクラスメイトが「ウリィ! しっかりしろ!」と呼ぶから判明しているに過ぎない端役だ。だけど、名前が付いている以上、これは俺のキャラクターだ。そのワンシーンを、大和さんは何度も、何度も練習をさせてくれた。実際に声を出す練習だけではない。どんなキャラクターなのか、どんな背景があるのかも一緒に考えてくれる。言葉を重ねるほどに、今までとは比べものにならないくらい場面が把握できてゆく。くたくたになりながらも、次の収録が楽しみで仕方なかった。



 地下に続く鉄階段を下りていく。一週間ぶりのスタジオがひどく久しぶりのような気がした。まだ包帯が取れていない大和さんに手を貸そうとしたら首を振られてしまったが、先に立って降りることで大和さんが万が一転んでも絶対に受け止められるようにする。

「おはようございます!」

「おはよー」

 挨拶をしながらロビーに入る。振り向いた先輩たちが大和さんを見て驚きの声を上げた。

「あ! 小綺麗な大和さんだ」

「イメチェンやめたの? 撮影?」

「足どうしたの? 怪我?」

 わいわいと囲まれていく。大和さんが包帯を巻いた左足をひょいと上げてみせた。

「自転車でコケてさ」

「あー……」

 納得した声が上がる。

 毎日のように熱を出すせいか大和さんの捻挫はなかなか治らず、隠しきれない包帯を自転車で転んだ怪我だと説明しようと二人で決めていた。幸い和田さんもあの時のものだとは気が付かなかったようで、心配そうに「気をつけてね」と声をかけるだけだった。

 開始の声がかかり、ブースに移動する。気合いを入れて台本を握り締めた。

 収録が順調に進んでゆく。この回では、学園での穏やかな一時が描かれていた。弾むようなテンポで続く掛け合いの中、主人公の仲間の一人であるロザリアが登場する。ロザリア役の先輩は、登場シーンを華やかに明るく演じた。それなら、こちらもギャグ寄りにしたほうが噛み合うだろう。マイク前に素早く歩み寄り、上擦って震える音を声に混ぜて演じた。

「ロザリア先輩……ッ! お美しい……ッ」

 きゅー、と倒れ込む時の息を漏らして、すぐにマイク前から下がる。ミキシングルームをちらりと見たけれど、山倉さんは何も言わなかった。どんなに上手く演じても現場で褒められることなんてない。だから、リテイクにならなかったことこそが成果だった。

 今までにない達成感の中で昼休憩に入る。ロビーに出ると、ちょうど外の階段を佐々木さんが下りてくるところだった。こちらを見た途端に驚いた顔で目を見開き、慌てて大和さんに駆け寄ってくる。

「大和さん、どうしたんですか、それ、足……っ」

 マネージャーに言っていなかったのかと驚いて振り向くと、大和さんは少し困った苦笑いを浮かべていた。

「すみません、自転車で転びました」

 軽く頭を下げながら昼に出て行く皆の邪魔をしないように壁際に寄ってゆく。ちらりと向けられた視線に呼ばれているようで、その後ろをおずおずと着いていった。佐々木さんもおろおろと追ってくる。

「だ、大丈夫ですか。それに、あの、移動とか……」

 あたりを憚るように佐々木さんが小声になっていく。大和さんに軽く肩を叩かれた。

「大丈夫です。野垣くんに助けてもらったんで」

 佐々木さんが俺を見る。はっとして、改めて頭を下げた。

「お、お疲れさまですっ」

「ユー・ステップ・アクターズの野垣さん……でしたよね。お世話になっております」

 佐々木さんが頭を下げてくる。さすがマネージャーさんと言うべきか、一度挨拶しただけなのに覚えてくれているのに驚いた。

「あの、野垣さんに助けてもらってっていうのは……」

「タンデム自転車で送り迎えさせてもらってます!」

「タンデム自転車?」

 ものすごく不思議そうに繰り返される。佐々木さんが尋ねるように目を向け、大和さんは頷いた。だけどそれ以上説明しようとはしないのに、佐々木さんは諦めたように俺に目を向けて、すっと内ポケットから名刺を出してきた。

「ありがとうございます。何かありましたら、こちらにご連絡ください。どうぞよろしくお願いします」

「あ、……っはい! すみません、貰うだけになっちゃうんですが……!」

「とんでもないです」

 名刺交換の正式なやりかたがよくわからないまま両手で押しいただくと、佐々木さんがほっとしたように笑った。傍らに置いていた紙袋を取って大和さんに差し出す。

「これ、差し入れです。皆さんで」

「すみません、ありがとうございます」

 大和さんが頭を下げる。佐々木さんが何かを言いかけるように口を開いて、ためらった後にきゅっと閉じた。

「お昼時にすみませんでした。これ、インタビューの依頼が来てたんで目を通しておいてください」

 差し出した封筒を大和さんが受け取ると、佐々木さんは何度も頭を下げて帰っていった。手を出して差し入れの紙袋を貰い、チョコレートを挟んだ薄いクッキーの箱を取り出す。差し入れ置きになっているロビーのテーブルに『大和さんから』と書いて並べた。

「マネージャーさんに怪我、言ってなかったんですね」

 階段を見上げてぼんやりしていた大和さんが、思い出したようにこちらを向いた。

「……あんま心配かけたくねえんだよ」

 首を傾げて顔を見ると、大和さんはふう、と息を吐いた。

「ただでさえ都内のアフレコしか行けなくて迷惑かけてんのに、これ以上問題起こして使えないと思われたら困る」

「大和さんを使えないなんて思うわけないじゃないですか……!」

 勢い込んで反論すると、大和さんは自嘲混じりの笑いを浮かべた。

「んなことねえよ。声優なんて山ほどいるんだし、製作会社から指名してもらったり、事務所から仕事紹介してもらえなかったら、あっという間に干上がる。……だろ」

 確かに、それは声優の仕事の一面だった。自分では仕事を作れずに、声をかけてもらうのを待つしかできない。否定できずに黙ると、大和さんは笑みを深めた。

「昼行こ。食いっぱぐれるぞ」

 歩き出した背中を一歩遅れて追う。仕事がなくなるのが恐い。だから、マネージャーには駄目なところを見せたくない。その気持ちは俺にだってよくわかる。だけど、心配そうな佐々木さんの顔が頭から消えなかった。



 菊池さんが言っていた名前が出ない仕事というのは、ショッピングモールの五月の催事アナウンスだった。収録スタジオは広い待合室を中心に大小さまざまなブースとミキシングルームがいくつも並んだ大きなところで、何人も顔を知っている声優さんが行き来しているのに緊張しながらブースに入る。

 子どもの日の菓子を紹介するナレーションの中に子どもの演技が入っていて、落ちついたナレーションから一気にハイトーンに変えて小学生くらいの子どもを演じる。元の声質が低めなだけにちゃんとできたか心配だったが、一発オッケーを貰えてほっとした。

 監督さんに挨拶をしてブースを出る。休憩してから帰ろうとロビーの端にある自動販売機のほうに向かうと、見覚えのあるスーツ姿を見つけた。

「佐々木さん?」

 振り返った佐々木さんが驚いた表情を浮かべる。

「野垣さん、お疲れさまです」

「あっ、お疲れさまです!」

 きっちりと礼をされて、こちらも慌てて頭を下げた。

「収録ですか?」

「はい。佐々木さんも?」

「ええ、今日はちょっとご挨拶もあって」

 視線が向かう先には、十数人が入れるブースの扉があった。佐々木さんは大きな事務所のマネージャーさんだから、大和さん以外にもたくさんの声優を担当しているのだろう。

「……今、少しだけお時間よろしいですか?」

「えっ、あっ、はい……っ」

 突然改まった声をかけられて慌てる。佐々木さんが自動販売機を示した。

「良かったら飲み物いかがですか。自動販売機で申し訳ないんですけど」

 遠慮しようとして、佐々木さんの緊張した顔に気付いた。遠慮しすぎたらギクシャクしてしまいそうで、ためらいつつも微糖のコーヒーを指差す。

「じゃ、コーヒーで……ありがとうございます」

 出てきたコーヒーを受け取って礼を言う。先に立って歩き出した佐々木さんは、ロビーの隅のパーティションで区切られたミーティングスペースに向かっていった。椅子を示されて腰を下ろすけれど、こんなところに座るのは事務所の面談の時くらいで緊張する。視線を向けると、向かいに腰を下ろした佐々木さんが膝に手をついて頭を下げてきた。

「改めて、ありがとうございます。自転車で送り迎えって、大変でしょう」

「とんでもない! 俺、どうせ都内動くの自転車だし、好きでやらせてもらってるんで……!」

 慌てて手を振る。佐々木さんはポケットから取り出したハンカチで汗ばんだ額を拭うと、言いにくそうに視線を床に落とした。

「野垣さんは、その……」

 紺色のチェックのハンカチを手の中でくしゃくしゃに丸めていく。尻すぼみに小さくなっていく語尾に、俺がどこまで知っているかわからなくて不安にさせていることに気付いた。少し考えて、万が一誰かに聞こえても意味がわからないように言葉を選ぶ。

「車のことは、聞いてます」

 佐々木さんがぱっと顔を上げた。数秒の後、全身から絞り出すような溜息を吐く。

「それは、本人から?」

「はい。教えてもらいました」

「それは、よかった……よかった。あの、彼はね、僕なんかには何も言ってくれないからね、そう、話せる人がいてくれるなら、よかった……」

 吐息混じりに言いながらぐしゃぐしゃにしたハンカチを丁寧に畳み、額を拭う。安堵した顔に俺もなんだかほっとして、怪我をしてから、俺が無理矢理に押しかけて世話をさせてもらうようになった事情を簡単に話した。前のめりに机に肘を置いて、佐々木さんが何度も頷く。 

「佐々木さんは、事務所移籍してから担当になったんですよね」

 心配そうな佐々木さんと、緊張して距離を取ろうとしている大和さんがうまく結びつかずに尋ねると、佐々木さんはきゅうっと眉尻を下げて頷いた。

「そうなんですよ。前の事務所さんはね、あまり人手があるところじゃなかったから。どうしても、事件の後の対応とか、病院の手続きとかには手が足りなかったからね、ウチに来てもらうことになったんですけど……」

 ふう、と大きな溜息を吐く。

「その時、彼はね、すごーく大変だったから。どうしても何もかもが事後承諾みたいになっちゃってね。もしかしたら見捨てられたみたいな気持ちにさせてしまったのかもしれないなあって、今となっては思うんですけどね……」

「そうだったんですか」

 大和さんが元々所属していた事務所はけっして大きなところではなかったけれど、それだけに先輩後輩同士仲がよく、大和さんのラジオに後輩声優が出ることもよくあった。そうして馴染んでいた環境から同意もなく突然移籍させられたとすれば、また同じことが起きるのではないかと大和さんが構えてしまっているのも無理はない。コーヒーを啜ると、微糖のはずなのに苦味ばかりが舌の奥に残った。

「ちょっと、聞いてもいいですか」

「私に答えられることでしたら」

 首を傾げた佐々木さんと目を合わせる。

「相手はその……入院になったって聞いたんですが、出てくるようなことはないんですか」

 ずっと気になっていたけれど、今もまだ夜眠ることもできないほどに疲弊している大和さんにはとてもあれ以上は尋ねられなかった。佐々木さんがぎゅっと眉を寄せて声を低める。

「心神喪失ってことになりましてね。罪になるかはわかりませんが、少なくとも今すぐ出てくるようなことはないですし、万が一出てきてもその時には連絡が来るようになっていますので安心してください」

 声は抑えられていたけれど怒りの太さを芯にはらんでいて、一見気弱そうにも見えるこの人の強さを感じさせた。けれど、犯人も心を病んで入院したというのでは怒りのぶつけどころがなくて、なのに収めることもできなくて、ひどくやるせないような気がした。

「悔しいですね」

「本当に」

 短い言葉を交わして頷き合うと、佐々木さんがぐっと身近に感じられた。

「俺……できるだけあの人に付いてますので! どうぞ、よろしくお願いします!」

 頭を下げると、額を机にぶつけそうになった。慌てて顔を起こすと、佐々木さんに今度は頭を下げられた。

「こちらこそ、どうかよろしくお願いします。……野垣さんがついててくれて、彼がね、一人になっていなくて、本当によかった……」

 しみじみとした声に、はっと最初のアフレコの日のことを思い出した。黙っているのも隠し事をしているようで気持ち悪く、ぼそぼそと話し出す。

「あ、あの……俺、佐々木さんに謝らなきゃいけないことがありまして……」

 不思議そうな顔を見つめて、息を吸い込む。

「実は、あの、俺、立ち聞きしちゃって……」

「立ち聞き」

 山倉さんとの話を聞いてしまったのだと話すと、目を見開いた佐々木さんは額に流れた汗を慌てた様子で拭った。

「それは、気をつけなきゃいけないのは私のほうですね……面目ない……」

「そんな、俺がトイレにこもってたのが悪かったんです。すみません」

 またしても俺が頭を下げると佐々木さんも頭を下げて、二人であたふたする。

「あ……っ、そうだ、あの、連絡先、交換させてください。俺からもなにかあれば連絡しますし、佐々木さんからもいつでも声かけてもらえれば……!」

「助かります。すみません」

 言った途端、流れるように携帯を出した佐々木さんのスピード感にちょっと笑った。



 大和さんのマンションで生活を始めて二週間ほどたつと、大和さんは帰ってきてすぐにベッドに倒れ込むのではなく、リビングのソファで横になるようになった。

 無理矢理に抑え込まれていた疲労がじわじわと燃え広がってゆくような発熱は続いていたけれど、毎日のことなら対応にも慣れる。まずはスポーツ飲料を飲ませて水分を補給してもらい、楽な服に着替えてから横になった体に毛布をかける。そうしてしばらく眠ってから目を覚まし、風呂に入ったり飯を食ったりするのが習慣になっていった。

 大和さんが寝転がるソファの足元に腰を下ろして尋ねる。

「俺、うるさくないですか?」

「うるさいほうが寝られる。この部屋、静かすぎんだよ……」

 確かに、三十二階ともなると車の走る音も人の話し声も、街の音はほとんど聞こえない。吹き抜ける風の音はよく聞こえたけれど、空の高くから響く和笛のような響きはいくら鳴り響いても不思議に静けさを際立たせるだけだった。

 毛布をかけた胸の上に片腕を乗せると、大和さんは安心したように息を吐いた。浅い眠りに落ちてすぐが一番うなされるから、すぐ起こすために傍にいるようにしていたけれど、大和さんは少し眠たげな声で話し続けた。

「……俺、上に二人いるし、じいちゃんばあちゃんも一緒に住んでたからさ。……家、いっつもうるさくて……」

「お兄さんとお姉さんでしたっけ。年、離れてるんですよね」

「そ。……六つ上と、四つ上」

 これもいつかラジオで話していたことを覚えているのがおかしかったのか、大和さんは小さな声で笑った。

「お前は? なんか、妹いそう」

「その通りです。四つ下」

「やっぱりな……」

 吐息が混じる声の穏やかさが嬉しくて、子守歌代わりになればいいとゆっくり喋り続ける。

「結構やんちゃな妹で、俺がなにやってもついてきてすっ転んだりしてたんで、いまだに絆創膏とかウエットティッシュとか持ち歩いちゃうんですよね」

 ふわふわのグレーの毛布に鼻先まで埋めて大和さんが頷く。表情は穏やかだったが、発熱の火照りに頬も、目元も赤みを帯びていた。

「でも、なんかあった時にすぐ必要なもん出せる自分が嫌いじゃなかったりして、だから、大和さんがなんでも持ってるって笑ってくれたの、俺、嬉しかったんですよ」

 眠りを邪魔しないように、低く抑揚を抑えて話しかけていると、頷いていた大和さんはいつしかすうっと眠りに落ちていた。今日は夢を見なかったのかうなされて呻くこともなく、俺はしばらく彼の寝顔を眺めていた。

 一、二時間眠ると、大和さんは最低限の充電が終わった携帯の電源がようやく入った時に似て、気怠そうに目を覚ました。

「大和さん、なんか食べられそうですか? 豚汁作ってありますけど」

「……食べる。飯にかけて」

 かすれた声に頷く。大和さんは夜になると食欲がなくなったけれど、柔らかく煮たうどんだとか、汁かけ飯だとか、温かくて柔らかいものならどうにか食べられた。だから、飲み込みやすいようにお椀にちょっとだけ米をよそって、大鍋に作った豚汁をぶっかける。料理とも言えないものだったが、大和さんはぶっかけ飯をスプーンですくいながら噛み締めるように食べてくれた。

「こんなもんしか作れなくてすみません」

「なんで。俺これ好き」

 お椀から豆もやしをすくいながら言ってくれる。飯を作るのは苦ではないが、必要に迫られて自炊をしているだけなのでレパートリーが少ない。豚汁はその中でも一番登場頻度が高く、週に一度は作っていた。

「お前、豚汁好きなの?」

「好きっていうか、豚汁と飯さえあれば最低生きてけるじゃないですか。たんぱく質と野菜入ってるし、野菜は何入れてもだいたい食えるし、豚こまが特売の時に大量に炒めて具材冷凍しておけばすぐできるし」

「雑に逞しいよな……」

「そこは自信あります」

 俺はスーパーのコロッケを追加してどんぶりに二杯飯を食いながら、スタジオで佐々木さんに偶然会った話をした。

「佐々木さん、心配してました」

 大和さんが空になったお椀を置いて溜息をつく。ぽいと投げ出された木のスプーンが空のお椀の中で跳ね返って鈍い音を立てた。

「……わかってる」

 ぼそりと呟くような返答に顔を見つめた。ちらりと俺を見た大和さんがくしゃくしゃと髪を掻き回してまた息を吐く。

「今の状態がさ、あんまよくねえのはわかってるんだよ、俺だって。相談しなきゃいけないのもわかってる。けど……まだこんな熱出るとか、動けなくなるとか知られたらまた休養だなんだって言われそうで……」

 俯いた大和さんが、拳を握り締める。佐々木さんを前にした時にこの人が浮かべる、礼儀正しくて明るくて、どこかヒリヒリするほどに緊迫した笑顔を思い出した。 

「仕事したい。……もう、これ以上役無くしたくねえんだよ」

 呻くような低い声に目を見張る。

「これ以上って……」

 俺が知る限り、降板や交代になったキャラクターはないはずだ。大和さんが、片頬を歪めて笑った。

「――相馬。相馬刻」

 俺の顔を見ながら、いっそう歪んだ笑みを深める。歌うように、囁くように話し続けた。

「相馬の歌聞いても、セリフ聞いても、画像見ても吐いちまうんだよ。演技できねえの。思い出しちまって。たぶんこのままだと、降りることになる」

「けど、あれは大和さんの当たり役で……っ、他の人じゃ……」

「だからさ。下手すんと、すげえ広範囲に迷惑かけて違約金だなんだのって話になりかねない。事務所にも大迷惑かけることになる。だから、せめて他の役はちゃんとやりたいんだよ……」

 膝の上に置かれた大和さんの手が震える。震えを抑え込むように手を重ねた。

「……しんどい話させてすみません」

 大和さんは俯くと首を振った。熱を増した息を吐いてふらついた体に思わず肩を抱いて支えると、そのまま体を傾け肩に頭を乗せて寄りかかってくる。独り言のように小さく呟いた。

「……ライブ……出たかったな……」

「五月の?」

「そ。……五周年だからさ、新曲も用意してもらって、スペシャル朗読劇も、ちゃんと衣装用意してやることになってて……」

 夢見るように呟く声が震えている。俺も見たかったなんて言葉を漏らしてしまわないように唇を噛んだ。この間、自由に着ていいと言われたダンボールの中にも、大和さんが着ていたものの中にも、相馬刻のグッズはなかった。たぶん、引っ越す前に全部捨てたのだろう。他のグッズはびっくりするくらい取っておいて使っている大和さんがそこまでするというのは、余程しんどいのだろうと思いかけて、頭の隅に何かが引っかかった。はっと顔を上げる。

「……コーヒー、淹れますね」

 軽く肩を叩いて声をかけると、大和さんは小さく頷いて体を起こした。皿を片付けてキッチンに運び、コーヒーを淹れる。いつも通りマグカップに牛乳と砂糖を入れて温め、カフェオレを作ってリビングに運んでいった。

 熱が上がってしまったのか、ソファに凭れていた大和さんは俺を見ると手を伸ばした。カップを受け取り、甘いカフェオレを飲む。テーブルにカップを戻すのを待って、声をかけた。

「……大和さん、これは?」

 人差し指で、使い込まれたカップの縁に触れる。黒いマグカップに紫色で幾何学模様にしか見えない砂時計がデザインされたカップは、ロゴも、キャラクターも描かれていなかったが、確かに初期の相馬刻のグッズだった。大和さんも気付いたのか、ゆっくりと目を見開いていく。

「……ずっと使ってたから、忘れてた……」

「このデザインはゲームの初回限定版についてたマグカップだけで他に使われませんでしたし、相馬刻のモチーフの時計はほとんど懐中時計で、砂時計バージョンは他になかったからあんまりイメージなかったのかもしれませんね!」

 まくしたてると、気圧されたように大和さんが体を引いた。その様子を確かめてから尋ねる。

「気持ち悪くないですか」

 大和さんが頷く。そして、はっとしたように喉もとに手を触れた。深く頷き返す。

「全部が駄目じゃないなら、なんとかなるんじゃないでしょうか……っ、慣れるように訓練すれば、きっと……!」

「……そう、かな」

 不安げな声で言いながらも、大和さんは縋り付くように俺を見ていた。だから、精一杯の自信を声に乗せた。

「なんとかなります。……なんとかしましょう!」

 少しの時間が空いて、大和さんは意を決したようにきゅっと唇を引き締めた。

 


 訓練は、大和さんの体調が良い朝にすることに決めた。

 どこまで大丈夫なのかを確認するために、他のキャラクターの持ち歌を鼻歌で歌いながら起こしてみると、寝起きでぼんやりしていた大和さんは大変に不思議そうな顔をした。

「なんか曲違わないか」

「相馬以外の歌ってゲーム中にしか聞いてなかったんで……」

 曖昧なメロディラインをフンフンと歌うと、大和さんは小学生が練習するリコーダーを聞いた飼い犬のように首を傾げた。けれど、これは案外いけるかとゲームを開いた途端、流れたオープニング曲に真っ青な顔をして吐いてしまう。

「す、すみません……っ」

 慌てて閉じる。それから色々試してみてわかったのは、相馬刻のキャラクタービジュアルやロゴ、なにより歌が駄目で、劇伴音楽も聞くのは難しいけれど、他のキャラクターの持ち歌はなんとか聞けるいうことだった。セリフはどうだろう、と試しに朝ご飯のトーストと卵焼きを出しながら声真似をしてみる。

「今日もトレーニング頑張ろうな! その前に、まずは朝ご飯で元気出そうぜ!」

 大和さんが瞬く。

「……妙に似てんな……」

「声質近いんで、真似しやすいです」

 元気すぎてうっとうしいお馬鹿キャラの東堂元気を演じている早河さんは、俺と近い音域の持ち主だった。大和さんがちらりと首を傾げる。口を開いた途端、まだ声変わりもしていないような少年ボイスが出てきて驚いた。

「あのさ、真似するならこっそりやってくんない? ……ちょっと、恥ずかしいから」

「うわっ、大和さんのショタ声だ」

「うわってなんだよ。失礼な」

「レア度が高くて……」

「そうか? 結構やってる気がするけど。兼ね役で」

「だいたい一言じゃないですか。長いセリフは貴重なんですよ!」

「あー……」

 熱を込めて訴えるが、だいぶ慣れたのか流される。大和さんが言ったのは、ツンデレ下級生の黒木悠真のセリフだった。他はどうだろうと確かめる素振りでぶつぶつと小さな声で呟くのを一言も聞き漏らすまいと耳に集中した。

「他キャラのセリフは割といけるな……」

「なら、まずは他キャラのセリフ言ったり曲聞いたりして慣れていきましょうか」

 前のめりに提案すると、疑わしげに見上げられる。

「お前、なんか楽しそうじゃね?」

「正直、大和さんの色んな声と演技が聞けてラッキーとは思ってます」

 両手をついて頭を下げる。

「けど、出来るところから始めるにはありでしょう!」

「まあ、やってみるしかないか……」

 さっそくブックマークに入れていた『スターリーゲート』のWebラジオのアーカイブを開く。まずは他キャラの演者さんたちのトークの部分だけを再生してみたけれど、大和さんの顔色はみるみるうちに青くなっていってしまった。難しいか、と止めようとした手を大和さんが掴んで止める。頑張って聞こうと唇を噛み締めるのに、携帯を遠くに置いて話しかけた。

「この収録って、どこでやってたんですか?」

「え……あ、ああ、確か渋谷のスタジオじゃなかったかな」

「こないだ俺も渋谷行きましたけど、同じですかね? 大きいロビーに、ブースと音響ルームがいっぱい並んでるとこ」

「インフレーションだろ。そうそう。あそこナレとかラジオだと定番だから」

「ロビーに顔知ってる声優さん何人もいてちょっとビビりました」

 大和さんがかすかに笑う。ラジオを流しながらお喋りをしている間に、顔色は青いものの頬の強張りはマシになっていった。あまり集中して聞かないほうがいいのかもしれない。だから、なんとなく聞こえる程度の音量でラジオを流したり、会話にセリフを混ぜたり、鼻歌を歌ったりしながら音が流れていることが当たり前になるのを目指して過ごしていく。似ていると言われたのがなんだか嬉しくて、東堂元気の歌が流れるたびに歌っていると、大和さんが小さく吹き出した。

「お前、その歌似合うな」

「自分でもちょっと他人だと思えないです」

 流れてきたサビに合わせてまた歌う。

「へいへーい! 今日も元気かー? ちょっと落ちこんでるって? そんなのダメダメ! お前はすごいんだぞー! だって、お前は……えーっと……その、なんだっけ? あ! そうそう! めっちゃ可愛い! だから大丈夫! 俺が保証する!」

 どう聞いてもだいぶバカだが、さらにこの歌詞は「めっちゃ優しい!」「めっちゃ頑張ってる!」という二番三番に続く。勢いまかせのまっすぐなバカさがどうにも他人だと思えない。歌い続けていると、大和さんが楽しそうに笑っていた。

「なんか元気出るわ」

 大和さんの元気が出るというのなら、歌わない理由がない。他の東堂の歌を歌ったり、オープニングやエンディングも東堂のパートだけを歌ったりしているうちに、大和さんもぽつり、ぽつりと他キャラのパートなら歌ったり、聞いたりが出来るようになっていった。それでもしんどい時は気を散らそうと収録中の裏話だとか、貰って嬉しかった差し入れだとか、皆でご飯を食べに行った話なんかをしてくれる。今日は大丈夫でも、次の日はイントロを聞いただけで吐いてしまうような状況が続いたけれど、大和さんが『スターリーゲート』の話をしてくれることが増えていくのが嬉しかった。



 毎日熱を出すせいか大和さんの捻挫は治りが悪く、三週間近くが過ぎても腫れや痛みはなかなか消えなかった。

 朝の通勤ラッシュが終わり、人通りが減り始めた目黒川沿いを自転車で北上してゆく。いつのまにか川縁の桜は満開を迎え、風が吹くたびに柔らかい雪のような花びらがはらはらと吹きつけてくる。どこからともなく引き出されてくる屋台が次々に路肩に並び、着々と開店準備が始められていた。

「桜、すごいですねえ」

「おー」

 話しかけるとのんびりとした返事が返ってくる。夜になると夜桜を見にきた人でこの道は埋まってしまうから、忙しい朝に走り抜ける一時だけが俺たちのお花見の時間だった。

 収録スタジオに大和さんを送り届ける。事務所に行こうかともう一度自転車を走らせ始めたところで、メッセージの着信音がした。大和さんからだ、と自転車を路肩に停めて携帯を取り出し、『ケーキ買ってきてくれないか』というメッセージに首を傾げた。

 モブ役の新人声優がちょうど誕生日だったらしく、知った以上は放っておけない、お祝いしたいというのが大和さんらしくて笑いが漏れた。『了解』と一言送り、昼休憩までに間に合うように買えるケーキ屋を探そうと地図を開く。けれど、誕生日ケーキとはいってもスタジオには当然ナイフもフォークもないし、ホールケーキでは食べにくいだろう。どうしようと考えて、ふと思いついた。

 佐々木さんなら、きっとこんな時差し入れるのにいいケーキを知っているんじゃないだろうか。忙しかったら返事はなくて大丈夫だと言い添えて先日もらった連絡先に尋ねてみると、待つほどもなく写真付きのメッセージが返ってきた。色とりどりのロールケーキをタワー状に積み上げて、フルーツやチョコレート、リボンで飾られたケーキの華やかさに声が漏れる。

「うっわ綺麗」

 ピンク色のロールケーキの中にはいちご、ココア生地にはチョコクリーム、たまご色の生地には生クリームと色とりどりのフルーツが巻かれている。これなら切り分ける必要もなく手も汚さずに食べられるし、めちゃくちゃキラキラしていてお祝い感もある。店の場所はと見てみると、自転車なら十五分ほどで行ける支店の住所がついていた。さすがとしか言えない。『私が行けなくて申し訳ないのですが、どうぞよろしくお願いいたします』と書かれていたのにすぐお礼のメッセージを返した。

 店に行って誕生日ケーキの差し入れだと話すと、店員さんはロールケーキのタワーを飾るためのリボンと苺、チョコレートまでつけてくれた。安全に持ち運ぼうと帰りはゆっくりと自転車を走らせてスタジオに向かう。昼休憩になってすぐ受け取りに来た大和さんに紙袋を渡し、佐々木さんに教えてもらったと言うと、彼は少し驚いた顔で紙袋を見た。

「そうなんだ」

「一瞬でピッタリのケーキ探してくれてさすがでした。大和さんからもお礼言っといてください」

「……連絡しとく。ありがとな」

 軽く会釈をしてスタジオに戻っていく。二人の仲立ちをしようなんて思ったわけじゃない。ただ、佐々木さんと話す機会が増えたら、ずっと気を張っている大和さんの緊張も少しはほぐれるのじゃないかと思っただけだ。改めて自転車に跨がる。事務所について携帯を取り出すと、佐々木さんからお礼のメッセージが届いていた。

 


 訓練を始めて一週間ほどがたっても、『スターリーゲート』と相馬刻に慣れるという課題は一進一退といった状態だった。大和さんの体調の波も激しく、日が出ている間は他キャラの曲に加えて劇伴音楽も聴いていられたのに、夜になるとどれもが無理になったりもする。だけど大和さんは、真っ青な顔色になっても訓練を続けようとした。

 ソファにぐったりと寝転がったまま携帯を握り締める手を掴んで止める。震える指先は緊張に汗ばみ、それなのに指先まですっかりと冷えてしまっていた。

「無理しないでください」

「だって、このままじゃ間に合わねえだろ……っ」

 ライブは五月末だ。いくら声優イベントは準備時間が少ないとはいえ、まったく練習もせずにできるわけがない。大和さんが焦る気持ちはわかったが、無理をすればいっそう悪化しかねない。どうしたらいいんだろうと震える指を見つめるうちに、気持ちを変えるのが難しいなら状況を変えてみたらどうかと思いついた。

「しんどいもん聞くと、どんな感じになるんですか?」

 俺を見上げた大和さんは、緩々と俯くと考え込んだ。右手で喉もとに触れる。

「喉の奥が詰まって……息、出来なくて。……すげえ寒くて、気持ち悪くなって……」

 思い出したようにぶるりと肩を震わせる。

「――よし。じゃあ物理的に熱くなりましょう」

「は?」

 戸惑う大和さんの肩を軽く叩いて立ち上がる。最近買った折りたたみバケツに風呂くらいの熱さのお湯をいれてリビングに戻ると、ソファに体を起こした大和さんはきょとんとしていた。

「足湯難しいんで、今日は手で。袖まくってください」

 腫れの引ききらない足首を温めるわけにはいかないと妥協案を考えたが、大和さんのストレスは手に出るみたいだからちょうどいいかもしれない。ちゃぽんと手首よりも少し上まで浸かってもらう。湯の中で、白くなっていた手がじわじわと赤みを戻していった。

「確かに熱いけどさ……」

 不思議そうな顔をしている大和さんの隣に腰を下ろす。毛布を引っ張り上げて体を包み、肩に手を置いた。

「肩、マッサージしてもいいですか」

「……ん」

 体温を伝えるように、広げた手で骨張った肩を包む。

「俺、何度か溺れてんですよね。小学生のころ足攣って沈んで、もーちょいで死ぬとこで。そっからしばらくビビって泳げなくなったんですけど」

 大和さんが振り向いた。目が合って、先を促すように頷かれる。

「その時のコーチに、じゃあ風呂入ってろって言われて。絶対沈まないから安心しろってライフジャケットつけられて、ずーっとぼけーっとジャグジーに浮いてて」

 ガラス天井から透ける青い空を眺めながら、ひたすらあったかい風呂にぽかんと浮いていた日を思い出す。真冬だったのに日差しは明るくて、友達の歓声とコーチの笛の音が不思議に遠く聞こえて、水面に反射した光がゆらゆら揺れる光の網になって青い空を透かしたガラスに映っていた。

「それがすげえ気持ちよくて、あったかくて、力抜けて。何回かそんなことしてたらちょっとずつまた泳げるようになって。……だから、気持ちいいほうが楽になるかなってだけなんですけど」

 話しながら、ゆっくりと首の付け根から筋肉を揉みほぐす。肩を丸めて体を竦めていたせいか、肩周りも、前の鎖骨のあたりもガチガチに強張ってしまっていた。筋肉を傷つけないようにじんわりと力を入れて、緩めてさする。そのタイミングに合わせるように、大和さんが深呼吸を始めた。穏やかになっていく呼吸が重なるほどに、掌で包んだ体が柔らかくなり、温まり始める。街の音がひとつも届かない部屋の中に、遠くの風の音と大和さんの呼吸音だけが静かに満ちていった。

「眠くなりそ……」

 かすれた声で、大和さんが呟く。ふと、ひとつのセリフを思い出した。低く、声を作らずに囁く。

「……力、抜いて……」

 ぴくんと大和さんが肩を跳ねさせた。特別な言葉じゃない。だけどこれは、相馬刻のセリフにもあった言葉だった。一瞬、怯えたように呼吸が揺らぐ。だけど手の中の体は震え出すことはなく、大和さんはゆっくりと続きを口にした。

「……腕の中に、沈んでゆくように。君の体は、俺が預かるから」

 素の音よりも甘くかすれた響きは、確かに大和さんではない、相馬刻の声だった。

 気付いたら、両手が伸びていた。やったとか、良かったとか、言葉と気持ちが一気に喉を駆け上がり詰まって、声にならなかった。飛びつくように大和さんを抱き締める。

「うわ……っ」

 驚いた声を上げた彼は、仰のいて突っ込むように俺の肩にどんと後頭部をぶつけた。

「危ねえだろ。湯、こぼすぞ」

「は、い……」

 笑い混じりの声がかすかに震えている。俺は大和さんの肩に顔を埋めて頷き、抱き締める腕にいっそう力を込めた。



 暖かい場所で、気持ちいい環境で、恐いことは何もないと体に教えこむように訓練を重ねる。季節外れのゆたんぽと一緒に布団に潜り込んでみたり、風呂で温まってからマッサージをしてみたり、そんな中で大和さんは少しずつ相馬刻のセリフを聞いたり、演技ができるようになっていった。それでも、どうしても曲だけは聞けなかった。何度も挑戦しては吐くことを繰り返した大和さんは、ある日決意のこもった顔で佐々木さんに相談すると言い出した。

「迷惑をかけるばっかりになるかもしれない。でも、どうしてもライブに出たい。どうにかできないか、一度相談してみる」

「それがいいですよ!」

 一も二もなく大賛成する。そもそも製作会社との調整こそがマネージャーの仕事だ。もしかしたら、俺たちだけでは思いつかないアイデアが出てくるかもしれない。だけど、相談の席に一緒に来てくれと言われて驚いた。

「部外者ですし、俺いて大丈夫ですか」

「客観的に体調がどうなのか伝えてほしいんだよ。俺が出たいって言うだけじゃ、また無理してるだけだって思われる」

「わかりました!」

 連絡を取ると、佐々木さんはすっ飛ぶ勢いでマンションにやってきた。リビングのソファに座ってもらい、三人分のコーヒーを淹れて持ってゆく。俺が床に腰を下ろすと佐々木さんが即座に床に座り直し、大和さんも座ろうとしたのにまだ足が全快していないのだからと二人がかりで止める。

 五月の『スターリーゲート』のライブに出たいと伝えると、佐々木さんはぐっと息を詰め、肩に力を入れて前のめりになった。向き合った大和さんが真剣に言葉を続けてゆく。

「演技はできます。ビジュアルも……なんとか見られる。だけど、歌が歌えない。それでも、どうしても出たい。……俺はこれからも、相馬刻を演じたい。協力してもらえませんか」

 大和さんは、膝の上で硬く拳を握り締めていた。頭を下げるのに、俺も慌てて言い添える。

「体調もちょっとずつ良くなってます。何があっても、大和さんは仕事に穴を開けたりしていません。まだライブまで二ヶ月近くある。きっともっとよくなります。俺もなんでもサポートします。だから、お願いします」

 じっとこちらを見ていた佐々木さんは、額の汗を拭うと傍らのビジネスバッグを開いた。

「相談してくださってありがとうございます。まず、これを聞いてもらえますか」

 慣れた素振りでパソコンを立ち上げる。視線を向けられて、大和さんは緊張した顔で頷いた。かすかに空気を揺らして、傘にあたる五月の雨のような優しい音と、ピアノの音が流れ出す。雨を含んだ柔らかい風が遙々と吹き抜けていくようなスローテンポのバラードには、歌詞のないスキャットが乗せられていた。身動ぎもせず聞き入る大和さんを、佐々木さんがじっと見つめる。ピアノの上にギターが重なり、ドラムが増え、曲に厚みが増していく。メロディラインにコーラスが重なり、歌い上げるようにして曲が終わる。大和さんがほうっと息を吐いた。

「仮歌……」

「はい。相馬刻の新曲です」

 佐々木さんが頷く。

「少し前に、山倉さんからお預かりしていました。もし参加できるようならと言われていましたが、負担になってもと思い、お伝えできずにいました」

「すみませんでした」

 頭を下げる大和さんに佐々木さんが首を振る。もうひとつ、クリアファイルに挟んだ封筒を出して大和さんに差し出した。

「朗読劇の台本です。朗読劇への参加と、新曲の披露。オープニングかエンディングの参加。それだけ約束できれば、出演交渉に入れます。頑張れそうですか。無理しなくていいです。お願いして結局駄目になるくらいなら、最初から不参加のほうがまだ継続のチャンスがあります」

 気遣う言葉を選びながらも佐々木さんの声は緊張に張り詰め、覚悟を促していた。大和さんが両手で受け取る。

「……やります」

 静かな声に、同じほどの気迫がこもる。佐々木さんが問いかけるように俺に視線を移した。大和さんなら、絶対にできる。頷いてみせると、ふう、と息を吐いた佐々木さんは全身で頷き返してきた。

「うん。……うん、なんとか頑張りましょう。私のほうで演出や時間については調整させてもらいます。大和さんは練習に入ってください。困ったことがあったら、無理しないですぐに知らせてくださいね」

 佐々木さんが気合いを入れるように早口になっていく。大和さんがまた頭を下げた。

「ありがとうございます。お手数かけて、本当に申し訳ないです」

「いやいやそんなね、大丈夫ですから。大和さんがね、納得できる仕事ができるように調整するのが私の仕事ですから。頑張りましょうね。頑張りましょう。こんなところでせっかくやってきた仕事が駄目になるの、悔しいですもんねえ!」

「はい。こんなところで……こんなことで、負けたくないです」

 大和さんの声が、ずんと重量感を増した。手にした台本を見つめる。引き締まった唇に、重たい決意を滲ませた声にぞくりと背中が震える。

「本当はね、私がずっとついててあげられたらいいんですけど、どうしてもそういうわけにはいかなくて……。他社のね、それも声優さんにこんなことお願いするのは本当にどうかと思うんですけど、野垣さん、大和さんのこと、これからもよろしくお願いしますね」

 急に矛先がこちらに向いた。慌てて膝を揃え直して頭を下げる。

「はいっ! 俺がずっとついてますので、安心してください……ッ!」

 両手をラグについて深々と頭を下げると、あはは、と声を立てて佐々木さんが笑った。

「なんだか結婚の挨拶みたいになっちゃいましたねえ、いやすみません。私がね、お父さん役なんていうのはもう、僭越はなはだしいんですけど……」

 早口で喋りながら額の汗をハンカチで拭う。なぜかはっとして大和さんを窺うと、彼はちょっと困ったように眉を下げ、唇を結んでいた。



 それから大和さんは、桁違いの集中力で練習に取り組み始めた。朝起きてすぐの発声発音、ストレッチをして台本読みをして、その間中ずっとごく小さな音で『スターリーゲート』の曲を聴き続ける。時吐いてしまっても、もう彼は聞くのを止めようとはしなかった。

 彼が覚悟を決めるのを待っていたかのように、じくじくと熱を帯びた腫れを長引かせていた捻挫は急に快方に向かった。包帯が取れて、湿布の必要がなくなって、リハビリのストレッチを朝晩して、早足で歩けるようになる。

 ずっと確保していたタンデム自転車をスタンドに返して、俺は突然、大和さんと一緒にいる理由がなくなってしまったことに気付いた。だけど大和さんは、スタジオに行くために自分の分の自転車を借り出すと俺を見上げて照れたような笑顔で笑った。

「自分で漕ぐの久しぶり。遅かったら置いてっていいから、あんまこっち見るなよ」

「え、無理です。大和さん前走ってくださいよ」

「やだよ。お前に後ろからガン見されてんのかと思うと緊張する」

「後ろ走られたら俺、毎秒振り向く自信しかありません」

「だからそれを止めろって言ってんの」

「いやだから無理ですって。事故防止のためにもここは大和さん前で!」

 ぶうぶう文句を言われたが、大和さんを見ないなんてことは俺には無理だとわかってくれたのだろう、諦めて先を走ってくれる。久しぶりに自転車に乗るせいか今日はカーゴパンツにパーカーとラフな服を着た大和さんは、いつのまにか花が散り、赤い棘のようなガクばかりが残った桜の下を楽しげに走り出した。

 春の強い風に髪とパーカーのフードをはためかせて走る姿を後からじっと見つめる。一心に動いている姿が、ひどく綺麗なもののように見えた。

 久しぶりに自転車に乗って疲れたのか大和さんは息を弾ませていたけれど、『翠燦すいさん破砕斬ブレイカー』の収録スタジオにつくと体が温まったと言って機嫌良くブースに入り、リハーサルでは相変わらず強烈なアドリブを叩きつけてくる小島さんのセリフに声を出さずに大笑いしていた。元気になったのが嬉しくて、機嫌の良さそうな顔を可愛いと思うのに、なぜか俺は笑えずにいた。動かない頬が重たい。

 アフレコを終えてスタジオを出る。昨日までは次のスタジオまで一緒に行っていたのに、大和さんはここで別れるのが当たり前だというように尋ねてきた。

「俺、二十時過ぎには終われると思うけど、お前は?」

「え……事務所行こうかなと思ってるくらいなんで、特には……」

 ぼそぼそと答えると、大和さんは携帯を取り出して時間を確認した。

「夜、カラオケ行かねえ?」

「えっ?」

「新曲の練習。声出したいけど、一人だとまだちょっとあれでさ……」

 大和さんの声がすっと小さくなる。なのに俺は、不安そうに揺らぐ声に安心してしまった。慌てて答える。

「あ……、行きます、行きます……っ」

 大和さんがほっとした顔で笑った。

「終わったら連絡するわ。じゃ、後で」

 ひらひらと手を振って自転車で走り去る後ろ姿を見つめる。溜息が漏れた。

 ずんと落ちこんでいるのと同時に、世間に顔向けができないような罪悪感が湧き上がる。誰にも顔を見られたくなくて、事務所のある目黒を通りすぎ大井町のアパートまで駆け抜けた。一人乗りスポーツタイプの自転車のペダルは軽すぎて、踏み込むほどに気が重たくなってゆく。

 元々は四畳半の並ぶ下宿屋だった建物の二部屋を繋げ、かろうじて風呂とコイル式電熱器のついたキッチンを作った木造アパートの住人はほとんどが学生か若い会社員で、平日の午後は誰もいない。しんと静まりかえった部屋は埃っぽく、よそよそしく見えた。

 窓を開けるのも面倒で、澱んだ空気の中ベッドに倒れ込む。世の中に自分を晒しているのが申し訳なく思えて、毛布を引っ張って頭まで被った。ぎゅっと目を閉じた代わりに口からは溜息が零れて、毛布いっぱいに罪悪感が広がる。

 大和さんに元気になってほしかった。元気になってきて嬉しい。そう思おうとするのに、胸の奥が膿んだように腫れぼったく痛んだ。うなされて苦しげに呻く声と、身動いだ時にさらりと響く衣擦れの音が耳の奥に響く。悪夢から揺すり起こすと、大和さんは俺を見つけて安心したように柔い息を吐き出す。明かりを消した寝室で、かすかに濡れた彼の瞳に俺が映るのを見るのが好きだった。だけど、うなされることも段々少なくなってきている。

 大和さんの傍にいる理由が、少しずつなくなってきていた。

 このまま元気になって、ライブに参加できれば、自信を取り戻した大和さんに俺は必要なくなってしまうだろう。律儀で義理堅い人だからきっと感謝をしてくれるだろうけれど、その後はもう、今までみたいにずっと一緒にいることはできなくなるだろう。

 そう思うだけで喉の奥が締められたように痛む。

「……ああもう、くそ……っ」

 寂しさというには重たくて、胸の中からつまみ出したいほどにじめついた気持ちをなんと言い表せばいいのかよくわからない。大和さんが元気になって嬉しいはずなのに、俺の手がなければ食べるのも眠るのもできないままでいくてれたいいのにと思う。

 演技が好きだった。尊敬していた。なのに今、震える彼を腕の中に閉じ込めてしまいたいような気持ちでいる。離れたくない。俺のことを、ずっと必要としていてほしい。笑っていてほしいのに、元気になった彼が遠く感じられて息が苦しい。

 だけどそんなことを願う自分を許せるわけがなかった。そんなことをしたら、彼を傷つけた奴と同じになってしまう。身勝手な願いを押し付ける厄介ファンになりたくない。大和さんのファンだというなら、彼の活躍や、幸せを願うべきなのに。

 いっそ眠って忘れてしまいたいのに、じくじくと胸が痛んで眠れない。夕方まで軋むベッドの上で右に左に寝返りを打ちながら考え込んでいると、安いベッドのスプリングがゴリゴリと背中に当たり、大和さんの大きなベッドが恋しくなった。

 


 マンションの近くのカラオケボックスを予約して大和さんに連絡する。店の前で待ち合わせをすると、やってきた大和さんは俺を見つけて珍しげに目を見張った。

「お前と待ち合わせすんのなんか変な気がするな」

「……ですね。俺、受付してきます」

 楽しそうな顔を見ていられずに顔を背け、早足でカウンターに向かう。平日夜のカラオケボックスは意外に賑わっていて、歌声が漏れ聞こえる狭い廊下を歩いて部屋に向かう。四畳半ほどの部屋に収まると、大和さんは携帯を持参の小さなスピーカーに繋いで準備した。

「一人で練習してると緊張するから、お前も適当に歌ってて」

「わかりました。飯も食っちゃいましょう」

 ドリンクや食べ物が揃うのを待って、まずは他キャラの持ち歌を流していく。定番になった東堂の歌を歌っていると、大和さんはやっぱり似ていると笑った。

 少し発声をしてから、大和さんが練習を始める。メロディラインを覚えるようにスキャットで歌っているだけなのに、すでに声は相馬刻の音になっていた。ちょっと眉を寄せ、真剣な表情で歌っている横顔に視線が引き寄せられる。手にしたコーラを飲むのも忘れてぼうっと見蕩れていると、大和さんは怪訝そうにこちらを見て首を傾げた。はっとして目を逸らす。

 毎日もっと近い距離にいたのに、狭い部屋に二人きりなことにドキドキする。大和さんがいるほうの肩が火に炙られているようにジリジリと熱くて、なのにぞわぞわと擽ったくて、わーっと大きな声で叫びたくなる。大和さんは少し歌っては休憩していたけれど、沈黙が広がるのに耐えきれなくて無闇に曲を入れて歌うことで会話を避けて、でもラブソングは妙に生々しく感じられて歌えずに、古いバトルもののアニソンばかりを入れていった。

「お前、昭和のアニメも好きなの?」

「いやあの、そんなにすごい見てるわけじゃないんですけど、声優さんで繋がりで深掘りしてったりするじゃないですか。今、会った先輩の出てるアニメは見るようにしてて、これはほら、小島さんが出てたやつ、今集中して見てるんで……っ」

「まあ、話題にもなるしな」

 やたらと重厚なドラムとベースが響き渡る。上擦る声を隠したくてマイクを掴み低い声で歌い出すと、大和さんは手を伸ばしてひょいと俺の前にあったポテトを一本つまんだ。

「うわ……っ」

 マイクを掴んだまま叫んだせいで、キンと耳障りな音が響く。ポテトをつまんだまま目を丸くして俺を見る大和さんとばちっと視線が合ってしまい。また大慌てで目を逸らした。


 二時間くらい練習して、カラオケボックスから出る。

 終電を前にして、駅へと向かう人の流れに逆行して歩き出す。川縁に出ると人通りはぐんと少なくなって、伸び始めた桜の若葉を風が揺らすさやさやという音ばかりが広がっていた。

 河口近くの目黒川は、どちらが川上か川下かもわからないくらいにのったりと流れている。黒い鏡のような川面を眺めながら、顔を見られないようにのろのろと後ろを歩いた。しばらく歩くと大和さんはくるりとこちらを振り向き、歩調を緩めて俺と肩を並べようとした。俯いた視界に、自分の靴先ばかりが映る。

「お前、なんでまた緊張してんの?」

 まっすぐに問いかけられて、なんとも答えようがなくて唇を結んだ。こういう時に違和感を抱かれない言い訳とか、不安にさせないための建前とか、そんなことが思いつける頭があればいいのに。押し黙った俺に、大和さんは困った顔をした。

「なんかあったか? すげえ負担かけてるのはわかってるし、その、忙しくなったりしたらちゃんと言えよ。もう足も治ったし、だいじょ……っ」

「ち、違います!」

 心配そうな声を慌てて遮る。こちらを見た大和さんに首を振った。

「そうじゃ、なくて……っ、逆で……っ」

「逆?」

 問いかけられて途方に暮れる。

「……逆、っていうのは……あの、大和さんの足、治ったから。もう俺いなくてもいいんじゃないかって思ったら、……寂しくなっちゃってへこんでただけで……」

 大和さんが目を見開いた。漏れた吐息は呆れなのか安堵なのか、安堵であればいいと期待して、かすかな音の中に証拠を探していた。

 ざく、ざく、とざらついたアスファルトを歩く二人分の足音が重なって響く。少しの間黙っていた大和さんは、黒々と揺蕩う川を眺めるように視線を遠くに投げた。

「……んなことねえよ。お前がいないと、困る」

 ぱっと目を上げる。大和さんは少し眉を寄せて笑っていた。斜めから差し込む街灯の白っぽい明かりが輪郭を縁取るように彼を照らし出している。「本当に困りますか」と問い詰めたかった。「どういうところで困りますか」と尋ねたかった。「俺がいないと寂しいですか」なんて確かめたくて、本当は足が治っても、大和さんが一人で眠れるようになっても、傍にいてもいいかと聞きたかった。

 だけど今すぐに俺がいなくなったら困るだろう大和さんに尋ねるのは脅迫のような気がして、喉の奥で言葉を止めた。沈黙が広がる。もう、マンションはすぐだった。

 明るいところに出たら、何も言えなくなってしまいそうな気がして足を止めた。大和さんもどうしたのかと問うこともなく立ち止まる。向かい合って顔を見つめて、彼は俺が何かを言い出すのを待っていた。だけど俺は、自分が何を言いたいのかがよくわからなかった。ただ、こうして夜の中で彼と肩を並べて、目を合わせていられる時間がずっと続けばいいのにと願っていた。

「……ライブ……頑張りましょうね」

 かなり間が空いて伝えた俺に、大和さんはなぜか困った顔で眉を下げた。

 ひどくもどかしい気がした。伝えたいことはそんなことじゃないとわかっていた。だけど今は、大和さんが無事にライブに戻ることだけを一番に考えたかった。自分が何を考えているのかもわからないのに、何か言えば彼を傷つけてしまう気がしていた。

 じっと俺を見つめていた大和さんが、静かに頷く。

「……おう」

 視線を交わして、どちらともなく歩き出した。日常を演じるようにコンビニで牛乳を買っていこうとか、明日の朝は何時に起きるんだなんて会話を交わして、俺たちは同じ部屋に帰っていった。



 三人で話をしてすぐに、佐々木さんからは製作会社と打ち合わせをしたという連絡がきていた。大和さんはライブにシークレットゲスト扱いで参加することになり、朗読劇と新曲、そしてキャスト全員でのエンディング曲を披露するという予定が組まれた。

 エンディング曲は今までに何度もライブパフォーマンスをしている二期のアニメの曲で、これなら新しく覚えるのは新曲だけで済む。調整に奔走していた佐々木さんが楽屋も一部屋確保したと報告にきてくれると、大和さんは「ありがとうございます」と言って頭を下げたまましばらく体を起こさず、佐々木さんが何度も汗を拭ってあたふたしていた。

 大和さんはそれからいっそう仕事にのめり込むようになった。まるで飢えた子どもがお菓子の家を見つけたかのような勢いで演技に取り組んでゆく。ライブのための練習だけじゃない。すべての仕事に集中する姿からは、この逆境を絶対に乗り越えてやるのだという執念めいたものが感じられたが、体のほうがついていけず、大和さんはそれから三度ほど高い熱を出した。

 まるで電池が切れたかのように突然動けなくなり、排出できない熱がこもったような高い熱が一気に出る。休んだほうがいいとわかっていても、一度没頭すると集中をコントロールできないらしい。ふらふらしているのに肩を貸してベッドに運ぶと、彼は苦しげな呼吸の中でひどく悔しげに唸った。

「大和さんって、案外不器用だったんですね」

 温かい蕎麦茶を淹れてきて、体を起こすのを手伝う。

 大和さんがカフェインに弱いと気付いたのはごく最近だった。朝コーヒーを飲むと元気になるし、夜寝る間際に飲んでしまうと眠れずに転々と寝返りを打ち続ける。やる気が出るぶんだけ気力ばかりで頑張りすぎてしまうから、最近は夜になるとカフェインレスの飲み物に切り替えるようにしていた。クッションに凭れて座り、大和さんが熱いお茶をふうふうと息を吹きかけて冷ます。啜るように飲むうちに、ピリリと険を増していた目元が徐々に落ちついていった。

「俺、あんまり器用なほうじゃねえよ。演技以外で得意なことないし」

「歌も踊りもめちゃくちゃ上手いじゃないですか」

「演技のうちだろ」

 ベッドに入ると安心するのか、火が出そうなほどに火照っていた頬が徐々に白さを取り戻していく。傍らに腰を下ろして顔を覗き込んだ。

「あんまり無理しないでください。すでに相当練習してるんですし」

「練習なんて、どんだけやっても充分なんてもんじゃないだろ」

「だから倒れるんですよ」

 恐い顔を作って睨み付けると、大和さんは気まずそうに視線を逃した。半分ほどが空になったカップを置いてもそもそとベッドに潜り込んでいく。下がらない熱を持て余すように、はあ、と湿度の高い息を吐いた。

「野垣ー……台本持ってきて……」

「ダメです」

「んじゃ、曲かけて」

「熱出てんのに歌おうとしないでください」

「じゃあ映画見る……」

「寝てくださいって」

「暇なんだよ」

 拗ねた子どもみたいに唇を尖らせる。大和さんは最近、二人きりになるとこんな風に駄々をこねるようになった。

「じゃあ、アニメ一本だったらいいですよ」

 今すぐ寝かせたほうがいいとわかっているけれど、訴えるような上目で見つめられて折れてしまった。大和さんがぱっと顔を輝かせる。嬉しそうな顔に心臓が跳ねた。

 頼り甲斐があって格好いいところは変わっていないけれど、付き合いが深まるほどに大和さんは確かに末っ子だと実感していた。甘えるのが上手いし、そのくせ結構したたかで反応をしっかり見ているし、俺が折れるところを見定めて信じきったように駄々をこねるから、どうあっても甘やかしてしまう。

 それなのに完璧主義で無理して頑張りすぎてしまいがちで、とんでもなく芝居バカで不器用、なんて素顔を晒されるほどに、この人のために何かしたいという気持ちが強くなってゆく。

「何見る? 今日の小島さん」

 ウキウキした声で言うのを聞きながら、ベッドの脇に置かれていたタブレットを取った。

「こないだの続きでいいですか?」

 ん、と頷いて布団にもぐった大和さんの隣に仰向けで寝転がる。見やすいようにタブレットを立てて持ち、配信アプリで見ていたアニメの続きを再生した。

 せっかく一緒に仕事をしているのだから小島さんの出演作を見てみようと見始めたのがきっかけで、最近俺たちはアニメを見ながら小島さんのセリフをアドリブか台本か想像し、後で本人に聞いて確かめるという遊びをするようになっていた。今日もまた、怪しい長セリフにかかった瞬間に二人で顔を見合わせる。

「これは台本だろ」

「俺も台本に一票です」

「よし、次だな」

 小島さんはものすごくアドリブが多い。それも、ちょっとした思いつきなんかじゃない、台本を読み込みまくって練りに練った果てに作り上げた珠玉のアドリブだ。だからこそ時には作品の方向性を左右するような一言になりもしたけれど、悪戯小僧と職人気質が混ぜ合わされた小島さんの発想はぶっとんでいて、何が起きてそうなったのか理解不能なセリフは俺たちを大いに笑わせたり、悩ませたりした。

 これはアドリブだとか、この言葉はどういう意味だとか喋りながらアニメを見ていると、メッセージの着信を知らせる音が鳴った。左下にぽんとウインドウが出てきたのに慌てて目を逸らす。

「お、っと、すみませ……」

 プライベートなメッセージを読むわけにはいかない。けれど間に合わずに、目が勝手に『大和さん元気?』から始まる文章の一部を読んでしまっていた。

 再生を止めてタブレットを渡すと、大和さんは気にするなというように首を振った。

「大丈夫」

 さっと指を滑らせて画面に目を落とす。文面を追う横顔を眺めるうちに、大和さんがふわりと目元を和らげて笑った。嬉しそうに俺を見上げてくる。

「……待ってるってさ」

 短く言って見せてくれたのは、ラジオ収録現場らしい写真だった。『スターリーゲート』の主要キャラを演じる四人が笑顔で映っている。その前後には、『大和くんお疲れ』とか『復帰待ってる』なんて言葉が書かれていた。ライブで復帰するという話がキャストたちにも伝えられたんだろう。

「良かったですね」

 大和さんを入れたこの五人は、年が近いのとイベントで顔を合わせる機会が多いためか仲が良かった。ずっとラジオでわちゃわちゃと楽しそうに話しているのが好きだったから、大和さんの復帰を待ってくれているのが嬉しかった。だけど今はそれだけではなく、胸のどこかにちくちくしたものがわだかまる。写真に写った机の上にゲームのロゴが書かれた紙が置かれていて、いつのまにか大和さんがそれを見られるようになっていることに気付いた。

「心配かけちまったからな……早く戻らないと」

 大和さんのストーカーの話は雑談にも出ていただろうし、詳しいことはわからずとも何かあったことは察せられただろう。大和さんが参加できそうだと聞いてすぐに送ってくれたのだろう写真とメッセージからは、温かな気持ちが伝わってきた。なのに、仲の良さそうな会話を目にしただけで胸の中に靄が立ちこめる。今この人の傍にいるのは俺だなんて、俺は誰も知らない大和さんの顔を知ってるんだなんて、誰にともなく主張したくなる。息を吐いて、布団を大和さんの肩まで引き上げた。

「そのためにも、ちゃんと寝てくださいよ」

「最後までは見てもいいだろ?」

 頷いて、また受け取ったタブレットでアニメの続きを再生する。大和さんが俺の右手を引っ張った。

 定位置はここだとばかりに胸の上に置き、重みに安心したようにほうっと息を吐く。まだ熱の赤みを帯びた横顔をちらりと窺った。アニメを再生したのに、音声が全然耳に入ってこない。少しも集中できずに、呼吸のたびに彼の胸が上下する感触を全身で追っていた。



 ライブ当日の一番の懸念事項は移動だった。

 会場は幕張で、さすがに自転車での移動は難しい。車移動ができないとなると電車しかないが、混雑した電車は大和さんのストレスになる。前日から近くに泊まることも考えたが、遠方のファンが大勢泊まっているだろうというのと、狭い部屋で大和さんが調子を崩す可能性を考えて早朝に移動することにした。

 どうせ午前中にはリハーサルがある。早く着いているぶんには迷惑にもならない。それに早く出れば具合が悪くなった時も電車を降りて休みながら向かえる。佐々木さんは前日もイベントで近くにいるそうで、一泊して早めに現地入りし、現地スタッフとの連絡先になってもらうことになった。

 何度も三人で打ち合わせをして予定を決める。

 なのに当日、目覚まし時計の音に目を覚ますと前日までは影も形もなかったはずの真っ黒な雲が海から千葉沿岸に迫ってきていた。慌ててつけたテレビのニュースが本州の南に発生した梅雨前線の影響で海上にあった低気圧が急速に発達し、爆弾低気圧になったと注意報を出している。ライブカメラに映し出された東京湾には風が吹き荒れ、青鈍色の海に白波が立っていた。

 三十二階の部屋の窓を強い風がガタガタと揺らす。普段は和笛のように遠く響く風の音は、まるで間近で吠え狂う虎の声のように聞こえた。起きてきた大和さんが朝なのに暗い窓の外を見やって不安げな表情を浮かべる。

「すげえ風……」

 体を抱えこむようにしてきゅっと自分の腕を掴むのに、慌てて近づいて背中を叩いた。

「大丈夫ですよ。大和さんは風呂入って支度してください」

 ね、と呼びかけて笑うと、大和さんは首を頷かせた。浴室に向かう背中を見送って、ニュースに視線を戻す。強風にご注意ください、というアナウンスと共に、街を映したライブ映像の隅で立て看板が吹っ飛んでいった。通常のニュース画面が小さくなり、上下左右に緊急警報の文字が流れ始める。アナウンサーが強風により運転を見合わせる電車が出ています、と言った途端、京葉線も総武線も、千葉行きの電車の運行を一時取りやめるというテロップが流れた。

 慌てて携帯に飛びついた途端、佐々木さんからメッセージが届いた。夕方には低気圧も行き過ぎて天候も安定する予報が出ているため、ライブの準備は通常通り始まっているという知らせの最後には、大和さんが移動できるか様子を確認して知らせてほしい、という短いメッセージがつけられていた。握り締めていた携帯を置き、キッチンに移動する。熱い茶を淹れ、ハムを乗せたチーズトーストを焼いてその上に目玉焼きを載せた。何をするにしても、飯は食っておいたほうがいい。

 風呂から出てきた大和さんは、テレビ画面を見るとびくりと肩を震わせた。けれど、テーブルにトーストとお茶を置くと黙って腰を下ろす。二人並んで、低気圧のテロップが流れ続けるニュースを見ながら無言で朝ご飯を食べた。

 皿を片付けて、ニュースを注視している大和さんの足元に膝をついて座る。電車は止まってしまった。この暴風雨の中、自転車でなんて行けるはずがない。こちらを向いた彼と目を合わせる。不安を滲ませて震えた瞳がじっと見つめるうちに定まっていった。膝の上に置かれた手を軽く握って頷きかける。

「俺が運転します。車で行きましょう」

 大和さんがざあっと音が聞こえそうなほど一気に青ざめる。

「……わかった」

 だけど彼は俺から目を離さず、大きく息を吸い込むと決意を込めるように深く頷いた。


 近くのレンタカーショップで4WDのデカい車を借りて地下駐車場に入れると、降りてきた大和さんが驚いた顔をした。

「うわ、ゴッツ……」

「せっかくなんで格好いい車にしました!」

 笑ってみせるが、大和さんは笑おうとしてうまくできず、ただ頬を震わせた。風に揺れないように重たくて、事件の際の車とできるだけ違うものにしようとしたけれど、これだけではせいぜい気休め程度にしかならないだろう。

 荷物を運び込み、車の前で立ち竦んでいる大和さんを迎えに行く。レンタカーショップに売っていた酔い止めの飴を渡した。

「これ、舐めててください」

「……ん」

 薄い空色をした飴を口に放り込む。落ちつこうと深呼吸を繰り返すのに手を差し伸べると、大和さんは怪我をしていた時によくしていたように俺の腕に掴まった。助手席の扉を大きく開く。ひゅっと、小さな音を立てて大和さんが息を吸い込んだ。

「大丈夫です。しんどかったら吐いてもいいし、泣いても叫んでも大丈夫です。いつだって車止めて休憩取ります。何があっても絶対に俺が会場まで運ぶから、安心してください」

「……絶対運ぶマンじゃん」

 指先を震わせながら、青ざめた顔で、それでも大和さんは笑おうとした。

「そうですよ! 絶対運びます!」

「……頼む」

 小さな声で言うと、ぎゅっと俺の手を掴んで助手席の扉に手をかける。シートに腰を下ろすと大和さんの呼吸はぜいぜいと苦しげに上擦り始めた。

「ごめんなさい、シートベルトかけますね」

「うん……」

 苦しくて辛いだろうけれど、これだけは外しておくわけにいかない。胸の前にかけられたシートベルトを大和さんが縋るように掴む。肩に手をおいて後部座席に伸びあがり、置いておいた毛布を取った。軽く広げて体を包む。ガチガチに緊張していた大和さんが、わずかに息を吐いた。ぽん、と毛布の上からもう一度肩を叩いて、運転席に腰を下ろした。

 ひとつ息を吐いてシートを調整する。静かにアクセルを踏み込んでマンションの駐車場から出ると、途端に吹きつけてきた強い風に車体が揺れた。運転はそれなりにしているけれど、この悪天候ではどれだけ気を配っても足りない気がする。叩きつける雨に見通しが利かない。ワイパースピードを上げて視界を確保しようとするけれど、朝にも関わらず薄暗い中では、他の車の位置を確かめるためにライトばかりが頼りになった。

 本来、大崎から幕張の移動は車なら一時間もかからない。だけど、首都高速に乗るまでの一キロも行かない間に、大和さんは身を縮めて呻いた。

「ごめ……っ、止めて……っ」

 慌てて車を路肩に寄せる。ポケットに入れておいたビニール袋を取った大和さんは、苦しげに吐くとバチンとシートベルトを外した。

「出てくる……」

「大和さん、濡れますよ……っ」

「大丈夫……そこのコンビニ、行くだけだから……」

 止める間もなく、大和さんは車から出て行ってしまった。

 肩を濡らして走って行く姿を為す術もなく見送る。やっぱり、大和さんにまだ車は辛すぎたのか。けれど大和さんは、しばらく待つうちに駆け戻ってきた。片手に重そうなコンビニのビニール袋を下げている。

 助手席の扉が開かれる。雨の匂いと一緒にやってきた大和さんは、髪も、肩もびっしょりと濡れてしまっていた。慌てて毛布を退かすと、助手席に乗り込み、コンビニ袋から取り出したタオルでガシャガシャと髪を拭う。くしゃくしゃの髪の下で大和さんは俺に目を向けた。

「胃が空で吐くと、キツい。ちょっと待って」

 ガサガサとコンビニ袋からゼリー飲料を取り出して一気飲みし、ビニール袋をポケットにセットする。いつ吐いてもいいように準備を済ませると、大和さんは自分でシートベルトを締め、震える手で毛布を引き寄せた。もこもこと埋まりながら、強張った頬を歪めて精一杯不敵に笑う。

「何回吐いたって……行ってやる」

 弾かれたように大きく頷いていた。

「行きましょう!」

 アクセルを踏み込む。悪天候にもかかわらず首都高は混雑していた。背の高いトラックの間に囲まれる。視界の悪さと混雑にジリジリとしか車列が進まない。雨に閉じ込められたような世界の中を、灰色の空気を掻き分けて進む。大和さんは吐いて、震えて、またゼリー飲料を飲んで、時に車を止めて休んで、それでも弱音を吐かなかった。かすれた声で呼びかけられる。

「野垣。あれ歌って」

「はいっ!」

 大きく息を吸って、口を開く。

「へいへーい! 今日も元気かー? ちょっと落ちこんでるって? そんなのダメダメ! お前はすごいんだぞー! だって、お前は……えーっと……その、なんだっけ? あ! そうそう! めっちゃ可愛い! だから大丈夫! 俺が保証する!」

 大和さんが震える声で笑う。かすれた声で一緒に歌おうとする。「めっちゃ優しい!」「めっちゃ頑張ってる!」と、二番、三番に進むたびに気合いが入って大きくなる声に大和さんが「うるせ」と呟いて笑った。震えていても、毛布をぎゅっと抱えこんでいても、頑張ろうとするあなたがとても格好良く見える。

 大和さんが小さな声でエンディングを歌い出す。俺も声を重ねると、震え、かすれていた声は段々と大きくなっていった。激しい雨を、重たい雲を、振り払うように一緒に歌い続ける。オープニングも、ゲームの挿入歌も。そうして大和さんは、当たり前のように相馬刻の歌を歌い始めた。

 思わず飲み込みかけた息をぐっと押さえる。だけど驚いた気配を隠しきれなかった俺に大和さんが声を立てて笑った。歌が途切れる。けれどもう一度呼吸を整えると、かすれた声で、途切れがちの音で、ずっと聞くことも出来なかった歌を彼は歌った。目の縁が熱い。目にもワイパーがついていればいいのに。

 歌が終わると、大和さんが呼びかけてきた。

「アニメ一期のオープニング、覚えてる?」

「――……ッたりまえじゃないですか!」

「じゃ、お前東堂と黒木役な」

「ええッ、黒木は声出ませんよ!」

「声真似しろとは言ってない」

 まるでカラオケにいるように、キャラクター同士の掛け合いがある歌をパート分けして歌う。窓の外が不意に開けた。レインボーブリッジに差しかかる。左手に、海が広がった。



 幕張についた時には、出発から三時間近くが過ぎていた。

 佐々木さんが待機していたホテルのロビーに行くと、うろうろしていた佐々木さんがすっ飛んできた。

「や、大和さん……っ、無事……っ」

 大和さんが右手を挙げて応える。

「……なんとか」

 そこからはもう怒濤だった。急いで会場に向かい、押さえてもらっていた楽屋でひと休みする暇もなくリハーサルに参加する。やってきた大和さんを見つけた途端、他のキャストさんたちはわあっと歓声を上げて彼を取り巻いたけれど、すぐに演出の説明が始まって表情を引き締める。大和さんもまた、張り詰めたプロの顔になって舞台の上に立っていた。

 演出を説明するスタッフの中に山倉さんを見つけた。いつも通り寝起きのライオンのようなもしゃもしゃの頭で、けれど大和さんに目を向けると頷いてみせる。大和さんもまた少し笑って頷き返していた。収録の最初の日、盗み聞きしてしまった会話を思い出す。山倉さんにしてみれば、自分が担当していたアニメの収録で事件が起きたというのはとてもやるせないことだったのかもしれない。表情はほとんど変わらないのに、その横顔は安堵しているように見えた。

 俺はといえばスタッフカードを渡されて、なにをどうしたらいいのかもわからないまま佐々木さんの後ろにくっついてうろうろしていた。おそらくアストプロデュースのマネージャーの一人だと思われたのだろう、あちこちから挨拶されるのに説明する時間もなくて頭を下げてやり過ごす。説明が終わり、持ち場につくためにスタッフさんたちが散っていく中で、山倉さんが端にいた俺に気付いたのか目が合った。慌てて頭を下げると、頷き返される。

 すぐにリハーサルが始まった。音響を確かめたり、動きを確認したりしているのが物珍しくて眺めてしまう。だけど遊んでいるような気がして、踵を返して楽屋に向かった。大和さんが戻ってきたらゆっくり休めるようにしておきたい。

 携帯で天気予報のニュースをかけっぱなしにして、お湯を沸かしてすぐにお茶が飲めるようにしたり、室温を整えたりしてゆく。リハーサルが佳境に差しかかるころには低気圧も海上に抜け、電車が動きだしたというニュースが流れてきた。

 挨拶回りをしていた佐々木さんが楽屋に戻ってきて、ハンガーにかけた大和さんの衣装にブラシをかけている俺を見て驚いた顔をした。

「野垣さんもひと休みされては……」

「大和さんが頑張ってる時にぼーっとしてられないんで。動いているほうが気楽ですし」

「そう……ですか。あの、でも、ライブが始まったらぜひ、客席にいらしてくださいね。関係者席を取ってあるので……」

 はっとした。携帯を取り出してチケットを開く。そこには、ようやく取ったライブのチケット番号が表示されていた。

「あの、俺、自分でチケット取ってるんで入り直そうかと……」

 そう言うと、佐々木さんはとんでもないと言うように首を振った。

「いえ、ぜひ関係者席にいてください。大和さんも野垣さんが見えたほうが安心すると思いますし、一般入場したら戻るのが難しくなります。その、お手伝いもお願いしたいので……!」

「あ、ああ、そっか、そうですよね。すみません。戻ってこれないって頭から抜けてました」

 大和さんが舞台に出る時は送り出したいし、戻ってきたら迎えたい。佐々木さんがほっと息を吐いた。

「すみません、野垣さんにはお世話になってばかりで……」

「そんな、本当に俺は好きでやってただけなんで……っ」

 何度目になるのか、佐々木さんとペコペコと頭を下げ合っているとパタンと音を立てて扉が開いた。ふらりと大和さんが入ってくる。

「……リハ、終わった」

「お疲れさまです!」

 大和さんはソファに腰を下ろすと、ほうっと重たい息を吐いた。リハーサルが一段落してどっと疲れが出てしまったのだろう。このままではまた熱を出しかねない。車から運んできていた毛布を取った。

「大和さん、ちょっと寝ましょう。呼び出しきたら起こしますから」

「……ん」

 毛布を差し出すと、それを被って大和さんはソファに寝転がった。佐々木さんが立ち上がる。

「そしたら、私はステージの様子を見ていますね。野垣さん、よろしくお願いします」

「承知しました」

 佐々木さんが出て行く。眠るには明るすぎるだろうかと立ち上がった。

「大和さん、明かり消します?」

「大丈夫。タオル取って」

 さっき束で買ってきたタオルを一枚渡すと、大和さんはそれを顔にかけた。

「野垣。……手」

 差し出した手を、大和さんはタオルを被った目の上に乗せた。

「ちょっと、こうしといて」

「はい」

 ひとつ、ふたつ、深呼吸を数えるうちに、大和さんはすうっと眠りに落ちていった。

 


 ライブが始まる。

 お客さんが入場する足音が途切れたのと入れ替わりに、行き交うスタッフの動きが慌ただしくなった。支度を終えた大和さんが立ち上がる。プロのメイクさんによって髪を整えられ、黒と紫を基調にした衣装を着た大和さんはものすごくシュッとしていて格好よかった。

「新衣装……ッ、尊い!」

 思わず拝むと呆れた顔をされる。

「ぶれねえなあ……」

「もちろんです!」

 ドン、と響き渡った重低音に楽屋が揺れた。ひときわ高まった歓声が聞こえる。オープニングの演出が始まったのだろう。鏡の前で髪を整えていた大和さんが集中を高めるようにゆっくりと深呼吸を繰り返す。パタパタとこちらに近づいてくる急いだ足音が聞こえた。ガチャッと扉が開く。会場の様子を見ていた佐々木さんが顔を出した。

「大和さん、袖にスタンバイお願いします!」

「はい」

 静かに応じた大和さんがこちらを振り返った。

「行ってくる」

「頑張ってください!」

 両手を握り締めて応援する。大和さんが目を細めて笑った。

「おう。頑張ってくる。……見てて」

 足早に出て行く背中を見送る。それから俺は、スタッフ通路を通って関係者席の隅に入れてもらった。暗い会場の中に、色とりどりの光が揺らめいている。はっとペンライトを忘れたと慌てたが、関係者席で振るわけにはいかないと思い直した。

 ステージの光量がぐんと増した。ステージ上の四人が照らし出される。

「僕たちのもう一人の仲間が、駆けつけてくれました!」

 大和さんがステージに駆け込み、大きく客席に手を振った。会場が揺れるほどの歓声が爆発する。挨拶をしている間にペンライトの光が次々に紫色に切り替わり、会場中を埋め尽くしていく。聞き慣れた雨の音とピアノの音が響き始めた。大和さんが前に出る。

 甘い色気に満ちた相馬刻の声が、優しいラブソングを歌い始める。

 相馬は才能にも美貌にも恵まれているけれど、先天性の疾患でアイドル活動に体がついていかない。だけどそんなことに気付かせて仲間たちにも主人公にも心配をさせないように、ずっと気怠げでだらしのない性格を演じ、甘ったるい言動で主人公を煙に巻いていた。相馬のストーリーは、そんな彼の努力だとか、悔しさを主人公が知っていく様子が描かれる。だけど今大和さんが歌うラブソングは、あまりにもまっすぐで優しい音をしていた。こんな歌が歌えるのは、エンディングを迎えた後の相馬刻だ。うすうす気が付いていたことが確信に変わる。同じことを思ったのだろう、客席のあちこちで、押さえ込んだ溜息や、上擦った歓声が聞こえた。

 柔らかい藤色の照明が大和さんに降り注いだ。周囲をひらひらと羽のような白い光が舞う。

 体調によってはすぐに吐いて熱を出してしまう状況で、今回はダンスの演出は諦めてほぼ立ったまま歌うことしかできなかった。大和さんは仕方ないとそれを受け入れながらも悔しげな顔をしていたけれど、シルエットばかりになった彼の立ち姿は、ほとんど動かずともそこに相馬刻がいるのだと感じさせてくれた。

 歌が終わる。ここからはMCの時間だと知らせるように明るい白色に変わっていく明かりの中でわっと仲間たちがステージに駆けこみ、次々に大和さんに抱きついた。喜びを爆発させる五人に、観客のボルテージも上がる。

 赤と金の衣装を着た東堂役の早河さんが、ヘッドマイクの位置をキュッと直した。会場に向かって大きく片手を広げる。

「五人揃ったところで、皆様にお知らせがあります!」

 うわーっと歓声が上がる。俺も必死に両手を叩いた。

「『スターリーゲート』、新作ゲームの製作が進んでおります!」

 五人の後ろに、『情報解禁』という文字と共に新しいゲームのパッケージが現れた。新しいキャラビジュアルが次々に映され、それぞれのキーコメントが次々に演じられてゆく。生セリフに興奮するうちに、相馬刻が映った。大和さんが客席に手を差し伸べる。

「次に会う時は、もっと君のことが知りたい。……君の全部を、教えてくれる?」

 ガツンと脳を揺らす甘ったるい響きに、顔を押さえて呻いていた。

「うぁああああ……っ」

 最高がすぎる。同時に、あんなにずっと一緒にいたのに情報解禁日まで漏らさなかった大和さんのプロ意識を改めて尊敬した。当然台本も見せてはもらえなかったから、そこから始まった新ゲームの前日譚という設定の朗読劇にクラクラするほど興奮する。大和さんが演じるんだ。これから先も、相馬刻を。五人並んだステージにじわじわと涙が滲み出す。声を揃えてエンディング曲を歌い出した時には、もう耐えられなかった。べそべそ泣きながら目ばかりはカッと開いてステージを見つめ続けていると客席を眺める大和さんと目が合い、彼が呆れたような優しい顔で笑った気がした。


 最後の演出まで見てからダッシュで楽屋に戻る。疲れて戻って来るだろう大和さんのために飲み物や貰った差し入れを整えていると、バタンと扉が開いた。ライブの熱気を帯びたままの大和さんが入ってくる。袖で待機していた佐々木さんが後ろに続いた。

「終わったー……っ」

「お疲れさまです!」

 強いライトを浴び続けていた彼は髪の先まで汗びっしょりで、すっ飛んでいってタオルを差し出した。興奮にふらついている手を引いて、まずは椅子に座ってもらう。冷たいスポーツ飲料を差し出すと、大和さんは半分ほどをひと息で飲み干した。サウナから出たばかりのようなスッキリとした顔で俺を見てにやりと笑う。

「野垣、泣いてたろ」

「だって、感動して、大和さん、新作、大和さん……っ」

 また涙が滲んでくる。ぐしゃぐしゃっと髪を掻き回すように撫でられた。

「泣くなよ」

「すみませ……っ」

 優しい声に、いっそう涙が溢れてくる。ぐずぐずと鼻を鳴らす俺に大和さんが目を細めた。視線が合う。ふっと、時間が止まったような気がした。

 コンコン、と大きなノックの音が響く。進行のスタッフさんがひょいと顔を出した。

「大和さん、退場演出一緒にいかがですか」

「あ、はい。行きます!」

 一緒に行こうとした佐々木さんに、すぐだからと言うように片手を振って大和さんは足早に楽屋を出て行った。もう足取りに不安はなく、独り立ちした子どもを見送るような感傷的な気分が湧き上がってくる。巣立ちを見送った親鳥の気分で感動に打ち震えていると、佐々木さんがふう、と息を吐いた。

「佐々木さんもお疲れさまです! お茶淹れましょうか」

「いやいや、そんな私が……」

「もう準備してたんで」

 俺が大和さんについている間に、キャストとその事務所の人たち、ライブのスタッフさん、製作会社の人たちとあちこち挨拶に回り、ほうぼうで気を遣ってだいぶ疲れている様子の佐々木さんに蕎麦茶を入れる。ちょうど差し入れでもらったまんじゅうがあったのを添えて出すと、一口飲んだ佐々木さんはいかにもほっとしたというように長く尾を引く息を吐いた。

 パイプ椅子に腰を下ろして、俺も一口サイズの小さなまんじゅうを口に運ぶ。甘いあんことお茶にずっと慌ただしく熱を帯びていた頭がすうっとクリアになった気がした。しばらく二人黙ってお茶を啜る。ふっと息を吐いた佐々木さんが俺に目を向けた。頭を下げられる。

「今回は、本当にありがとうございました」

「いえ、だから、そんな……」

 何度も繰り返されるやり取りに困って言いかけるが、顔を上げた佐々木さんは真剣な表情をしていた。どうしたのかと口を閉じて先を聞く。

「野垣さんがいなかったら、大和さんは今日、ここにはいられなかったでしょう」

「とんでもな……」

 静かに首を振られて、また言いかけの言葉が途切れる。佐々木さんが溜息を漏らした。

「本当にね、困り果てていたんです。大和さんには、今もひっきりなしにオファーが来てる。でも、彼の調子がぜんぜん戻ってないのは明白で、なのにそれを伝えてもらうことさえできないくらい信頼関係を築けないままで、彼が潰れてしまうんじゃないか、そうして、正直ね、そんなことになったら事務所にも大きな影響があるって、途方に暮れていたんです」

 緩々と、けれど真摯に続く言葉に頷いて聞いていると伝えた。

「だけどあなたが大和さんの傍にいてくれた。私たちをね、繋ごうともしてくれた。とても感謝しています。だからこれが本当に失礼なお願いだっていうことは、重々承知しています。ですが、どうか聞いてください」

 話がどこに辿り着くかわからずにびくりと心臓が竦んだ。真剣な眼差しが向けられる。

「野垣さん。大和さんのマネージャーになってもらえませんでしょうか」

「え……」

「彼にはまだ、サポートが必要です。それにはあなたしかいない。野垣さんは大和さんとの信頼関係がありますし、マネージャーになにより必要なのは、声優さんに惚れこんで、この人のために何でもしてやろうっていう熱意です。あなたにはそれがある。まわりのこともよく見ていて、気遣いのある方だというのも今日一緒に動いてしみじみ感じました。正直、とても動きやすかった。あなたみたいな方が一緒に働いてくれたらどれだけ助かるかと……」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 声を上げると、佐々木さんはぴたりと止まった。

「す、すみません。急なことで、ちょっと、あの……っ」

 首を振ると、身を乗り出していた佐々木さんははっとしたように体を引いた。

「し、失礼しました、あの、ちょっと熱が入りすぎて……。他社の声優さんにこんなことを言い出すのがとんでもないことだっていうのはわかっています。なので、ゆっくり考えていただいて大丈夫ですから、それに、これもぜひ読んでいただいて……っ」

 さっと携帯を取って操作する。着信音に携帯を見てみると、そこにはアストプロデュースの労働条件通知書が届いていた。一ヶ月フルで引っ越しバイトに入った時の四割り増しの月給に驚く。その上、社会保険料は会社持ち、有休日数までしっかりと書き込まれた内容に佐々木さんの本気度が伝わる。

「いつでもご質問などありましたらご連絡ください」

「は、はい……」

 戸惑いながら頷く。ガチャッと音を立てて扉が開いた。思わずばっとそちらを見た俺たちに、入ってこようとした大和さんが驚いた表情を浮かべた。



 ライブ後の挨拶まわりを終えると、大和さんは俺と車で帰ると言い出した。

「大丈夫ですか。荷物は運んでおきますから、佐々木さんと電車で戻って来ても……」

「お前の運転ならたぶん大丈夫」

 押し切られるようにして車に乗り込む。大和さんは酔い止めを飲んで毛布を被って丸くなりはしたけれど、ライブの後で疲れ果てているのも良かったのか、うとうとしながら一度も車を止めずに帰ることができた。

 マンションの地下駐車場で大和さんと荷物を下ろし、車を返しにいく。レンタカー会社を出ると、生ぬるい風が吹きつけてきた。生ぐさい磯の匂いは、今日の嵐で海から運ばれてきたのかもしれない。もうすぐ梅雨がやってくるのだろう。

 湿り気を帯びたアスファルトが足音を吸い込む。マンションを仰ぐと、大和さんの部屋に明かりがついているのが見えた。走っていって飛び込みたいような、このまま駆けだして逃げてしまいたいような気持ちが両方渦巻く。佐々木さんの誘いに、俺はイエスともノーとも答えを見つけられずにいた。

 一度は声優と呼ばれてアニメのアフレコや外画の吹き替えに参加したけれど、数年もたたずに消えていく新人はあまりにも多かった。生き残って人気声優になれる確率なんて一パーセントもないだろう。佐々木さんもそうした現実を知っているから、まだほとんど仕事のない俺にこんな提案をしてきたのだとわかっていた。

 大和さんに会うために声優を目指したと言っても過言ではない。それは掛け値なしの本心だった。だから、喜んで受けてもいいはずだった。生活だって安定するし、大和さんの傍にずっといられる。だけど、そうしたら声優の仕事は続けられなくなる。彼と一緒に演技をして、作品を作る夢は消えてしまう。ずんと重たいものが胸の奥底にわだかまっていた。

 部屋に戻ると、リビングに大和さんの姿はなかった。浴室からシャワーの音がする。今日は疲れただろうからできるだけ早く寝てもらわないと。明日は休みにしていたが、明後日は朝から収録が入っている。スケジュールを思い出しながらふっと溜息が零れた。これがマネージャー向きの性格だというなら、それはそうなのだろう。世話を焼くのも、スケジュールを組んだり、それまでに必要なことを考えるのもなんの苦にもならない。むしろ全体を把握して工夫できる手応えと喜びがあった。

 リビングに戻ってお茶を淹れる。パタンと浴室のドアが開く音がした。スウェットに着替えた大和さんがやってくる。

「おう、おかえり」

 当たり前のように笑ってくれるのに、きゅっと心臓が痛くなった。ソファにいた俺の隣に腰を下ろし、いつもの黒いマグカップを取る。軽く掲げる仕草に何をしようとしているのか気付き、慌てて俺もマグカップを取ってぶつけ合わせた。大和さんが照れたような笑いを漏らす。

 並んでお茶を飲んで、さっきもこんなことをしていたな、とふっと笑いが漏れる。大和さんがそれを聞きとがめてきた。

「なんだよ」

「今日しょっちゅうお茶飲んでる気がして……」

「ライブって結構待ち時間あるしな」

 大和さんがまとう空気が柔らかい。ゆっくりとお茶を飲む目元は和らいで、ずっとそこにあった緊張が薄くなっていた。この人はひとつ、辛い経験を乗り越えたのだ。

 隣にいるだけで、温かなものが満ちてくるように感じられる。達成感と、寂しさと、焦りと、ひとつずつは数えられるのに自分が何を感じているのかわからないまま黙っていると、ふと大和さんが欠伸を漏らした。目元を眠そうに擦る。

「もう寝てください。疲れたでしょう」

「ん。……お前は?」

 とろとろと遅くなった口調で問いかけるのに首を振った。

「片付けて風呂入ってから寝ます。……ほら」

 手を差し出すと、大和さんはなんの疑問もない様子で掴まった。そっと引き起こして、寝室に送る。離れがたくて、ベッドに入った彼の肩を最近取り替えた夏がけ布団で包んだ。

「おやすみなさい、大和さん」

 何も言われなかったけれど、片腕を胸の上に置いた。ほうっと息を吐いて大和さんが瞼を閉じる。

「おやす……」

 語尾が溶けたようにほどけて、言い終わる前に大和さんは眠りに落ちていた。すうすうと繰り返される寝息は穏やかで、もう悪夢に呻くことも、上がり続ける熱に苦しげに悶えることもない。よかったとも思うのに苦しくて、薄暗い部屋の中で寝顔を見つめ続ける。遮光カーテンをぴったりと閉じた部屋は暗くて、誰にも見られないと思うと勝手に眉間に皺が寄っていった。

 音を立てないように立ち上がって寝室から出る。シャワーを浴びても頭の中はもやもやしたままで、携帯を手にリビングのソファに腰を下ろした。佐々木さんから送られた労働条件通知書を眺め、オーディションの連絡さえ入っていないメールを見て溜息を吐く。もし、来年の査定に落ちてしまったら拾ってくれるだろうかなんて姑息な考えを頭を振って振り払う。考え込んでいるうちにカーテンの向こうの空は白く変わり、朝の光が差し込んできていた。



 パタパタと響く足音に目が覚める。リビングに入ってきた大和さんは、俺を見るとぎゅっと眉を寄せた。

「ここで寝てたのかよ」

「気付いたらうとうとしちゃってて……」

 顔を擦りながら起き上がる。実際寝たのは三時間ほどだろうか。だけど少しも眠った気がしなかった。

「おはよーございます……すぐ朝ご飯作りますね……」

「いいから、ちゃんとベッドで寝ろよ」

 心配そうに言うのに首を振る。

「大丈夫、ちょっと待っててください」

 むっと唇を引き結んだ大和さんに笑いかけて、コーヒーを入れてハムエッグを焼く。野菜室にあったキュウリとトマトも一緒にトーストしたパンに挟んだサンドイッチを作って持っていくと、大和さんはまだ不貞腐れた顔をしていたのにちょんと頭を下げてくれた。

「ありがとな」

 もう飯を作るのも何十回目かなのに、律儀に礼を言ってくれる。大和さんはずっとそうだった。俺が何かをすると、嬉しそうにしてくれるからなんだってしてあげたくなる。申し訳なさそうにされてしまうと、喜んでやっているから安心してほしいと掻き口説きたくなる。

 緩く首を振ってみせると、大和さんはカフェオレを一口飲んでからトーストサンドにかぶりついた。そうしてぶつぶつと文句を言い始める。

「お前さ、人にちゃんと寝ろとか食えとか言うならお前も寝ろよ」

「すみません」

 睨まれるけれど心配しているだけだとわかってしまって擽ったい。思わず笑うとなんだよとさらに睨まれて、怒った顔に吸い寄せられる視線に、ふと気付いた。

 俺は、この人が好きなんだ。

 ずんと胸が重たくなる。もやもやと渦巻くような息苦しさは、昨日からずっと感じていたものだった。胸を締め付けるような重怠さ。たぶんこれは、罪悪感だ。

 俺は、大和さんのファンだった。ずっと大好きだった。一緒に仕事ができて嬉しくて、この人の事情を知って何かしたいと願った。役に立ちたくて、頼ってもらいたくて、安心した顔を見せてくれるのが嬉しかった。同時に、この人の一番傍にいるのは自分でありたいといつしか願うようになっていた。だけどその気持ちは、この人を傷つけた犯人とどこが違うんだろう。

 腕の中に囲い込んでしまいたい。俺がいないと駄目になってほしい。この人の全部を知りたくて、何かがあった時に最初に頼るのは俺であってほしい。そんなすべてが、マネージャーになればきっと叶う。だけどそれは、監禁とどこが違うんだろう。

 一晩の監禁よりも悪いかもしれない。だって、俺はきっと囲い込んでしまえる。この人の生活全部を心地良いように整えて、縛ることができてしまう。

「野垣?」

 不思議そうに名前を呼ばれて我に返った。

「お前顔色悪いぞ。本当に寝ろよ。大丈夫か?」

 眉を寄せて顔を覗き込んできた大和さんをじっと見つめた。ぎゅっと手を握り締める。絞り出した声は、かすれていた。

「すみません。俺、ちょっと考えなきゃいけないことがあって……。家、帰ります」

「え……」

 大和さんが目を見開いた。不安そうに視線を揺らがせる顔が可愛いと思う自分を絞め殺したくなる。

「急に、何……」

 小さくなってゆく声に首を振った。この人を不安にさせてはいけない。俺がいなくて不安になる姿を嬉しいと思うなんて、許されることじゃない。精一杯笑顔を作って目を合わせる。

「仕事のことで悩んでるだけです。大和さんと一緒にいると、俺、頭の中全部が大和さんになっちゃうんで、今日は帰って悩んできます。……でも、答えが出たら、聞いてもらえますか」

 目を見て伝える。

 大和さんのマネージャーになるというのは、正直魅力的な話だ。ずっと傍にいられるし、正直向いている仕事だとも思う。預かり声優になって一年以上がたってもろくに役が貰えない今、頼りになると認めて貰えたことも嬉しかった。

 だけどもしマネージャーになるなら、彼への恋心をそのままにしておくことはできなかった。大和さんを傷つけてしまうものは、俺自身だって許せない。それに、どんなに成果が出ていなかったとしても、声優になるという夢はそんなに簡単に諦められるものではなかった。

 じっと動かずに聞いていた大和さんが真面目な顔で頷く。

「わかった」

 何を言っているのか不思議に思っているだろうのに、無理に聞き出そうとはしないところがやっぱり先輩なんだなと思わされる。

 立ち上がって皿を片付けようとすると、大和さんは自分の皿を持ってついてきた。俺のぶんとして作ったサンドイッチをラップで包む。

「腹減ったら食べてください」

「持って帰りゃいいだろ」

「俺はどうにでもなりますけど、大和さん放っておいたら何も食わずにいそうなんで。冷凍庫にうどん入れてあるので、そっちも食べてくださいね」

 マグカップを洗いながら言うとぎゅっと眉を寄せて睨まれた。

「お前、世話焼きすぎるだろ」

「性分なんですよ」

 昨日までは嬉しかった言葉が、今は苦い。

「ちゃんと寝て食べてくださいね」

「大丈夫だって、もう」

 不貞腐れたように言うけれど、大和さんは集中するとすぐ夜更かしするし、放っておくと焼きもしない食パンを囓って一日の食事を終わらせたりする。一人にするのはやっぱり心配で、だけど今は一緒にいられなかった。洗いものを終えて玄関に向かうと、大和さんは見送る素振りで付いてきてくれた。靴を履く俺に心配そうな声で尋ねてくる。

「また、来るだろ?」

「ちゃんと考えたら……考えられたら、来ます」

「ん。……待ってる」

 少し遅い口調で紡がれた言葉が甘く聞こえて、慌てて手を振って玄関を出る。本当はこのままずっと一緒にいたい。離れたくない。大和さんだって、きっと俺がいたほうがいいって思ってくれている。だけど、だからこそ一人で考える必要があった。



 自転車を駆ってアパートに戻る。ドアを開けた瞬間に溢れるむわっとこもった空気にうんざりする。バッタリとベッドに倒れ込んで寝て、起きて、ダッシュで事務所に行って仕事がないかと聞いたけれどやっぱり無く、養成所のレッスンに参加して声を出して事務所の掃除をして、家に帰ってひたすらアニメを見た。

 次の日は家にこもっていたら果てもなく落ちこんでいきそうで、久しぶりに単発の引っ越しバイトに行った。重い荷物を無心に運ぶ。日払いで貰った給料を見て、声優を続けていくのなら、たとえ査定に受かったとしてもずっとこうして食っていくためのバイトをして、その合間にオーディションに入れて貰えないか必死にアピールする日々が続くのだと気が重くなった。

 動き続けながら、頭の中ではずっと大和さんのことと、マネージャーになることを考え続けていた。だけど答えなんて出ずに、ただ焦りばかりが募る。

 そうして寝たらもう火曜日で、つまりは『翠燦すいさん破砕斬ブレイカー』のアフレコ日だった。

 たった二日ではあるけれど、大和さんと一緒にいるようになってからこんなに離れていたのは初めてだった。だけどまだ顔を合わせて何を言えばいいのかわからなくてギリギリにスタジオに入ると、ロビーにいた大和さんが慌てたようにこちらを振り向いた。

「おはようございます」

「……おはよう」

 挨拶を交わすけれど、他に何も言えずに会話が止まる。すぐにアフレコが始まって、良かったと思う自分が嫌になった。

翠燦すいさん破砕斬ブレイカー』のアフレコは十三話めで、ちょうど二クールアニメの折り返し地点だった。主人公のリベルの努力が学園でも認められ、仲間が増え、さあここから戦いに行こうと勇み立ったところで現れた敵に学園そのものが壊滅させられる。希望から絶望へ一気に振り切る回とあって、ブースの中には緊迫した空気が漂っていた。ぴんと張り詰めた糸を一本一本重ねていくようにテンションが高まってゆく。一人一人の声に気迫がこもっていた。

 だけど俺の目と耳は、どうしようもなく大和さんに向いてしまっていた。彼が動くと、目が追ってしまう。彼の言葉ばかりを耳が追ってしまう。すっと大和さんがモニター前を退いた。マイクの前が無人になる。あれ、と思った時には、俺が言うべきセリフがひとつ飛んでいた。

 ボン、と苛立った音を立ててモニタールームのマイクが入る。張り詰めていた空気がぷつんと壊れた。

「ウリィ、セリフ」

 山倉さんの低い声が響く。真っ青になった。

「――……ッ、すみませんッ!」

 はあ、と山倉さんが息を吐く。ブースの中は静まりかえっていた。

「……ここで休憩にします。昼開けはシーン34から」

 淡々と山倉さんの指示が響く。先輩たちがブースから出て行っても、下げたままの頭を上げられなかった。


 モニタールームから出てきた山倉さんに駆け寄る。

「すみませんでしたっ!」

 頭をもう一度下げると、また溜息を吐かれた。音響スタッフさんたちが歩き去っていく。あたりが静かになるのを待って、山倉さんが口を開いた。

「せっかく持ってったテンション途中でぶち切れられると、演者さんもこっちもしんどいんだよ。んなこと、ブースにいるんだからわかるだろうけど」

「はいっ。申し訳ないです……っ」

 謝るしかできない俺に呆れた様子で山倉さんはまた溜息を吐いた。

「ライブ、いたよな。『スターリーゲート』の。関係者席に」

「あ、はい……っ」

「なんか関係あったっけ」

「その、大和さんのサポートをさせてもらってて……」

「ああ。なるほどね。マネージャーにでも転向するの」

 納得したような声に目を上げた。そんな風に言われるほど、俺はマネージャーっぽい動きをしていたのだろうか。視線が合う。何、と問いかけるように眉を上げる山倉さんに、思わず縋り付くように尋ねていた。

「なんで……、あの、なんで俺を番レギュで入れてくれたんですか」

 山倉さんの眉が上がる。どうして選んだのかなんて、主役級のキャストで、アニメが人気になって、インタビューでもされなければ教えて貰えるもんじゃない。少なくとも、モブでしかない俺が聞いていいことではなかった。呆れた顔をした山倉さんに慌てて謝る。

「すみま……っ」

「まわりが見えてて、場の空気が作れそうだったから」

 淡々とした声に、ぽかんと目を開いた。

「最近の若い子、挨拶しにきてもその後会話できない奴が多いからね。新人を採るなら、周囲とうまくやれそうな奴を選ぶよ」

「……ありがとう……ございます……」

 頭を下げた俺に頷きかけると、山倉さんはスタジオを出て行った。誰もいなくなったロビーに、空調が立てるかすかな音だけが響く。

 ざっくりと心臓を刺されたような気がした。演技を気にいってもらったわけじゃない。声優として期待してもらえたわけではなかった。ここでも俺は、まわりと上手くやれそうなこと、そこだけを評価されていた。頭が重い。足が動かない。身動きもできない。だけど、気付けば震えるほどに拳を握り締めていた。

 


 昼を食べる気にはなれなくて、休憩時間いっぱいを台本読みに使った。

 昼休憩から帰ってきた先輩たちが揃ったところで、改めて頭を下げる。

「ご迷惑おかけして申しわけありません。午後頑張ります!」

 下げた頭が上げられない。かすかに吐息を漏らす音が重なったけれど、それがどんな感情を表しているのかも読めなかった。大和さんの声が聞こえる。

「おう。頑張れ」

 短い一言に張り詰めていた空気が緩んだ。おそるおそる顔を上げると、小島さんにバシバシと背中を叩かれる。

「まーまー僕たちも頑張るからさあ、しっかりついておいでよ」

「はいっ」

 誰も、抜けたセリフについては何も言わなかった。呆れられているのか、それとも気遣われているのかもわからない。空気感を整えるためだろう、少し前のシーンから録り直しになったことが申し訳ない。すぐにかかった開始の声にブースに入り、また少しずつ張り詰めていくテンションを、それを作り出す声を、ただ必死に聞いていた。

 同じシーンを演じていても、同じセリフを言っていても、人が演じる以上まったく同じにはならない。再び演じられた壊滅シーンでは皆午前よりも声を絞っていて、衝撃よりも悲愴感が強く場面に漂い出していた。

 ついさっきまでロザリア先輩に浮かれた声援を送っていたウリィが、敵に刃を突きつけられて腰を抜かす。振りかぶられる刃。大和さんがマイク前に立った。斬撃。ウリィを庇ったゼノムの胸から血が噴き上がる。大和さんが低く呻いた。すっとマイク前から下がる。間髪入れずに踏み込む。

「そんな、先生……っ、せんせぇ……っ!」

 ついさっきまでの喜びが、希望が、命が、すべて失われていく悲しみが描かれていく世界に、俺もまた震える声で一色を添える。小島さんが高笑いを響かせる。すっと下がると、大和さんが入れ替わりにマイク前に立った。

「まぁ……ったく、格好付かないこと夥しいね……」

 ゼノムが笑う。かすれた声で、だけどいつもと変わらない飄々とした音で。不意に、声の底に芯が通った。

「……逃げな。そのくらいの時間は、まだ先生が稼いでやれるから、ね」

 揺らがない強い声に、希望が射す。学園から遠くに飛ばされた主人公と、上級生たちの様子が一瞬カットインする。ゼノムが背に庇った生徒たちの前に、彼の能力の鎖が楯のように張り巡らされていく。大和さんの声で、絶望に満ちていた世界が祈るような、だけどワクワクするバトルシーンに切り替わる。主人公はきっと間に合うという希望と、ゼノムはこのまま死んでしまうんじゃないかという不安と、たった一人で生徒たちを庇う格好良さに声援を送りたくなる気持ちが一緒くたに湧き上がる。漫画だって読んでいる。台本だって貰っている。この先のストーリーなんてよく知っているのに、ブースの隅のソファにへたり込むように座りながら、握り拳を振り回してゼノムを応援したくなっていた。

 格好良かった。ゼノムも、大和さんも。

 あなたの声が、俺たちを違う世界に連れて行ってくれる。大好きな世界を、もっと身近に、もっと明確に、心臓のど真ん中に届けてくれる。俺も、そうなりたい。ここにはない、だけど大切な世界を、誰かのところに届ける役に立ちたい。

 音を立てないようにゆっくりと深呼吸して耳を澄ませ、次のセリフをどんな音で合わせていくか、喉の奥で調整していた。


 ストーリーが転換するシーンが多いために、バージョン違いや撮り直しが幾度か発生し、アフレコ終わりはいつもより三十分ほど遅くなった。急ぎ足で先輩たちが出て行く中で、大和さんを呼び止めた。

「……後で行っていいですか」

「ん」

 言葉少なに頷く彼は、困ったように眉を下げていた。肩を並べてスタジオを出て、だけど何も言えずに自転車のスタンドで軽く手を振って別れる。大和さんの部屋の鍵も持ったままだったけれど、彼がいない家に我が物顔で踏み込んでいく気にはなれなくて、一度アパートに戻ってから大和さんが帰る時間を見はからってマンションに向かった。

 一階でインターフォンを鳴らす。ブツンと通話が繋がるが、ためらったような間が空いた。

「……どーぞ」

 ぼそっと言われて、オートロックが外される。部屋のインターフォンを鳴らすと、玄関先に出てきた大和さんは眉を寄せていた。

「……勝手に入ってくりゃいいのに」

「いや、あの、ちゃんとケジメつけようと思って……」

「ケジメ」

 リビングに入ると、ソファの上に毛布が丸まっていた。もしかしたら大和さんはここで寝ていたのかもしれない。丸めた毛布を胸に抱えて座った大和さんが視線で隣を示す。頷いて腰を下ろし、ちょっと考えて床に膝をついて座り直した。大和さんがびくっとする。

「なに……」

「俺、大和さんの傍にめちゃくちゃいたい……めちゃくちゃいたいですけど! でも、マネージャーじゃなくて、声優として傍にいたいです、すみません!」

 両手を床について土下座する。

 向いているとか、認められたとか、生活の安定とか、大和さんの傍にいられるとか考えながらも、結局俺はずっと声優で居続けるための理由を探し続けていた。

 それにマネージャーとして四六時中傍にいるようになったら、俺はきっと恋を抑えられなくなる。彼に尽くしているふりで、囲い込もうとしてしまう。好意を押し付けて大和さんを傷つけるなんて許せるはずがなかった。下心ばかりの気持ちなんて捨てて、いい後輩として、一緒に作品を作っていく仲間として彼の隣に立ちたい。だけど大和さんは目を見張ってぽかんと口を開けていた。あっけに取られた声が漏れる。

「……は?」

 そのまま無言が続くのに顔を上げると、大和さんは戸惑った顔をしていた。もしかしたら、佐々木さんは何も言っていなかったのかもしれない。携帯を取り出してアストプロデュースの名前が入った労働条件通知書を開いて見せると、彼はいっそう目を剥いた。

「あの、佐々木さんから、大和さんのマネージャーにならないかってお誘いをいただいて……」

「はぁっ?」

 大和さんの声がひっくり返る。記憶を手繰るように視線が動いた。

「え、ちょっと待てよ、俺それノータッチ……え、いや、その、お前がいて助かるとは言ったし、佐々木さんがずっといてくれればいいですねって言うからそうだなって言った、ような気はするけど、もしかしてそう取られてたのか、え、マジか」

 早口で呟いていたかと思うと、突然しゅっと目の前に降りて床に手をつかれてびっくりした。

「ごめん!」

「ええっ、いや、あの、大和さんのせいじゃないですし……っ」

 頭を下げられておたおたする。大和さんが俯いたまま首を振った。

「俺が軽率なこと言ったからだろ。悪かった。めちゃくちゃ失礼だろ、ごめん……」

 どんどんしょんぼりしてしまう声に慌てて首を振る。だけど、大和さんにはそんなつもりはなかったんだと知って、胸の底でほっとしていた。

「や、あの、知らなかったんですよね。大丈夫ですから、顔、上げてください……っ」

 まだ申し訳なさそうに眉を下げた顔と目が合った。

 本当は、マネージャーじゃなくても傍にいてもいいですかなんて聞きたかった。だけど聞けるわけがない。だから、自分がしたいことを繰り返した。

「俺、まだろくに仕事もない声優の卵ですけど、それでもやっぱり演技をして、架空の、だけど大事な世界を誰かに届けていきたいんです。佐々木さんにマネージャーに向いてるって言われて、そしたら大和さんとずっと一緒にいられるって思って、正直結構揺らいだんですけど……でも、やっぱり」

 正座した膝に腕を突っ張って、ついたばかりの決心を支えるようにして話していく。向かい合わせに正座をした大和さんは、頷きながら真剣な顔で聞いてくれていた。

「だから、声優でいられるように、もっと頑張りたくって……」

「声優でいられるようにって?」

 落ちついた声で問われる。どう答えようか迷って視線を泳がせると、大和さんは膝を解いてソファにもたれかかり、答えを待つ仕草で首を傾げた。じっと見つめられて、少し慌てる。

「えっと……俺、実はまだ預かりで、このままだと来年契約切られる可能性が高いんです。だから今年中にレギュラー獲らないといけなくて、そのためにはワークショップとかも行って、あっちこっち顔繋いで、仕事紹介してもらえるようにならなくちゃと思って……っ」

 幸い大和さんからもらったバイト代がまだある。今まではお金の問題で行けなかった音響監督さんがやっているワークショップにも行って、自分で営業をかけて仕事を増やす努力をしようと意気込むと、大和さんがすっと視線を向けてきた。

「俺を使えよ」

「え」

 まっすぐ見つめられる。俺が理解するのを待つ間を空けて、大和さんはもう一度口を開いた。

「俺についてこいよ。どこの現場だって連れてってやるし、紹介もしてやる」

 ぽかんと口が開いた。慌てて首を振る。

「そんな……っ、そんな迷惑、大和さんにかけるわけには……っ」

「迷惑じゃねえよ」

 淡々とした声の意図が読めなくて息を飲むけれど、大和さんはただ真面目な顔をしていた。

「後輩を現場に連れて歩くなんて珍しいことじゃねえだろ。俺も昔そうやって現場回してもらったことあるし」

「けど……っ、俺は……っ」

「何」

 言いかけてためらったところを突き刺すように問われて、俯いた。悔しさに口の中が苦くなる。

「俺は、場の空気を読むことくらいしかできないから……」

 そんなへたくそを連れて行って、大和さんの評価に万が一でも傷が付くようなことがあったら堪らない。大和さんが怪訝そうに眉を寄せた。

「それ、誰かに言われたのか」

 山倉さんに言われたことを話すと、大和さんは両手で顔を覆ってしまった。

「あー……」

 低く呻く。どうしたのかと思っていると、大和さんは溜息混じりに口を開いた。

「それ、たぶん山倉さんは褒めたつもりだと思う……」

「えっ」

「あの人表情変わらないから誤解されやすいけど、結構熱血だし、情に厚い人なんだよ。俺が休養した時も事情知ってるとはいえ復帰待ってるってメールくれた音響監督さんなんてあの人だけだし、復帰してすぐにオーディション回してくれたり、本調子じゃない間もちょいちょい融通利かせてくれてたし。たぶんお前が失敗してへこんでたから、励まそうとしたんだと思う」

 そういえば『スターリーゲート』のライブでも山倉さんはスタッフの中心にいたと思い出す。

「それに、場の空気が作れるとか会話できるとかがどれだけ大きな武器だと思ってんだよ」

 呆れた声に口を噤む。大和さんを見ていたって、それが大事だというのはわかっているつもりだが、何もかも演技が出来た上での話なんじゃないだろうか。不満そうな顔に気付いたのか、大和さんがしょうがないなと言うように笑った。

「俺が連れて行ってやるって言えるのも、お前が現場を壊さないって信頼できるからだしさ。毎週何時間も協力して作品作り上げなきゃいけない中で、一緒に働きたい奴である、って一番大事だろ」

「……でも、声優なんだから、演技力がなきゃどうしようもなくないですか」

「演技力がなけりゃ、そもそも番レギュに受かんねえよ」

 不思議そうな声で言われて瞬いた。大和さんが顎を撫でながら考え込む。

「そりゃ、すげえ上手いとも言わねえけどさ。お前わりと芝居勘いいだろ」

「え……っ」

「人の演技すげえよく聞いてるし。だから、相手のセリフを受けて演技できてるんだよ。今日だって、午後はテンション変わってたけどちゃんと合わせてきてただろ。上手い演技じゃなくて、場面作る演技になってんだよ」

 いつのまにか、俯いて自分の膝を見つめていた。鼻先がぎゅっとつままれたように痛い。目の縁が火照って熱い。

「それは大和さんがいっぱい一緒に練習させてくれたり、すげえアドリブ入れてきたり、無茶振りしてきてくれたから……」

「感謝されてんだか文句言われてんだかわかんねえんだけど」

「感謝してますっ」

「そ?」

 面白そうに大和さんが笑う。真っ赤になっているだろう顔を見せないように俯いたまま鼻をかんだ。

「で、どうすんの。ついてくる?」

「よろしくお願いします!」

 今度は即座に声が出た。床に這いつくばるように頭を下げる。

「チャンスはやるからさ。掴み取ってこいよ」

「ハイッ!」

 精一杯気合いを入れた返事をして顔を上げた。目が合う。笑い合うのが照れくさくて、慌てて立ち上がった。

「お茶淹れますね」

「蕎麦茶がいい」

「わかりました……っ」

 足早にキッチンに行って、土曜とまったく変わっていない光景に眉を寄せた。水道も、コンロも、何ひとつ使われた形跡がない。

「大和さん、何食べて生きてたんですか」

 湯を沸かしながら呼びかけると、彼は決まり悪そうに視線を泳がせた。

「外で食べてきたり……コンビニで買ってきたりとか……」

 そうは言うが、ゴミを捨てていないどころか増えてもいないのを見ればろくに食べてもいないことは明白だった。溜息を吐くと、毛布を抱えて拗ねた声で大和さんがぶつぶつ言い訳する。

「しょうがねえだろ、台本読んでると食うの忘れるし……遅くなると面倒だし……」

「冷凍のうどんだのパスタだのもあるんですが」

「……忘れてた」

 たぶん本当に忘れていたのだろう。この人はどうも、人間としての自分をないがしろにしすぎる癖がある。だけどお茶を置くと、嬉しそうにマグカップを持って飲むものだからそれ以上文句も言えなかった。隣に腰を下ろして自分も茶を飲む。ずっと続いていた焦燥感が薄れていく。けれど、熱い液体が喉を滑り落ちていくのを感じながら目を上げた。

「なら、また飯作りにきます」

「え……」

 大和さんが戸惑ったように視線を揺らした。

「これからは、通ってきますね。俺もあちこち行くつもりですし、暑くなってきたし」

 大和さんは、うなされずに眠れるようになった。いつか見つけた羽毛布団はクリーニングも終わってしまい込まれ、毛布一枚で震えることもない。もう、俺が一晩中傍についている必要はどこにもなかった。

「……アパート帰んの」

「って言っても、寝に帰るだけになっちゃう気もしますけど」

 当たり前のような顔を作って笑いかける。大和さんはちょっと眉を下げて、寂しそうな顔をしていた。静かな部屋が嫌いなこの人が、いてほしいと訴えてくれているのはわかっていた。だけど気付かないふりをする。だって同じベッドでなんて寝ていたら、俺はきっとこの人を襲ってしまう。

「今後とも、よろしくお願いします」

 深々と頭を下げた。大和さんのことが大好きな後輩。ファン。俺は、それだけでいたい。あなたを傷つけずに、ただ役に立てる存在でありたい。

「……わかった」

 不満そうな声が頭上から降ってくる。不貞腐れているんだぞ、寂しいんだぞ、なんて言葉にしなくても訴えてきてくれるあなたが可愛くて、可愛くて仕方ない。俺には甘えていいのだと覚えてしまった素振りが愛おしい。だから付け込まないように、強く拳を握り締めた。

 顔を起こすと、大和さんはじっと俺を見つめてきた。少し眉を寄せている。首を傾げて返すと、はあ、と溜息を吐かれた。ふと声が改まる。

「んじゃ、できるだけ早めにお前の事務所のマネージャーさん、紹介して」

 言われた言葉の意味がわからずにぱちぱちと瞬いた。



 菊池さんに連絡すると、それから何日もせずに事務所で会うことになった。朝早く、まだ使われていないレッスン場のミーティングスペースに大和さんと佐々木さんを案内する。すでに用件は伝えていたけれど、二人を迎えた菊池さんは張り詰めた表情をしていた。ぴんと背筋が伸びている。お茶を運び、俺と菊池さん、大和さんと佐々木さんが横並びになって向かい合う。

 黒いジャケットに明るいブルーのシャツを着て、普段よりもきちんとした格好をした大和さんは不思議に見知らぬ人のように見えて、俺のほうも緊張が高まった。それに気付いているのか人好きのする笑顔を浮かべた大和さんは、挨拶を済ませると俺が大和さんのサポートをしていたと菊池さんに伝え、丁寧に頭を下げてくれた。佐々木さんもそれにならう。

「本当にお世話になりました」

「いえ、そんな、頭を上げてください」

 菊池さんが慌てて声をかける。深く頭を下げた二人がぴったり揃ったタイミングで顔を上げる。大和さんがいっそう笑みを深めた。

「恩返しというわけではないんですが、野垣くんは素直ですし、芝居勘もよくて、これからどんどん伸びる子だと思います。だから俺と一緒に現場を回って、ぜひ勉強してもらいたいと思ってご挨拶に伺いました」

 よそ行きの顔をした大和さんがちらりと俺を見る。まるで三者面談で先生が自分を褒めだしたような身の置きどころのなさに赤くなる顔を隠して俯いた。

「ありがとうございま……」

「ありがとうございます! こちらとしては、大和さんに連れて行っていただけるなんて願ってもないことです。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします!」

 ぼそぼそと呟くような礼を、菊池さんの弾んだ声がかき消した。テーブルに頭突きしそうな勢いで頭を下げた菊池さんに、佐々木さんが封筒に入れた資料をさっと差し出す。

「では、スケジュールについては私からご説明させていただきます」

 封筒の中から日程表が出てくる。そこからスケジュールを合わせたり、製作会社やスタッフを確認したりという会話はマネージャー二人の独壇場だった。監督やプロデューサーの名前が出ただけで阿吽の呼吸で話を進めていく二人にちっともついていけず、わかったようなふりで頷きながらお茶を飲んでいると、向かいにいた大和さんがちらりとこちらを見て笑った。


 打ち合わせが終わり、二人を事務所の下まで送っていく。

 ビルの外に出ると、一仕事終えたとばかりに大和さんがふう、と息を吐いた。頭を下げる。

「来ていただいて、ありがとうございました」

「事務所に仁義通すの大事だからな。よっし、これで動きやすくなった」

 気合いを入れる仕草で肩をぐるぐる回す。突然、佐々木さんがずいと一歩近づいてきた。唇を引き結んだ真顔をどうしたのかと見る間もなく、頭を勢いよく下げられる。

「先日は私の勇み足で野垣さんにご迷惑をおかけして、大変申しわけありませんでした……っ」

「ほんっとだよ。他の事務所の声優にマネージャーのスカウトかけるとか、営業妨害って言われてもおかしくないぞー」

 俺が何かを言うより早く大和さんが突っ込む。佐々木さんがさかんに額の汗を拭った。

「いやあ、あの、本当にこれが汗顔の至りで、大和さんにもね、ものすっごく怒られまして、いやあの、罪滅ぼしにもなりませんけどね、菊池さんへの情報共有は私のほうでしっかりさせていただきますので……」

 焦った口調で繰り返すが、佐々木さんはどこか嬉しそうだった。こら、と大和さんに睨まれて頭を下げながらも頬が緩んでいる。二人の間にあった緊迫感に満ちた遠慮がいつのまにか溶けたように消えてなくなっていた。

「このままスタジオ行く? ちょっと早いけど」

 大和さんが携帯で時間を確かめる。頷きかけて、ぱっと事務所のビルを見上げた。

「あ、じゃあ一言挨拶してきます」

「了解。佐々木さん、俺たち自転車だからここで解散で。朝からありがとうございました」

「これからも自転車移動続けるんですか?」

 不思議そうに尋ねる佐々木さんに、大和さんは堂々と頷いた。

「もちろん。体力付くし、遅刻しにくいし、気も楽だしな」

 佐々木さんが半笑いになる。問いかけるように向けられた目線に、俺も同感だと頷いた。

「乗り換えによっては自転車のほうが早いですしね」

「いや、お前のスピードはちょっと変」

「野垣さん、大和さん乗せて東京中走り回ってましたもんね……体力すごいですよね……」

「そうですか? あ、でもタンデムのほうが本当は早いっていいますよね」

「マジで?」

「二人分の走力がかかるわけですから」

「今度本気で漕いでみるか」

「ええっ、や、やめてください。危ないですから。スピード出すなら、専用のコースでお願いしますよ……っ」

「大丈夫大丈夫」

 慌てて止めるのをからかうように大和さんが軽くいなし、いっそう佐々木さんが慌てる。楽しげな会話に弾む足を急がせ、事務所の階段を駆け上がった。三階に戻っていた菊池さんを見つけて駆け寄る。

「ありがとうございました! このまま同道させてもらいますね、よろしくお願いしま……っ」

 ずん、と重たい足音が立ちそうな勢いで一歩を踏み込まれて語尾が消えた。菊池さんが右手を握り締める。

「気合い入れてね!」

 ドンと腹に響く声を上げる。菊池さんが早口に続けた。

「こんなチャンスめったにないからね。しっかり勉強させてもらって、覚えてもらってくるのよ。顔を知って、一回でも声を聞いてもらえたら圧倒的に売り込みやすくなるんだから。頑張ってね!」

 前のめりにまくしたてるのに、俺という商品が売れるかどうかは今にかかってるんだ、と改めて気合いが入り直した。また大和さんと現場を回れるようになって嬉しいとか思っている場合じゃない。姿勢を正して頷く。

「はい、頑張ってきます!」

「よしっ!」

 行け、とばかりに声をかけられて、一礼して階段を駆け下りる。大和さんの前まで一気に走り抜けると、勢いに驚いたのか彼はびくっと体を引いて、呆れた顔で笑った。



 何度も大和さんを送り届けたスタジオに初めて足を踏み入れる。雑居ビルの三階にあるスタジオは一見普通の事務所のようで、扉を入ってすぐのロビーには打ち合わせスペースのような事務椅子とテーブルのセットがいくつも並べられていた。

「おはようございまーす」

「失礼します!」

 挨拶しながら入る大和さんの後に続くと、ロビーで開始を待っていた人たちが誰だとばかりに振り返った。四期目に入ってさらに盛り上がってきた人気アニメの収録だけあって、顔を知っている声優さんばかりなのに思わずきょろきょろしそうになり、慌てて姿勢を正した。先日のイベントで見た早河さんの姿もある。

「ユー・ステップ・アクターズ所属、野垣陽弘です。よろしくお願いします!」

 緊張に声が震えた。大和さんが俺を指す。

「今、一緒の現場に出てる新人。見学に連れてきた」

 ほう、と珍しげな声が上がる中、ダボダボの黒のパーカーを着た五十代くらいの男性がのんびりとした足取りでやってきて、珍しいキノコでも見つけたような顔でこちらを覗き込んできた。大和さんが「音響監督の蓼科さん」と紹介してくれるのに慌てて頭を下げる。

「大和くんが誰か連れてくるって珍しいねえ。有望株ってこと?」

 口調はおっとりしているが、目を輝かせてぐいぐいと踏み込んでくる。距離が近い。大和さんが苦笑いを浮かべた。

「まあ、芝居勘は悪くないと思いますよ。だから場数踏ませたくて」

 売り込んでくれようとするのはわかるけど、褒めてもらえて嬉しいのと、恐縮すぎて海老みたいに後退ってすっ飛んで逃げたい気持ちが入り混じってどんな顔をしていいのかわからなくなる。全身の毛穴がぶわっと開いて冷や汗が噴き出した。赤くなったり青くなったりしながら口をむずむずさせていると、蓼科さんはいっそう面白そうな顔になった。

「昔はよくこうやってちょいちょい誰かしら連れてきてたよねー。いいよいいよ、見ていきなよ。勉強してってくれると嬉しいなあ」

 蓼科さんが言うのに、場の空気がふわりと解れた。

「ありがとうございますッ!」

 ミキシングルームに戻る蓼科さんを見送って、改めて挨拶に回る。大和さんが連れてきた後輩という取っかかりがあるせいか、皆面白そうに応じてくれた。早河さんに挨拶に行くと、俺が名乗る間中顎を撫でながらしげしげと見つめられる。

「野垣くん、どっかで見たことある。俺たち初対面じゃないよな? ごめん、どこだっけ?」

 ずっと歌っていた東堂の声が耳に入ってきておかしくなる。早河さんは金髪ツーブロックだし、低音声優に多い長身でガタイもいいから威圧感があるけれど、後輩やスタッフの面倒見が良くて有名な人だから顔を知っていることで名前を忘れたと申し訳なく思ってくれたらしい。

「あ、あの、スターリーゲートのイベントだと思います、この間の。大和さんについていって、見せていただいていました。ご挨拶が遅くなってすみません」

「あー! そうだ、関係者席にいたでっかい若い子、新人かなあと思ってたんだよ。よろしく」

 合点がいったとばかりに笑ってくれる。

「よろしくお願いします! 舞台から見て覚えててくれたんですか、すごいですね……!」

「いや、案外見えるのよ客席。特に関係者席は誰がいるかなって見るしさ。まあ、おぬしも舞台に上がるようになったら実感するがよいぞ!」

 突然朗々としたセリフ調になった声に笑っていると、ミキシングルームの扉が開いた。蓼科さんがおいでおいでと手招きしてくる。

「野垣くん、こっち入っておいでよ。音聞きたいでしょ」

「あ、ありがとうございます!」

 小走りに向かい、邪魔にならないように隅のソファに腰を下ろした。入れ違いに出て行った蓼科さんがブースの真ん中に立ち、集まった声優たちを見回してにこにこと笑う。

「さあ、もう皆さん予想されているかと思いますが、大難航の第十話、直しバリッバリです。張りきって直していきましょー!」

 諦めと呆れが入り混じった半笑いが広がる。さっと先輩たちがペンを構えた。そこから蓼科さんはおっとりとした口調で、だけど鬼のような大量の修正をすらすらと伝えていった。慣れきった様子で皆がセリフを書き換えていく。セリフどころかシーンそのものをまるっと書き換えられてしまった時には、早河さんがお手上げといった様子で両手を上げた。

「ハイッ、今日の演技プラン全部ゼロに戻りましたッ! 見事ゼロですッ!」

「そうだよねえ。大変だけどよろしくねー」

 蓼科さんがあくまでものんびりと受ける。ちょっと笑いが広がって、すぐ次のシーンのディレクションに移る。それが全部終わると、蓼科さんは壁の丸時計を見上げた。

「二十分休憩の後リハです」

 ざっと足音を立てて、全員が同時にソファに腰を下ろす。全員がブツブツと呟きながら眉を寄せてページをめくっているのは、演技プランを立て直しているんだろう。ピンと空気が張り詰めている。戻って来た蓼科さんが鼻歌交じりにアフレコの準備を始めた。録音をしている時のスタッフさんの動きを見るのは初めてで、準備を知っておくだけでも勉強になった。

 音響監督やプロデューサーが変わると、現場の空気が変わる。四期めで皆が知り合いなこともあるだろうし、蓼科さんの人柄のせいもあるのかスタジオには親密な空気が流れていたけれど、同時にものすごく要求が高い現場だというのも伝わってきていた。

 モニターを見ていた蓼科さんがくるっとこちらを向く。

「野垣くん、台本見たいよね。これ見ていーよ」

 手もとにあった台本を一冊差し出してくれる。

「いいんですかっ?」

「もちろん。あ、持ち帰りは駄目だけどねー」

「ありがとうございます!」

 立ち上がって頭を下げる。台本は守秘義務の固まりみたいなものだから、家族にも見せないようにと厳命される。実際、大和さんは家で練習をしていても、『翠燦すいさん破砕斬ブレイカー』以外の作品に関しては俺に聞こえないように寝室でやっていたし、台本も手から離さなかった。それを見学に来たからと見せて貰えるのはすごいことだった。

 蓼科さんがマイクのスイッチを入れる。

「さあ、じゃあ始めようねー」

 まったりとした声かけで始まったアフレコだったが、蓼科さんは必ずワンシーンごとに止め、演技を修正したり、いくつかのパターンで演じ分けを依頼したり、いい感じだと褒めたりと細かなディレクションを伝えていった。指摘がなければ一気にリハーサルが進む山倉さんのやり方とはだいぶ違う。現場が変われば流れが変わり、芝居のテンポも変わるというのはこういうことかと実感する。前半分のリハが終わると少し休憩して台本を見直し、本番が始まる。生で見る先輩たちの演技には視聴者としてアニメを見る時の何十倍もの情報量が詰まっていて、息を止め、前のめりになって聞き惚れていた。

 前半の録音が終わり、昼休憩に入る。待合室に飛び出てブースの扉を開け、録音を終えた大和さんを迎えた。

「すごかったです……! 格好よかった、ありがとうございます!」

 声を押さえて叫ぶと、続いて出てきた早河さんに突っ込まれた。

「えー。かっこよかったの大和くんだけー?」

「い、いやあの、皆さんが! あんな大量の修正にすぐ対応されてて……」

「それはマジで。本当にマジで。どうかと思うよ、この現場」

 真顔で頷くのに笑いが広がる。のんびりと出てきた蓼科さんが声をかけてきた。

「フレッシュな子が入ると楽しいねえ。ねえねえ野垣くん、午後ガヤに参加しない? シーン64のとこ」

「え、あ……っ、いいんですか?」

「もちろーん。あ、ギャラ出ないけどね、せっかくだから参加しておいでよ」

 蓼科さんは人がよさそうに目を細めて笑ったけれど、その奥にはピンと張り詰めた光が宿っていた。当然だ、これは仕事なんだ。そこに誰だかもよくわからない俺を参加させてくれるのは、大和さんが連れてきてくれたからに他ならない。大和さんが悪くないと言うなら、一度見てやってもいいと思ってくれた。その期待を絶対に裏切るまいと、ビリビリと痺れる頬を引き締めてもう一度頭を下げる。

「精一杯やらせていただきます!」

「よろしくねー」

 出て行く背中に頭を下げる。休憩中に台本を読もうと、昼は買ってきてロビーで済ませると大和さんに伝えると、一緒に食べるとコーヒーとサンドイッチを買ってきてくれた。誰もいなくなったロビーの椅子に並んで座り、一瞬でサンドイッチを口に詰め込んですぐに台本を開く。大和さんが笑った。

「台本食いかねない勢いだな」

「上手くなるなら本気で食いたいです」

「確かに。そんなことで上手くなったらいいのになあ」

 コーヒーを飲みながらしみじみと言うのに笑ってしまう。あれだけ上手いのに、大和さん自身はまだまだだと思っているのがちょっとおかしい。

「参加させてもらえてよかったな。蓼科さんノリいいからさ。最初にここ連れてきたかったんだよ」

「こんなに歓迎してもらって、ありがたすぎます」

「まあ、仕事はめっちゃ大変だけどな」

「それもよくわかります……」

 声を抑えて笑い合う。ガヤの練習にも大和さんは付き合ってくれて、精一杯の準備はしたけれどものすごく緊張してブースに入る。ここで迷惑をかけるわけにはいかない。カフェで主人公たちが喋るバックグラウンドの音を作るなんて、放映の時には聞こえるか聞こえないかくらいに音量を落とされてしまうだろうワンシーンだったけれど、ずっと憧れていた先輩たちと演技ができるのは全身の血がぐつぐつと煮えているのではないかと思うほどに興奮した。

「はーい、シーン64いただきましたー」

 完了を伝える軽い声に、強張っていた肩の力が一気に抜ける。頭を下げて静かにブースを出て、ミキシングルームに戻ると蓼科さんがにこにこしていた。

「いーねー、新人さんがくると皆張りきるねえ。野垣くん、またおいでよねえ。何かお願いすることあるかもしれないし。ギャラ出ないけど」

「はいっ、ぜひまた勉強させてください!」

 今の俺には声を聞いてもらうだけでもとんでもないラッキーだ。本来なら事務所内のオーディションに通らないと存在を知ってもらうこともできないのに、作品に参加までさせてもらえるなんてありがたすぎる。食いつくように返事をすると、蓼科さんは土産物屋の招き猫のように目を細めて笑っていた。

 


 一日の仕事を終えてマンションに戻ると、大和さんは扉をくぐった途端にふうっと大きな息を吐いた。

「いったん休みます?」

 リビングのソファを指して尋ねると首を振る。

「先、風呂入ってくる」

 声にも抑揚が少なくなっていたけれど、ちゃんと言葉になっている。熱っぽい様子もない。シャワーを浴びると大和さんは一度ソファに寝転がったけれど、二十分ほどたつとすっきりした顔で起きてきた。キッチンにやってきて、残りご飯を炒めていたフライパンを覗き込む。

「炒飯?」

「炒飯とオムライス、どっちがいいですか」

「オムライス」

「じゃ、そうします」

「やった」

 嬉しそうな顔で笑う。いつのまにか大和さんは帰ってきても熱を出さなくなっていた。鼻歌を歌いながらスプーンを出す横顔を眺める。今までは気怠そうにぼんやりしていることが多かったのに、ずいぶん表情が豊かになった。子どもみたいに笑われると胸がキュンとなる。薄焼き卵を焼く手に力が入った。

 出来上がったオムライスを運んでいくと、大和さんはケチャップをたっぷり絞ってからスプーンを手に取った。せっかくだからと今日アフレコに参加させてもらったアニメの一期を見ながら飯を食う。青年漫画が原作のアニメはバトルあり、ミステリ要素あり、時カオスなギャグありと自由な内容で、アニメオリジナルの回やエピソードもふんだんに追加されている。バトルには強いけれど真面目すぎてギャグ回ではだいたい可哀想なことになっている大和さんの演技に笑っていたけれど、聞き直してみると今日はもう一人、早河さんの声が耳に付いた。

「最強の武器、それは我が肉体よォ! ……うわああ! 武器、持ってくればよかった……」

 耳に残った音を再現するように呟くと、大和さんが目を上げた。

「早河?」

「はい。声質似てるんで参考になります」

「近い声の先輩を分析するってのは王道だよな。どうせそのうち役競ることになるんだし」

「や、そんなとんでもない……っ」

「マジでそう思ってる?」

 落ちついた声で尋ねられてぐっと詰まった。俺をじっと見つめる大和さんの目が笑っている。それに押されるように言葉が零れた。

「競ります……」

「おう。頑張れ」

 軽い口調だけれど、軽い言葉ではなかった。大和さんがすっと立つ。

「んじゃちょっと演ってみるか」

「え、でも台本駄目ですよね」

「原作があるだろ」

 すたすたと寝室に歩いていった大和さんは、すぐにコミックスを数冊持って戻ってきた。改めて読み直し演技プランを立てて、大和さんは台本を手に、俺は漫画を持って掛け合いのシーンを練習させてもらう。それを録音して確認し、アニメを見直して早河さんの演技と比べてみると、俺の声は吹けば飛ぶように軽くて上調子に聞こえた。    

「うっわ……うっす……」

「こいつ、この時どういう気持ちなわけ?」

 呻いた俺に大和さんが尋ねてくる。キャラの顔を指でつつくのに戸惑いながら答えた。

「怒ってる……と思いますけど」

「なんで?」

「妹が怪我したから、ですよね」

「なんで妹が怪我すんと怒るの」

 淡々と聞いてくるのに何か間違っていたのだろうかと萎縮しそうになる。演技プランを聞かれているのがわかるから必死で答えていったけれど、大和さんの質問はどんどんと深く、細かいところに入っていった。キャラクターや、この場面のことだけじゃない。この会話が、物語の中でどんな役割を果たしているのか、何と繋がっているのかなんてことまで尋ねられる。

「そんなことまで考えて演技してるんですか……」

「毎度じゃないけどな。でも、細かく考える癖つけておいて損はないから。お前も頭で演技プラン組み立てるタイプだろ」

「少なくとも憑依型じゃないですね……」

 たまにキャラクターが乗り移ったようにどっぷりと役にハマって演じる役者がいるけれど、俺は役に合わせて勝手に体が動くような経験をしたことはなかった。それはコンプレックスでもあったけれど、大和さんはあっさりと頷いた。

「俺も。だから事前にがっつり計画立ててる」

 大和さんと同じというだけで、ふっと心が軽くなる。

「あの、大和さんがどんな風に演技プラン立ててたか、教えてもらってもいいですか」

「もちろん」

 大和さんが漫画を捲りながら、キャラクターをどんなふうに考えているのか、どこから読み取っていたのかを教えてくれる。基本的に個人の仕事である声優では、こんなことを細かく聞ける機会はまったくないから、一言一句聞き漏らさないようにメモを取りながら聞き入った。だけど、聞けば聞くほど自分の準備がまったく足りなかったことを突きつけられる。

「あー……、そりゃ俺オーディション落ちるわ……!」

「や、さすがに四期もやってるキャラクターだからってのはあるからな」

 大和さんが笑いを漏らす。長くなった話にすっかり冷たくなった茶を一口飲んだ。

「まあ、どれだけ計画立てても、最後は本物を絞り出すしかないんだけど」

「本物?」

 首を傾げて返事を待つ。大和さんが考える間を空けた。  

「演技ってさ、意外なくらい自分が出るんだよ。ただ頭で考えただけの演技って、すっげえ薄っぺらくなんの。だから、最後は今まで感じた近い感情を思い出したり、経験を思い出したりして、自分の中から絞り出すしかねえんだよな」

 穏やかな声が胸まで落ちてくる。大和さんは俺を、一人の演者として対等に扱ってくれていた。でも、すぐに真面目になったことに照れたのか人の悪い顔で笑う。

「つことで、野垣が今まで怒ったのってどんな時だよ。それ思い出してもっかいやるぞ」

「え、あ、ええ……っ。怒った時ですか……っ?」

 そんなことを言われてもぱっと思いつかない。どうにか絞り出すと怒りを数値化させられて、それを増やしたり、減らしたりして演じてみろと言われたり、違う感情を混ぜてみろと言われたり、ワンシーンを何度も何度もパターンを変えて演じ続ける。いつのまにか時計の針は夜半を過ぎて慌てて帰ることにしたけれど、玄関先まで見送りにきた大和さんは楽しげに「明日もやろうな」と言ってくれた。

 大和さんと早河さんは同世代だし、共演作も多い。大和さん目当てで元々作品自体を見ていたから研究もしやすく、俺たちはそれから早河さんと大和さんの共演作に絞って作品を見直し、自分だったらどうするかと演じてみたり、別のキャラをやるならどんな風にするかなんてプランを話し合ってみたり、帰宅後の時間の多くを練習に費やすようになっていった。



 大和さんにくっついて東京中を飛び回る。

 自転車で送り迎えをしていたのはついこの間なのに、そのころよりもずっとスケジュールが詰まっていて、大和さんが調子を取り戻しつつあることも、佐々木さんがそれを理解して仕事を回し始めたこともよく伝わってきた。

 あちこちに連れて行ってもらったけれど、毎日が驚きの連続だった。同じアフレコといっても、アニメか洋画か、始まったばかりなのかそれともシリーズなのか、製作会社やメンバーによっても雰囲気がまったく違う。ナレーションでテレビ局に行った時には台本もほとんどなく、簡単な説明の後ほぼアドリブで録音していくのに目を見張った。

 大和さんに頼り切るだけでは駄目だと、いくつかの声優向けのワークショップにも参加する。別事務所の所属でも参加できる大手事務所のワークショップは機材が豪華でまるで本当のアフレコのように収録しながら注意点を教えてもらえて面白かったし、音響監督がやっている外画向けのワークショップでは、元々の役者さんの声と息づかいをどんな風に演技に取り入れるか、外画とアニメの表現の近いを解説してもらえて勉強になった。

 目まぐるしい一週間が過ぎ、また蓼科さんのいるスタジオに足を踏み入れる。事務所みたいなロビーになぜかほっとした。

「おはようございます!」

「おー。おはよー」

 一度来ただけなのに、俺が来るのが当たり前のように迎えてくれる。長い現場だからか、蓼科さんの人柄か、皆が喋っているわけでもないのに穏やかで明るい空気が流れていた。

 挨拶に回っていると早河さんがやってきた。今日も刈り上げ金髪をバリッとセットしている。しばらく集中して早河さんの演技を勉強させてもらっていたこともあり、なんだか嬉しくなって足早に駆け寄った。

「早河さん、おはようございます! 先週の異世界パーソナルトレーナー、めちゃくちゃ面白かったです!」

 早河さんがぱっと笑顔になる。

「見てくれたんだ」

「バンプアップ後の声がすげー筋肉感増しててびっくりしました」

「そこはねえ、筋肉声優だからねえ!」

 早河さんが誇らしげに力こぶを誇るポーズを取る。

「マジで勉強になります」

 自然と声に力がこもった。早河さんがちょっと目を見張る。

「え。もしかしてほんとに勉強してたりする?」

「あ、はい、すみません。あの、勝手に早河さんの声、自分とトーンが近いなって思ってて、どんな風に演技されてるのかここ一週間くらいずっと研究させてもらってて……っ」

 勝手に研究されるとか、嫌だったろうか。慌てて頭を下げると、早河さんは引き結んだ口をもしょもしょと動かして呟いた。

「えー……マジかー。……野垣くんさあ、お芝居にも興味ある? 舞台の」

「めっちゃくっちゃあります! 生の芝居見たいんですけど、チケットが高くて……ッ!」

 アフレコでも感じるが、面と向かった時の情報量はテレビを介して見ていた時とは段違いだ。生の舞台を見にいきたいのは山々だったが、行きたい演目はチケットが取れない上に高い。心からの叫びを上げると早河さんが笑った。

「わかるー。声優、一番勉強したい時に金なくて勉強できない問題な」

「ほんっとソレですよ!」

 また叫ぶと早河さんはいっそう楽しげに笑った。携帯を差し出してくる。画面には、池袋の小劇場で上映される舞台のチラシが映し出されていた。

「見にくる? 関係者席取れるけど」

「いいんですかッ? い、行きたいです! 見せてください!」

 思わず跳び上がる。早河さんが笑みを深めた。

「いーよいーよ。若い子見にきてくれると俺も気合い入るし。連絡先教えて」

 俺も携帯を出して連絡先を交換していると、蓼科さんと話していた大和さんがやってきた。

「早河、舞台あんの?」

「そうそう、来週。大和も来る?」

「行きたい」

 早河さんが携帯の画面を見せる。大和さんが眉を寄せた。

「……アフレコだわ」

「だよなあ! 声優金が出来たころには忙しくって勉強できないっていうなー!」

「共演者の舞台くらい見にいきたいのにな」

 目を合わせて頷き合う二人を見ていると、突然早河さんにバンと背中を叩かれた。あまりの勢いに咳き込む。

「ま、今回は野垣くんが来てくれるらしいから! じっくり見てってもらうことにして!」

「はいっ! 勉強させていただきますっ!」

「じゃあ宿題出しとくか」

「えっ?」

「うそうそ。まずは何も考えないで楽しんでよ」

「ありがとうございます!」

 頭を下げると、頬にチリっとした視線を感じた。ぱっと大和さんを振り向く。一瞬目が合ったけれど、すぐにふいと視線を逸らされてしまった。

「やま……」

「アフレコ始まるぞ」

 呼びかけようとした声を遮られる。さっさとブースに向かって歩き出した背中を瞬きながら見送った。



 生の舞台は想像した以上に面白かった。いつもマイクを通した声ばかりを聞いているから、生声の圧や勢いに感動する。早河さんはやっぱりここでも男臭い役をやっていて、全身を使っていても声だけの時と似通った部分があるのに笑ってしまった。

 舞台のチケットをいただいた報告がてら菊池さんに何を差し入れにしたらいいか尋ねると、差し入れはいいから見終わったら楽屋に行って、舞台の良かったところや勉強になったところを伝えてお礼をしてこいと言われた。それでも手ぶらは気まずくて、ペットボトルの飲み物を手に楽屋にお邪魔させてもらう。言われた通りしっかりメモをしておいた良かったところを全部伝えていくと、本当に勉強してる! と大笑いされた。

 舞台を見に行ったり、ワークショップに行ったり、あちこちの収録を見学させてもらったり、アニメや洋画の吹き替えを見て大和さんと話し合ったり、寝る時以外は演技のことばかり考えて過ごした。夢の中でも練習していたから、もしかしたら寝ている時もかもしれない。

 菊池さんから連絡を貰ってオーディションにも二つ参加した。どちらも上手くいったかはわからなかったけれど、以前よりもずっとキャラクターを練って挑めた。名前が出ない仕事でも、とにかく経験を積みたい。そう伝えたのが良かったのか、ゲームの一場面だけのモブや、効果音めいた悲鳴だけの仕事、スーパーやイベント催事のナレーションの仕事をいくつか貰えて、大喜びでスタジオに走った。

 どの仕事にも最善を尽くしたけれど、相手の期待に届いていたかは正直わからない。スーパー系のナレーションは使われるまでが早いから、直接聞きに行きたいと音響監督さんにお願いして場所を教えてもらい、埼玉県まで聞きに行ったりもした。魚売り場でリピートされている音声を現場で聞き直すと、反省点がたくさん見つかった。

 どんな役でもいい。演技がしたかった。

 収録が待ち遠しくて堪らなかった。もっとマイクの前に立ちたい。思い通りのことを表現できるようになりたい。頭に浮かぶ音はもっと綺麗なのに、面白いのに、恐ろしいのに、上手く声にできないのがもどかしくて、自分が情けなくて、時々本気で落ちこんで、才能がないんだと不貞腐れて寝転がった三十秒後に新しい演技プランを思いついて飛び起きて、何度も、何度も練習するうちにやりたかったことにわずかでも近づくのが楽しくて仕方なかった。

 ようやく『翠燦すいさん破砕斬ブレイカー』のアフレコの日がやってくる。うきうきしてマイクの前に立った。今日の俺の役は、小島さん演じる悪役が高笑いを上げて街を破壊してゆくのを物影に隠れて覗き見て、「に、逃げなくちゃ」と呟いたところを見つけられて殺されるというキャラだった。

 高らかな笑い声が響く。だけど俺が話し出そうとすると、小島さんが突然高笑いをやめてちらりと視線を向けてきた。銀縁眼鏡の奥の目が笑っている。

「ふむ。いささか高貴さが足りぬなァ。君、どう思う」

「ふひぃっ! こ、高貴……だと思……っ、ますぅ」

 へつらいを含ませて応じる。小島さんがいっそう楽しげな顔になった。

「見る目がないな。それでは生きている甲斐もなかろう」

 攻撃のアクションの間。悲鳴を上げてマイク前からアウトする。完全アドリブのやり取りではあったけれども、口パクにもバッチリ合わせて収められた。ちらりとミキシングルームに目をやる。山倉さんからもストップはかからなかった。

『はい、ここでいったん休憩にします』

 山倉さんの一言でリハーサルが終わる。大股に歩み寄ってきた小島さんにバンバンと背中を叩かれた。

「上手くなったじゃないの、野垣くん!」

「頑張りました……ッ!」

 思わず全身で頷く。アドリブに反応すること自体はそう難しくはないけれど、あの一瞬で口を合わせて秒数を収めたのはかなり頑張ったと言っていいと思う。和田さんが楽しげに笑った。

「一回やると、小島さんバンバン投げてくるから気をつけてねー」

「いいじゃないの。そのほうが演じてて楽しいだろ?」

「はいっ、楽しみにしてます!」

「お、いいねえ。次もしっかり練ってこないとなあ」

 喋りながらブースを出る。休憩明けにも山倉さんからのコメントはなく、そのまま採用されたのに気合いが入る。せっかくセリフが言えるなら、全力で演じたい。本番ではいっそうキャラクターの動きに合わせた息づかいを乗せ、壊れかけの街の空気感を精一杯に描いた。

『はい、いただきました』

 いつもと変わらず淡白な終了の合図で前半の収録が終わった。昼休憩だ、と皆がブースの外に出て行く。もう一度ミキシングルームのマイクが入った。

『野垣。ちょっと残って』

「は、はいっ!」

 山倉さんの低い声にビビる。やっぱり俺の演技はダメだったろうか。撮り直しだろうか。今日は上手くいったと思ったんだけど。ぐるぐると考えながらブースで待っていると、すぐに山倉さんが出てきた。思わず直立不動に気をつけする。山倉さんが溜息を吐いた。すっと手もとに紙が差し出される。

「二期のオーディション、受ける気ある?」

 抑揚のない声で聞かれて、受け取った紙にぱっと目を落とした。役名のところに書かれていた名前に目を剥く。

「サージェス……ッ!」

 山倉さんが頷く。二期から登場するサージェスは、自分に発露した能力が何かも知らないまま山奥の村で迫害されながら生きていた少年だった。主人公に出会い、救われ、仲間になって行動を共にするようになるが、主人公が他の人間に目を向けるのに怒りを抱き、自分のことだけを見てもらいたくて主人公を裏切る。最初の必死で健気な姿から、主人公に傾倒しすぎて歪んでいく経過までを演じなくてはいけない難しい役だった。渡されたオーディション台本を握り締めて頭を下げる。

「ぜひ、受けさせてくださいッ! よろしくお願いします!」

「じゃ、事務所に連絡しとく。台本はそのまま持って帰っていいから」

「はいっ! ありがとうございます!」

 山倉さんはすっとミキシングルームに戻っていった。

 指名を貰えたわけじゃない。だけどこのオーディションは、番組レギュラーに参加させてもらえなかったら受けられなかったものだった。二度と来るかわからない大きなチャンスに体が震える。なんせサージェスは主人公と関わりが深いだけに、二期ではみっちりと出演が続くし、その後も頻繁に出番がある。まさに、アニメのレギュラーだ。この役を獲りたい。どうしても、演じたい。手を握り締めかけて、皺の寄ったオーディション台本を慌てて撫でて伸ばした。 

 夜、マンションに行ってオーディションの話をすると、大和さんはやったなと喜んでくれた後、いそいそとテーブルを片付けてコミックスを並べ、練習の準備をし始めた。数枚のコピー用紙に印刷されたオーディション用の台本を広げる。そこには、サージェスのセリフが書かれていた。

『皆が恐がっているのはわかってる。だけど、村の役に立てば……一生懸命に働いていれば、きっといつか俺のことを認めてくれる』

『お前が俺を助けてくれた。俺も、お前と一緒に戦いたい。いいだろ?』

『だって、リベル、ちっとも俺のことを見てくれないから。いい子にしてたら気にしてもらえないなら、悪い子になるしかないだろう?』

 最初の迫害されながらも頑張っているシーンから、主人公に救われて一緒に戦うようになる場面、そして主人公を裏切って敵方につくまでの転機になるセリフがピックアップされている。オーディションでは一人で言うだけだけれど、大和さんが相手をしてくれて、前後のやり取りも含めて一度やってみる。だけど録音した音声を流した途端、首を傾げた。

「なんか俺の声、浮いてませんか?」

「最初はそんなもんだろ」

 大和さんはそう言ってくれたが、その後いくつかパターンを変えながら録音してみても、わざとらしく浮ついた印象が消えなかった。

「あー……、しっくりこねえ……っ」

 何度聞いてもどこを直せばいいと思うようなピンと来た感じがない。どこが悪いのかもわからないのに、そこはかとない気持ち悪さばかりを感じる。

「だいたい、コイツ思い込み激しすぎるだろ……っ! 迷惑なんだよ!」

 頭を抱えてソファの背もたれに突っ伏すと、大和さんはパラパラとコミックスを捲り始めた。

「そうか? 可愛いだろ」

「え、大和さんこういうキャラ好きですか」

「うん、俺割と独占欲強い子好き」

 頷く横顔を眺める。そういえば、ラジオで好きなアニメやゲームを紹介する時にも、大和さんが好きだと言うのは一歩間違えたら危ないくらいに一途なところのあるキャラクターが多かった気がする。眉を寄せた俺を見て大和さんが笑った。

「お前、そういうこと言ってるから変なのに絡まれるんだって思ってるだろ」

「……う」

 図星を指されて呻く。

「むしろ、お前が苦手なのが結構意外なんだけど」

「苦手っつうか、すげえ迷惑だなと思うんですよね」

 続きを促すように大和さんが首を傾げる。その手からコミックスを受け取ってぱらぱらとめくった。サージェスの出番を目で追っていく。

「助けられて、主人公に依存してって気持ちはわからないでもないんですけど、自分だけ見てほしいとか、独占したいとか、単純に迷惑じゃないですか。本当に好きなら、その人のやりたいことを応援すべきだし、幸せを願うべきでしょ」

 大和さんがちょっと不思議そうに瞬いた。

「……なんか、変ですかね」

「別に変じゃないけど、べきばっかりだなって思ってさ」

 指摘されて確かにと気付く。少しの間、理由を考えた。

「俺、推しの利益になりたいタイプなんですよね。応援したいし、夢を叶えるのが見たくて、推しに認識されないで黒子に徹してひたすら課金するのが正しいオタク、勝手な希望を押し付けたり、独占しようとしたりするのは言語道断って感覚があって……」

 つらつらと考えながら喋っていると、大和さんが呆れた顔をした。

「身に覚えがあるな。お前、俺になんかするの課金感覚だったろ、最初」

「はい……」

 じろりと睨まれて肩を竦める。大和さんは手を伸ばすと、コミックスの中のサージェスの顔をつんと指先でつついた。

「ファンならありがたいけどさ。結局距離感とか関係性の問題だから、こいつにとっちゃ、ここまでズケズケ踏み込んできて問題が解決したらもう大丈夫だよねって手を離すとか冗談じゃねえってのあるんじゃないの。ここまで依存させといてふざけんなよみたいなさ」

「頭じゃわかるんですけど、駄目だろそれって思うんですよね……」

 結局サージェスの心情を理解しきれていないから、声に出しても納得いかない音になるのかもしれない。それがわかってもどうしようもなくて、ソファにぼすっと顔を埋めて呻いた。

「お前、変なところ理性的だよな」

 面白がるような声にチリチリと胸が痛む。だって、ファンの執着で傷ついてしまったあなたを、目のあたりにしたから。 

「大和さんは……迷惑だと思わないんですか」

 目線が落ちる。睨み付けるみたいにサージェスを見て問いかけると、低い笑い声が聞こえた。だけどどんな顔をしているかは、なぜか見られなかった。

「むしろ嬉しいかも」

「え……」

 驚きに目を見張る。あんなことがあったし、大和さんはずっとうなされて苦しんでいたから、執着されるのは嫌なものだと思っていた。視線を向けると、大和さんは照れた顔をしていた。

「そりゃ、監禁されるとかは二度とごめんだし、されすぎるのは困るけどさ。好意を持つくらいの距離感の相手なら、独占したいくらい思われたいよ。俺のこと気にしててほしいしさ」

 ちょっと恥ずかしそうな声は柔らかく、大和さんが事件を本当に乗り越えつつあるのが感じられた。何も言えずにじっと顔を見つめてしまう。大和さんは少し眉を寄せると、視線から逃げるようにぱっと目を逸らして冷めかけた茶を飲んだ。

「キャラクターが掴めないなら、しばらくじっくり考えたらいんじゃね。まだオーディションまで時間あるんだしさ、他のシーンから突破口開けるかもしれないし」

「……そうします」

 確かに、今はそれしか出来ることはない。それから俺は、暇があるたびにコミックスを開き、サージェスのことを考え続けた。



 最初の一通は、ゲームのオーディションの知らせだった。

 アプリゲームは原作がないだけにキャラクターを掴むのが難しかったけれど、それだけに工夫のしどころがあって楽しく、精一杯やらせてもらってスタジオを出る。事務所に終了を報告しようと携帯を出すと、そこにはワンクールアニメの一話にだけ登場するモブの仕事が来たという知らせが届いていた。もちろん喜んで参加しますと返事をして、当日スタジオに行くと蓼科さんがいた。

「やー野垣くん! 今日はね、なんとギャラが出るよ! すごいね!」

 挨拶も待たずにそう言われて笑ってしまう。まだ開始して数話もたっていない現場は今まで大和さんに連れてきてもらっていた収録と違って緊張感が漂っていたけれど、蓼科さんはまったく変わらずにおっとりとした口調でとんでもなく厳しい要求を突きつけてきた。だけれどもうそのノリにも慣れている。いつもながらの大量の修正の後、アフレコを終わらせてから蓼科さんに挨拶に行くと、「じゃ、来週から毎週来てね」とさらっと言われてびっくりした。

「えっ、番組レギュラーってことですか?」

「そーそー。今日見てもらってね、プロデューサーさんからもオッケー出たから」

「あ……ありがとうございます!」

 ミキシングルームにいたプロデューサーさんや監督を紹介されて、改めて挨拶に回る。ワンクールの途中からとはいえ、毎週の仕事が入るのは本当に有り難い。だけどまだ実感がなくて茫然と家に帰ったころには、携帯にはもうひとつオーディションの知らせがきていた。それを皮切りに、びっくりするほど忙しくなっていく。

 どれもオーディションとナレーションやモブの仕事で、役付きのレギュラーが取れたわけではない。だけど現場に行ってみると、知っている人と顔を合わせることが多くなっていた。大和さんが連れて行ってくれた現場の製作会社や、スタッフさんに営業をかけると菊池さんが言ってくれていた効果を実感する。

 仕事だけではない。早河さんの舞台を見にいって楽しかったという話を小島さんにすると、目を光らせて首根っこを掴まれ、「じゃあうちの劇団も見においでよ」と稽古に連れて行かれた。喜んで通し稽古を眺めていると「役者はね、舞台裏を知っといたほうがいいよ」と大道具の準備に借り出される。気が付けばいつのまにか公演スタッフとして働いていた。

 単に手が足りなかったんだろうと突っ込みたいの半分、舞台の裏側まで見せて貰えるのは勉強になってありがたいの半分で公演当日も大道具を運んだりセッティングをしたりと忙しく立ち働く。出演していた役者さんの多くは声優としても活動している人たちで、小島さんを筆頭に何をやっていても演技から離れられない人達の話をもっと聞きたくて打ち上げの居酒屋にまでついていくと、当たり前のように次の公演の話が始まりいつしか俺もスタッフ兼チョイ役で出ることになっていた。

 仕事ではない。小劇団なんて、小島さんのような名の通ったベテラン声優が出演していたとしても給料が出せるほどの利益が出ることなんてほとんどなかった。持ち出しがないだけでも大ラッキーとでもいうような環境だ。だけど板を踏んで演技ができるのが嬉しくて、薄い座布団から飛び降りて頭を下げる。

「よろしくお願いします!」

 途端に酔っぱらった小島さんからヘッドロックを食らった。

「楽しみにしてろよぉ、舞台のいろはから教えてあげるからさあ」

 ろれつの回っていない小島さんに大変なことになりそうだと苦笑いが浮かぶ。だけど、次の稽古はいつからだとか、公演はいつごろになるなんて話を聞いているだけでわくわくした。

 


 忙しくなるほどに、大和さんと過ごる時間は減っていった。

 最初はほぼすべての現場について回っていたのに、オーディションや単発の仕事、それに舞台の練習が入るようになると半分にもついていけなくなる。本当は毎日マンションに行って飯を作って食べさせたかったけれど、週に四日、三日と行ける日が少なくなっていった。それでもなんとか朝に顔を出したり、行けた日に多めに食べるものを作っておいたりする。

 今日もまた大和さんが帰らないうちにマンションに行き、近くのスーパーで安売りをしていた豚こまと大根、人参、ネギ、こんにゃくを大量に炒めて豚汁の具材を大量に作った。今日のぶんの豚汁を作って飯を炊き、豚こまと玉ねぎを炒めて生姜焼きにする。キャベツを千切りにする腕はなく、こちらは切ったものを買ってきて済ませた。

 携帯を見る。大和さんからはまだ連絡が来ていなかった。帰りを待つ間に練習をしようと、『翠燦すいさん破砕斬ブレイカー』のコミックスとオーディション台本を持ってソファに腰を下ろした。

 何十回も読み込んだコミックスをパラパラとめくり、改めて流れを掴む。息を整えて、初登場からゆっくりとサージェスのセリフを口に馴染ませていった。

 演技が上手いとか下手だとか、解釈ができていないとかの前にしっくりこないと感じるのは、キャラクターの心情が理解できてないか、納得できていない可能性が高かった。演じるよりも気持ちを理解するように考えながら読んでいったが、村の中で孤立していたところを救われて少しずつ主人公を受け入れていき、段々とまるで信仰の対象のように傾倒してゆく姿を見ていると、左のこめかみあたりがピリッとした。単純に、苛々する。

「……うざい」

 最終的に、出てきた言葉はそれだった。サージェスを見ていると、腹が立つ。

「リベルに依存しすぎだろ。傍にいてほしい、一緒にいたい、敵のことばっかり考えてるのが許せないって視野狭すぎるんだよ。それで自分のことを考えてほしいから敵になるって、どんだけ身勝手なんだよ……ッ」

 ブツブツと文句をつける。だけど、苛立つ気持ちの理由にも気付いていた。俺の中にも、サージェスと同じような身勝手さがある。それを許したくないのに何度消そうとしても消えてくれないのが苦しくて、同じような気持ちを押し通そうとするサージェスに苛々してしまう。

 溜息を吐いて携帯を見た。まだ大和さんからの連絡はない。

 今日は夜の収録は一本で帰れると言っていたけれど、突然仕事が入ったのかもしれない。体調が良くなるのを待ち兼ねていたように予定は入り続け、大和さんもどんどん忙しくなってきている。だけど俺はすべてにはついていけなくて、大和さんが今どこにいるのか、何をしているのかわからない時間が多くなっていた。

 タンデム自転車で送っていた時や、大和さんにくっついてあちこちに行かせて貰うようになった最初は彼の何もかも知っていたのに。

 どこかで熱を出していないだろうか。疲れ果てていないだろうか。迎えに行って、誘拐のように連れ去ってしまいたい。温かい風呂に入れて、飯を食わせて、抱き締めて眠らせたい。俺の腕の重みに安心したように目を伏せる顔が見たい。大和さんはもう、熱を出すことはなくなった。俺がいなくても大丈夫だ。わかっているのに、吐き出せない熱が体中に渦巻く。泣きだしたいのに、押さえつけた体に爪を立て、噛み付いて引き毟ってやりたいような暴力的な衝動が止まない。奥歯を噛み締める。握り締めたコミックスのページがぱらりと開いた。

 うっとりと目を細めて、主人公の前に立つサージェスの姿が目に留まる。酔ったように染まった目元。引き上がる唇。だけどその顔の横には、震えを示すかすかな波線が書かれていた。ふと気が付く。俺も、気付かないうちに歯を食いしばっていた。強張った顎の下に指を触れる。ぱっと携帯の録音ボタンを押した。一呼吸の後に喋り出す。

「だって……リベル、ちっとも俺のことを見てくれないから。いい子にしてたら気にしてもらえないなら、悪い子になるしかないだろう?」

 陶酔した笑いの奥に、泣きだしそうな震えを潜ませる。あなたのために、めちゃくちゃになっている俺を見てほしい。あなたの視線を、俺だけが奪い取りたい。停止ボタンを押して、すぐに再生した。指先が震える。

 流れ出した声は、ひどくいやらしく聞こえた。粘りつくような重さと、身勝手で暴力的な繊細さが絡み合う。ぞっとする。腹が立つ。苛々する。だけど、腹落ちしていた。ずっと気になっていた浮ついた音がない。これが、俺のサージェスの声だ。

 玄関のドアが開く音がした。バタバタと急いだ足音が近づいてくる。

「あー……豚汁の匂いがする……」

 疲れた声で呟きながら大和さんが入ってきた。悪いことをしていたところを見つかった気がしてびくっとする。

「っ、お、おかえりなさい……」

 大和さんが不思議そうに首を傾げた。

 飯の支度をしようと立ち上がったのと入れ替わるように、大和さんは着替えもしないままソファにどさりと沈み込んだ。はーっと息をついて頭を背もたれに預ける。

「ごめん、ちょっと休憩……」

「大丈夫です、休んでてください!」

 最近はテーブルを拭いたり、皿を運んだりと食事の支度を手伝ってくれるようになっていたからか、申し訳なさそうに言うのに首を振る。ぐったりとした様子が気にかかりながらも、豚汁を温め直して並べると、大和さんはふらふらっと手を洗いに行き、ちょこんとテーブルの前に座り直した。

「いただきます」

 呟くように言うとまず湯気の立つ豚汁を啜る。黙々と食べ始めたのは、本当に腹が減っていたのだろう。話さないでいいように俺も黙って飯を食う。静かな時間がしばらく続いた。

 大和さんが口を開いたのは、飯を終えて箸を置いてからだった。はあ、と息を吐く。

「うまかった。ありがと」

「大和さん、豚汁好きですよね」

 元々良く作っていたが、大和さんがいつ出しても喜んで食べてくれるので最近余計に頻度が上がっていた。

「好きっつうか、もう完全にこれがうちの飯って感じ」

 柔らかくなった表情にどきっとする。ぱっと背けてしまった視線を誤魔化すために、テーブルの皿を片付けながら尋ねた。

「今日、忙しかったんですか」

「あー……」

 大和さんは低い声で呻くと眉間に皺を寄せた。

「スタジオの外で出待ちされて出られなくなってさ……」

「はあッ?」

 持っていた皿を取り落とす。ガシャンと大きな音が響いて、大和さんが落ちつけというように軽く手を振った。

「ストーカーとかじゃねえから大丈夫。学生が集団で来てスタジオの外で大騒ぎしててさ。高校生くらいって騒ぎ始めると聞かないだろ。スタッフさんが注意してくれたんだけど全然散らなくって、最終的に近くの交番からお巡りさんに来てもらってなんとか帰ってきたんだよ」

 疲れた声と、げっそりとした面差しにムカムカする。

「迎えに行けばよかった……ッ」

「タンデム自転車で?」

「高校生なんて何人いたって蹴散らしますよ」

「お前、すげえスピードで突っ込んできてすげえ勢いで置き去りにしそう」

 大和さんが吹き出す。笑った顔にひどくほっとした。

「やっぱり囲まれるかもと思ったら結構キツくて。お前がうちにいて、すげえほっとした」

 ふわりと湿度を帯びた声に、きゅっと心臓が絞られた。

「俺、いたほうがいいですか」

 大和さんは呆れた顔をした。

「そりゃそうだろ。今日だってお前がいりゃいいのにって思ったよ。蹴散らしてほしいとかじゃなくてさ、いたら安心なのにって」

 顔を上げる。なんだか泣きたいような気がしていた。大和さんが俺を見て慌てた表情を浮かべる。

「マネージャーになれって言ってるわけじゃないからな。声優でいたいって言われたのは嬉しかったし、応援してる。でも、いたらいいのに、ってのも思うよ」

「……俺も……いたいです」

 優しい声に俯いてしまう。零れた声が震えた。沈黙が広がる。大和さんが笑った。

「オーディション、頑張れよ」

 頷こうとすると、ぱっと大和さんが立ち上がった。さっき俺が落とした皿をまとめてキッチンに運んでいく。床に重ねていたコミックスと台本を視線で指された。

「じゃ、とっとと片付けて練習しようぜ」

「あ、はい……っ」

 慌てて立ち上がる。テーブルを拭いて後を追った。

 片付けを済ませて蕎麦茶を淹れ、コミックスと台本を広げて隣り合う。サージェスが裏切る前後のやり取りを練習させてほしいと頼むと、大和さんはわかったと頷いた。

 学園を浸食する敵を誰が引き込んでいたのか、徐々に明らかになってゆく。一生懸命で不器用で、可哀想なリベルの友だち。そんなサージェスの仮面がじわじわと剥がれ落ちてゆくのを、白い絵の具に黒を混ぜるようなイメージで丁寧に演じていった。一筋、二筋、最初はわずかだった違和感が見る間に広がり、黒一色に塗り潰されてゆく。

 サージェスの裏切りのセリフでシーンが終わる。録音停止ボタンを押すと、大和さんが小さく息を吐いた。二人とも、お茶を飲むことも忘れるほどいつしか集中していた。

 大和さんが促すように携帯に目を向ける。再生ボタンを押して、流れてきたやり取りに耳を澄ませた。演じている時は長く感じたのに、聞くのは一瞬だ。音声が途切れた途端、大和さんが呟いた。

「エッロ……」

「どうでしょうか……っ」

 ばっと顔を見る。自信はある。上手いとか上手くないじゃなくて、今の俺ができる最大限で演じた自信がある。大和さんはんー、と呟きながら首を傾げ、少し考えていた。

「いいんじゃねえの。監督の意図に合ってるかはわかんねえけどさ、お前にしかできないサージェスになってると思う」

「……ッし!」

 右手を握り締める。誰もが学校や養成所に通ってそこそこ演技ができる時代の中で、役を演じるたった一人を選ぼうと思えば無難に上手い演技は真っ先に落とされる。だからといって無意味に外した演技が選ばれるわけがない。俺らしい個性が見せられたというのはひとつのゴールだった。

「このサージェスとだったら、俺ちょっと演ってみてえもん」

 少し先の巻を手にした大和さんがパラパラとページをめくり、ゼノムとサージェスの戦闘シーンを開く。

「ここやろうぜ」

「えっ、全然準備してないんですが」

「ぶっつけでいいから、今の感じで」

「が、頑張ります……っ」

 何度か読み上げてはいたけれど、セリフとしてはまだ練りきれていない場面を同じテンションで演じるのはまだ難しい。それでも必死に黒く染まった後のサージェスを演じ続ける。リベルに会いたいのに邪魔をしてくるゼノムに苛立つサージェスと、元生徒とはいえ敵には容赦をしないゼノム。緊迫した場面をシリアスな声で演じながら、大和さんはどうやって顔と声がそんなに違って演技が出来ているのかわからないくらい楽しそうな顔をしていた。ワンシーンが終わると、ぐったりソファに倒れ込んだ俺と裏腹に声を立てて笑い出す。

「おー、いいじゃんいいじゃん。エッロ!」

 罪悪感がじくじくと湧き上がるほどにいやらしい声を、大和さんが喜ぶ。

「お前がここまで振り切れるとは思わなかったわ」

 あまりにも嬉しそうな顔に申し訳なさがつのる。だって、声に載せた滴るような執着は、俺が大和さんに向けているものだったから。

「気持ち悪くないですか」

「なんで?」

 首を傾げられて説明できずに言葉に詰まる。大和さんが目を細めた。

「俺、独占欲強いほうが好きだって言ったろ」

 キャラクターの話なのに、俺の気持ちまで許されたような気がして戸惑う。何も言えないでいる俺を横目に、大和さんがオーディション台本を手に取った。

「オーディション、楽しみだな」

「……はい」

 明るい声で言われて、他に答えようもなく頷いた。

 


 オーディションは火曜日の夜、『翠燦すいさん破砕斬ブレイカー』収録の後に行われることになっていた。

 いつもと同じようにスタジオに入り、アフレコに参加する。あと数話で終了とあってバトルシーンが多くなっていたから、和田さんは昼休みになると辛そうに喉を押さえた。そこに次々と皆がやってきて、喋らなくていいように黙ってのど飴を置いていく。見る間に和田さんはのど飴を奉納された小さな神様みたいになっていった。

 昼飯に出て行く皆を後目に練習しようとブースに入ると、大和さんが声をかけてきた。

「一緒にやる?」

「ありがとうございます。大丈夫です」

「ん、わかった」

 彼は目を細めて笑うと、ひらりと手を振って出て行った。

 離れていく背中を見送ってマイクの前に立つ。

 オーディション会場で練習ができるというのはかなりの強みだ。深呼吸をして、今は電源の落ちたモニターをまっすぐ見据える。映し出されるだろう絵コンテを思い浮かべて練習していると、ずっとこうしていたような不思議な感じがした。

 右隣をちらりと見る。大和さんも背が低いほうではないから、俺たちが一緒に収録をする時は高めに設定された二本のマイクを使って並ぶことが多かった。

 あれから何度も練習したゼノムとの掛け合いのセリフがふと口を衝いた。大和さんの声が耳の奥に響く。苛立ちと嘲笑をぶつけ合う緊迫した場面なのに、言い終えた途端にうまくいったなと嬉しそうに笑う彼の顔が見えたような気がした。

 

 午後の収録を終えて一度スタジオを出る。オーディションの時間になってからまた階段を下りると、ロビーには一転してピリピリと緊張した空気が漂っていた。最初のオーディションの日を思い出して懐かしくなる。

 挨拶に回ってから、空いたソファに腰を下ろす。あの日は浮き足立つほどに緊張していたのに、両手足が重たく、温かく感じるほど落ちついているのが不思議だった。

 待つほどもなく名前を呼ばれる。ブースに入り、モニタールームに一礼した。

「ユー・ステップ・アクターズ所属、野垣陽弘です。サージェスをやらせていただきます」

 ガラス越しの山倉さんが、どうぞというように頷く。スタッフさんたちの顔がいつになくはっきり見えた。なぜだろうと見直して、今は俺を見てくれているからだと気付く。

 モニターに絵コンテが映し出される。まだモノクロだけれど、動きも、どこに声を入れたらいいのかもはっきりわかる。俺たちが一期のアフレコをしている間も、ずっとアニメは作り続けられていたのだ。

 原作があって、監督がコンテを起こして、アニメーターさんがワンシーンずつを描いて、音響さんが音楽や効果音を入れてくれて、俺たちの声なんていうのはアニメを形作るほんの一部分に過ぎなかった。だけど、見てくれる人に物語を届けやすくするための大切なひとかけらだから、いつも通り空気椅子気味に足をしっかりと踏んばって、サージェスがどんな人間なのか、彼の存在がどんな物語になるのか、俺が受け取ったものを声と演技に乗せて伝えてゆく。

 ほんの数個のセリフは、あっという間に終わってしまった。もうちょっと演じたかったな、と思いながらモニタールームに一礼する。

「ありがとうございました」

『はい、いただきました』

 山倉さんの声は、普段の収録の時と何も変わらなかった。良かったのか、悪かったのかもわからない。だけど少なくとも今の自分の精一杯は出したと思えた。

 スタジオを出て階段を上りきったところで、携帯が震えた。菊池さんからのメールを開くと、そこにはアプリゲームの追加キャラクターのオーディションが通ったから台本を取りにくるようにと書いてあった。ふっと足が止まる。

 嬉しかった。ようやくもらえた名前のある役で、俺の名前もちゃんとCVとして公表される。だけど両手を挙げて叫びたくなるような喜びよりも、背筋が震えるほどの責任感が胸に広がる。すぐに行きます、と一報を入れて自転車に跨がる。事務所で受け取った台本は、アニメ五話分ほどの厚みがあった。

「厚いですね」

「ゲームにしては薄いほうじゃない? 追加キャラクターだからね。人気が出たら再登場の可能性もあるから頑張って」

「頑張ります! あ、すみません、ちょっと確認したいことがあるんですけど」

「うん、何?」

 菊池さんに見えるようにスケジュールを表示した携帯をテーブルに置く。ふとミーティングルームと事務所を隔てる棚の向こうからこちらを眺める人影に気付いた。ふわっとしたマッシュルームカットの男が羨ましそうな顔でこちらを見ている。確かあれは、今年入った預かり声優の一人のはずだ。ちらちらと向けられる視線にむず痒くなる。いつのまに俺はこちら側にきていたのだろう。つい最近まで、俺も同じように先輩たちを眺めていたはずなのに。

 目の前にはマネージャーがいて、名前を覚えてくれていて、一緒にスケジュールの調整をしてくれている。まだ少ないけれど週に何度も声の仕事があって、いつのまにか俺は声優だと名乗ることに違和感も気恥ずかしさも感じなくなっていた。

 調整を終えて携帯を閉じる。菊池さんが思い出したように顔を上げた。

「オーディション、どうだった?」

「ええと……精一杯やりました」

 他に答えようもなくて言うと、菊池さんは何度か頷いた。

「そっかそっか。他にも入ってるからね。どんどん受けていこう!」

「はいっ!」

 適当に受かるよなんて言わないのがマネージャーっぽい。挨拶をしてミーティングルームを出ると、さっきこちらをじっと見ていた男がびしっと姿勢を正した。

「おはようございます!」

 張り上げる声に気合いがこもっている。足を止めて頭を下げた。

「おはようございます」

 相手がぱあっと顔を輝かせた。

「ユー・ステップ・アクターズ所属、加藤昌紀ですッ!」

「野垣陽弘です。加藤……くん。よろしくお願いします」

 ずっとまわりが先輩ばかりだったから、一瞬なんて呼べばいいのか戸惑った。

「こ、こちらこそよろしくお願いしますッ!」

声を上擦らせて挨拶してくれるのが気恥ずかしい。俺はまだ偉そうにできるほどの仕事はできていない。だけど声優の世界では、一年でもデビューが早ければ先輩だった。

「お互い、頑張ろう……ね」

 ため口に慣れなくて語尾が揺れたけれど、加藤は顔中で笑った。

「はいッ!」

 手を振って事務所から出る。いつのまにか、俺にも後輩ができていた。名前と顔をちゃんと覚えておこう。いつか仕事で一緒になれたらいい。大和さんや小島さん、早河さんたちがしてくれたことを、俺も返していけるようになれたらいい。そのためにも、まずは目の前の仕事を頑張ろう。手の中の封筒を強く握り締めた。


 

 

 シャカシャカと自転車を漕いで目黒川沿いを走る。五反田駅をすぎてマンションを見上げると、部屋に明かりが点いていた。大和さんが帰ってきている。ペダルを踏む足に力がこもった。

 スタンドに自転車を返し、急ぎ足でマンションに向かう。高速なはずのエレベーターがひどく遅く思える。玄関を開けた勢いそのままにリビングに駆け込むと、ソファに寝転がっていた大和さんが驚いた様子で体を起こした。

「勢いすげえな」

「お疲れさまです!」

「おー」

 のんびりとした返事が返ってくる。

「あ。冷凍の豚汁の具使った」

「豚汁作ったんですか?」

「うどん突っ込んで食べた」

 キッチンを見ると、コンロに片手鍋が出ていた。覗き込むとまだ一人分くらいは残っている。ちょうどいいから俺もこれで済ませようと火を入れて、インスタントの味噌ラーメンを放り込む。味を調えて卵とコーンを追加し、バターを載せて粗挽き胡椒をたっぷりかける。リビングに運んでいくと、大和さんがもそもそ起き上がってきた。

「なにそれ旨そう」

「ちょっと食います?」

「ほしい」

 先にどうぞと箸を渡すと、大和さんは数本の麺をつまんで溶けかけたバターにちょんとつけて食べた。それで満足したのか、もぐもぐと口を動かしながら「ん」と箸を返してくる。腹が減っているわけではないけれど味は確かめてみたいなんて仕草が可愛くて笑いが漏れる。

 俺がずるずるとラーメンを食べている間、大和さんはソファに寝転がって携帯を眺めていた。まったりとした時間が流れる。

 片付けを終えてお茶を淹れてくると、大和さんが携帯を置いて起き上がった。乾杯を誘う仕草でマグカップをかかげる。

「お疲れさん」

「……はい」

 鈍い音を立てて厚手のマグカップをぶつけ合わせた。

 オーディションどうだったてなんて聞かれても、頑張ったのも精一杯やったのも当たり前で答えようがない。それがわかっているからなのか、ただ労ってくれる言葉が胸にしみる。静かに茶を啜って、ふと伝えておかなければいけないことを思い出した。

「すみません。来週木曜、仕事入りました」

「そっか……。新しい仕事?」

 大和さんは一瞬視線を揺らした。でも、すぐに笑って聞き返してくれる。

「はい、アプリゲームの追加キャラなんですけどね」

「やったじゃん。声潰さねえように気をつけろよ」

「やっぱりそんなしんどいですか」

「一人で喋りっぱなしだからな。休めないし」

「のど飴いっぱい持っていきます」

 ゲームのキャラボイスは大量の音声を一人で録音するから、交互に喋るアニメと違って負担が半端ではない。笑顔で喜んでくれてはいるけれど、一瞬浮かんだ残念そうな色を瞳の中に探してしまう。木曜日は久しぶりに大和さんがお休みになりそうだから、空いている午前中を狙って公開されたばかりの映画を見にいこうなんて話をしていた。

「せっかくだったのにすみません」

「や、仕事来たならなによりだしさ。謝るなよ」

 逆に慰められてしまってちょっとしょげる。仕事があるのは嬉しいけれど、大和さんと一緒に過ごなくなるのは寂しい。そんな気持ちでいるのは俺だけかと探りたくなる気持ちの底に渦巻く期待に気付いて、奥歯を噛み締めた。

 大和さんが何かを思い出したように携帯を取る。

「それじゃさ、木曜の夜か金曜夜、どっちか空いてねえ? 頼みたいことがあるんだけど」

 尋ねられて、大慌てで予定を確認しようと携帯を手に取った。



 借りたばかりの車をマンションの入り口につけると、大和さんと佐々木さんが乗り込んできた。助手席のほうが気持ち悪くなりにくいからと後部座席に追いやられた佐々木さんがすぐに身を乗り出し、大和さんを覗き込む。

「大和さん、飴舐めます? 水要りますか?」

 おろおろと問いかけられて、大和さんが笑い混じりに首を振る。

「酔い止め舐めてるから大丈夫。水は貰っとく」

 水のペットボトルを渡しても、佐々木さんはもっとやることはないかとそわそわしていた。すでにシートベルトを締めた大和さんが突っ込む。

「ほら、佐々木さんもシートベルトして」

「あ、はい、そうですね、いやどうも後ろに座らせてもらうのは落ちつかなくて……」

 佐々木さんがシートベルトを締めると、ピヨピヨと鳴り続けていた警告音が消えた。大和さんが窓を開ける。むわっと押し寄せきた六月の湿った風を胸に取り込むようにゆっくりと深呼吸を繰り返し、ふう、と肩の力を抜いてから俺に目を向けた。

「……大丈夫。出して」

「はい。ゆっくり行きますね」

 大和さんが緊張した顔で頷く。けれど車が進み始めると、また静かに息を吐いて背中をシートに預けた。

 大和さんに頼まれたのは、車の運転手だった。

 まだしばらく先の話ではあるけれど、『スターリーゲート』とは別のゲームのライブの仕事が入った。会場は埼玉県の所沢で、電車はあるものの終演後はとんでもない混雑になりとてもスタッフやキャストが乗ることはできない。参加するなら車移動が必須だった。

 俺の運転する車なら乗れることがわかっているから、会場まで車に乗る練習に付き合ってほしい、なんて言われたら張りきらないわけがなかった。

 静かにアクセルを踏み、揺らさないようにカーブを曲がる。佐々木さんが不思議そうな声を漏らした。

「いやあ……確かに野垣さん安全運転ですねえ……」

「二トントラックまでは運転してたんで。バイトで事故起こしたらヤバいですからね」

 単身引っ越しだと、普通免許で運転できる二トントラックで用が済むことも多い。ドライバーとしてバイトに入ると大きな車体を運転することになるので、慎重に周囲を確認して、万が一にでも破損やトラブルを起こさないように運転する癖がついていた。

「そう、こいつ運転丁寧なんだよ。意外に」

 大和さんまでそう言うのに眉を寄せる。

「そんなに意外ですか」

「あの爆走自転車を知ってるとなあ……」

「中野から日暮里まで一時間かからなかったんですよね?」

「あの時は裏道通ったし、信号にもあんまり引っかからなかったんで……」

「男一人後ろに乗っけて、重たいタンデム自転車で」

 大和さんが呆れた声で笑う。湿った風に髪を躍らせながら、リラックスした顔をしているのをちらりと横目に確かめた。それに気付いたのか、大和さんが安心させるようにアイコンタクトしてきた。頷き返して前方に注意を向け直す。

 首都高に乗る直前、窓の外をコンビニの看板が流れていった。あの日、大和さんがゼリー飲料とタオルを買ってきたコンビニだ。同じことを思い出したのか大和さんがふっと笑った。

「佐々木さん、音楽かけてくれる?」

「わかりました」

 笑い混じりの大和さんの声とは裏腹に、佐々木さんの返事は少し緊張していた。わずかな間の後で流れ始めたのは、今度イベントがあるアプリゲームのテーマソングだった。車が首都高に滑り込む。大和さんが窓を閉じた。水を一口飲んで息を吐く。

「……大丈夫」

 俺たちに宣言するように言いながらも、酔い止めの飴をもうひとつ取り出すと口に放り込む。会話が途切れると緊張感が高まりそうで、流れてきたサビを鼻歌で歌った。

「お前これも覚えてんの?」

「大和さんが出てますからね」

「キャラソンも歌える?」

「大和さんのだけは」

「ぶれないですねえ」

 いつものやり取りに感心した声で佐々木さんがカットインしてくるのに笑ってしまう。再び巡ってきたサビを大和さんが小声で歌い始める。それを聞いていたくて口を閉じると、歌えよ、とばかりに横目で睨まれた。だけど首を振って促すと、彼は小さな声で歌い続けてくれた。

 車用に用意してきたのだろうミュージックリストは、大和さんが関係している作品の楽曲と、大和さんが担当するキャラクターソングが次々にかかった。大和さんは時々歌い、時止まって聞き、けれど吐き気を訴えることはなかった。

 中央道に乗り入れると、車の数はぐっと減った。二十二時過ぎとあってトラックが多く、旅行にでも出かけたような気持ちになる。ふと、曲が『スターリーゲート』のものに変わる。ゲーム本編に使われた曲。アニメのエンディング、オープニング。そして、相馬刻の持ち歌がかかる。窓の外を眺める大和さんの顔は見えない。佐々木さんが身動いだ衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。大和さんがまた小さな声で歌い出した。オーディオから流れる相馬刻の声と、彼の声が混じり合う。中央道の脇に立つ街灯が遠ざかってはまた近づき、彼の輪郭をオレンジ色に照り映えさせていた。


 埼玉県に入り、多摩湖を越えると、ほどなくしてライブが行われる予定のドームについた。 もう日付が変わるとあって、周囲には人影もない。駐車場を探してぐるりと回ったけれどまわりには何もなくて、唯一見つけたコンビニの駐車場に停めて外に出る。大和さんが誰もいない道を指差した。

「ちょっと外の空気吸ってくるわ」

「じゃあ私、飲み物買って車にいますね」

 佐々木さんに車の鍵を預け、ふらりと歩き出した大和さんの後を追った。

 二車線道路の左右には木が生い茂り、街灯の間隔も都内よりずっと広い。もしかしたら歩く人が少ないのかもしれない。歩道には細かな砂利が散らばっており、一歩ごとにざらついた足音が立つ。走り抜ける車のヘッドライトが時折強い光で照らしてくるけれど、それが通り抜けた後は青味を帯びた闇がひたひたと広がり、前をゆく大和さんの輪郭をぼんやりと霞ませた。

 休憩がてらの散歩とばかりに歩く大和さんの足取りはゆったりとしたもので、すぐに追いつけたけれど、なんとなく肩を並べるのは憚られて数歩後ろをついていく。車が通るたびに伸びては縮む影を踏んだ瞬間、すうっと短くなってゆくそれが逃げていくように見えて思わず足先に力が入った。寒気が首筋を這う。そんなことに気付くはずもなく、大和さんがこちらを振り返って笑った。

「……もう、大丈夫」

 柔らかい声で言いながら、わずかに眉を下げて笑う。気の抜けた笑顔を見た瞬間、ずきんと胸が痛んだ。何も言えずに、ただ呼吸が揺れる。そんな俺を見て、大和さんは少し不思議そうな顔をした。表情を取り繕えずに俯く。足取りがいっそう遅くなった。迷いながら一歩、二歩を歩く時間がひどく長く思える。

 息を大きく吸って吐いても、左胸のあたりに宿った痛みは消えなかった。じくじくと膿んだような痛みと息苦しさは苛立ちにも寂しさにも似ていて、どうしたら手放せるのかわからず途方に暮れる。

「……よかったです」

 言葉とは裏腹の重たい声に大和さんが面白そうに笑う。

「また寂しくなってんの」

 尋ねられて、大崎の夜の道を二人で歩いた日を思い出した。

「……そうかもしれません」

 薄ぼんやりとしか表情が見えないと、不思議に顔も、気持ちも取り繕わないでいいような気がする。低く返すと、ふうん、と大和さんが呟いた。また一歩、足を進めると靴底を擦って粗い砂利が鳴る。

 大和さんに元気になってほしいと思っていた。なのに、俺がいなくても大丈夫になってゆく彼を見ると不安になる。ずっと、俺でないと駄目でいてくれればいいのに。俺の運転でないと車に乗れずに、俺がいないと眠れないでいてくれたらいいのに。そんなことになったら俺も彼も困るのはわかっているのに我が儘が胸を押し潰して、圧迫された肺に息ができなくなる。

 突然、荒いエンジン音が大きく響いた。車高の低い車がすごいスピードで駆け抜けて、吹きつける強い風に跳ね飛ばされた砂利がバシバシと頬に当たる。その冷たさに、東京よりも気温が低いことに気が付いた。半袖の大和さんが寒そうに腕を撫でるのに慌てて着ていたジップパーカーを脱いで差し出す。

「これ、着てください」

「や、大丈夫……」

「大丈夫じゃないですから!」

 こんなところで風邪なんか引かせたら大変だ。パーカーを肩に被せて押さえると、大和さんは諦めたように身動ぎを止めた。着せかけようと広げると大人しく袖を通してくれる。触れた肩に違和感があった。家に帰るとすぐに熱を出して倒れていたころには骨が尖るほどに痩せていた肩が、厚みを増している。

 人前ではいつも通りを装いながら、独りぼっちになると弱り果てた雛のように丸くなるしかできなかったこの人に少しずつ飯を食べさせて、眠らせてきた。ちょっとずつ元気になって、でも、だからこそ今、俺はこの人の傍に要らなくなってしまった。触れた手が離せなくなる。俺の服で包んだように、腕の中に抱き竦めてしまいたい。だけどそんなことはできずに、なのに肩に重ねた手を引くこともできない。

 俺に背を向けた大和さんは肩に置いた手にちらりと目を向けて、だけど何も言わなかった。また車が走り抜けて、立ち止まった俺たちの頭上で葉が擦れ合う音ばかりが響き渡る。

「――ごめんなさい」

「なんで謝ってんの」

 笑い混じりの声で突っ込まれる。罪悪感ばかりが湧き上がって首を振った。彼の肩に乗せた右手の甲に、ふっと指先が触れた。びくっと引こうとしたのを押さえ込まれて戸惑う。おずおずと力を抜くと、彼の手も力を抜いた。ただそっと重ねられる。甲に重なる掌が温かい。手の中に収まった肩が、呼吸のたびにかすかに息づいていた。

「言ってみろよ」

 柔らかい声が尋ねてくる。誘い込まれるように唇がほどけた。

「駄目なことばっかり、考えてるんで……」

「駄目なことって?」

「俺以外が運転する車に乗ってほしくないとか……ずっと、俺に頼ってくれたらいいのにとか」

 行きに俺が運転して大丈夫そうなら、帰りは佐々木さんに交代する。最初からその予定だった。マネージャーにはなれないと言った以上、これからずっと俺が運転するわけにはいかない。そんなことは承知の上だったはずなのに、他の人の車に乗れてしまうことがわかったら、俺はまたひとつ大和さんの傍にいる理由をなくしてしまうと焦っている。

「それ、駄目なの?」

 重ねて問いかける声は柔らかいのに抑揚が薄くて、大和さんが何を考えているのか読めなかった。掌から体温が伝わってくるのに、頬のうぶ毛が街灯に照らされて光るのまでが見えるのに、顔は見えない。

「駄目、でしょ。気持ち悪いじゃないですか。俺が役に立てないから、一緒にいる必要がなくなるのが寂しいからって落ちこむとかすげえ身勝手だし、遠出できるようになったらもっとイベントだって出られるようになるんだから喜ぶべきだし、大和さんはずっと仕事したいって言ってたのに応援できないとかファンの風上にも……っ」

 大和さんが振り向いた。肩に触れていた手が離れる。視線が合う。彼は、かすかに目を細めていた。藍色の夜の中で、街灯の明かりを反射した瞳がくっきりと浮かび上がる。

「またお前べきばっかりだなあ」

 呆れた声の優しさに唇を引き結ぶ。覗き込むようにして目を合わせてきた大和さんは、じっと俺を見つめて首を傾げた。 

「駄目なの?」

 もう一度尋ねてくる。まっすぐな音に息が詰まった。

 元気に活動できるようになったのを喜べないなんて、ファンのすることではない。俺でないと駄目であってほしいなんて思うべきじゃない。腕の中に留めておきたいと思うなんて、この人を傷つけた犯人と変わらない。幾重にも重ねたべきが、逸らされない眼差しに削ぎ落とされていく。鱗のように剥がれ落ちていく建前の果てに、残った言葉がぽろりと零れた。

「――……俺……大和さんが、好きです」

 大和さんが笑った。

「おう」

 低く応えたと同時に、どん、と俺の胸に背中をぶつけるようにして凭れてくる。慌てて受け止めると、腕の中に彼がいることに気付いてあたふたした。浮いた手をぐいと掴まれて、胸もとまで引き寄せられる。掌に触れた温かさに思わずぎゅっと抱き締めてしまうと、大和さんは安心したように深い息を吐いた。胸にかかる重みが増す。

「やっと言ったな」

「え、あ、え……っ? 大和さん、気付いて……っ?」

「お前なあ。どうやったら気付かないでいられると思うんだよ」 

 鼻をつままれて、夢じゃないかと瞬いた。

「……いつ……から……」

「んー。割と最初からだけど、確信したのは夜、家の近くのカラオケ行った日かな」

「ええ……っ、俺が自覚するずっと前なんですけど」

「やっぱりなあ」

 納得した声に、ひたすら動揺ばかりが広がる。

「なんで……」

 戸惑いながらも強く抱き締めてしまう俺の手を、宥めるようにぽんぽんと叩く。

「飯食わせて寝かし付けて看病して東京中走り回って送り届けて、あんなのが普通なわけねえだろ」

 何も言えないでいる俺を面白そうに見上げ、大和さんは俺の腕の中に収まっていた。まるで飼われ慣れた猫のように堂々と胸にもたれ、温かな体を預けてくる。

「俺も最初は好意持たれてもしんどいし、でもお前がいてくれると助かるし、って結構悩んだんだけどさ。お前は何考えてても絶対押し付けてきたりしなかったから、気付いたらすげえ頼り切ってて……」

 笑い混じりだった声が柔らかくかすれていく。弱くなっていく語尾の先が聞きたくて、気付けば背中を丸めて耳を寄せていた。

「カラオケ行った日に確信もしたけど、お前は自覚ないっつーか、俺が好きだって自覚するのが嫌なんだろうなっていうのにも気付いてちょっとショックでさ」

 首を振る。大きく振って、腕の中の体を強く抱き竦める。

「だって、あなたのことを勝手に好きになって、あなたが元気になってくの喜べなくなるとか、駄目でいてくれればいいのにとか、俺に都合がいい大和さんでいてくれりゃいいのにと思うなんて、あなたにひどいことした奴と同じな気がして……っ」

 どんと後頭部で肩をどつかれる。ぎゅっと鼻をつままれた。

「同じなわけねえだろ」

 当たり前のように言われても、何が違うのかわからない。理解力の低さに呆れたように大和さんが息を吐く。

「同意と合意の有無が全然違えだろ」

「同意と合意……?」

「お前、なんかする時絶対聞いてきただろ。手当てしていいかとか、飯食うかとかも」

 そうだっただろうか。そうかもしれない。

「俺がいいよって言わなかったらなんにもしねえしさ。そういう奴が自覚さえしねえようにしてるっつうのはよっぽど俺がボロボロに見えてて付け込めねえんだろうなーって思ったから、頑張って元気になって、好きになっても大丈夫だって思わせようとしたんだけど」

「……え」

 どんどん楽しそうになっていく言葉の意味が理解できない

「そしたらマネージャーになるか騒動があって、お前がマネージャーより声優になりたいって言ってくれたの嬉しかったし、声優だって胸張って言えるようになったら自覚してもいいかなって思ってくれんのかなーって思って引っ張り回すことにしてさ」

「……なんか……すげえ自惚れてたら申し訳ないんですけど、大和さんが……俺のこと、好き、みたいに聞こえるんです、けど……」

「逆にどうやったらお前にほだされないでいられると思うのか聞きたいんだけど」

 楽しそうな声が腕の中から聞こえることに驚き続けている。信じられないから、肩を撫でて、胸に引き寄せて、いっそう強く抱き竦めてしまう。苦しいはずなのに大和さんは俺に凭れたまま動かなかった。骨張った体の感触にようやく抱き締めているのだと、それを許されているのだと状況を理解し始める。

「……マジですか」

「マジだなあ」

 呑気な声で言って笑う大和さんの体の震えが、腕に直接伝わってくる。

「で、どーすんの。俺、帰りは佐々木さんの運転でも吐かないで乗れそうな感じがしてんだけど。だいぶ元気になったんだけど。……まだ駄目?」

 自分を示すように軽く両手を広げて尋ねてくれるのに、低く呻く。 

「……いいんですか。俺、大和さんのこと、このまんま閉じ込めたいとか思ってる。俺がいなきゃ駄目でいてほしいとか思ってんのに……っ」

 今度は頬をつままれた。軽くつねられて、だけどすぐに力を緩めて撫でられる。

「でもお前、本当に閉じ込めたりしねえだろ」

 とてもじゃないが断言できずに止まった。なのに大和さんは確信に満ちた声で続ける。

「俺が新キャラやることになったら聞きたいだろ?」

「……聞きたいです」

「今も毎週ラジオ楽しみにしてんだろ?」

「はい」

「今度このドームでやるライブさ、久しぶりにフルで出るしバリバリ踊るんだよなー」

「え……っ見たい……ッ!」

「共演者だし、関係者席取れるけど」

「いやその、俺自分でチケット取りますよ……っ!」

「取れなかったら見にこねえの」

 一気に不貞腐れた声に慌てる。

「その時はよろしくお願いします……っ」

「俺のこと、閉じ込めたりしないだろ?」

 自信に満ちた声で言いながら、答えを誘うように頬を擽られる。首をがっくりと折った。

「……はい……」

「なら、閉じ込めたいくらい思ってたっていいよ。……俺もあんまり軽いほうじゃねえし。重たいくらいのほうがいい」

「大和さんも……?」

 想像がつかなくて呟くと、大和さんは頷いた。

「俺、結構構われたがりだし」

「あ、それは知ってます」

 じろりと睨まれてしまった。だけど、静かすぎるのが苦手で人の気配があるリビングでうとうと眠るのが好きで、顔や胸に俺の腕を乗っけると重みで寝られるなんて癖が付いてしまったこの人が甘えたがりの構われたがりだなんて知らないはずがない。

「んじゃもっと構えよ」

 声がいっそう拗ねてしまった。だけど抱き締められたまま逃げないでいてくれる。

「構います。……すげえ、構う……」

「お前のすごい構うってちょっと恐いな」

「恐いかもしれないです。あの、だから、先に嫌なこと教えてといてください。大和さんの嫌なことだけはしたくないんで……っ」

「つっても、お前仕事の邪魔はしないだろうし、他は別に……あ」

「なんですか」

「いや、別に、嫌なことってわけじゃないんだけど」

「なんですか」

 肩越しに振り向き、上目に俺を見るのに首を傾げる。

「……お前、最近俺と練習するより、小島さんとアドリブ合戦してるほうが楽しそうじゃね。早河の舞台見にいったりしてるのもさ。別にいいけど。ちょっと面白くない」

 全然良くない声で言われて、みぞおちをぶん殴られたような衝撃が走った。即座に叫ぶ。

「大和さんと練習するのが世界で一番楽しいし嬉しいに決まってるじゃないですか……っ」

「ふうん。ならいいけど」

 どうでもよさそうな口調で、だけどちっともどうでもよくなさそうに言われて腹の底から駆け上がる堪らな気持ちのぶつけどころがなくて呻いた。

「うっわーどうしよう大和さんがめちゃくちゃ可愛い。死ぬほど可愛い。尊い。このまま丸め込んでしまっておきたい。この瞬間をレジン漬けにして取っておきたい」

「お前それ口から出てていいやつ?」

「駄目ですけど我慢できないんでどうにもならないやつです」

「どうにもならないかー」

 楽しそうに笑う大和さんをぎゅっと抱き締める。

「大和さん。大和さん、すげえ好きです。すげえ好き。だから……っ」

 ん、と小さく応えてくれる音を聞きながら、息継ぎをする。

「レギュラー取れたら、ちゃんとお付き合いしてくださいって言わせてください」

「お前、そういうところこだわるよなぁ」

 大和さんは呆れたように笑うけれど、こんなに助けてもらっておきながらなんの結果も出せずに好意に甘えたくない。俺は、ちゃんと声優として、この人の隣に堂々と立てるようになりたい。大和さんが考え込んだ。数秒の後、抱き締めたままの手をぽんと叩かれる。

「わかった。……期待して待ってる」

「できるだけ、あの……っ、お待たせしないように頑張るんで……ッ!」

「おう」

 かすかな笑いに信頼が宿る。大和さんは、俺がきっとレギュラーを取れると思ってくれている。抱き締めていた腕の中だけじゃない、胸の内側がほかほかと暖まっていた。

 大和さんがするりと腕から抜け出した。ぶかぶかのパーカーの裾がひらりとなびく。

「そろそろ戻るぞ。佐々木さん心配してんだろ」

「あ、はい……っ、ちょっと待ってください、前……」

 風が入らないようにパーカーのジップを上げると、大和さんは面白そうに笑った。くるりと振り向くと、視界の先にコンビニの明かりが映る。ずっと遠くまで歩いてきたような気がしたのに、戻るのは一瞬だった。肩を並べて車に戻るまで二人とも何も言わなかったけれど、触れそうな距離にある肩がじんわりと温かい。

「お待たせ」

 近づいていくと、車から出てきた佐々木さんは少し心配そうな顔をしていた。だけど大和さんを見てほっとした表情を浮かべる。

「いけそうですか?」

「ん。帰り佐々木さん運転頼んでいい?」

「はいっ、もちろんです! あ、これお好きなものを……」

 差し出されたビニール袋は、飲み物や飴でぱんぱんに膨らんでいた。

「ありがとう」

 受け取った大和さんが後部座席の扉を開く。

「野垣も。後ろ」

 運転席に乗り込もうとしていた佐々木さんがちらりとアイコンタクトを向けてきた。大和さんの様子を見ていてほしいという仕草に頷く。

「はい」

 隣に乗り込むと、水のペットボトルを出した大和さんにビニール袋を渡された。俺もコーヒーをもらってシートベルトを締める。狭い空間に収まるように足を折り畳むと、大和さんが肘かけよろしく俺の腿に腕を乗せてきた。びくっとした俺を見上げて面白がるように笑い、ふいと視線を外して窓の外を眺め始める。静かなエンジン音を立てて車が発車した。

 車窓を夜の街が流れていく。佐々木さんの視線が届かないのを確認して、預けられた手にそっと手を重ねた。大和さんが掌を返してくれる。そっと指を絡めて繋ぎ合わせた。

 水を飲む他は身動ぎもせず、大和さんはマンションに着くまで静かに窓の外を眺め続けた。



 それから二週間ほどを、俺は大和さんとの距離を必死に測りながら過ごした。

 なんせ、お互いの気持ちは伝わってしまっている。ずっと全身を擽られてでもいるようにそわそわと落ちつかなくて、二人っきりになりたくて、でも二人っきりになったら触りたい気持ちが我慢できる気がしなくて部屋に行く頻度をぐっと減らした。だけど大和さんはそんなこと全部承知の上で「なんで来ないんだよ」「寂しいんだけど」と甘ったれてからかってくる。そうして俺があたふたするのを見て笑っているのが堪らなく可愛くてのたうち回った。自分から正式にお付き合いを申し込むと言ったのに、その前に流されたら格好悪すぎる。だけど我慢ができるのは、きっとこの時間は長くは続かないと思えているからだった。

 オーディションの手応えが、いつのまにか変わっていた。

 うまくいったとか、いかなかったとかではなく、自分を出せたと思える時が増えていた。だから、受からなかった時は合わなかったのだろうと思って切り替えられる。実際、仕事自体も増えていた。大和さんに紹介して貰ったところだけではなく、役が付かなくても番組レギュラーで呼んで貰えることが多くなっている。気付けば毎週のスケジュールの半分ほどが声の仕事で埋まっていた。このまま自分の精一杯を出していけば、きっと俺に合ったキャラクターが近いうちにやってきてくれるだろう。

 階段を駆け上がり、今週の台本を受け取りに事務所に向かう。

 扉を開けると、いつもと変わらず何人もの声優とマネージャーが忙しげに行き交っていた。

「おはようございます!」

「おはようございます」

 挨拶を交わしていると、すぐに菊池さんが気付いて声をかけてきてくれた。

「野垣くん、ちょうど良かった」

 デスクから封筒を取ってミーティングスペースを視線で指す。頷いて先に行き、やっぱりごちゃついていた机の上を片付けていると菊池さんがおかしそうに笑った。

「相変わらずだねえ」

「もう癖になってて」

 すっと目の前に封筒が差し出された。

「こっちが台本ね。住所と時間も入れてあるから」

「はい!」

 オーディション台本と、モブや番組レギュラーの収録の台本と、封筒がいくつかあるのが心底ありがたい。両手で受け取ると、すぐにもうひとつ封筒が差し出された。なんだろうと菊池さんを見ると、何も言わずに笑みかけられる。どきりとして薄緑色の封筒を見下ろした。

「『翠燦すいさん破砕斬ブレイカー』サージェス役、合格おめでとう」

 息を飲む。菊池さんの顔と封筒の間で視線を往復させる間、彼女はじっと待っていてくれた。

「あ、あ……っ、ありがとうございます!」

 思わず声が大きくなった。手が震える。頭を下げて賞状のように押しいただくと、ずしんと実際以上の重さが手の中に宿った。すぐに封筒を開けると、わざわざ印刷してくれたのかオーディション通過と連絡事項を告げるメールのプリントが入っていた。収録の開始日は一期と同じく来年の三月で、そこから半年間のスケジュールが押さえられている。

 来年も、『翠燦すいさん破砕斬ブレイカー』の現場に参加できる。それも、今度はちゃんと自分の役をもらって。印刷された日付がじわりと滲んだ。菊池さんが明るい声を上げる。

「来年もよろしく。だけど、役付きのレギュラーが一本じゃまだまだだからね。オーディションは来てるんだから、他も取れるようにしっかりね!」

「は、はい……っ! 頑張ります!」

 答えてからハッと気付く。役付きレギュラー一本じゃ、確かに声優としては本当にまだまだだ。だけど、来年。菊池さんに目を向けると、彼女は頷いた。

「番組レギュラーは獲れるようになってきてるしね。自分で営業もかけられてるし、事務所としてはこのまま野垣くんを応援していくつもりだから」

「ハイッ! これからもよろしくお願いします!」

 深々と頭を下げる。来年も仕事が続けられる。査定は通るだろうと保証してくれる言葉に、安堵よりも気合いが湧き上がった。


 事務所を出て、モブで単発参加させてもらっているアニメの収録現場に行くと小島さんがいた。フードコートの賑わいを録るガヤのシーンで、ほとんど聞こえないからいいと思って最近の筋肉育成状況を落語のようにボソボソと話し続ける。ただ笑わせられるのも悔しくて俺も立ったままできる筋トレ小ネタを披露しながら最終的に二人で爪先立ちスクワットをしていると、オッケーが出てからまわりの先輩たちに笑わせるなと揃って叱られた。

 アフレコを終えて外に出ると、もう日はとっぷりと暮れていた。この時間なら、大和さんはラジオの収録をしているはずだ。自転車に跨がって渋谷近くのスタジオに向かう。収録終わりの時間を見はからって出入り口に迎えに行くと、俺を見つけた大和さんは驚いた顔をした。

「何、どしたの」

「迎えに来ました」

「……ふうん」

 鼻を鳴らす顔が嬉しそうに見える。近くの自転車レンタルスタンドに向かうと、大和さんがつんと袖を引いてきた。

「野垣、あれ」

 タンデム自転車を指して悪戯っ子みたいな顔で笑う。こちらまで笑いが伝染した。

「了解です!」

 デカい二人乗りの自転車を引き出すと、大和さんは意気揚々と後ろに跨がった。

 

 平日夜の下り車線は、いつだって混雑している。ひっきりなしに立ち向かってくる対向車のヘッドライトがレーザービームみたいに光る。七月を迎えたばかりの夜風は湿度を帯びて重たく、夜になっても残る暑さが息苦しい。だけどガシャガシャと漕ぐペダルの音はぴったりと重なり、大和さんの楽しげな笑い声が背中から聞こえる。まるで、銀河鉄道にでも乗っているような気がした。

 マンション近くのスタンドの前で自転車を停めた途端、二人揃って吹きだした。返却手続きをしながら笑い転げる。

「お前……ッ、ほんと、早すぎ……っ!」

「大和さんも漕いでたからですからね!」

「なのにめちゃくちゃキッチリハンドサイン出すし……っ」

「夜ですし。スピード出てる分危ないですから」

 タンデム自転車はデカいし、車道を走るだけにまわりとの意思疎通が大切になる。特に今日は速度が出ているだけに安全を保たなくてはとジェスチャーを大きめに伝えていたのが大和さんのツボに入ってしまったらしい。喋りながらマンションに帰ると、大和さんが暑そうにシャツの胸もとをパタパタと扇いだ。 

「すげー汗かいたー! 先にシャワー使っていい?」

「もちろんです」

 大和さんがシャワーを浴びている間にこもっていた空気を入れ換えて、クーラーをつける。十分ほどで出てきた大和さんはまた髪をろくに拭かないままタオルを肩に引っかけていた。冷蔵庫から出した炭酸水のペットボトルを渡す。

「ありがと」

「髪、ちゃんと拭いてくださいね」

「この暑さならすぐ乾くって」

「その間に風邪引いたらどうするんです」

 注意するがちっとも応えた様子はなく、そのままソファに座ってしまう。しょうがなく俺もソファに向かうと、こちらを見上げて大和さんはしてやったりとばかりに笑った。ひょいと差し出すように頭を下げるのに肩のタオルを取って濡れた髪を拭いてゆく。タオル越しに地肌をマッサージするように触れると満足した猫のように目を細めた。もっと構えと言ったぶんだけ、こうして俺が構うタイミングを作ってくれるのが可愛くて嬉しかった。

 ある程度拭いたところでタオルを退かす。くしゃくしゃになった髪の合間から俺を見上げる大和さんは普段よりも幼く見えて、心臓がぴょんと跳ねた。額に乱れかかった髪を払おうと手を伸ばしかけて、まだ触っては駄目だと手を止める。だけど、合格したのだと報告したら今日から触れて良くなるのだと気付いて、ぶわっと頬に血が上った。

「野垣?」

 固まっていると、大和さんが不思議そうに呼びかけてきた。ぎくしゃくと手を引いて立ち上がる。

「お、俺も風呂入ってきます……」

 一度頭を冷やしてこようと浴室に向かう。だけど温度を低くしたシャワーを全身に浴びても、皮膚の一枚下のところでぐつぐつと血が煮えているような気がしていた。

 息を整えて、髪を乾かしてリビングに戻る。落ちつこうと深呼吸を繰り返していたのに、振り向いた大和さんと目が合って足が止まった。不思議そうな顔をする彼から目が逸らせずに、隣に座るのは偉そうな気がして床に跪く。唇を引き結ぶと、大和さんもまた緊張した顔で背筋を伸ばした。その前に両手を差し伸べる。

「サージェス、受かりました。来年も、その先も隣に立てるように頑張ります。だから……大和さん、俺と付き合ってください」

 大和さんが目を見開いた。少し困ったように視線がうろうろと彷徨った後、差し出した俺の掌の上に揃えた両手の指先をちょんと乗せる。

「……ん」

 照れてしまったのか口数少なく頷く仕草にぐっと胸が詰まった。思わず飛びついてしまう。

「大和さんッ!」

「うわっ、だからお前、勢い!」

 ソファの背もたれにぶつかって弾んだ体を抱えこむ。抗議するようにバシバシと俺の背中を叩いた大和さんだったが、溜息を吐くとぽすんと胸に凭れてきてくれた。まだかすかに湿り気を帯びた髪を指先で撫でて、ぎゅっと抱き竦める。腕に包んだ体が緩やかに力を抜いていった。

「……なんか落ちつく」

「え、ドキドキしませんか。俺心臓やばいんですけど」

 心配になって尋ねると、背中をぽんぽんと叩かれる。

「まったくしないわけじゃないけどさ、もうお前に触ると力抜けるようになってんだよ」

 懐いた猫のように胸もとに顔を擦り付けられる。

「ほんとだ。心音すげえ」

 ぴたっと胸に耳を押し当ててくる。それでも機嫌良さそうに笑っているのに、嬉しいような、気恥ずかしいような、焦る気持ちでいっそう心音が跳ね上がる。それに気付いているはずなのに、大和さんは弄ぶように俺の背中を撫でていた。

「今日からお前寝るの、俺のベッドな」

「はいっ?」

 声がひっくり返る。がばっと体を起こそうとしたのをがしっと抱えこまれて止められた。

「んだよ。文句あんの」

「いや、……え、ええ……っ。な、ない……ですけど……」

「嫌なの」

 どんどん声が拗ねていく。慌てて抱き締め直す。

「嫌でもない、ですけど、あの、ちょっと問題が……」

「どういう」

 言葉を濁そうとするが、逃がしてもらえない。

「い、一緒になんて寝たら、その、……俺……絶対大和さん襲っちゃうんで……」

 消え入りそうな声で訴えると、胸にくっついたまま首を傾げられてしまった。

「それ、駄目なの?」

 怪訝そうに聞かれてぐっと詰まる。

「お前、そういうつもりもなく付き合うとか言ってたわけ?」

 ぐりぐりと腹を拳で抉られた。

「そ、そんなわけないじゃないですか! でもその、て、展開早いっつうか……っ!」

「俺、もうだいぶ待ったんだけど」

 上目にじっと見つめられて、じわじわと顔が熱くなっていく。にやりと大和さんが笑った。

「合意完了。だよな?」

「はい……」

 もう観念するしかない。軽く肩を叩かれて力を緩めると、大和さんはするりと腕の中から抜け出した。

「んじゃ、もっかい風呂入ってくる」

「え」

「準備」

 パンと無駄にいい音を立てて尻を叩く素振りに顔から火を噴きそうになる。この人にはどうしたって敵わない。熱い頬を両手で押さえて呻いた。


 風呂からあがった大和さんに手を引かれて寝室に連れて行かれる。電気をつけないままの部屋の真ん中に置かれた大きなベッドがひどくいやらしく見えた。肩を押されて腰を下ろすと、シーツに膝をついた大和さんが腿の上に乗り上がってくる。ぐっと息を飲むと、眉をひそめた大和さんが頬を緩やかに逆撫でてきた。

「……マジでその気になんねえなら待つけど」

 寂しそうな声に慌てて手を伸ばす。細い腰をがっしりと両手で掴むと、大和さんは寄せていた眉をふわりと解いた。

「上手くできる自信なくってビビってるだけです……」

「別に上手くなくていーよ」

「で、でもその、痛い思いさせたくないですし……っ」

 大和さんがにやりと笑みを深めた。頬をつつかれる。

「なんだ。突っ込む気はあるのな」

「え……っだ、だってその、あの、大和さんが準備してくるって言う、から……」

 正直襲ってもいいんだと期待してしまった。

「ん。どうせなら俺、突っ込まれたい」

 腰骨の真下から、ぞわっと寒気に似たものが駆け上がってくる。息を荒くする俺を誘い込むように手を引かれる。気付けば俺は大和さんを抱え込み、己の下に引き据えるように押し倒していた。短い髪をシーツに散らして、大和さんが満足げに目を細めて俺を見上げる。

「……したこと、あるんですか」

 声が低くなる。恫喝するような声が出てしまったのに、大和さんは気にした様子もなかった。

「ねえよ。リアルでは」

 ニヤニヤと笑う。何を言われているのか気付いて顔に血が上った。

「どうせ聞いてんだろ。俺のBLドラマCD」

「……全部聞いてます……」

「相変わらずすげえなあ」

 大和さんは女性人気がかなり高い。ということはつまり、BLドラマCDに出ている回数も多い。今まで散々聞いた多種多様な喘ぎ声が頭を駆けめぐり、鼻血を吹きそうになった。

「あれだけ喘いでるとさ、本当にやったらどうなんだろって興味出るだろ」

「やってみて期待外れだったって言われたらどうしよう……っ!」

「言わねえって」

 笑いながら背中に手を回してくる。引き寄せられて、伸しかかるようにして抱き締めると重たいだろうに大和さんはほうっと息を吐いて力を抜いた。

「お前に乗っかられてるだけで気持ちいいのに。期待外れとかねえよ」

「……気持ちいいんですか」

 ベッドと背中の間に手を差し入れて抱き締め、軽く体重をかけてみる。大和さんはこくりと頷いた。背中に手を回して目を伏せる。力が抜けて柔らかくなった体が、触れた場所からじわじわと熱くなってゆく。昂ぶった俺の体温が伝わっているのか、それとも彼も熱くなっているのかわからない。

「重たくて、安心する」

「安心するだけ?」

 乱れた髪を指先で梳いて撫で、額に軽く唇を触れさせた。ちょんと頬をつままれる。

「だけなわけ、ねえだろ」

 吐息が混じった声が甘い。じっと見つめていると、大和さんは笑って目を閉じてくれた。任せきった顔にきゅっと胸が絞られる。そっと屈み込んで唇を合わせた。ふんわりと温かな感触に離れがたくなって、幾度も、幾度も啄むようにキスを交わす。大和さんの手が背中を撫でて、もっと、とねだるように首を傾けてくる。深く押し当てると唇が開いた。舌を差し入れて絡ませ合う。ぴったりと体を重ねているのにもっと触れたくて、お互いにもぞもぞ身動いで体を擦り付け合う。くしゃくしゃになった夏掛けを掴んで床に投げ捨てた。

 まだ何もしていないのにはあはあと息が上がる。離れられずに幾度も角度を変えながらキスを繰り返した。唇の合間はつるりとなめらかで、舌先でなぞるだけで擽られているような気持ちよさが灯る。大和さんも同じなのか、口付けるほどに熱くなっていく体を両手でまさぐった。

「ふ、ぁ……」

 柔らかな吐息が零れた。ほんのわずか、唇が離れる。大和さんがかすれた声で呟いた。

「キスしながら撫で回されんの、気持ちい……」

 体を起こして、上気した顔を見下ろす。熱っぽく頬を染めているのにどこにも苦痛の色がないことが嬉しくて頬を撫でた。

「大和さん、可愛い……」

 汗ばんだ額に、頬に、唇に、何度も唇を押し当てて囁く。大和さんが恥ずかしそうに髪を引っ張ってきた。

「んだよ……見てんなよ……」

「だって、可愛い……」

 囁きながらゆっくりと唇で首筋を辿り降り、鎖骨に繋がる筋肉を軽く食む。体を捻ったり、振り向いたりした時にくっきりと浮かび上がるこのラインに、ずっと口付けてみたかった。

「お前、ばっか、ず、りぃ……」

 戯れるような力でまた髪を引っ張られる。

「ずるい……?」

「も、俺、目ぇ開けてらんねえ、のに……」

 髪に触れていた手がずるずると落ちていく。俺に触られると安心して力が抜けるのだと全身で教えてくれる。くったりとシーツに沈み込んだ体を両腕で掬い上げて抱き締めた。

「大和さん……すげえ好き……」

「やっとその気になったかよ」

 からかうような返事が嬉しそうに聞こえる。

「ちょっとでも痛かったり、苦しかったら言ってください。すぐ止めますから」

 本当はずっと触りたかった。抱きたかった。だけど、暴走して傷つけてしまうのが恐い。不意に大和さんが胸に頬を擦り付けてきた。

「ちゃんと言うから、痛いって言うまで止めるなよ」

「え……」

「痛いんじゃねえかとか、嫌なんじゃねえかとか、考えなくていい。嫌だったら言うから」

 俺の不安に気付いているのだろう言葉に息が詰まる。

「……わかりました」

 腕の力を緩めると、シーツに背中を預けて大和さんが笑う。重なった視線に、引き合うようにまた唇を重ねていた。

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