第1章 シグナルのある世界
◆第1話 平行世界
「何のですか? ……えっと、分からなくて。……だからそういうの、持ってないんです」
朝から調子がおかしかった。避けがたい陽射しの中をふらふらと登校すると、教室には誰もいない。窓から覗くと、体育館に大勢の生徒たちが向かっている。――失敗した。
プリントを置き忘れてしまったか、先生の話でぼんやりしていたか。今はとにかく早足で人の集まる方に向かう。
体育館に入ると銀花は見知らぬ3人と同じグループになった。いつもの体育館がよく似た別のものに見える。間違いなく錯覚だ。さっき走りすぎたのかもしれない。雨が通り過ぎるのを待つように、銀花はぼうっと天井を見上げている。少し考えて、夢の中にいるみたいだと納得する。
なぜかというと、幾つかのことははっきりしている。
周りの人たちの話す内容があんまり理解できないし、どうやら今から合宿が始まるらしい。体育館には県内中から4年生が集まっている。
会話の中で何度か聞いた言葉で一番わけの分からないものについて、銀花は自分のを出して見せるように言われたけど、どうしようもなく、どうすればいいか分からず、おどおどしながら初めて発言した。そして同じ内容を、銀花は繰り返して言う。
「シグナルっていうのを……、そういうの、私は持ってないです」
銀花が言うと、相手はぴたりと止まった。
グループの一人の女子が落ち着いた声で。
「持ってない? 本当に? ……じゃあ今の、言葉どおりの意味で?」
問われても、銀花は答えることができない。
自分が言ったことが正しいかどうか念のため考える。もしかして、呼び方が違うだけとかだったらいいけど、定規とかハンカチとか、いつも持っているものだったら、勘違いならいいのに……。
問いかけてくれた女子がじっと見つめている。瞳の色が薄い。ぼうっと見とれていた銀花は、我に返って眼を伏せた。ちらっと戻すと変わらない眼差しが向けられている。不思議な気配がある、やわらかそうで強い視線――銀花は図書館で読んだ本を思い浮かべた。本当を言うと読んでない。表紙を見ただけ。偉人だったか聖人だったかの、神様がするような大変な仕事をした人だと思う。聖母? 多分、聖人だった。
思い出そうとしているうち、聖人の横に立つ背の高い女子が銀花に問いかける。
「合宿は想像を超えてくるね。持ってないならどこにあるの?」
彼女は大人っぽく見えるけど、話し方で自分と同じ4年生だと何となく分かった。銀花に心底呆れた感じで口の端を吊り上げている。そんなに歪ませても顔が綺麗なので感心する。
「合宿に持ってこないって絶対わざとだよね。家に置いてきた? もしかして捨ててないよね? だったら先生にいわないとダメじゃない?」
薄ら笑いで聞かれる。ヒッヒッと魔女が笑うみたいに嫌な言い方を演じているようにも聞こえた。魔女の隣で聖人も銀花を見つめている。ぼうっとしていたけど、二人からの問いかけが投げられたまま何も返さずにいると気づいて慌てる。
どちらの質問に先に返答するか……、最初の方と思う。順番に考えないと頭がこんがらがるからだ。でも、二つ目も結局は同じことを聞いている気もする。
――銀花はシグナルを所有していない?
――銀花のシグナルはどこにあるのか?
最初の質問には「ない」と答えることができる……。でも、定規とかハンカチの呼び名を銀花が知らないだけかもしれないのだった。とにかく銀花はシグナルのことを何も知らない。
みんな一つだけ自分のシグナルを持っている。じゃあ定規やハンカチでは、やっぱりない。
なんで自分が持ってないのか分からない。素直に聞いてみるべきだろうか?
からかわれている、ということはあるか? たぶん、違う。
一つの答えがぱっと頭に浮かぶ。パラパラとめくられていた分厚い本のページがぴたりと止まった感じだ。自分で思い付いたとは思えない突飛な解釈だ。
――平行世界。
頭の中の本は妖精の粉みたいにキラキラして言葉を目立たせている。銀花の右手のクマのパペット――パペタ氏が口を出す。
「一つに見える世界は重なりあっている。だから少しずつ違う世界が存在する。銀花が今いる世界では一人一人が自分のシグナルを持っているようだね」
「そんな……。じゃあ、私はどうしたらいいの?」
率直に尋ねてみたが、どうだろうねえ、という表情をしただけでパペタ氏は何も言わない。頼るのを諦めて自分で思考する。
記憶を辿っても、シグナルを持っていたとか、誰かが持っているなど聞いたことがない。たった今知ったのだから、銀花が昨日までいた世界にはシグナルはなかったのだ。違う世界に来てしまうなんてことが本当に起きるなんて思わなかった。元とは違う平行世界。
ただ一人、世界で銀花だけがシグナルを持たない――。
「銀花はあまりお喋りが得意じゃないので、代わりに私が要約しますと、銀花は平行世界から来たのでシグナルを持っていません」パペタ氏は軽々しく言った。
止めようと銀花はパペタ氏のやわらかい口と鼻を手のひらで押さえたが効果はなく、パペタ氏はにんまりとした釦の瞳で銀花を見ている。
普段どおり。みんなの表情が哀れみを帯びる。そういうのはいつもと全く一緒なので、銀花が変なのか、今日は特別に普段よりおかしいのかは分からない。
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