第1話:We can go!

「ああ、急がないと!時間かかりすぎちゃった!」

スカートを持ち上げて我が家の廊下を勢いよく駆け抜ける。

カツ!カツ!と靴のヒールが当たる音が廊下中に響き渡るものだから、向かう先にいる人たちがみんなこちらへと振り替えってきた。

「セリナお嬢様!今日もお元気でございますなぁ!」

「おはようゴディ。あなたのコック帽も素敵よ」

料理長のゴディはハハハと朗らかな笑い声をあげて自らの大きなおなかを叩く。

廊下の先では今気づいたようにハウスキーパーのシシーが顔を上げた。

「あっ。お嬢様。侍女のエレノアが探しておりましたよ」

「本当?ごめんね。ちょっと庭園の方に行ってくるから」

「庭ですか。なるほど。じゃあエレノアにはそう伝えておきますね」

「お願い」

返事を間に合わせるために一瞬だけとてててっと歩調を軽く緩め、そして彼女が承知したのを見てまた勢いよく駆け始める。

その瞬間、道の先に見たくないものを見つけてしまって思わずうげっと声を上げると足をわたわたとばたつかせる。

どこかに方向を変えようとした瞬間に、その厄介な相手が先にこちらへと顔を向けてくる。

「セリナお嬢様!ノブル・セリナ・ヘイスティングスお嬢様!お止まりなさい!」

「はっ!はいぃぃっ!!」

逃げようとした瞬間、まるで空を切り裂く雷のようにぴしゃりとした声を叩きつけられて、その場で硬直してしまう。

後ろから「全く」とため息交じりの声が聞こえてくる。

その声の主は教育係のメディア夫人であり、私がこの屋敷で最も苦手としている相手だった。

「高貴なる令嬢たるものが、そのように大股で走ってはいけませんと注意いたしましたのはこれで何度目でしょうか」

「えっと……10回目でしょうか……」

「これで73回目です!」

「数えてるんだ……」

「あなたは毎度毎度私の言葉をろくに聞きもしないで――」

ぐちぐちとした小言が始まった。

まずい、これは下手をするとこのまま昼になってしまうコースだ。

「あ、あの!夫人の言葉はごもっともなのですが、ちょっと用事があって!!あの!すみません!失礼します!!」

思い切りに相手の言葉をさえぎって、そう言い切るとすぐさま踵を返して一気に逃げ出す。

「待ちなさい!走ってはいけないとあれほど!」

後ろから声が聞こえてくるが構わずに近くの曲がり角へと逃げ込んで一気に走り去る。淑女のルールを守って走れない夫人には絶対に追いつけないはず。

こんな日の朝にお小言だなんて冗談じゃない。

今日は待ちに待った大事な日なのだから。

走り抜けていく廊下の窓から見える外の景色はまるで今日という日を祝福してくれているように青く晴れ渡っていて遠くの平野もエメラルドのように青々しく綺麗に生い茂って見える。

期待と興奮で胸がそわそわとしてきた。

「早くっ早くっ」

自分の足の遅さにもどかしくなりながら、エントランスの階段を降りて玄関を思い切りに開ける。

馬車の荷を運ぼうとしていたポーターが驚いていたけれど構わずに、ひたすら庭園へと向かって駆けていく。

庭園の管理小屋に来たところで、ついに息が切れてきてしまった。

それに靴も走りにくいったらありゃしない。

どうしてこんなものを履かなくちゃいけないんだろうと思いながら庭園に近づいていくとそこに人影を見つけた。

いつも庭園を世話してくれている庭師の二人だ。

小屋の影に隠れながら庭園の方へと視線を向けている。

「おい、あれ……」

「ああ、いたわしいな……」

なんだかひそひそと二人で内緒話をしている。

「何してるの?」

「ひぇええ!?」

声をかけると不意のことに驚いたのか二人して飛び上がっていた。

「お、お嬢様ですか……。驚かせんでください」

「ごめんごめん。でもなんでそんなこそこそとしてるの?」

「いや、ちょっとその……」

「私には言いにくいこと?」

気まずそうに庭師の二人が視線を行き来させている。

逆にそれでなんとなく察してしまう。

「もしかしてアルテさんのこと?」

「へへへ、実はアルテさんのことをちょっとのぞき見しちゃってまして……」

おいっと、もう片方の庭師がしゃべった庭師を肘で小突く。

「お嬢様はアルテさんのこと……」

「いや、だけどよぉ。お嬢様にウソはつけねえよ」

「なにかあったの?私にも見せて」

二人がいた小屋の蔭から庭園の方へとわずかに顔をのぞきこませる。

背が高いボックスウッドの生垣が囲んだ中に一本の広い道が見える。

そしてブルーベルやヒヤシンスが咲き誇る花壇に囲われたガゼボが中心に建っている。

いる。

見つけた。

私が探しにきた相手。

ガゼボの中で椅子に座っている一人の女性がいた。

黒いドレスをまとった細身の女性。その服は簡素な喪服だった。

腕にはレースの手袋をしていて、微かに布地の隙間となっている首筋などからは服の色とは相反するほどに澄んだ白い肌が見え隠れしている。

顔さえも漆黒のヴェールに覆われ見えないけど、その格好で誰だかは屋敷のみんなが分かっていた。

何しろヴェールでは隠せないほどに耳が長く、細く飛び出していたからだった。

彼女の耳は弦のように細く長くて、透明で澄んでいて、そして右耳の先に小さな黒子があった。

「アルテさん、泣いて……いるのかな?」

ヴェールの奥から差し込む朝日を反射した水が煌めきながら滴って、膝に落ちていくのがここから見ていても分かる。

彼女は何か手紙を持っていて、それを読んでいるようでもあった。

唇が動き何か文字を読んだかと思うと、ぐすぐすと鼻を鳴らして、目をこすり、また雫が落ちる。

「いつものことですけれど。見ていて何ともいたわしいですね」

いつの間にか同じように顔をのぞかせていた庭師の一人まで顔を紅潮させて泣きそうになっている。

もう一人も同調して頷いている。

「いつまでも想い人のことが忘れられないのでしょうね」

「うん。そうなんだろうね……」

ここに来るまで多少はしゃいでいた気分だったけれど、泣いている姿を見て少しだけ胸が痛くなる。

それでも言いに行かないと。

意を決して立ち上がると、庭園へと向かっていく。

ガゼボの近くにまでたどり着くと足音で察したのかアルテさんが顔を上げてこちらへと振り向いた。

その瞬間ぽろぽろと頬についていたいくつもの雫が膝に落ちる。

「あら、セリナちゃん。おはよう」

幾つもの鈴が一斉に鳴ったような柔らかく細い声だった。

ベールの下へと指先をくぐらせてアルテさんは目を拭った。

微かにベールから透けて見える唇が微笑んでるのが分かる。

「おはようじゃないですよ……」

思わず呟いた言葉にアルテさんが顔を上げる。

「え?」

「なんでもないです」

多少すねた気持ちで彼女の前の席に座った。

「またその手紙を読んでたんですか」

「え?これ?」

持っていた手紙を手元で折りなおしながら彼女は軽く俯いた。

「うん。ちょっと昨日寝る前にあの人のこと思い出しちゃってね……」

「まだ思い出すことがあるんですね。200年前でしたっけ?」

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