アポクリファ、その種の傾向と対策【さよならは言わない】

七海ポルカ

第1話



 グレアム・ラインハートが呼びに来た。



 控室に置かれた水槽に泳ぐ魚をずっと見ていたユラは振り返る。


「時間です」


 彼と目を合わせると、いつもと同じように少し笑んで頷いてくれた。


「はい」


 立ち上がり、控室を出て、グレアムの案内でステージへと向かう。

 ノグラント連邦捜査局が用意した護衛は、グレアムが遠ざけてくれたが、やはり気配はした。

 彼らはこの公演で何か不測の事態が起きて、例えばシザが弟を奪いにやって来た時に備えているため、気配が張り詰めている。

 ユラ・エンデの闇属性である変化能力は、感応能力も伴う。

 あまりにも強い負の感情を相手が抱いていると、多少それを感じ取ってしまうのだ。


 ステージに繋がる入口にまで来ると、ユラはいつものように一度そこで足を止めて目を閉じた。数秒、心を静めるための時間を取る。

 祈る様にも見えるその表情をグレアムは黙って見守った。

 予想を遥かに超える客が入っている。

 しかも野外も解放されている為、ギルガメシュ・アリーナ周辺も人で凄まじいことになっているのだ。

 ユラはプロのピアニストとして少しずつ、聴衆には慣れつつあったが、さすがにこれだけの人数を前に弾いたことはない。

 それにこの【グレーター・アルテミス】公演が決まってから俄かに準備で忙しくなったこと、三カ月ほとんどまともにピアノを弾けてなかったこと、連邦捜査局からホテルに移されたのは二月以上過ぎてからだったが、それすら法を無視した不当な拘留で、ユラはよく耐えていたけれど、ホテルに移ってから慢性的に彼は体調を崩していた。

 医者は呼びたくないとユラが言ったので呼ばなかったが、確実に精神的な重圧が理由である。

 公演が決まり、ピアノを弾き始めると、もっと体調に大きな波が現われた。

 集中して弾けていたが、根を詰めすぎて、眠れなくなったり食べられなくなったりして、一日の間にも激しい体調の変化があった。


 今日の公演はユラ・エンデ個人として行うコンサートとしても、過去で最も長い。

 

 ピアノのソロで二時間以上ある。

 三日前から練習量を押さえ、体調を整えることに専念したが、元より多忙さや病気が原因の体調不良ではなかった。急変する恐れはある。

 

 グレアム・ラインハートは叶わないことは分かっていたが、今日もノグラント連邦捜査局側の監視者に「会わせて話だけはさせてあげてほしい」と、ユラが兄と会えるように頼んだが、どんな混乱が起きるか分からないので禁じられていると拒否された。

 元々、シザは今日ユラをノグラント連邦共和国には帰国させないつもりだった。


 昨夜のことだ。


 夜中にユラがグレアムの部屋を訪ねて来た。

 ユラが心配なので、ホテルではずっと同じ部屋に寝泊まりをしていたのだ。


「明日は公演をして、ノグラント連邦共和国に戻ります」


 ユラがはっきりそう言って来た。

「さっき、シザさんにもそう伝えました」

 グレアムは息を飲む。

「……彼は納得しましたか?」

 ユラが逮捕されたあと、会いに行った時、ノグラント連邦捜査局にユラを奪われたグレアムに激昂して殴り掛かって来た姿を思い出す。

 とても納得するとは思えない姿だった。

 しかし、ユラは小さく微笑み、頷いた。


「頑張り過ぎなくていいって言ってくれました」


「貴方もそれでいいんですか? 多分、私とシザさんが協力すれば、貴方を自由にすることが出来ると思います」

「はい」

 ユラの表情を見ていたが、落ち着いている。

 公演前夜はいつも、もっと緊張して不安げな表情を浮かべることが多いのだが、見たことがないほど普通だった。

 そんな顔は逆に心配になる。


「何度もよく考えたけど……。

【グレーター・アルテミス】公演だから。

 あの街はシザさんの街です。あの人が守っている街。

 あの街の人たちはシザさんのことを知ってる。勇敢に戦う人だということを。

 だから、あの街の公演からだけは、僕は逃げたくないんです」


 グレアムは言葉を失った。

「だから、明日は公演をちゃんとして……、ノグラントに帰ります。

 シザさんが僕の立場なら、きっとそうしたと思うから」

「ユラ……」


「……会いたいけど」


 しばらく押し黙ったあと、ポツリと彼が言うと涙が零れる。


「会いたいけど、明日は我慢する。別に永遠に会えないわけじゃない」


 そう言って彼は泣き出した。

 グレアムは歩み寄って、抱きしめてやった。

 自分はここにいられないシザ・ファルネジアの代わりでマネージャーとして存在する。

 彼ならきっとそうしたと思うからだ。


「明日だけは頑張りたい……」


 ユラはグレアムの胸に顔を埋め、それだけを呟いた。




「グレアム」




 ハッとする。

 ユラが振り返っていた。


「行ってきます」


 ユラ・エンデが微笑んでいて、昨夜のような不安はどこにも見られなかった。

 この人は変化能力を持っているアポクリファだというけれど、

 時々、とんでもなく強い別の自分に、姿を変えているのではないだろうかとグレアムは思うことがあった。


「何があっても私が何とかします。

 ユラ。心配しないで弾いて下さい」


 何か声を掛けてやりたかったが、それくらいしか言えなかった。


 それでもユラはグレアムの言葉に「ありがとう」と優しく頷き、背を向けると、心を決めたように一歩踏み出した。



◇   ◇   ◇



 ワァ……ッ、


 人の気配と、声が波のように一斉に押し寄せる。


 見たこともない数の観客がアリーナに詰めかけて、彼らが掲げる携帯の光がまるで星の海のように広がっている。

 ユラは圧倒されて、立ち止まってしまった。

 自分の名前や、頑張れ、というような声が聞こえたが、多くはよく聞き取れず、大きなうねりの様に届く。


 でも、自分が何故ここにいるかを考えた。

 いられるかを。

 

 自分の釈放を求めて、動いてくれた人たちがいると聞いた時、ユラは本当に驚いたのだ。


(小さい頃から、僕たち兄弟は誰も助けてくれる人がいなかった。二人だけだった)


 初めてなのだ。大きな苦境にこんなにも多くの人達が手を差し伸べてくれたことは。


【グレーター・アルテミス】。

 エデン・オブ・アポクリファと呼ばれる、アポクリファだけが居住を許された、彼らにとっての地上の楽園。


 シザが第二の人生を始めるために選んだ場所だった。

 ここは彼の街だ。

 彼が住まい、この街の治安の為に警察機構に勤めて、働いている。

 その仕事は中継までされているから、この国の人達はみんな、シザ・ファルネジアを知っていた。

 

 シザ・ファルネジアの弟。


 彼らはそれを知っている。

 ノグラント連邦捜査局はアポクリファ特別措置法の『第四条近親婚・近親相姦を禁じる』の条文で自分に逮捕状を請求した。

 そのことを知っていても、こんなに多くの人が自分をこの国に呼ぼうとしてくれたのは、シザがこの街で彼らの為に戦い、信頼されているからだ。


(ありがとうございます)


 ユラが感じたのはもっと大きな感情だったのだけれど、その言葉にしかならなかった。 

 ここはシザの街だ。

 彼らは敵じゃない。

 そう思えてユラは強く、ステージの中央へもう一度歩き出す。


 今回の公演は普通ではないので、公演を許可したノグラント連邦捜査局から色々と制約が付いている。

 公演中は観客と交流を持たないこと。

 最初と最後だけ挨拶は許されているが、その際も事件のことや、何より兄のシザの名や、彼についてのことを話さないこと。


「騒ぎになった時点で公演を中止し、貴方をノグラントに帰国させる」


 警護の責任者が厳しい表情で公演前、そう告げて来た。


 ユラはまず、深くお辞儀をした。

 そこにあったマイクに手を伸ばす。


 さっきは大きな声のうねりがあったのに、ユラがマイクを取った瞬間、嘘のようにこれだけの人々がシン……と静まってくれた。

 それがユラに勇気を与える。

【グレーター・アルテミス】全土にこの公演は放送される。



 ……シザもどこかで見てくれているだろうか。



「【グレーター・アルテミス】の皆さん、初めまして。

 ユラ・エンデです。

 今日、ここで公演を行えることを本当に嬉しく思っています。

 公演で弾く曲は、全て私が選びました。

 私は……トリエンテ王立音楽院に入るまで、ピアノを誰かに教わったことがありませんでした。ずっと家にいて、ピアノに限らず、色んな音楽を聴き、聴いたものを自分でもピアノで弾くようになったのが、私の音楽の始まりです。

 だから、今日弾く曲の中にはオーケストラ用の曲や、ヴァイオリンの為に書かれた曲なども混ざっています。ピアノの為に編曲された楽譜があるものもありますが、無いものは私自身でしたものです。

 今日はピアノのソロなので、皆さんもどこかで聞いたことがあるような、馴染みのある曲を出来るだけ揃えました。

 どれも私が好きな曲でもあります。

 皆さんと一緒に楽しむことが出来たら、嬉しいです。

 今日の演目のスケジュールは【バビロニアチャンネル】さんのアカウントでも載せてもらっています。少しの曲紹介もついていますので、良かったらご覧ください。


 それでは、どうかよろしくお願いします」



 今日がどんな日になるか、全く想像も付かなかった。

 ここにいる人たちは事情を知っているから、何か思いもよらない言葉を投げかけてくるかもしれないと、そんなことは不安に思っていたけれど、短く紹介を終えてユラがピアノの椅子に着席するまで、聴衆は静まっていてくれた。


 ……弾きやすい空気だ。


 目を閉じて、その空気に感謝する。

 

 瞳を開くとステージにある巨大スクリーンに、公演の最初を飾る曲名が映し出される。







――【英雄ポロネーズ】――







 その曲名が出た瞬間、観客が一斉にワァッ、と拍手し声を上げた。

 

 その声が収まるのを待たず、重ねるようにしてユラは弾き始める。



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