祖母の家 一九八〇年代
スナックRのママ、春江さんは刺傷事件のあと、店をたたんで実家に戻った。
実家があるのは中部地方の沿岸部。漁業が盛んな地域だ。彼女はそこで新しいパートナーと再婚していた。
父親は彼女が子供の頃に亡くなっている。高齢だった母親も春江さんが実家に戻って少し経ったあとに亡くなった。
わたしが取材した当時、春江さんは親から引き継いだ実家で、パートナーと二人で暮らしていた。
あんた怖い話を取材してるんだって? 残念だけどわたし、あの店で幽霊を見たことなんて一度もないからね。
たしかに店の女の子が幽霊を見たって騒いでたことはあったけど、どうせ見間違いよ。若い女の子ってすぐキャアキャア騒ぐんだから。店のオーナーであるわたしが何も見てないのが、なによりの証拠でしょ。
さっき亜希子ちゃんから連絡先を聞いて、わたしのところに来たって言ったわよね。もしかして亜希子ちゃんも幽霊を見たとか言ってたの?
……信じらんない。あの子はそういうことを言う子じゃないと思ってたんだけど。まさか本当に言ってたなんて。彼女、どんな話をしたの?
──えっ、「相沢さんはいらっしゃいますかあ」って訊かれたの? それ本当の話? 亜希子ちゃんの作り話じゃなくて?
ねえその話、本当に亜希子ちゃんから聞いたの? ほかの人から聞いたとかじゃなくて? ぽかんとしてないで早く答えなさいよ。どうなの?
……わかった、わかってる。落ち着いてるわよ。ちょっと驚いただけ。
悪かったわね、取り乱して。でもびっくりしたんだから、しょうがないじゃない。
ねえ、それよりトイレにいた男ってどんなだったの? 背丈は? 髪型は? 服装は?
もしかしてその男、歯を食いしばりながら喋ってたんじゃない?
……やっぱり。
わたし、その男と会ったことがあるかもしれない。
*
それは春江さんが小学三年生の頃に体験したことだから、一九八〇年代のはじめ頃の話だ。
当時はまだ父親が存命で、毎年夏休みと正月休みには父方の祖母の家に遊びに行くのが恒例となっていた。
祖母の家は隣県にあった。二階建ての古い木造家屋でとても大きい。
周囲にも大きくて古い家はあったが、祖母の家はその中でもひときわ目立っていた。
きけば江戸時代から代々医者を輩出するような立派な家系だったらしい。そのため蔵の中には達筆な文字で書かれた医学書や、薬を種類ごとに収納するための百味箪笥、百年近く前に使われていたという医療器具なんかが雑に放り込まれていた。
家の中には部屋がいくつもあり、どれだけ手を伸ばしても届きそうにないほど高い天井には、黒光りする太い梁が何本も張り渡してある。綺麗に整備された庭には池もあったし小川も流れていた。
とにかくものすごい豪邸だったのだという。
家の前にははるか遠くまで広がる田園風景があり、その向こうには巨大な壁を思わせる山がまるで立ちふさがるようにしてそびえている。
地元の子供たちはよそから来た春江さんにも優しかった。彼らに混じって畑の中を駆け回ったり、川に飛びこんだり、ときには祖母の家の中でかくれんぼをしたりした。
夏の黄金色の日差しを反射してきらめく青い稲の葉や、指の間をすり抜けてゆく川魚の感触、夜になると闇に包まれる田んぼと、その中で光る蛍の群れ。
川も田んぼもない海辺の下町の小さな家で生まれ育った春江さんにとっては、なにもかもが新鮮だった。
春江さんは年二回の帰省が楽しみで仕方がなかった。
友達と遊べるということもあったが、やはりいちばんの楽しみは祖母に会えるということだった。
祖母は楽観的な明るい人だった。近所の人たちからはヨシさんと呼ばれ、線香とおしろいの匂いがして、華奢な肩を揺らしながらよく笑っていた。
春江さんは祖母が大好きだった。
あの日、春江さんは祖母の家の縁側にいた。窓から赤い夕日が差し込んでいたので夕方頃だったと思う。
帰省してから数日が経っていた。
その年に帰省したのは父親と春江さんの二人だけだった。あとで聞いたところによると、その当時、彼女の両親は離婚の話し合いをしていたそうだ。春江さんの前ではそんなことはおくびにも出さなかったが、二人の関係は修復できない段階まできていた。
祖母もそのことを知っていたらしい。蚊帳の外の春江さんだけが、来られなかった母親のことをかわいそうに思いながら祖母の家で過ごしていた。
縁側の端にはオルガンが置いてあった。こげ茶色で角ばった形。埃で白くなったペダルの片方は壊れ、鍵盤の蓋は取れてなくなっていた。
オルガンの上には木彫りの小さな仏像がずらりと並んでいる。
祖母の家には仏像がたくさんあった。居間はもちろん仏間や床の間、トイレ、父親が子供の頃に使っていたという部屋にも。幼い頃はなんとも思わなかったけれど、いまになって思い返してみると変な家だった。
仏像はすべて、四十代の頃に急逝した祖父が彫ったものらしい。
仏像づくりが趣味だったというわけではなく、この世を去る数年ほど前から突然、何かに取り憑かれたように彫りはじめたのだ。
仏間には鉛筆で描かれた祖父の遺影の肖像画が飾られていた。顎が尖り、猛禽類のようなぎょろりとした目をしていた。どこか病んでいるような印象を、子供ながらに受けた。
窓の外から聞こえてくるのは豆腐屋がラッパを鳴らす音と、軒先に飾った風鈴の音。
春江さんはオルガンの前に置かれた椅子に座り、手垢と経年劣化で黄色くなった鍵盤を叩いていた。
家の中には春江さんひとりだけだった。理由は忘れてしまったが祖母と父親は彼女に留守番をさせてどこかに出かけて行った。
鍵盤を叩くとオルガンの上の仏像がブルブル震える。それが面白くてわざと強めに弾いた。蒸し暑い家の中に、音楽の授業で習ったばかりの曲が響いている。
男の声が聞こえたのはそんなときだった。
「すみませーん」
高くて間延びした、舌足らずな男の声だった。
春江さんは思わず玄関の方を振り返った。といっても彼女のいる場所からは玄関の様子は見えないが。
「すみませーん」
また聞こえた。声の調子も大きさもさっきとまったく同じ。まるでレコードを再生しているかのようだった。
「すみませーん」
なんだか様子が変だと思った。
その当時は現代と違って、近所同士が家族のような密接なつながりを持っていた。それに防犯意識も高くなかったので、玄関の鍵は基本的に開けっ放しだった。
だから近所の人ならば勝手に玄関の戸を開けて上がり込んでくるのが常だった。仮にセールスの人や業者などの外部の人間だったとしても、ふつうは名乗るはずだ。
それなのに男は戸を開けるでもなく名を名乗るでもなく、ただ呼びかけるだけ。
子供心に違和感を覚えながら春江さんは玄関に向かった。居留守を使った方がいいのではないか、という考えがちらりと頭をよぎった。けれどさっきまで弾いていたピアノの音は玄関の男にも聞こえていたはずだから無駄だろう、とすぐに思い直した。
障子戸を開けて居間から出る。まっすぐ伸びる黒い板張りの廊下の先に玄関がある。
玄関の扉は開いていて網戸だけが閉まっていた。
網戸の向こうに左半身だけの男がいた。
男はなぜか玄関扉の陰に体の右半身を隠すようにして立っていた。
六十代後半くらいだろうか。白いワイシャツにグレーのズボン。頭は禿げあがり、側頭部にだけ白い髪がほんのすこしだけ残っている。
男は満面の笑みを浮かべていた。いや、笑っているというよりも、歯をむき出しにしているという方が正しい。
猿回しの猿のようだった、と春江さんは回想する。笑顔の意味も知らないまま、愛嬌を振りまくためだけに歯をむき出しにしている猿。
その笑顔を見た途端、春江さんの体は硬直した。
「すみませーん」
食いしばった歯の隙間から高い声が漏れた。男の唇は動いていない。舌だけを動かして喉から声を絞り出している。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
春江さんはぎくりと肩を震わせた。
男は相変わらず笑顔を浮かべたまま微動だにしない。黒目だけがすこしだけ左に寄って、春江さんの方を向いている。
男のうしろに見える空は真っ赤だった。夕日に照らされた男の肌も赤く染まっている。まるで頭から血をかぶったかのようだ。
春江さんは心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
どうしよう、と男の顔を見ながら考える。この男は、いま家に春江さん一人しかいないことを知っているのだろうか。もしかして祖母と父親が出かけたタイミングを見計らって訪ねてきたのだろうか。
二人を隔てているのはあの薄っぺらい、たった一枚の網戸だけだ。男が網戸を蹴破って侵入してくる場面を想像して鳥肌が立った。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
気がつくと春江さんは首を横に激しく振っていた。
「いっ、いませ……いませんっ」
どもりながらも、かすれた声をなんとか絞り出した。
固唾を吞みながら男を見つめる。
男もまた笑顔のまま春江さんを見つめ返す。
気の遠くなるような時間。周囲は死んだように静まり返り、自分の浅い呼吸の音まで聞こえるほどだった。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
男が言う。同じ調子、同じ大きさ、同じ速さで。
限界だった。
春江さんは男に背を向けて走り出した。
「お父さん、変な人がいる!」
一人ではないということをアピールするためにそう叫んだ。
廊下の突き当りにある階段を駆け上がる。
玄関を振り返ることはできなかった。もしもあの男が追いかけてくる姿を見てしまったら、きっと自分は腰を抜かすだろうと思った。
いちばん手前にある部屋に転がり込んだ。
戸を閉めて両手で自分の口を押さえる。といっても障子戸なので、階段を上がってこられたら終わりだ。
障子に耳をつけて外の様子をうかがう。階下からは物音ひとつしない。
諦めて帰ったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎった。けれど、もしも男があの笑顔を浮かべたまま部屋の前に立っていたらと思うと、障子戸を開けることはできなかった。
どのくらいそうしていただろうか。
カラカラという音が階下から聞こえてきた。網戸を開ける音だ。何かを話しながら笑う祖母と父親の声。
緊張でこわばった体が急速にほぐれていくのを感じる。
「おばあちゃん、お父さん」
階下に呼びかける。
廊下を歩く音がして、祖母の声が聞こえた。
「あら春ちゃん、二階にいたの。遅くなってごめんね。いまご飯つくるからね」
「おばあちゃん、こっち来て、ここ開けて」
二人の声を聞いてほっとはしたが、障子戸を自分で開けるのも、一人で薄暗い階段を降りるのも怖かった。
「どうしたの、春ちゃん」
障子戸が開かれる。祖母のきょとんとした顔があった。
「おばあちゃん」
春江さんは祖母の胸に飛びこんだ。線香とおしろいの匂いが鼻をかすめる。抱きつきながら廊下に目をやったが、あの男の姿はどこにもなかった。
「変な男の人が来たの」
そう言って、先ほどの男の話を祖母に聞かせる。
話を聞き終えた祖母は「おかしな人もいるものね」と言って眉をひそめた。
夕食を終えた頃には、あの男の恐怖はすっかり消えていた。
その日の夜、春江さんは一人で風呂に入った。風呂は屋内ではなく庭の端にあった。真っ暗な庭を横切るとき、あの男がいるのではないかと緊張したが、杞憂だった。
服を脱いで浴室に入る。湯気がもうもうと立ちこめ、四角い窓の向こうからは虫の鳴き声が聞こえる。
祖母の家の風呂はボイラーに薪をくべて湯を温めるタイプのものだった。現代の風呂とは違ってお湯を均一に温めることができないため、湯船の下が冷たく、上は火傷しそうなほど熱い。だから入る前に、湯かき棒と呼ばれる、スキーストックに似た形状の棒で、適温になるまで湯をかき混ぜる必要があった。
春江さんが湯をかき混ぜていると声が聞こえた。
「すみませーん」
あの男の声だった。
春江さんはぎくりと体をこわばらせた。湯かき棒を湯船に突っ込んだ姿勢のまま、おそるおそる顔を上げる。
風呂場の窓の向こうに男の顔があった。でこぼこしたすりガラスのせいで歪ににじんでいる。けれど歯をむき出しにして笑顔を浮かべているのはわかった。
春江さんの喉から「ひっ」と引きつったような悲鳴が漏れる。
「すみませーん」
窓越しのくぐもった声。単調で何の感情も読み取れない声。
寒くもないのに体の震えが止まらなかった。
ここは密室で、しかもいまの春江さんは服も着ていない。夕方に感じたよりもずっと大きな恐怖が彼女を襲った。
大声を出せば父親や祖母は駆けつけてくれるだろうか。それとも男がここにやって来るのが早いだろうか。自分はどうなるのだろう。首を絞められるのだろうか、包丁で刺されるのだろうか。
ほんの一瞬の間にいろいろな考えが頭の中を駆け巡った。
春江さんは意を決して息を大きく吸い込んだ。叫び声をあげることにしたのだ。男を刺激してしまうリスクはあったが、この状況で男と対峙しつづけることの方が恐ろしかった。
喉から悲鳴がほとばしりかけた瞬間。
湯かき棒が勢いよく引っ張られた。
「あっ」と叫ぶ間もなく春江さんの体は前のめりに倒れる。
目の前に浴槽の縁があった。
鈍い音とともに春江さんの額に衝撃が走る。
頭から湯船に落ちた。
湯かき棒と一緒に春江さんの体はぐいぐいと湯船の底に引っ張られる。細い紐のようなものが手に巻きついているせいで、湯かき棒を手放すことができない。
春江さんは体をばたつかせた。
パニックになっていて、冷たいのかも熱いのかもわからない。無数の紐が腕や体に絡みついてくる。
浴槽がこんなに深いはずがないのに、足先まで湯船に沈んでいる。
視界は真っ暗で何も見えない。肺から空気が抜けていくのがわかる。
息が苦しい。心臓が痛いほど激しく脈打っている。
もう駄目だと思った。
春江さんの意識は遠のいていった。
高い鈴の音が聞こえて春江さんは瞼を開いた。
視界の中に高い天井と黒光りする梁がある。見慣れた祖母の家の天井だ。
春江さんは飛び上がるようにして上体を起こした。
縁側の窓からは赤い夕日が差し込んでいる。豆腐屋のラッパの音と軒先に飾った風鈴の音。さっき聞いたのはこの風鈴の音だとわかった。居間はがらんとしている。祖母や父親の気配はなく、家にいるのは彼女一人だけらしい。
春江さんは額に手を当てた。痛みはない。
そこでようやくほっとため息をついた。
どうやらいつの間にか昼寝をしてしまっていたらしい。それで変な夢を見たのだ。
速かった心臓の鼓動も次第に落ち着いてきた。喉がカラカラだった。台所に行こうと立ち上がりかけた途端。
「すみませーん」
聞き覚えのある声が玄関から聞こえた。
心臓を冷たい手で鷲づかみにされたようだった。
恐怖で体が凍りついた。額を伝う汗をぬぐうことすらせずに玄関のある方向を見つめる。
「すみませーん」
緊張で張り詰めたこの状況に似つかわしくないほど間延びした声。
春江さんは膝を抱えて小さくなった。すこしでも音を立てたら、あの男に気づかれるかもしれないと思うとたまらなく怖かったのだ。
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
「相沢さんはいらっしゃいますかあ」
男の声は春江さんを追い詰めるように何度も何度も繰り返される。耳をふさぎたかったが、もしもあの男が網戸を開ける音を聞き逃してしまったらと思うと、できなかった。
気の遠くなるような時間だったという。
しばらく経った頃、男の声がぴたりと止んだ。
カラカラと網戸を開ける音が聞こえた。何かを話しながら笑う祖母と父親の声。
緊張でこわばった体が急速にほぐれていくのを感じる。
春江さんはおそるおそる立ちあがった。
廊下を歩く音がして、祖母が居間に入ってきた。
「おばあちゃん!」
春江さんは祖母に飛びついた。線香とおしろいの匂いが緊張をほぐしてくれる。
「春ちゃん、一人でお留守番させてごめんね。いまご飯つくるからね」
「さっき変な人が来たの」
そう言って春江さんがあの男の話をすると、祖母は「おかしな人もいるものね」と眉をひそめた。
その夜、春江さんは祖母と一緒に風呂に入ると駄々をこねた。昼に見た夢の通りに男が訪ねてきたのだから、風呂場でも同じことが起こるのではないかと思ったのだ。
祖母と手をつないで庭を横切る。真っ暗な夜空に満天の星。氷玉のような月から降り注ぐ光が、小川の水面に反射してきらめいている。夏の夜の庭には美しい光景が広がっている。
しかし春江さんはそれどころではなかった。
星を指さして「綺麗ね」と笑う祖母に生返事をしつつ庭の闇に目を走らせる。
木々の間や生垣の陰から、いまにも男が飛び出してくるのではないかという不安に駆られる。
浴室に入ってもその不安は消えなかった。
湯船につかりながら窓に目をやる。すりガラスの向こうには黒い闇があるだけだ。それでも何度も確認してしまう。
祖母に「窓に何かあるの?」と聞かれたが、「なんでもない」とごまかした。口にすると、あの男が来てしまうような気がした。
祖母は浴室の床に座って髪を洗っている。
湯船の中から、ぽこんと泡がひとつ浮かんではじけた。
春江さんは反射的にお湯の中に目を向ける。
また泡がひとつはじけた。
なんだろうと思っている間にも泡は次々と現れた。ぼこんぼこんと浮かんでは消える。まるで沸騰したお湯のようだ。
春江さんは思わず浴槽に背中をくっつけた。何が起こっているのかわからなかった。
祖母は気づいていないようで、目を瞑って髪を洗っている。
おばあちゃん、と言いかけたときだった。
ひときわ大きな泡が水面に浮かんだ。
いや、それは泡ではなかった。
人間の顔が水面に浮かんでいた。
若い女の生首だった。灰色の肌に、半開きの口と虚ろな目。黒い髪がとろろ昆布のように水面で揺れている。
春江さんははっと息をのんだ。
また、ざぶんと音がして水面に灰色の塊が浮かんでくる。
年老いた男の顔だった。痩せこけた猿のような顔。腐っているせいか、頬の皮膚がべろりと剥がれて皮下組織が露出している。
恐怖に体が凍りつく。目の前に広がる光景に理解が追いつかなかった。
その間にも生首は次々と浮かんでくる。若い男の生首、皺だらけの老婆の生首、丸々と太った男の生首……。
いくつもの生首が柚子風呂に浮かぶ柚子のごとくひしめき合っている。どれも一様に虚ろな目をしている。
春江さんの胸の前に女の生首がある。それはお湯が揺れるたびに、とんとんと春江さんの胸に当たった。
髪の毛が体に絡みついているのがわかる。
春江さんはこわばる体を無理やり動かして浴槽のふちに手をかける。
途端に体がお湯の中に引き込まれた。
春江さんは頭までお湯に沈んだ。
体に絡みついた髪の毛が彼女をお湯の底に引き込んでいる。
浴槽をつかんで体を引きあげるが、底に引っ張る力の方が強い。すぐに頭までお湯につかってしまう。
「おばあちゃん!」
祖母に助けを求める。しかし祖母は気づいていないのか助けに来てくれない。
春江さんの手が浴槽の縁から離れる。体はどんどん沈んでいく。
藁をもつかむ思いで生首をつかむ。が、つかんだ生首も彼女と一緒に底へ底へと沈んでしまう。
鼻にも口にも水が入ってくる。
底から見上げた水面には、ひしめき合う生首の黒い影。その隙間から蛍光灯の光が差し込んでいる。
春江さんは意識が遠のくのを感じた。
次に目を覚ましたときも、春江さんは居間にいた。
窓からは赤い夕日が差し込み、風鈴が涼しい音を鳴らしている。家の中に人の気配はない。
体中が汗でびっしょりだった。いまさっき水から上がったかのように呼吸が浅くなっている。
春江さんは自分の体に目を落とした。髪の毛などどこにもない。けれど絡みついていた感触だけははっきりと残っている。
こんなおかしな夢を何度も見たのは初めてだった。いまのこの状況も夢ではないかと勘繰ってしまう。またあの男が来るのではないか、と。
そのとき玄関の方から足音が聞こえた。
春江さんは体をこわばらせた。
「やだあ」
祖母の声だった。驚いたような困ったような感情を含んでいる。
春江さんは立ちあがって居間から転がり出た。
「おばあちゃん!」
春江さんは裸足のまま玄関にいた祖母に飛びついた。線香とおしろいの匂い。
「あら春ちゃん、汗びっしょりじゃない」
祖母の柔らかい手が春江さんの頭をなでる。それだけで恐怖が溶けていく。
「おばあちゃん、どこ行ってたの?」
「ちょっとご近所さんに用があったの。一人にしてごめんね。それより春ちゃん、おかしな人が来なかった?」
「どうして?」
あの男のことを思い出して、春江さんの心臓が跳ねる。
「ほら見て、これ」と言って祖母が網戸を指さす。
網戸には黒っぽい汚れが付いている。
よく見るとそれは蛾の死骸だった。
何者かが蛾を網戸にこすりつけるようにして殺したらしい。押し出されたところてんみたいになった蛾は、黒っぽい体液を滴らせながら死んでいる。網戸についた鱗粉が夕日を浴びてきらきらと光っているせいで、よりいっそう不気味な印象を受ける。
網戸のそばの地面──夢の中で男が立っていた場所──には、黄土色やオレンジや黒色の翅が何枚も落ちていた。
「かわいそうなことするわねえ。近所の子のイタズラかしら」
祖母は困ったように眉をひそめる。
「あの男の人がやったのかも」
「男の人?」
春江さんは夢のことを祖母に話した。ただの夢であるとわかってはいたが、それでも話さずにはいられなかった。
話を聞いている祖母の顔がどんどん険しくなっていくのがわかった。
「その話は本当なの?」
祖母が訊く。いつもの優しい笑顔ではなく真剣な表情を浮かべている。春江さんの両肩をつかむ指先には強い力が込められている。
春江さんがうなずくと祖母は一瞬、泣きそうな顔になり、そのあとで春江さんの小さな体をぎゅっと抱きしめた。祖母の口から深いため息が漏れた。
祖母はその後、何事もなかったかのように振舞った。春江さんと一緒に夕食をつくり、父親と三人で夕食をとった。
その夜、春江さんは風呂には入らなかった。なんだか熱っぽいと嘘をついた。祖母も父親も入れとは言わなかった。
むしろ祖母の方は過剰なまでに春江さんを心配した。大丈夫だからと言う春江さんをなかば強引に布団に横たえ、体に不調はないかとしきりに尋ねた。春江さんが寝付くまで祖母は彼女のそばにいた。祖母に対してすこしだけ申し訳ない気持ちになった。
春江さんが目を覚ますと部屋の中は真っ暗だった。隣に敷いてある布団に祖母の姿はない。時計を見ると真夜中だった。
春江さんは障子戸を開けて祖母の寝室を出た。喉が渇いていた。階段を降りて台所に向かう。
廊下を歩いていると居間から明かりが漏れていることに気がついた。祖母と父親が話す声が漏れ聞こえてくる。
二人の声はいつもと違っていた。どこか切羽詰まっているような印象を受ける。ときおり祖母が鼻をすする音も聞こえる。
春江さんは薄く開いた障子戸の隙間から中を覗いた。
祖母の丸い背中が見えた。泣いているようで背中が小刻みに揺れている。父親は机に両肘をついてうなだれていた。父親の掌の中には木彫りの仏像があった。
深夜のバラエティ番組の大げさな笑い声が、湿った居間にむなしく響いていた。
「何をやっても無駄なんだ」
父親が吐き捨てるように言った。
翌日以降、やはり祖母は何事もなかったかのように振舞った。けれどいまになって思い返してみると、様子はおかしかったのだと春江さんは語った。
祖母は春江さんがどんなわがままを言っても許してくれた。父親と三人で町に出て、普段は買ってもらえないような高いおもちゃをいくつも買ってくれた。生まれてはじめてチョコレートパフェを食べたのも、このときだった。
祖母の家を発つとき、祖母は春江さんを思いっきり抱きしめた。あまりにも力が強くて息が苦しいほどだった。
祖母はしばらくの間そうしたあと、春江さんの頭をなでながら言った。
「元気でね」
いつもは「また来年」とか「また来てね」とか言うのに、そのときだけはなぜか「元気でね」だった。色素の薄い祖母の目には涙がにじんでいた。
祖母は父親と春江さんを乗せた車が見えなくなるまで手を振り続けていた。
それからいくらも経たないうちに祖母は亡くなった。急性心不全による肺水腫が原因だった。あの広い家の中で亡くなっているのを近所の人が発見した。
家の中は整理され、相続や財産に関する書類、遺書などが綺麗にまとめられていた。まるで自分の死期を悟っていたかのようだった。
祖母の葬式には両親と参列したらしいが、覚えているのは庭の池の縁にしゃがんで水面を見つめていたことだけだ。おそらくよほどショックだったのだろう。そのときのことは記憶から消されている。
間もなくして、父親も祖母のあとを追うように亡くなった。
死因は溺死だった。父親の乗った車が川に水没しているのを近所の人が発見した。離婚を苦にしたことによる自殺だろう、と警察は結論づけた。
享年三十三歳。あまりにも早すぎる死だった。
*
これが、わたしが子供の頃に体験した話。
そうよ。あの男はたしかに「相沢さんはいらっしゃいますかあ」って言ったの。
どうしてわたしがそう訊かれたときに、ぞっとしたかわかる?
わたしの旧姓はね、相沢なの。
だからあの男に突然、名前を呼ばれて死ぬほど驚いた。この話はおばあちゃん以外には誰にも話していないわ。だってただのおかしな夢だと思っていたから。
でも亜希子ちゃんの話を聞いて、夢じゃなかったのかもしれないって思えてきた。
あの男がおばあちゃんの家に来て、おばあちゃんが死んだ。お父さんも死んだ。二度目にスナックに現れたとき、わたしは背中を刺されて死にかけた。
ひょっとしてだけど、あの男は死神だったんじゃないかしら。相沢家の人間だけを狙って殺す死神。
おばあちゃんが死んだあと、母と父が離婚してわたしの苗字は変わった。Nさんの奥さんに刺されたときも、前の旦那と結婚して違う姓を名乗ってた。だから死なずに済んだような気がする。
もちろん何の根拠もないただの憶測だけど。
……でも母がこの前、亡くなったことを考えると、完全に逃げ切れたわけじゃないんだと思う。
だって母の死因は溺死よ。お風呂に浸かっているときに脳卒中を起こして死んだ。
父も溺死。おばあちゃんは肺に水が溜まって死んだ。苗字を変えても猶予が与えられるだけで、逃げることなんてできないのよ。
きっとわたしももうすぐ……。
追記。この話を聞かせていただいた一年後に春江さんは亡くなりました。風呂場で脳梗塞を発症したことによる溺死だったそうです。
ご冥福をお祈りいたします。
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