スナックR 二〇〇〇年代

 スナックRはT町の隣町にある。一九九〇年代、ママが二十代の頃に開店。Nくんの母親による傷害事件が原因で閉店したのは二〇一〇年代、ママが三十代後半の頃だった。

 軽快なレコード音楽が流れるほの暗い店内には、十人掛けのL字型のカウンターと、テーブル席が二つ。レンガ調の壁には、ママが追っかけをしていたという、往年のアイドルグループの色あせたポスターが貼られていた。

 スナックRは地元の住民たちから愛される憩いの場だった。


 次に記すのは、二十代の頃にそこでスタッフとして働いていた亜希子さんの話だ。


 *


 ──Nさん? 覚えてるわよ。ずいぶん前のことだけど、そりゃあもう鮮明に。あの男と付き合ったせいでママは刺されちゃったんだから。

 背中と腕ね。店に入ってきた奥さんに、うしろからグサッと。あたしや周りのお客さんが止めてなきゃ、たぶん殺されてたわよね。

 かわいそうにねえ。そのせいで片方の腕が動かなくなっちゃったんでしょ。あの男もほんととんでもない疫病神よね。

 はじめて店に来たときから、なんか厭な雰囲気だなって思ってたのよ。第六感っていうの? あたし、人よりちょっと勘が鋭いから。

 ──幽霊が見えるのかって? 

 まさか、そんなわけないじゃない。霊感とかそんなご大層なものじゃなくて、女の勘って言えばいいのかしら。近寄っちゃいけないタイプの人間がなんとなくわかる程度のものよ。

 まあとにかく、Nさんを見た瞬間、深く関わらない方がいいタイプの人間だと直感した。

 いつもカウンターで飲んでたんだけど、やけに近寄りがたいのよね。といってもNさん自体が陰気なわけではないのよ。むしろ口がうまくてみんなを笑わせてた。

 でもねえ、なんていうか、Nさんの周りだけワントーン暗く見えるっていうのかな。

 ……わかってるわよ、自分が変なこと言ってるってことくらい。だから誰にも言わなかった。でもほんとにそう見えたんだから仕方ないじゃない。

 で、実際にNさんと話してみると、奥さんを外で働かせておいて自分は何もせずにブラブラしてるって言うじゃない。こいつやっぱり周りを不幸にするタイプの人間だと思って。

 あたしの父親は、飲む打つ買うの三拍子そろったクズだったから、ああいう男を見てると殴りたくなってくるんだよね。

 だけどママはクズが好きだからさ。コロッと落ちちゃった。なんか怪しいなと思ってたら、いつの間にかそういう関係になってた。ママもNさんも結婚してたからW不倫ってやつね。

 もちろんママの口から直接、Nさんと付き合ってるって聞いたわけじゃないけどね。でもそういうのってなんとなくわかるじゃない。二人の視線っていうか雰囲気っていうか。

 あたしは正直、すぐにでも別れて欲しかった。ママは気づいてなかったみたいだけど、二人が不倫関係になってから、店でおかしなことが起こりはじめていたからね。

 店の中に変な臭いが漂うようになったの。いままで嗅いだことのない臭いだから、どう表現したらいいのかわからないけど。下水とかドブの臭いとも違う、水が腐ったような臭い。

 スナックにはあたし以外にも二人の女の子が勤めてたんだけど、その子たちは臭いには気がついてなかった。大多数のお客さんもそうね。何人かは「変な臭いしない?」って訊いてくる人はいたけど。だから水道管とかが原因じゃなかったと思う。

 ほかにも店の前に蛾の死骸が落ちてることが、たびたびあった。

 蛾って言っても、小さいやつだけじゃないのよ。この辺りではちょっと見かけないような、目玉の模様が入った大きいやつとか、ゼブラ柄の平べったいやつとか。もうとにかく気持ち悪い。スタッフの子たちと悲鳴をあげながら片付けてたわ。

 でもいちばん困ったのは、店の中がやたら湿っぽくなったことかな。

 カウンターのうしろにお酒のボトルを並べた棚が置いてあったの。その棚のガラス扉をね、黒茶色の水滴が汗をかいたみたいにタラタラ滴り落ちるの。

 こまめに拭くんだけど気がついたら垂れてるのよ。乾いた水の跡がガラス扉に黒く残って、まるで鯨幕みたいになってた。

 もちろん業者にも見てもらったわ。でも原因不明だって言われた。そのせいかスタッフの女の子たちがよけいに気味悪がっちゃって。まあ、あたしはNさんが原因だって気づいてたから、そこまで怖いとは思わなかったかな。勘弁してよとは思ったけど。

 ──どうしてNさんのせいだと思ったのかって? 

 知らないわよ、そんなこと。さっきも言ったけど女の勘。悪い? あいつが何か変なものを連れてきたに決まってる。

 ……ああ、そういえばスタッフの子がおかしなこと言ってたわ。

 雅ちゃんって名前で、あたしの三つ下の、髪の長い女の子がいたのね。彼女が店の掃除をしていたときの話よ。

 そのときはママもほかの子もいなくて、店には彼女一人だった。テーブルの上に椅子をあげてモップ掛けしてたのね。

 あたしなら適当にささっと済ませちゃうんだけど雅ちゃんは真面目だから、こう、腰をかがめて甲斐甲斐しくやってたらしいの。

 そしたら変なものが視界に飛び込んできた。

 男の足だった。

 それも裸足の。泥で汚れた足。

 肌の色は死人みたいな灰色だった。泥で汚れた白い着物みたいなものを着ていた。

 足の甲の毛にこびりついた白く乾いた泥とか、爪の間に挟まった黒い汚れまではっきり見えたんだって。

 雅ちゃんはモップ掛けの姿勢のまま動けなくなった。あきらかに異様だから当然よね。顔を上げることもできなくて、ただじっと男の足を見つめてた。

 足は雅ちゃんの方を向いている。

 だから、男の体も雅ちゃんの方を向いている。

 雅ちゃんが男の存在に気づいていることに、男は気づいてる。

 全身から血の気が引くのを感じた、って言ってたわ。この男に襲われて殺されるんだって。

 叫び声をあげようとしたけど声の出し方がわからなかった。いますぐ逃げないといけないのに体の動かし方を忘れてしまったみたいに硬直してしまった。

 でもね、雅ちゃんの予想に反して男の足はぴくりとも動かなかった。

 どのくらいの間そうしていたかわからない。

 ふいに雅ちゃんの頭の中に疑問が湧いたんだって。

 ──この人、どこから入ってきたの?

 さっきまで店には彼女一人しかいなかったし、狭い店だから誰かが入ってきたらすぐに気がつくはずなのよ。それなのにこの足はいきなり視界の中に現れた。

 ──こいつ生きてる人間じゃない。

 そのことに気がついた途端、雅ちゃんは別の恐怖に襲われたって言ってた。腰が抜けそうになって、歯がカチカチ鳴った。

 そのとき店の空気がゆらぐのを感じた。

 男が足を一歩前に、雅ちゃんの方に出したの。

 ぺた、と足の裏が床につく音がした。

 ──こっちに来る。

 雅ちゃんはとっさに顔を伏せて、自分の真下の床に視線を落とした。怖かったそうよ、男の姿を見てしまうのが。でも目を瞑るのはもっと怖いから、床を凝視していた。

 震えながらモップを握りしめる自分の手が見えた。

 音は雅ちゃんの方にゆっくりと近づいてくる。

 ぺたぺたという足の音と一緒に、床を引っ掻くような、がりっという音も聞こえる。

 雅ちゃんと男との距離は二メートルもなかった。

 じきに視界の端に男の足が入ってくる。そう思うと気が狂いそうだったって言ってた。

 ぺた、がりっ。ぺた、がりっ。ぺた、がりっ……。

 だらりと垂れた自分の髪の隙間から、男の足が見えた。雅ちゃんの喉から小さな悲鳴が漏れた。

 男が一歩足を踏み出すたびに男の姿が徐々にわかってきた。

 さっきまでは足首までしか見えなかったのに、今はふくらはぎまで見えている。

 また一歩、男が雅ちゃんに近づく。

 男の膝が見える。男の着物に乾いた泥と茶褐色の汚れがこびりついている。

 雅ちゃんは、こっちに来るなと願いながら必死に心の中で念仏を唱えた。

 また一歩、男が足を踏み出す。

 男の下半身と、その脇に垂れた両腕が見えた。

 男の手は、人間の足首をつかんでいた。

 その瞬間、雅ちゃんは今まで聞こえていた音の正体を悟ってしまったらしいわ。

 この男は人間を引きずって歩いていたんだ。がりっという音は、引きずられている人間が床に爪を立てる音だって。

 これ以上、近づかれると気が狂ってしまう。

 雅ちゃんは目を強く瞑った。

 背後にある店の扉が開く音がした。

 今しかない、と思った彼女は目を閉じたまま店の扉に駆け出した。

 そして扉を開けて入ってきた人──まあ、あたしだったんだけど──に激突するみたいにして飛びついた。

 あのときはほんとにびっくりしたわよ。扉を開けたら雅ちゃんがものすごい勢いで飛びかかってきたんだもん。しかもあたしの顔を見た途端に泣きだしちゃうし。

 パニックになってる彼女を落ち着かせてから、いまの話を聞かせてもらったってわけ。もちろん着物の男なんていなかったわ。

 夢でも見たんでしょ、ってなだめたんだけど雅ちゃんはそのあとすぐに店をやめちゃった。

 この事件のあとくらいかな。客足が目に見えて減り始めたのよね。

 原因は店の雰囲気が悪くなったこと。

 喧嘩が増えたの。それまではふつうにいいお客さんだった人が、悪酔いしてほかのお客さんに絡むようになった。絡まれた方も言い返すもんだから、どんどんヒートアップしちゃって。警察を呼んだのも一回や二回じゃなかったわ。

 よその店で飲んでるときはみんな行儀よくしてるらしいんだけどね。うちにくるとなぜか駄目になるみたい。

 あとはやたらお客さんが転ぶようになったかな。

 そこまで酔ってるわけでもないのに転ぶのよ。もちろん障害物なんて無い。

 で、転んだお客さんが他のお客さんに「お前、足引っかけただろう」って絡む。そこからまた喧嘩。

 そういうことが増えると、まともなお客さんは離れていくでしょ。逆に駄目なお客さんはなぜか居座り続けて、別の駄目なお客さんを呼び寄せる。ここもそろそろ潰れるのかなあ、って他人事みたいに考えてたのを覚えてるわ。

 あの店で起きたことはこれぐらいかな。

 ──あたしは怖い体験をしてないのかって?

 そういうのはまったく……あ、ちがう。ひとつだけあった。

 雅ちゃんが辞めるすこし前だったと思う。

 閉店作業をしてたのね。そのとき店にはあたしとママだけ。ママはカウンターで売り上げの計算をしていて、あたしは店の後片付けをしていた。ママは計算をしているときに話しかけるとキレるから二人とも無言よ。レコードも消されてて作業する音だけが響いてた。

 しばらく作業をしてたら急におしっこに行きたくなって、あたしはトイレに向かった。

 トイレの扉を開けると、人がいた。

 トイレは一人しか入れない狭い個室なの。扉を開けると正面に鏡がついた洗面台があって、右手に便座がある。

 その便座の前に、男がこちらに背中を向けて立ってた。

 白のワイシャツにグレーのズボンを履いた男。サザエさんの波平みたいな禿げ方をしてた。

 一瞬、おしっこしてるところに入っちゃったのかと思って焦ったわ。でもすぐに違うって気づいた。両手を体の脇に垂らして、ふつうに直立してたからね。

 だから酔っぱらったお客さんだと思って、声をかけたの。

「お客さん、もう閉店ですよ」

 ふつうなら振り返ったり返事したりするもんでしょ。でも男は無反応だった。まるであたしの声が聞こえなかったみたいに。

 苛ついたあたしは男に近づいて肩を叩こうと手を伸ばしたの。

 その瞬間、トイレの中に男の甲高い声が響いた。

「相沢さんはいらっしゃいますかあ」

 歯を食いしばりながら喉から声を絞り出しているような、不自然な喋り方だったわ。

 あたし、ぎょっとして男の肩に手を伸ばした状態で固まっちゃった。インコが人の言葉を喋るみたいにさ、人間じゃない何かが人の言葉を真似しているような感じだった。

「相沢さんはいらっしゃいますかあ」

 また男が訊いてきた。

「そんな人、うちにはいませんけど……」

 あたしが答えると、男はこちらに振り返った。

 異様な顔だった。

 男の顔のパーツは下半分に集まってた。両目は頬の位置にあって、鼻と口は顎にあった。溶けたチョコレート菓子みたいだった。

 男の食いしばった歯の隙間から声が漏れた。

「相沢さんはいらっしゃいますかあ」


 覚えてるのはそこまで。

 次に気がついたら、あたしは洗面台に顔を突っ込んでた。蛇口からは勢いよく水が流れ出てて、顔も髪もびしょ濡れだった。

 顔をあげた拍子に蛇口に頭を打ちつけたわ。鼻の中に水が入ったみたいで痛かった。

 慌てて便座の方を見たんだけど、男の姿はどこにもなかった。

 怖いって感情よりも困惑の方が大きかったかな。だって気がついたら洗面台に顔を突っ込んでたのよ。普通に生きてたらそんな経験しないじゃない。

 わけがわかんないままトイレから出たら、ちょうどママが計算を終えたところだった。ママはびしょ濡れのあたしを見て目を丸くした。

 あんたどうしたの、って訊かれたけど答えられなかったわ。ママはこういう話は嫌いだし、さっきの話をしたところで、頭がおかしくなったって思われるのがオチでしょ。だから適当に話をはぐらかした。

 ……話してみて気がついたんだけど、これっておかしくない?

 だってあたしがトイレに入ってたとき、店は無音だったのよ。いくら計算に集中してたからって、あたしが男と話してた声が聞こえなかったなんて変よ。

 わざと無視してたのかな。

 それともあたしが夢を見ていたとか。もしそうだとしたら、どこからどこまでが夢だったんだろ。


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